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16.五日目:リクエスト朝ごはん

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 五日目

「うーん……裏山かな?」

 私は、溶けかけている木々の雪を見上げ呟いた。
 そろそろキッシュも焼き上がる頃だ。まったく、自分でリクエストしたくせに朝食に来ないだなんて……銀は何をやってるんだろう?

「どうしよ……裏山に探しに……」 

「美詞!」

 踵を返そうとしたその時に、頭上から声が降ってきた。くうに浮き、私を覗き込むのお社の主。もう慣れたけど、フワフワの長い尻尾にお揃いの白い耳は晴天に映える。
 ああ、遊んでいて! と言った子狐ちゃんたちもこちらへ駆けて来ている。

しろがね! おはよう。今日もお散歩……じゃない、見回りに行ってきたの?」
「ああ。少しだけ。今日は雪も降っていないし、梅は大丈夫だろう」

 ここ数日、山奥とはいえこの地方では珍しい雪が続いていた。銀はほころびかけていた梅の花を心配し、連日蕾に雪が積もらぬよう、その力で梅の木周辺を暖めていたと言っていた。何とも優しく雅やかな心を持ったお狐様だ。

 だけどこう見えて意外とやんちゃで、昨日は子狐ちゃんたちと雪合戦をしていたのを私は知っている。
 こんなに綺麗で、黙っていれば誰もが見惚れるだろう男性に転じているのに、その内面は自身の毛色と同じく真っ白で真っ新。まるで子供の様でとても可愛らしい。

 私のことを「良い子」なんて言ってくれるけど、銀こそ「良い」だ。

「美詞、今日は『きっしゅ』を作ってくれたのだろう? 楽しみだ」

 ふわりと私の隣に舞い降りて、自然な仕草で私の肩を抱いて言う。

 ――ああもう、このお狐様は……!

 銀はとっても人懐こい。それに素直で優しくて、だけどやんちゃで押しが強い。それが、私がこの一週間で学んだ『家護りのお狐様』である妖狐あやかしぎつねの銀だ。

 私のことを気に入ってくれているのは嬉しい。毎日ごはんを美味しいと言って食べてくれるのも嬉しい。何だかんだ言って毎晩布団に潜り込んでくることにも、もう慣れた。暖かいし尻尾が気持ち良いから実は私も結構お気に入りなのだ。
 こんな触れ合いも、照れくさいけど嬉しい気持ちはある。でも、だけど――。

 銀に下心がないのは分かっているけど、悔しいかな私の心臓は触れ合う度に血を巡らせて、寒さを一気に吹き飛ばしてしまう。

 そう。いつの間にか私は……、私だけがずっとドキドキさせられているのだ。

 だって、何度も言ってしまうけど、銀が人に転じた姿は綺麗で格好良くて、細身だけどその身体は筋肉質だし、すごく距離感が近いし、優しいし、私を可愛がってくれるし……。

 実家を出て八年、彼氏いない歴は十年、人恋しさを感じて早三年だ。それに今の私は失業中で――まぁ、最後の方は酷くブラックな会社だったから、失業して良かったのかもしれない――心細さもある。

 だから、こんな温もりは誘惑でしかなくて困っている。
 だって、ひと月という終わりのある間柄なのだ。

「う、うん! そう、焼き立てだからきっと美味しいはず! 子狐ちゃんたちも行こうね」
「駄目だ駄目だ、こやつらの足は泥んこだぞ? 俺のように『靴』を履けるようになってからでないとな」

 そう言って自慢する足下は、私がここへ来てプレゼントした白い『スニーカー』だ。ええ、通販です。

「……でも、銀も泥んこだよね?」

 やっぱり心配で裏山へ梅を見に行っていたのだろう。今日は昨夜までの雪が嘘みたいな晴天だから、山も足下が緩んでいる。

「おっと、いかんな。家を汚してしまうところだった」

 銀がピュイッと軽い口笛を吹くと、スニーカーの泥が何処かへ消えてしまった。やだ、便利。

「さあ、早く朝餉にしよう。今日はキッシュと、他には何だ?」
「ふふっ。今日は銀のリクエスト通り、食べてみたいって言ってたサーモンとほうれん草のキッシュと、チーズたっぷりのベーコンとしめじのキッシュ、それから胡桃パン、あと簡単だけどスープも作りました!」

「きゅーん!」「きゅん! きゅん!」と、八匹の子狐たちが鳴く。これは『自分たちも一緒に食べさせろ!』という銀への抗議じゃないのかな?

「分かった、分かった。では自分らで足を綺麗にして、それから座敷へ来るように」

「きゅーん!」
「くぉん!」
「きゅっ、きゅー!」

 思い思いの返事をして、子狐たちは急いで玄関前へ。そしてそこで銀がしたような口笛らしきものを吹き、泥を飛ばし綺麗にしようとしている。

「わ、子狐ちゃんたち上手だね!」
「いや、まだまだ。足の裏に泥が詰まっておる。ほれ、井戸神に言って綺麗にしてもらえ。ああ、分かった、ごはんは待っててやるから早く行ってこい」

 銀がそう言うと、子狐たちはぴょーんと飛び上がり、一斉に井戸へと走って行った。雪と泥をびしゃびしゃに跳ね上げて。

「あはは! 可愛い……!」
「あれではまた汚れが酷くなるだろうに……」
 
 子狐たちとは対照的に、私たちの足音はサッサッと軽い。銀が足下を浮かせてくれているので、雪の表面を撫でているだけなのだ。

「しかしパンも楽しみだ。焼き立てか?」
「勿論! あ、でも……銀が期待してるおばあちゃんのパンじゃないかも」
「どうした。竈神かまどがみの奴が悪戯でもしたか?」
「まさか。竈神さんには沢山手伝ってもらっちゃったくらい」

 ガラガラ……と黒く重たい引き戸を開けると、そこは広い玄関だ。昔は土間も随分広かったらしい。

「そうか」
「今日はキッシュでオーブンを使ったし、昨日すっごく良い物が届いたでしょう? だから今日は、あのパン焼きの機械を使ってみました!」

 ああ、『通販』か! と、銀は覚えたての言葉を使い嬉しそうに笑った。
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