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1巻

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「坪庭の魔素溜まりまで……あと、ちょっと……っ!」

 しばらく細い道を進んだ僕は、今、岩壁をよじ登っている。
 魔素溜まりはこの上だ。登る高さは、自分の背丈の三倍から四倍ほど。
 何度か来たことがあるから、登る手順は心得ている。
 出っ張った岩に手と足をかけ、ゆっくり登っていけばいいんだけど、これが僕にはちょっとキツイ。大人だったら手足を伸ばし、最短距離を選んでヒョイッと登れそうだけど、同世代の平均よりも身長が低い僕にそれは無理。
 ちょっと時間はかかるけど、自分の手足が届く岩の出っ張りを選び、遠回りで崖を登っていった。

「ふぅ。着いた!」

 苦労して登り、やっとお目当ての坪庭の魔素溜まりに到着だ。

「うわ……なんだか空気が重い」

 湿気がこもっているような、空気がよどんでいるような、じっとりとした重さを感じる。
 いつもはこんな感じはしないので、この重さが魔素濃度『十』ってことなのだろう。

「迷宮城もこんな感じなのかな?」

 まだ見ぬ迷宮を想像すると、おそれよりワクワクする気持ちのほうが大きい。
 早く行きたいなぁと思いながら、僕は苔の乙女の台座を探すべく、地面にしゃがみ込んだ。

「あ、あった。わっ!? えっ、こんなに立派な苔の乙女の台座、初めて見た……!」

 深い緑色から新緑色のグラデーションが綺麗きれいで、触ってみるとフワッフワで、濃い魔素と清水を含んでキラキラと輝いている。
 それに生えている数も多い。これは若旦那さんがふっかけた小納品箱一つ分なんて、あっという間に採取できそうだ。

「……なんかおかしいなぁ」

 僕は足下の草を見つめ、ぐるりと周囲を見回し、上を見た。
 草も木も、異様なほどに緑が濃く、うっそうと生い茂っている。坪庭が薄暗く感じるほどだ。
 やっぱり何かがおかしい。
 そう思った僕は、もう一つの依頼である『魔素の測定』を先にやってみることにした。
 魔素の簡易測定には、錬金術師が作った『簡易魔素測定紙』を使う。
 ちょっぴりだけど錬金術に触れられるこの機会は嬉しい。
 僕はドキドキしながら【遮断しゃだん】の魔法が付与されたつつから簡易魔素測定紙を取り出す。
 これは周囲の魔素に反応して色が変わる紙だ。
 測定場所以外では、余計な魔素に触れないよう筒に入れられている。

「えっ」

 簡易魔素測定紙を広げた瞬間、紙は真っ赤になり、端が紫色に変わって角がくるりと丸まった。

「えぇ? これ、最高濃度が赤のはず……だよね?」

 僕が最後に簡易魔素測定紙を使ったのが半年前。もしかして、その間に仕様が変わった?
 僕は首を傾げつつ簡易魔素測定紙を筒にしまい、キッチリとふたを閉めて魔素を【遮断】する。これでもう、これ以上、紙が魔素を浴びることはない。

「この豊作も、異常に濃い魔素のせいか」

 それを狙って採取に訪れたのだけど、ここまでだとちょっと怖い気もする。
 でも苔の乙女の台座をこんな簡単に、たくさん採取できる機会はなかなかない。濃い魔素の恩恵だ。有り難く採取させてもらおう!
 僕は坪庭の魔素溜まりの中を歩き回り苔の乙女の台座を採取していく。
 集まって生えている場所ごとに少しずつだ。
 一か所から全部採ってしまえば早いけど、それをしてはいけない。

「次に生えてこなくなっちゃうからね」

 今回はあちこちに群生ぐんせいしているので、必要な量はすぐに集まった。だから、僕はこの珍しい素材を、自分用にも少し採取する。これでまだ作ったことのない魔法薬を作れるぞ。

「よしっ、これで依頼は完了! 随分早く済んじゃったなあ。ゆっくり帰ってもまだ夕方……四時くらいかな?」

 その頃ならギルドはちょうど暇な時間。
 調合部屋が空いてたら器具と一緒に貸してもらえるかもしれないし、手が空いてる魔法薬師さんがいたら、指導もお願いできるかもしれない。

「お礼はこの苔の乙女の台座でいいもんね!」

 珍しい上に品質もいい。これなら薬師さんたちにも、きっと喜んでもらえる。
 僕は帰ってからのことを考えながら、スルスルと岩壁を下りていく。
 そして、早く帰ろうと少し無理をしたのがいけなかった。
 近道になりそうな出っ張りに爪先を乗せた瞬間、ボロッと足場が崩れ、僕の体がズルリと落ちた。

「うわっ!?」

 慌てて手を伸ばすけど、掴めたのは空気だけ。
 しかも、やみくもに動かした足で岩壁をってしまった。

「やばっ!」

 失敗した! すぐ下の道に落ちるなら、少し怪我をするだけで済むけど……
 僕はチラリと背後に視線を向ける。
 そこに見えたのは崖の底だ。あせってジタバタしたのがいけなかった……!

「う、わぁああーーーーっ!?」

 僕の体は、細い道の横を通り過ぎ、薄暗い崖下へあっけなく落下していく。
 マズイ! どうしよ、ここって西の崖のハズレの果てで、この下には何もない。
 ってことは、誰もいないし、助けも来ない。ゾッとした。

「けどこれ、どこまで落ちるのー!?」

 岩肌がぎゅんぎゅんと通り過ぎ、深いところに落ちていく。
 ああ。落下してるこの時間はきっとほんの数秒だろうに、こんなに長く感じるだなんて……
 もうこれ、ほんっとうにマズイ!
 僕はギュッと目をつぶり、覚悟を決めた――が。

『ポヨョン』

 落ちた地面が柔らかい。

「あ……れ? なんで……?」

 わけが分からないまま、チカチカする頭とドキドキする心臓を抑え込み、なんとか起き上がろうと地面に手を突いた。
 すると、『ポニュン!』と地面が沈んで、手が埋まった。

「うっわ! わ!? えっ……これ……」
『ポヨポヨ、ポヨヨン!』
「スライム!?」

 この薄い紫色! きっと、さっきのスライムだ! 崖下に落ちていったあの子だ!
 僕は下敷きにしてしまっていたスライムから、転げるようにして起き上がった。

「ごめん! 大丈夫だった!?」

 声を掛けると、地面に広がるように伸びていたスライムが徐々に円形に戻り、ポヨポヨ、ポヨン! と体を揺らした。よかった。スライムも無事みたいだ。
 すると、プルプル揺れていたスライムが、急にハッとしたように縦に伸び、飛び跳ねた。そして、まるで手のように体の一部をにゅうっと伸ばして、僕の体をペタペタと触り出した。

「わ!?」

 頭から首、肩、手足まで全身に触れるその手付きは、怪我がないか調べているようだ。

「もしかして、心配してくれてるの……?」

 まさかと思いつつそう聞くと、スライムは身をかがめ、『ポヨ』と頷くような仕草を見せた。
 そして後ろを向けと手(?)で示されて、僕は大人しくスライムに背中を向けた。
 だけど今度は、ペタペタ触れていた手(?)がピタリと止まっている。

「どうかした?」

 どうやら背負っていた採取袋が気になるらしい。
 このスライムのおかげで体は無傷だけど、採取袋はどうだろう。中身が無事だといいんだけど。

贅沢ぜいたく言っちゃいけないな。あんな高いところから落ちたのに無傷なんだもん。荷物くらい……」

 僕は遥か頭上を見上げてみる。上のほうはよく見えない。
 ポヨポヨ寄り添ってくるスライムも一緒に上を見ているようで、背伸びするように、細長く伸びている。

「はー……僕、本当に今日はツイてる。ありがとう。君のおかげで命が助かったよ」

 お礼を言ったら、スライムはぷるる! と横に揺れた。首を振ってるみたいだ。
 謙虚な子だなあ。

「でも、どうしようかな。どこか外に出られる道か、上に登れる道でもあればいいんだけど……」

 キョロキョロ見回していたら、薄紫色の彼(?)が僕の手を叩き、にゅうっと手(?)を伸ばして、ある方向を指した。

「ん? そっちに何かあるの?」

 ポヨン。スライムは頷く。
 このハズレは、随分前に探索は終了している。この崖下には何もないはずだ。
 でも思い起こしてみるとこのスライムは、なんの躊躇ちゅうちょもなく飛び下りたように見えた。
 それに出会ったのはハズレの浅層部。この子、ここから上に行ける道を知っているのかも?

「うん。信じてついていって……あれっ? スライムくんどこ……あっ、えっ!?」

 薄闇の奥にスライムを見つけたと思ったら、そこにあった真っ暗な亀裂きれつの中に潜り込んでいくところだった。

「嘘! そこ入れるの!?」

 抜け道!? 暗くて気付かなかったけど、上に戻るどころか外に繋がっているのかも!
 一旦、探索が終了した迷宮は、新たな発見でもない限り再調査はしない。でも、だからこそ、誰も気付かないうちに新しい道ができてたっておかしくない!

「やった! 待ってスライムくん、僕も行く! ちょっと待って~!」

 慌てて走り出したら僕の声が届いたのか、スライムが隙間からチラッと顔(?)を出し、『ここだよ』と言うようにプルプル揺れた。


      ◆ ◆ ◆


 スライムのあとを追って亀裂の間を進んで行くと、前方がうっすら明るくなってきた。
 もしかして出口?
 はやる気持ちのままに亀裂から顔を出すと、目の前には崩れかけた壁があった。
 古王国の遺跡らしい壁が、岩壁から唐突に突き出ている。

「なんだろここ……狭いな」

 そろりと体を滑り込ませる。この空間は岩壁と遺跡の壁が交じった通路になっていた。

「あ、スライムくん! そこにいたんだ」

 みちの先でスライムがポヨポヨ跳ねている。僕はホッと胸を撫で下ろして、スライムに駆け寄っていった。

「う~ん……ここ、のかなぁ」

 僕はスライムを追いながら、そんなことを考えていた。
 大きな地震があったり大雨が降ったりすると、山や崖が大きくズレることがある。
 そしてごく稀に、そのズレた場所にはぐれ迷宮が出現することがあるらしい。
 新しい迷宮じゃなくて、西の崖のハズレが広がった感じかな?
 岩山の洞窟と融合しているはぐれ迷宮だから、運がよければ岩山を突っ切って、外に繋がっている可能性がある。

「ん? なんだろうこれ」

 壁伝いに進んでいくと、ふと壁の一点に何か彫られていることに気が付いた。ここまで装飾など一切なかったのに、これは気になる。
 背伸びをして見ると、ちょうど僕の目線と同じ高さになる。

「あ、これ『古文字こもじ』だ」

 古文字とは、古王国時代の文字だ。
 今は使われていない失われた文字なので、専門家でなければ読むことはできない。一握りの高位魔導師や錬金術師でなければ読めない代物だ。

「よし。書き写しておこう!」

 僕は腰のポーチから紙と木炭もくたんを取り出すと、古文字の上に紙を重ねた。この上を木炭でつぶせば、彫られた文字を写し取ることができる。

「これでよし」

 ここも、この先も、たぶん未発見の場所エリアだ。
 ハズレでも、迷宮は迷宮。新エリアの発見なんて、大変なことだ。
 きっと褒めてもらえるし、褒賞ほうしょうも出るかも? 
 あとこの古文字は研究者さんにも喜んでもらえると思うんだよね。
 ポヨヨ、ポヨヨン! 
 スライムが『はやく、はやく』と急かすように小刻みに跳ねている。

「あ、今行くよ」

 文字を写した紙をクルクルと巻いてポーチにしまい、スライムの案内通りに細い道を進んでいく。
 この道がどこへ繋がっているのか、本当に外に出られるのか。そんな不安は今、それを上回る冒険のワクワクですっかり消し飛んでしまっていた。


「わぁ……」

 壁の隙間を抜けると、開けた場所に出た。だけど外じゃない。
 ここはたぶんまだ洞窟の中だ。

「ここも交ざってるなあ」

 自然の岩壁に交じって、遺跡の壁があちらこちらにある。
 地面にはデコボコになった石畳の道が敷かれていて、真正面には黒い扉がついた高くて大きな壁があった。

「なんか……変なとこだなあ」

 僕は真正面の壁を見上げる。よーく見てみると、壁は少し湾曲わんきょくしているようだ。

「扉がついてるし、建物の一部かな」

 ラブリュスの地下迷宮は『城』と呼ばれているけど……?

「どんな建物だったのかなあ。なんか……ちょっと不思議な造りだよね」

 ハズレとなり、洞窟と交ざった時に歪んでこうなったのかな?

「それにしてもこの壁、高いなぁ……って、あれっ? あそこチラッと空が見えてない!?」

 そびえ立つ壁の一部が崩れて、岩壁との間に空が見えている。

「あっ。この壁って、もしかして塔?」

 湾曲しながら高く伸びている壁を上まで見て、ふとそう思った。

「ここをよじ登ったとしても、あの隙間から出るのはさすがに無理かな。うーん……この扉が外に繋がってたらいいんだけど」

 結構歩いたし、空が見えるってことは山の反対側まで来ているのかもしれない。

「この扉の向こう側が崩れていて、洞窟が終わっているなんてことはないかな……」

 僕は目の前にある頑丈そうな黒い扉を見つめた。
 ――ドクン。

「え?」

 なぜだか心臓が大きく鳴った。

「あれ?」

『塔の黒い扉』と認識した途端、ドクン、ドクン、と心臓が鳴って、てのひらにじっとり汗がにじんできた。

「緊張してるのかな」

 もしかしたら外に出れるかもしれない。そりゃ緊張するよね。
 でもこんなに急に喉がかわく? 
 僕はペロリとくちびるめ、ゴクリと唾をんだ。

「行ってみよう。でもこの扉……開くかな?」


〝――かないよ〟


 僕の心の中で、誰かがそう言った。

「……そうだ」

 この、黒くて重そうで頑丈そうな扉は一日に一回来るが開けるだけ。

「それに、中にいるぼくらが開けることは決してできない……」

 ドキン、ドキン。
 心臓が早鐘はやがねを打っている。
『中にいるぼくらが開けることは決してできない』って、僕はどうしてそんなことを知っているの? それに心の中に響いた〝――かないよ〟って、あの声は何? 誰? 
 ドキン、ドキン。心臓の音が大きくなって、考えがまとまらない。
 ――ヌルリ。

「うわっ!」

 僕の手に何かが触れた。

「あっ……スライムくんか。びっくりしたぁ」

 ホ~ッと息を吐き、僕の手をグイグイ引くスライムに目を向けた。ポヨポヨ揺れながら、僕の顔と扉を交互に見ている。
 もしかして『開けろ』と言っているのかな? でも鍵はないし……
 どうして鍵が掛かっていると確信しているのか、もうそこは深く考えないことにする。

「これ、魔力で開けるタイプの鍵かな?」

 お店にも魔石鍵ませきかぎがあるから、解錠かいじょうの仕方は知っている。魔石に触れ、魔力を流せばいい。
 だが、開けられるのは、魔石に魔力を登録された人間だけだ。

「でも、迷宮にあるこのタイプの鍵って、一定量の魔力を注げば開くっていうよね……?」 

 僕はイチかバチか、無色透明の魔石にそっと触れ、意識を集中して魔力を流してみた。すると透明の魔石がほのかに光り、ガチャッと鍵が開いた音がした。

「開いた!」

 僕は深呼吸をして黒く重い扉を押すと――


「えっ」

 そこには、おびただしい数のスライムがいた。
 青や緑、赤に黒。薄暗く、さして広くもない部屋に何匹も、何匹も。
 床が見えないくらいギュウギュウに押し込められていて、彼らは壁一面に生えている草を食べていた。

「な……何、ここ……」

 ドクン、ドクン、ドクン。
 心臓が嫌な音を立てている。可愛くて大好きなはずのスライムなのに、どうしてか怖い。
 どうしてか不安で胸が締め付けられる。
 僕は目眩めまいを覚え、よろりと壁に手を突いた。
 そして、壁に生えている草をよく見て驚いた。

「これ……『日輪草にちりんそう』『不忍しのばずそう』『孔雀花くじゃくばな』、どれも回復系ポーションの材料……」

 他にも、紅い実や、黒っぽい花をつけた植物があった。これも何か薬の材料だろうか? 
 図鑑ずかんで見た毒草に似ているけど……知らない植物だ。
 なのになぜか、僕はこれを知っている気がする。

「どうして……?」

 ここはなんだ。ここは……

「スライムを飼育してる?」

 なんのために? 誰が?
 ――
 僕の首筋に、ツゥと汗が伝った。
 おかしい。何かがおかしいし、僕もなんだか変だ。
 それにこのスライムたちも変だ。
 僕はスライムが好きだから、彼らのことはよく知っている。
 この薄紫色のスライムのように、人懐ひとなつっこく寄ってくる個体は珍しい。最弱の魔物であるスライムは、人にはあまり近寄らず、遠巻きにすることが多い。
 なのに、このスライムたちはどうして逃げないの? 
 ううん、その前に僕のことを見てもいない?

「……この子たち、なんて無気力なんだろう」

 ここのスライムは、ただひたすら薬草をんでいるだけ。そして、そんなスライムたちの間には、僕の拳大くらいの『玉』がたくさん転がって……いや、積み上がっている。

「『薬玉くすりだま』だ」

 知らないはずの単語が口から滑り落ちて、またじわりと汗が伝った。

「僕、どうしたんだろう?」

 ふらりと一歩、足を踏み出したら、一匹のスライムがペトリと僕の側に寄ってきた。

「ん? どうしたの君? あれ、なんだか体が……」

 プルンと張りがあって丸いはずの形が崩れかけている。それに体の色も薄い。
 僕は屈み込んで恐る恐る手を伸ばした。するとスライムは僕の手に乗っかり、プルプルと震えると――


 ぱちゅん。
 弾けて、消えた。

「ッ! うわぁっ!!」

 ――ポヨン。
 ポヨン。ポヨヨン。
 驚き、お尻をついた僕の前には、薄紫色のスライムが跳ねていた。
 そして目の前に広がるのは、ガランとした空間。冷たく何もいない石の床。
 植物も何も生えていない石の壁。
 色とりどりのスライムなんていない、ただの薄暗くて狭い円形の部屋だ。 

「え……? ま、幻……?」

 あんなに大勢いたスライムが全部消えている。
 手の上で弾けたスライムももちろんいない。あれは僕の心が見せた幻……?
 僕のこめかみを汗が流れていって、ポタリと地面に落ちては染みを作る。
 心臓はうるさいくらいにドッドッドッと鳴っているし、掌の汗はさっきよりもひどい。

「は……っ、ハァ。すぅっ……はぁ~……」

 深呼吸をして息を整えて、僕はゆっくり立ち上がった。
 その時、灰色の石床に落ちる淡い光に気が付いた。
 この光はどこから? 僕は光が差す先を辿り、上を見上げた。

「え」

 あの窓だった。
 高い高い場所にある、十字の格子が嵌った小さな窓。
 がいつも見上げていた、決して手の届かない窓が今も見えている。

『いつか……あの空の下へ行きたいな……』

 ――これは、夢のあの窓だ。
 そう思った途端。心臓がドックン! と大きく跳ね、頭がガツン! と殴られたように揺れた。そして恐ろしい勢いでがフラッシュバックする。

「あ……! っああぁあ!!」

 薄暗い石造りの部屋。
 右を見ても左を見ても、仲間がたくさんいて寂しくはなかった。だけど退屈な毎日だった。
 食事は壁から生えた薬草や毒草。とても新鮮で美味しかったけど、たまには違うものを食べてみたいな、なんて思っていた。
 ぼくらはずっとここにいた。あの黒い扉は外に繋がっているけど、管理人と呼ばれる人間が出入りするだけ。一日に一回しか開かれないし、外に行ってみたいとっても、連れて行ってくれることなんてなかった。
 だから、あの小さな窓。
 十字の格子が隔てた先に覗く、小さな青空だけがなぐさめで、夢だった。

「う、ああ……ッ!」

 ガクリと膝を突き、その場にうずくまる。ポタポタ、ポタン、と床にしずくが落ちては染みていく。
 僕は手のこうで汗を拭うけど、また雫がポタタ、ポタンと流れて落ちた。
 ああ。これ、落ちているのは汗じゃなくて涙だ。

「ぼく……」

 自覚したらもっと涙があふれてきて、どんどんと視界がぼやけていく。
 すると蹲る僕の側に、薄い紫色が割り込んできた。
 ポヨン、ポヨヨン、と穏やかに揺れるあのスライムだ。

「スライム……スライムだ」

 そう言葉にした途端、涙がボロボロと零れ落ちた。
 ああ。湧き上がってくる、胸が震えるようなこの感情はなんだろう? 悲しい? 懐かしい? 
 ずっと不思議に思っていたあの夢の意味が分かったから? ここでスライムに出会ったから?
 それとも、が空の下へ出られたから?

「僕は……ぼくは……」

 あの夢は、夢じゃなかった。

「ぼくの……記憶だったんだ」

 涙が止まらない。こんなにボロボロ泣くことなんて、孤児院にいた小さな頃にもなかった。
 きっとこんな大泣き、覚えていない赤ちゃんの頃以来だ。

「僕は――……僕の前世は、スライムだった……!」

 ポヨポヨ揺れる薄紫色のスライムを抱きしめ、しぼすように呟いた。


      ◆ ◆ ◆


 ポヨン! ポヨン!
 どれくらい経ったろう。僕の腕から抜け出したスライムが部屋の真ん中で跳ねている。
 まるで僕を誘っているようだ。

「スライムかぁ……」

 呟き、ハーッと大きく息を吐いた。
 赤ん坊の僕がスライムに囲まれていたり、スライムを可愛いと思って好きだったり、今日だってこの薄紫の子と仲良くなってしまったり……

「妙にスライムと縁があるなー、なんて思ってたけど、まさか前世がスライムだったなんてなぁ」

 驚きだ。生まれ変わりの話はお伽噺では出てくるけど、魔物から人間になったなんて話はない。

「う~ん。最強と言われるような魔物なら、特別な力を持っていそうだから、生まれ変わるのも分かる気がするけど……」

 なんで僕、スライムから人間? 最強どころか最弱だし、お得感や特別感があんまりない。

「まあ、いいか」

 前世が嫌いなものだったらちょっと落ち込むけど、スライムならいいや。
 僕は気を取り直して立ち上がり、石壁を見た。壁に残る枯れかけの植物は、昔のスライムぼくたちが食べていた薬草の名残だろうか。

「この感じだと、わりと最近まで生えてたのかな」

 そのまま壁沿いに進むと、一部に薬草が茂っていた。それも見るからに品質がよさそうだ。
 鮮やかな緑色で、葉はツヤツヤで張りがある。

「ここだけ残ってたってことは、外と繋がっているかもしれない」

 普通、植物は光と水がなければ生きていけない。迷宮は例外だけど。
 この塔は、空が見えてるってことは、地上に露出している。

「薄暗いのもそのせいだろうなぁ」

 迷宮を明るく保っている魔素が薄い証拠だ。
 僕は上を見て、そのまま後ろを向く。そこにあるのは、あの小さな窓だ。
 時間によっては、ちょうど生き残っている薬草に日が当たりそうだ。
 この塔がいつ地下からここに出てきてしまったのかは分からない。
 だけど魔素が満ちていた地下で生きていた植物は、魔素の薄い地上に出てきて枯れてしまったのだろう。

「でも、まだ少し薬草が残ってる。光と水があれば、魔素が薄くたって生きていけるんだ」

 僕は壁に生えた薬草を掻き分け、水の痕跡こんせきを探す。
 どこからか水が流れ込んでるんじゃないかと思うんだけど……

「あっ」

 壁が湿っている。この辺だ! 
 茎を傷付けないよう、気を付けながら探っていくと、ひび割れた壁の隙間から、チョロチョロと水が流れ込んできていた。
 そうか。この水のおかげで、ここだけ薬草が残っていたんだ。

「やっぱり! あー、でもこんなひび割れじゃ外すら見えない!」

 もっと大きな亀裂とか、穴がないかと期待したんだけど、そう上手くはいかないか。

「はぁ。でも、どうしてこんな場所で、こんな高品質に育つんだろう……」

 そう呟いて、僕は思い出した。
 ――ああ、そっか。そうだった。
 僕は、スライムだったぼくがここで何をしていたのか、どうしてここにいたのかを、ハッキリと思い出した。
 この薬草は、高品質に育ったのではない。元から特別で、高品質なものが植えられていた。
 長い年月が過ぎても枯れなかったのは、特別だからだ。
 そして、特別だったのは薬草だけでなく、ここにいたスライムも同じ。

「僕は、あの偉大なる錬金王の特別なスライムだったんだ」

     
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