猫と嫁入り

三石一枚

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十話

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「私は猫である。名前はまだない。名前とは、ある種の首輪のようなものだからだ。呼び名があるということは、それを呼ぶ主の存在を示唆する。その時点で、野良猫ではなくなってしまう。飼い猫だ。物乞いの如く擦り寄り、あまつさえ自らの縄張りすら捨ててその一生を甘えに捧げる軟弱な猫だ。人間などという卑しい感情と自己顕示欲の滾る腐れた根性を持つ生命体に安楽を求めるなど許されない。恵みを頂くなどもってのほかだ。ニヤついた人間がこちらに魚を放り投げようが、その施しを蹴飛ばしてでも誇りを誇示せねばならない。野良とは誇りだ。自立してたった一人で生きていくだけの誇りを持つ生き方なのだ。極道なのだ。餓狼なのだ。私は野良猫だ。依然変わりなく。名前などない」

「今日からぴょん吉と呼んでいいですか?」

「逆にどうしたらそう呼んでいいと思いました?」

 黒猫、もといぴょん吉は首をかしげながら私の提案を拒否した。・・・名前としては可愛いものだと思うのだけれど。

 灰色の雲が空を閉じたそんな中、私はとある場所にたどり着いていた。人通りのない小道。実に殺風景で、目印とされるような奇抜なものがひとつも無い。
 住宅がある路地なのだから仕方はないにせよ、その景観の悪さは正直寄り付きすらしたくないと謎の嫌悪感すらうませるほどだった。逢瀬の機会があるのならもってこいな程、その気配のなさは極まっている。
 あえて目印を言うとするなら、まるで雑把に投げられたあと、そのまんま放置されたかのような臙脂色の傘が一つだけ、ぽつんと咲いている。それ程度。
 その通りは、夜間であろうが昼下がりであろうが、その薄気味悪さと人気のなさは相も変わらずだった。耳鳴りがよく通る。人の子ひとつの声すらそこにはなく、ただただ風で吹き飛ぶ枯れた葉の音が悲しげにカサカサと鳴っていた。これほどの静けさなのに、閑古鳥の鳴き声は聞こえない。
  
 独り言ですらよく響くこの空間で、ぼんやりと存在が確認できる程度の小動物がじっとこちらを見つめていた。一見にしておはじき一つ分の大きさの硝子玉が、計二個。等間隔で並んでいる。
 時折その二つの硝子玉が、意思があるように同時に動いては、たまに一瞬姿を消したりして、しかしその都度標準を直すようにして私に向き直る。
 黄金色の輪郭と、黒点とも呼ぶべき瞳孔の正体は、闇に溶け込む暗く黒い猫。使い古した雑巾を湿らしたかのような姿。決して清潔と言えないみすぼらしい夜色の外套。仔猫程の体長しかない頼りない野良猫が、漆黒の身をもってして、臙脂色の宿からぼーっと私を睨めつける。ぼーっと。
 全面黒色の中、唯一白を醸す自慢のお髭はふにゃふにゃになっていた。猫のヒゲはその日の天気によって左右されるのだとか。だとするならこの状態は、曇りから雨になる前触れを予告してるのかもしれない。

「晴れの日はいないと言ったはずだが。なぜ訪問をしてきた。そんなに私に会いたかったか」

「ええ。会いたかったですとも。曇りだしたのでもしかしているかもしれないと考えたんです。あなたこそ、晴れの日だったのに何故ここに居たのです?  これが散歩ですか?」

「抜かせ。今し方帰ってきたんだ。曇りだしたからな、なぜだか客人が来そうな気がして」

「客人?  私の事?」

「どうだか。だが、生憎私の姿を視野に収めたのはきっとお前しかいない」

 と、ぴょん吉は小癪な態度を見せる。なんなんだこの猫は。

「どうでもいいけど、なぜお前は私の事をぴょん吉と名付けようとした?  カエルじゃなく黒猫だぞ私は」

「塀を一飛びで跨がす様がかっこよかったので。その飛燕のごとき軽やかさを名に表し、ぴょん吉と呼びたかったのです」

「それでぴょん吉て・・・」

 黒猫は呟いて、わざとらしいような溜め息を漏らした。フゥーっと。なぜそのような落胆した顔をしているのだろう。猫だから考えがわからない。というか表情すら分からないけど。
 微妙な空気は感じるのだが、猫も喪心する事があるのだろうか。野良の生き方に対して誇りを持っているからこそ、名をつけられることに不服だったのだろうか。なるほど、ぴょん吉という名前はとてもいいにしても、それを受け入れられない強い遺憾があるのだろう。如何とせん、みたいな。実に悲しい運命ではないか。野良の称号を失わない限り、彼はこの名を授かることは出来ないのだ。
 
 詩的な名前であるのに、それを自らのものとできないその無念を察してくれという溜め息かもしれない。あいにく私は鬼ではない。できる女、立花麗かだ。二人きりの時くらい、そう呼んであげるのが彼のためかもしれない。本当に、目の前にいる女性が出来た人で良かったろう。感涙に咽んで欲しい。この出会いに万花を飾り、九生十死において最大の幸福であると味わって欲しい。あの冒頭の長ったらしい自己紹介も、本当は飼い猫と同等に変わらないあやし方を私にはして欲しかったにかもしれない。愛いやつめ。素直にそういえば良いものを。素直になれないあたりが実に猫らしい。本当に私で良かったでは無いか。ほかの女では早々気づくところでもないのだから。私は敬愛を持してこう呼ぶ。愛すべき愛玩猫の名を。

「ところでぴょん吉」

「ぴょん吉と呼ぶな!!」

 ・・・ガチ切れされた。
 ・・・なんでなの?
 なんなんだこの猫は。

 閑話休題。

「なんにせよ、あなたに会いたかったのは嘘ではありません。正直、あれから帰宅した直後すら既に会いたいくらいありましたとも」

 私はぴょ・・・黒猫に対してそう告げる。あれから、この言葉が指す意味は、ご存知の通り黒猫との初対面の日の事だった。あの歴史的で運命的な対面からもう暫くご無沙汰であることを考えると、やはり月日の経つ速度は恐ろしく早いものだと実感する。

「その・・・隙あらばぴょん吉と呼ぼうとするのやめろ。そろそろ自我の認識が狂ってきそうだ」

「まだ何も言ってないのに・・・」

 まだ引き摺ってんのかこの猫は。

「お前のその会いたい欲求というのも、愚痴による不満のはけ口なだけではないか?  それであるなら別に私に限定せずとも良いだろう。このご時世、地味に隣人との交流がなくなりつつある風流だが、人同士の繋がりは決して脆いものでない。逆に、仮初の繋がりとしても群れることが出来るのがお前たち人間の長所じゃないか。こんな遠い路地裏に住む猫一匹にわざわざ零しにこずとも、お前が楽な方を取れば良いのではないか。お前の歳なら、學友などもいるだろうに」

「いればわざわざこのような場所にまで訪れません。何を今更。私にそんな華やかなものがおありと思うのですか」

 実に現の真理だ。私には學友はいない。最も親しかったものですらが、今や意識不明の状態になってしまっている。
 學友でなくとも相談相手ならおばさんがいるけれど、実の息子が生き死に彷徨うような超休眠中であるのに、他所のお嬢様の愚痴ばっかに付き合ってられるわけが無い。人の痛みに疎い私でもそれぐらいは分かる。
 そもそもが、立花家に対する不満も悪口も嫌味も、本来なら人に対して吐くべきものでは無い。言葉の意味やその疎通が共通である生命体が相手なのだから、聞かれたものをそのまんま言質にとられれば私の弱みは握られたも同然である。
 加えて人間というのは、例え愚痴の対象に面識がなくとも、翳りある言葉を延々近くで吐かれ続けると心が病んでしまう人だってもちろんあるわけだ。人が良い性格だったり、優しい人がそう言った症状になりやすいのだけれど、とまあ何が言いたいかといえば人に延々愚痴を吐くとなると、それもそれで阻かれる、という事だ。
 なんにせよ聞かれたくないけど言いたいからこそ陰口という。文字通り日陰もののつまらない暴言が日の下に溢れてしまうと、地盤が緩んで人間関係が大惨事になる事は言うまでもない。絶対に明かしたことを秘匿してくれる相手が重要となる。
 ならば一体全体何が相談役として適任なのか?
 猫だろう。
 そうでしかない。
 理由は猫だからだ。
 それ以外になにか必要か?

「友達の一人ぐらい作れよ。存外、そこまで親しくない間柄でも話す相手くらいは作れるだろう。それを華やかなものって・・・どれだけ孤独に生きるつもりだ」

「私にとって話し相手を作るより、煮付けを仕上げる事の方が楽にできます。残念ながら」

「まじか」

 猫はそう呟いておし黙る。

「・・・野良の称号いる?」

「変な優しさ見せないでください。心が痛くなる」

 私はそう答えておし黙った。

「・・・まあ、なんだ。愚痴くらいは聞いてやる。減るもんでもないし、野良猫には縛られるだけの時間も首輪もない。有り余る時間の中、お前のために割いてやる分位は見つけてやるさ」

「そうですね。然らば、ひとつ相談が」

「待ってましたとばかりに持ちかけるな」

「当然ですよ。待ってましたから」

 言って、私は妙に優しい猫にほほ笑みかける。
 通算二回目。黒猫と私、立花麗かによる雑談の内容は、私の相談事から始まった。
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