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三話
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奇妙な猫との邂逅の後、ある分だけの愚痴を吐いた私は、空が既に泣き終わっていることを確認してお開きとした。
びしょ濡れの猫はその身体について「ほっとけばまた乾く」と目を細めながら言い、体に付着した水分を舌でもって舐めとっていた。些か小汚い水分補給である。毛繕いの可能性もあるが。
胸中の内を誰にも吐けなかった私だが、今ほどに清々しい思いは初めてだった。ありったけの不満をぶつけたのだから当たり前だ。黒猫も最初は乗り気味で私の口から出る罵詈雑言聞いていたが、終盤は飽きてしまってたのか、すっかり丸くなってしまっていた。否、私が止まらなかっただけだろうけれど。
さて、雨も止んでしまわれた今しがた、傘の必要性もなくなってしまった。相変わらずの装い物は猫と変わらずびしょびしょだが、かと言って臙脂色の防雨材はもはや使用するに値しない。傘ぐらいなら立花家にもある。
私はその傘を猫にあげようとした。今日のごとく雨が降った日には、また酷く濡れてしまうだろう。人と同じくよからぬ病を発するくらいなら、少しでもそれで予防して欲しい気持ちもあった。言うなれば情である。野垂れ死にされると後味が悪い。流石に我が家に連れ帰る事は叶わないけれど、気持ちだけでも、猫を助けてやりたい気持ちがあったのだ。もしかすれば、一度目の人生とやらの話に看過されすぎただけかもしれないが。
猫は私の申し入れに「構わずともいいのに」と遠慮がちに鳴いていたが、次第に傲慢な態度を持ち直し、「お前がそこまで言うのなら譲ってくれても構わん」と宣い始めた。なんなんだこの猫は。
最後に、私が家に帰る意向を呟いたところ、猫はこう言った。
「私も人を捨ててこうも猫に変わってしまったがな。縛られるだけが人の生き方ではない。男女問わず、自己の進みたい道を行くことが大切だ。親の言うことなぞ蹴散らしてしまえ。お前の意見に沿わぬ人生なぞ、生きてて楽しいものか」
猫はしれたことを言う。一丁前に。私と考え方が似ている猫だ。もしやすれば、彼の人生もまた、身内との激しい対立が存在していたのかもしれない。猫はそれほど、自らの過去を振り返ろうとはしなかったけれど、少なくとも、楽な人生を歩んできたわけじゃないことだけはその口ぶりからも連想できる。
「まあ、親もお前の幸せを願っている事は真実。愚痴垂れたけばここに来い。晴れの日以外は居てやる」
「晴れの日はいないのですか?」
「私ら猫にしてみれば、晴れの日の散歩は人の冠婚葬祭程に欠かしてはならぬ催しだ。お前のような小娘如きにその時間は割いてやらん」
「口の悪い猫だこと」
言われ方はひどいが悪い気はしない。なんにせよ、こうも吐露できる場を設けられたのは初めてなのだから、私自身嬉しくもある。今までが鳥籠に詰められた鳥の如く、その身の近辺を封じられ、不満を叩きつけれるような場所は存在しなかったのだから、ある種の救い船のようにさえ感じる。見てくれは頼りない泥舟だが。
「暇があればまた来ます。それまでどうかご生存なさるよう」
「案ずるな。お前も程々にな。後悔のないように進むといい」
黒猫の最後の台詞を背に、私は元来た道を辿る。
空には満天の星、暖かい闇を背後にして、歩みは立花家へと真っ直ぐに。
臙脂色の月の下で、名もない夜が静かに丸くなる。そんな気配を後ろ手に感じながら。
※※※※※※※※※※※
帰宅した私を待っていたのは、角を生やした鬼と、その傍らで冷徹な目線を送る般若だった。すっかり帳も落ちた屋内で、私に対する罵詈雑言の宴が始まる。
父の怒号、母の戒め、父の頭頂部に対する平手の打撃二発、飯抜きの宣告、訪問後に相手方に謝罪へ行ったとの後日談、母からの横やり、装束が汚れたことへの言及、雨の中傘もささずして飛び出したことへの批判、当分おやつ抜き、袴も作り直す次第、泥だらけの革靴はおじゃんとなり、更には帰宅当初の私は見事に微熱を発しており、終始しかめっ面の二人に床へとぶち込まれた。嫌に畳の質感が冷たい。これが水分を含む周囲の環境のせいなのか、体温が上がってしまった自分の暑さのせいなのかは分からない。ただただ、ぼんやりと狭まっていく視界に寄り添って、私は暗がりの中でゆっくりと意識を手放した。
地獄のような喧騒に見舞われたその翌日。完全に体調を崩した私は、頭部を縛る痛みと脊椎に響く違和感で目が覚める。
肺にしこりができたように咳が止まらない。完璧な風邪である。
「・・・もう猫に会いたくなってきた」
誰もいないことをいいことにそう呟く。
障子の隙間から覗く外は、からっきし雨が降っていた。
びしょ濡れの猫はその身体について「ほっとけばまた乾く」と目を細めながら言い、体に付着した水分を舌でもって舐めとっていた。些か小汚い水分補給である。毛繕いの可能性もあるが。
胸中の内を誰にも吐けなかった私だが、今ほどに清々しい思いは初めてだった。ありったけの不満をぶつけたのだから当たり前だ。黒猫も最初は乗り気味で私の口から出る罵詈雑言聞いていたが、終盤は飽きてしまってたのか、すっかり丸くなってしまっていた。否、私が止まらなかっただけだろうけれど。
さて、雨も止んでしまわれた今しがた、傘の必要性もなくなってしまった。相変わらずの装い物は猫と変わらずびしょびしょだが、かと言って臙脂色の防雨材はもはや使用するに値しない。傘ぐらいなら立花家にもある。
私はその傘を猫にあげようとした。今日のごとく雨が降った日には、また酷く濡れてしまうだろう。人と同じくよからぬ病を発するくらいなら、少しでもそれで予防して欲しい気持ちもあった。言うなれば情である。野垂れ死にされると後味が悪い。流石に我が家に連れ帰る事は叶わないけれど、気持ちだけでも、猫を助けてやりたい気持ちがあったのだ。もしかすれば、一度目の人生とやらの話に看過されすぎただけかもしれないが。
猫は私の申し入れに「構わずともいいのに」と遠慮がちに鳴いていたが、次第に傲慢な態度を持ち直し、「お前がそこまで言うのなら譲ってくれても構わん」と宣い始めた。なんなんだこの猫は。
最後に、私が家に帰る意向を呟いたところ、猫はこう言った。
「私も人を捨ててこうも猫に変わってしまったがな。縛られるだけが人の生き方ではない。男女問わず、自己の進みたい道を行くことが大切だ。親の言うことなぞ蹴散らしてしまえ。お前の意見に沿わぬ人生なぞ、生きてて楽しいものか」
猫はしれたことを言う。一丁前に。私と考え方が似ている猫だ。もしやすれば、彼の人生もまた、身内との激しい対立が存在していたのかもしれない。猫はそれほど、自らの過去を振り返ろうとはしなかったけれど、少なくとも、楽な人生を歩んできたわけじゃないことだけはその口ぶりからも連想できる。
「まあ、親もお前の幸せを願っている事は真実。愚痴垂れたけばここに来い。晴れの日以外は居てやる」
「晴れの日はいないのですか?」
「私ら猫にしてみれば、晴れの日の散歩は人の冠婚葬祭程に欠かしてはならぬ催しだ。お前のような小娘如きにその時間は割いてやらん」
「口の悪い猫だこと」
言われ方はひどいが悪い気はしない。なんにせよ、こうも吐露できる場を設けられたのは初めてなのだから、私自身嬉しくもある。今までが鳥籠に詰められた鳥の如く、その身の近辺を封じられ、不満を叩きつけれるような場所は存在しなかったのだから、ある種の救い船のようにさえ感じる。見てくれは頼りない泥舟だが。
「暇があればまた来ます。それまでどうかご生存なさるよう」
「案ずるな。お前も程々にな。後悔のないように進むといい」
黒猫の最後の台詞を背に、私は元来た道を辿る。
空には満天の星、暖かい闇を背後にして、歩みは立花家へと真っ直ぐに。
臙脂色の月の下で、名もない夜が静かに丸くなる。そんな気配を後ろ手に感じながら。
※※※※※※※※※※※
帰宅した私を待っていたのは、角を生やした鬼と、その傍らで冷徹な目線を送る般若だった。すっかり帳も落ちた屋内で、私に対する罵詈雑言の宴が始まる。
父の怒号、母の戒め、父の頭頂部に対する平手の打撃二発、飯抜きの宣告、訪問後に相手方に謝罪へ行ったとの後日談、母からの横やり、装束が汚れたことへの言及、雨の中傘もささずして飛び出したことへの批判、当分おやつ抜き、袴も作り直す次第、泥だらけの革靴はおじゃんとなり、更には帰宅当初の私は見事に微熱を発しており、終始しかめっ面の二人に床へとぶち込まれた。嫌に畳の質感が冷たい。これが水分を含む周囲の環境のせいなのか、体温が上がってしまった自分の暑さのせいなのかは分からない。ただただ、ぼんやりと狭まっていく視界に寄り添って、私は暗がりの中でゆっくりと意識を手放した。
地獄のような喧騒に見舞われたその翌日。完全に体調を崩した私は、頭部を縛る痛みと脊椎に響く違和感で目が覚める。
肺にしこりができたように咳が止まらない。完璧な風邪である。
「・・・もう猫に会いたくなってきた」
誰もいないことをいいことにそう呟く。
障子の隙間から覗く外は、からっきし雨が降っていた。
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