1 / 27
一話
しおりを挟む
立花麗かは憂いでいる。
引きずる足は枷をはめられたかと思うほどに重く、似合わないほど長い丈の袴は、終始地べたを這いずっていた。さながらのたくる蛇のように。
泥に濡れた裾すら気にせず麗かは、呆然と、ただただ惚けたように誰もいない大路地を歩く。
突然の豪雨。突発的な通り雨。空は灰に染ってはいないに関わらず、晴天高くから不思議なほど叩きつけるような大粒の水滴が降り続く。
人の波は既に身を屋内に隠しているのに対し、麗かはまるで気にする素振りをみせない。さも撃ってくれと言わんばかりに、その身を水にさらす。頬に続く温い水滴もそのままに。
立花麗かは焦っている。
余裕を見せることは、立花家にとりその栄華を下々に見せつけるための必要な手段である。
と、当主立花吉助はその口で詠う。特に麗かは女であるが故に、名に恥じぬ美しい装いと体裁で殿方を持て成すようにと、口酸っぱくしていた。
美しい装いなど、自身の身の丈にはあってない。まだ齢十四の麗かにとっては、少しばかり理解に乏しい部分であった。
他と比べて華やかな暮らしであることはわかる。立花家は成長した。現当主の吉助の手腕によるものだ。
だがしかし、それとこれとはきっと関係はない。
麗かは麗かであって、親の絶対的な決めつけには酷く辟易していた。飾り立てることが人生の全てではない。金勘定で上位をとることなど、なんとも悲しいものか。若さながらに麗かはそう考えていた。
立花麗かは哀しんでいる。
着こなしが崩れた服も、泥でグシャグシャになってしまった袴も、値の高い革靴さえも、もうどうでもよかった。
泥に倒れ、身を汚し、豪奢な簪を投げ飛ばし、顔を隈無く泥に漬け込んで、髪の毛先一本すら土に還してやろうかとすら思った。
勿論思っただけである。麗かには、そんなはしたない行為をする肝っ玉は据えられてなかった。せいぜいできるのが、道に溜まった泥水に映る小綺麗な衣装を、踏みつけて歪ませてやる。それくらいだ。
小綺麗な見繕いをした女が、人も通らぬ大路地で、それもこんな通り雨の中に身を晒す非常を他者が見ればどう思うだろうか。
人に買われぬ売女か、精々が肌着良い土左衛門から着物を頂戴した浮浪者か。
どちらにせよ、それは栄華ある立花家の令嬢としてあってはならない姿だろう。人に見られればそれこそ名を落とす。一族郎党の恥。男性一番で物事を考えてきた立花吉助にとって、女である麗かの所為で評判が悪くなるとしたならそれこそ勘当物だろうか。
いや、もはやそれでもいいのかもしれない。それこそ、今ほど縛られた生活は送らないだろう。
ふとそうなった時のことを考える。
家を飛び出し、普通の服を買って、好きな時に飯を食い、暇な時に働けばいい。そんな楽しげなことを。
釣り上がる頬が、ピリッとした刺激を生んだ。立ち所に思考が止まる。
立花麗かは。
ーーー私は。
怒っていた。父上にも母上にも。
「家。帰りたくないな」
未だひりつく左の頬は、少しだけ紅潮してしまっていた。さするほどに痛みは増すけれど、雨による冷やしでそれを和らげるしかない。
この頬は父である吉助につけられたものだった。
実の父から放たれた右の張り手は、乾いた音と共に私に痛みと違和感を教えた。衝撃と共に腰が砕けたことを鮮明に覚えている。体が崩れ、手に着いた土の感触。実父から差し向けられる視線とおなじ冷たさを持っていた。
ぶたれた私は、なぜこのような扱いに屈さねばならないのか意味がわからなかった。胃が冷めていく感触、頭に血が上る衝動、言葉に変え難い憤りを腹に、私はその場から逃げるように走り出した。それがつい半刻ほど前のことである。
飛び出してしまった、というか父に折檻された理由は以下の通りだ。本日付で、私の許嫁が決まったとの事だった。
母は手鳴らしして私に装飾を施し、父は私に対して「無礼なきように」と強く諭した。
相手はどうやら格上のご子息らしい。いわば政略結婚とされるものか。私の意見など聞き入れる気もない、自らの利己のみで仕向けられた地獄の沙汰。
女である私には拒否権も、それに抗う権限すらない。父がいえばそれが絶対。男が言うなら黙って従え。時代の風潮で少しばかり女性の地位も上がったなどと新聞などに記されてはあったけれど、我が家は妙にふるくさい考えを捨てられずにいる一家だったので、それに追随するつもりは毛頭なかったらしい。
装いを勝手に変えられた私は、勝手に決められた許嫁と、勝手に面会をさせられる羽目になった。なんと勝手が違う出来事だろう。
現れた少年は確かに小綺麗で、優しそうな相手ではあったが、私としては気に食わない演出だった。
きっとその事でなおざりな対応をどこかで私が取ってしまったのだろう。相手方宅から帰る途中、父の張り手が私に飛んできた次第だ。振り向かれた一発を武芸に通じない私が避けられるわけもない。
結果としてこのザマだった。何もかもが嫌になる。家に帰れば怒気を孕んだ父がいるし、勿論母ですらが父の味方なはずだ。この結婚には、私の一生を生贄にして立花家の存続を強いものへしようとする目論見が感じられる。
相手方はたしか地主の息子だったはずだ。両家の間で金巡りのいいものを得ようとしている魂胆だろう。
相手方には悪いが私に乗る気はなかった。当たり前だ。勝手に決められた相手と結婚させられて子を授かって、一生のどこにも私の自由はきかないじゃないか。たとえ女だろうが、自分の決めた道に沿って生きたいに決まっている。親の描く人形劇の脇役にされてたまるか。
「どうすればあの頑固オヤジを黙らせられるか。天啓は浮かばないか・・・」
立花麗かは悩んでいた。
憂いて焦って哀しんで、同時に怒っていた。
救いなく無情に打ち続ける雨粒の数多を、ただ私は仰ぐようにして被り続けていた。
いっそ雨に溶け込んでしまいたいほどに。
冷たい一滴一滴が矢の如く、容赦なく身体を蝕んでいく。
引きずる足は枷をはめられたかと思うほどに重く、似合わないほど長い丈の袴は、終始地べたを這いずっていた。さながらのたくる蛇のように。
泥に濡れた裾すら気にせず麗かは、呆然と、ただただ惚けたように誰もいない大路地を歩く。
突然の豪雨。突発的な通り雨。空は灰に染ってはいないに関わらず、晴天高くから不思議なほど叩きつけるような大粒の水滴が降り続く。
人の波は既に身を屋内に隠しているのに対し、麗かはまるで気にする素振りをみせない。さも撃ってくれと言わんばかりに、その身を水にさらす。頬に続く温い水滴もそのままに。
立花麗かは焦っている。
余裕を見せることは、立花家にとりその栄華を下々に見せつけるための必要な手段である。
と、当主立花吉助はその口で詠う。特に麗かは女であるが故に、名に恥じぬ美しい装いと体裁で殿方を持て成すようにと、口酸っぱくしていた。
美しい装いなど、自身の身の丈にはあってない。まだ齢十四の麗かにとっては、少しばかり理解に乏しい部分であった。
他と比べて華やかな暮らしであることはわかる。立花家は成長した。現当主の吉助の手腕によるものだ。
だがしかし、それとこれとはきっと関係はない。
麗かは麗かであって、親の絶対的な決めつけには酷く辟易していた。飾り立てることが人生の全てではない。金勘定で上位をとることなど、なんとも悲しいものか。若さながらに麗かはそう考えていた。
立花麗かは哀しんでいる。
着こなしが崩れた服も、泥でグシャグシャになってしまった袴も、値の高い革靴さえも、もうどうでもよかった。
泥に倒れ、身を汚し、豪奢な簪を投げ飛ばし、顔を隈無く泥に漬け込んで、髪の毛先一本すら土に還してやろうかとすら思った。
勿論思っただけである。麗かには、そんなはしたない行為をする肝っ玉は据えられてなかった。せいぜいできるのが、道に溜まった泥水に映る小綺麗な衣装を、踏みつけて歪ませてやる。それくらいだ。
小綺麗な見繕いをした女が、人も通らぬ大路地で、それもこんな通り雨の中に身を晒す非常を他者が見ればどう思うだろうか。
人に買われぬ売女か、精々が肌着良い土左衛門から着物を頂戴した浮浪者か。
どちらにせよ、それは栄華ある立花家の令嬢としてあってはならない姿だろう。人に見られればそれこそ名を落とす。一族郎党の恥。男性一番で物事を考えてきた立花吉助にとって、女である麗かの所為で評判が悪くなるとしたならそれこそ勘当物だろうか。
いや、もはやそれでもいいのかもしれない。それこそ、今ほど縛られた生活は送らないだろう。
ふとそうなった時のことを考える。
家を飛び出し、普通の服を買って、好きな時に飯を食い、暇な時に働けばいい。そんな楽しげなことを。
釣り上がる頬が、ピリッとした刺激を生んだ。立ち所に思考が止まる。
立花麗かは。
ーーー私は。
怒っていた。父上にも母上にも。
「家。帰りたくないな」
未だひりつく左の頬は、少しだけ紅潮してしまっていた。さするほどに痛みは増すけれど、雨による冷やしでそれを和らげるしかない。
この頬は父である吉助につけられたものだった。
実の父から放たれた右の張り手は、乾いた音と共に私に痛みと違和感を教えた。衝撃と共に腰が砕けたことを鮮明に覚えている。体が崩れ、手に着いた土の感触。実父から差し向けられる視線とおなじ冷たさを持っていた。
ぶたれた私は、なぜこのような扱いに屈さねばならないのか意味がわからなかった。胃が冷めていく感触、頭に血が上る衝動、言葉に変え難い憤りを腹に、私はその場から逃げるように走り出した。それがつい半刻ほど前のことである。
飛び出してしまった、というか父に折檻された理由は以下の通りだ。本日付で、私の許嫁が決まったとの事だった。
母は手鳴らしして私に装飾を施し、父は私に対して「無礼なきように」と強く諭した。
相手はどうやら格上のご子息らしい。いわば政略結婚とされるものか。私の意見など聞き入れる気もない、自らの利己のみで仕向けられた地獄の沙汰。
女である私には拒否権も、それに抗う権限すらない。父がいえばそれが絶対。男が言うなら黙って従え。時代の風潮で少しばかり女性の地位も上がったなどと新聞などに記されてはあったけれど、我が家は妙にふるくさい考えを捨てられずにいる一家だったので、それに追随するつもりは毛頭なかったらしい。
装いを勝手に変えられた私は、勝手に決められた許嫁と、勝手に面会をさせられる羽目になった。なんと勝手が違う出来事だろう。
現れた少年は確かに小綺麗で、優しそうな相手ではあったが、私としては気に食わない演出だった。
きっとその事でなおざりな対応をどこかで私が取ってしまったのだろう。相手方宅から帰る途中、父の張り手が私に飛んできた次第だ。振り向かれた一発を武芸に通じない私が避けられるわけもない。
結果としてこのザマだった。何もかもが嫌になる。家に帰れば怒気を孕んだ父がいるし、勿論母ですらが父の味方なはずだ。この結婚には、私の一生を生贄にして立花家の存続を強いものへしようとする目論見が感じられる。
相手方はたしか地主の息子だったはずだ。両家の間で金巡りのいいものを得ようとしている魂胆だろう。
相手方には悪いが私に乗る気はなかった。当たり前だ。勝手に決められた相手と結婚させられて子を授かって、一生のどこにも私の自由はきかないじゃないか。たとえ女だろうが、自分の決めた道に沿って生きたいに決まっている。親の描く人形劇の脇役にされてたまるか。
「どうすればあの頑固オヤジを黙らせられるか。天啓は浮かばないか・・・」
立花麗かは悩んでいた。
憂いて焦って哀しんで、同時に怒っていた。
救いなく無情に打ち続ける雨粒の数多を、ただ私は仰ぐようにして被り続けていた。
いっそ雨に溶け込んでしまいたいほどに。
冷たい一滴一滴が矢の如く、容赦なく身体を蝕んでいく。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

あの子を好きな旦那様
はるきりょう
恋愛
「クレアが好きなんだ」
目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。
※小説家になろうサイト様に掲載してあります。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。


〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる