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いつかもらった試供品

2話

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 朝になると私はいつものように会社に行く準備をする。
会社へは自宅の近くのバス停でバスに乗って向かう。
バスの中でいつも私は真ん中より少し後ろの窓側の席へ座る。
あまり後ろの席に座ると降りる時に大変だし、だからといって前の方へ座ると運転席のバックミラー越しに運転手と目が合うような感じがして落ち着かないからだ。
私は反対側の席に座る何やら参考書を見ている学生の方に目をやる。
勉強か……今では懐かしい。
小さい頃から数学は得意だった。 
計算すればしっかり答えが出るから。
暗記だけの問題をただひたすらにインプットとアウトプットを繰り返して頭に入れていく作業。

ただ国語だけは苦手だった。
作者の思いとは、この時の登場人物の気持ちとは。
作者の思いなんて本人にしかわからない事で私がこう感じると思ってもそれは私自身の想像でしかなくて真相はわからない。
感動的な話を誰かを思いながら書いたのかもしれないし、あるいは誰かを憎みながら書いたのかもしれない。
実際のところ本人にしかわからないんだ。
公式を当てはめて計算しようとしても人の心の中は解けない。
複雑に見えて本当はものすごく単純なものなのかもしれないし、けれど昨日とはまるで違うことを言っていたりする空模様のようなものだから面倒だ。

機械的な音声で車内に駅前へと到着を告げるアナウンスが流れ私は立ち上がりバスを降りた。

 私の働く職場は駅前から徒歩5分程度先にある高いビルの中にある。
ここでの私の業務はネットバンクのシステム開発。
顧客の預金や融資などのシステムの設計や品質の改善。
言葉だけ聞けば今時の華やかそうに感じる職場だが
実際のところはミスは許されない長時間労働のストレス社会の根源のような会社だ。

オフィスの入り口には火災防止の大きいポスターが貼られている。
そのポスターに満面の笑みで写る一人の女性が毎朝目に入る。
まぁ大きいポスターだからっていうのもあるけれど
それだけではなくなんというかこのポスターの女性の純粋無垢な笑顔に見惚れてしまう。

このポスターの女性は私の住んでいる地域のプロの女子バスケットチームに所属する、ある女性らしい。
バスケットが好きな同僚によるとこの女性は高校2年の終わり頃に突如として全国大会に頭角を表し初出場で数々の賞やタイトルを総ナメにしたらしい。

彼女の愛らしい笑顔とは裏腹に鋭いプレイスタイルは多くの人を魅了した。
その華奢に見える小柄な体で海外の長身の選手を素早いドリブルで置き去りにするその姿はまるで自分より大きい獲物を狙う小動物のようにも見えた。

この女性は多分悩みなんて何もないんだろう。
きっと小さい頃から幸せな家庭に育ち何も不自由なく生活しまるで物語のお姫様のような人生を歩んでいる事だろう。

自分の好きな事を仕事にできる人なんて一体全人口の何%いるだろう。
百人に一人? もっと少ないだろうか。
私は残りの九十九人側の人間だろう。

だから私はこのポスターの女性を見ていると毎朝自分がとても惨めに見えてしまう。
けれど毎朝日課になったこの女性の笑顔を見られなくなってしまったらそれもそれで寂しさを感じてしまいそうだ。

『鳴海さん、おはよう』

そう私に話しかけてくる女性は愛沢《あいざわ》 さなえ。私と入社が同期で仲がいいわけではないが会社ではよく話す。
愛沢さんは赤みがかった髪が特徴的な私とは正反対の愛嬌のある明るい女性だ。
その人懐っこい性格からかうちの会社の男の上司達にも人気があり、廊下でよく綺麗な髪をしているね。だとかネイルが綺麗だね。だとか取ってつけたような褒め言葉に
満更でもない顔で髪をかき上げながら『そうですか?』と笑ってエクボを男に見せつけるようなその仕草も性格も私はとても嫌いだ。

つけ過ぎている香水もみんなは良い香りがすると言っているが私はその強烈な人工的な匂いに吐き気を覚えるほどだ。

『愛沢さん、おはようございます』
そう言って私は通り過ぎようとする。

『明日の会議の資料作るの良ければ手伝って欲しくって……』愛沢は甘えるような猫撫で声で私にそう言った。

まだ明日の会議の資料が出来ていない……
この女にまず、有り得ないと言いたい。
何週間も前から会議の事は決まっていてお偉いさん方が出席する明日の大切な会議の資料がまだ出来ていないなんて考えられない。
もう出来上がっていて人数分印刷まで終えているのが普通だが?
一体何をしに会社に来ているんだろうか。
そしてそれを許す上司も上司だ。 若い女性に弱いおじさま共に伝えたい。 私の代わりにこの女を怒鳴り散らしてくれ。頼む。

私は顔が引きつるのに耐えて精一杯に顔を緩ませながら愛沢に聞き返す。

『愛沢さん、資料ってどこまで終わってるのかな?』

愛沢は少し目線を上げて何やら考えるような素振りをしながら何も悪びれる様子もなく
『まだ手をつけ始めたばかりで……』と言った。

『……はぁ?』
さすがの私も眉間にシワが寄った。

ポンッ!

後ろから何やら軽い紙を丸めたようなもので軽く叩かれた感触がして振り返る私。

『鳴海と愛沢さん、おっはよう!』

朝から無駄に爽やかなスーツ姿のこの男性は岡田 圭《おかだ けい》私と愛沢が所属するシステム開発部の何歳か上の私たちの上司。
私だけ呼び捨てなのはこの岡田さんは私が入社した時の教育係だった。

軽そうな容姿とは裏腹に仕事は出来る、うちの会社で三本の指に入るほど優秀な先輩だ。
上の役員からの信頼は厚く社内でも次期係長は岡田先輩ではないかと噂されている。
そしてとにかくスパルタだ。 大きい声を出したり怒ったりだとかそういう事はないが落ち着いた口調でズバズバとミスを指摘してくる違う意味で怖い先輩だ。
多分、愛沢が岡田先輩の下に付いていたら三日でこの会社を辞めるだろう。
けれどなんというかこの人は入社した頃から観察眼が鋭い感じがしていた。
その人が出来る範囲のことをさせる、その人の能力以上の事は求めない人だ。
何かを察すると途端に身を引き仕事の話をしなくなる。
私はこの人から仕事の話をされなくなってしまったら終わりだなと思っていた。

『愛沢さん、髪の色変えた?』岡田先輩は笑ってそういった。

『よく気付きましたね。気付いてくれたの圭さんが初めてですー』愛沢は自分の両頬を押さえながらそう言った。

そして、先輩は私の表情を見て『なんかあった?』と首を傾げた。

私は『いえ』と首を振ってその場を去る。

突如として私に最大の悩みが出来た。
明日の会議の資料どうしよう。
今日うちに帰れるかな……

はぁ……最悪の誕生日だ。
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