月華後宮伝

織部ソマリ

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虎猫姫は冷徹皇帝と白銀に誓う

虎猫姫は冷徹皇帝と白銀に誓う-1

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   序章


 淡い色の月が浮かぶ夜。麗麗れいれいは自室の窓際で、土撥鼠マーモットを抱きかかえ夜空を見上げていた。
 凛花りんかは今、紫曄しゆうと共に輝月宮きげつきゅうにいるらしい。あの夜、朔月宮さくげつきゅうから突然姿を消した凛花は紫曄に保護され、なぜかそのまま輝月宮に留まる選択をしたようなのだ。
 そして麗麗は、凛花が失踪して以来ずっと、『凛花は朔月宮で伏せっている』と装い続けていた。
 凛花がなぜ朔月宮から姿を消したのか、なぜ朔月宮へ戻れないのか。麗麗はその理由を知らされていない。だからつい、不安になってしまう。

「凛花さまはお元気だろうか……」

 麗麗は懐に抱いた土撥鼠マーモットに頬をうずめ呟いた。
 きっと健やかである。何か事情があって朔月宮へ戻れないだけだ。そう思っても心配なものは心配で、こうして毎夜のように、この毛玉相手に不安を零していた。

「ピュイ」

 小さく鳴き、麗麗を見上げる瞳は丸い。黒く純真な眼差しに、麗麗はふっと笑みを零す。
 この土撥鼠マーモットは、凛花を通じ黄老師こうろうしから世話を託されたもの。名前はまだない。凛花が発見した『満薬草まんやくそう』を混ぜ込んだ傷薬を使った被検体だ。
 既存の薬に満薬草を混ぜ込むと、その効果は他になく高いものになるという。月官衛士げっかんえじ時代、凛花の作る傷薬に助けられた麗麗にとっても興味のある薬草だ。

「ピュイ、キュイッ」
「ふふ。お前もすっかり傷が癒えたね。早く凛花さまにお見せしたいな」

 麗麗はじゃれつく土撥鼠マーモットを撫で、笑う。

「凛花さまは……ここへお戻りになるのだろうか」

 ぽつり、そんな言葉が漏れ落ちた。
 ――今、後宮ならびに朝廷では、琥国ここく琥珀こはく王女が望月妃ぼうげつひに決まったのではないか。そんな噂が流れている。
 紫曄は王女が現れてから、彼女が滞在する佳月宮かげつきゅうに行くことはあっても、朔月宮を訪ねることはなくなった。それは王女と凛花の身分差、後ろ盾の強さが影響してのことだ。
 さらに凛花が姿を見せなくなり、風向きは一気に王女へと傾いた。

『朔月妃は主上の寵愛ちょうあいを失ったのだろう』
『あれほど〝猫〟と愛玩あいがんされていたのだ。意気消沈しても仕方がない』

 凛花の居場所を知らない者たちはそう囁く。
 これは元々、王女を望月妃にと望む声が少なくなかったからでもある。
 琥国は、月の女神を崇める国々の中で最も古く、月の加護が厚い国として他国からも敬われている。長い間ほぼ鎖国状態であることも、その神秘性を高め、別格と一目置かれる一因だ。
 そんな琥国から皇后・望月妃を迎えることは、月の加護を得るようで誇らしく喜ばしい。しかもそれが王太子という、琥国の中でも最も尊い地位を持つ姫ならば断る理由がない。そういう理屈だ。
 元月官衛士の麗麗としても、その理屈と感覚は分かる。月の女神の信徒としてすり込まれてきた常識だ。
 三年の月日にも負けず、神託を重んじて凛花を後宮に迎えたこの国が、琥国の王女を望む流れは止められない。

(でも、凛花さまだって月の女神から神託を授かった方。それに、凛花さまは今も主上に愛され、輝月宮に留められているというのに)

 悔しい。できることなら、凛花は伏せってなどいないし、寵愛を失ってもいない! と言ってやりたい。それが麗麗の本音だ。
 だが、それはできない。

(主上は、私に「頼む」と言ってくださった)

 命令すればいいのに、麗麗を信頼し、凛花を守る同志として認め、ふみを託してくれた。この任務は絶対に果たしたい。

(凛花さまを支えるために侍女じじょになったのだ。凛花さまを隠す理由が分からなくとも、信じてくれたお二人に報いたい。だけど……)

 麗麗は窓を開け、輝月宮があるほうを見つめる。

(凛花さまからのふみや伝言がないのはなぜなのか)

 それが気掛かりで、どうしても不安を拭えない。

ふみを書けるような状況でない? でも兎杜ととは、主上はお元気そうだと言っていた。あの主上が上機嫌ならば、凛花さまが悪い状況だとは考えにくい)

 もうしばらくの辛抱だ。もう少しの間、この朔月宮に凛花がいるように振る舞えば、きっと状況はいい方向に変わる。凛花と紫曄の二人が変えてくれる。麗麗はそう思う。

(でも、待つ以外にも何かできることがあればいいのに……)

 はぁ、と溜息を吐き項垂うなだれる。
 と、麗麗の頬を冷たい風が撫でた。
 季節はそろそろ晩秋。冬が近づくこの頃の夜は、温暖な皇都こうと天満てんまんでも冷える。

「風邪をひいては大変だ。そろそろ寝ようか、毛玉」

 土撥鼠マーモットにそう声をかけ窓に手を伸ばす。その時、ひらりと小さな白いものが、麗麗の指先をかすめた。

「ピュイッ」

 土撥鼠マーモットが手を伸ばしそれを掴み取る。か? それとも花?

「はは、器用だね。お前」
「キュ」

 掴んだものをフンフン嗅ぐ土撥鼠マーモットを撫で、麗麗はその手元を覗き込んだ。もしだったなら、食べてしまわないうちに逃がさなければ。そう思い土撥鼠マーモットの手を開くと、出てきたのは小さな白い花だった。
 淡い月に照らされたその花弁は、凛花の銀の髪色にも似て見える。

「どこから飛んできた……?」

 麗麗は窓から身を乗り出し周囲を見回す。だが、辺りに白い花は見当たらない。小花園しょうかえんでも見たことがないし、これは何の花だろう?

「……ん、涼やかでいい香りがする」

 萎れているせいか、かすかにしか香らないが特徴のある香りだ。とはいえ、やはりこの香りにも覚えはないが。

「ピュイ」

 ちょうだい、ちょうだい、と手を伸ばす土撥鼠マーモットに花を返してやる。
 ああ。温かく愛らしい土撥鼠マーモットと、思いがけない涼やかな香りに癒やされた。
 麗麗は、微笑み窓を閉じた。




   第一章 虎猫姫は飼い慣らしたい


 今夜は少し雲が多いのか、月は淡い色だ。

(どうせなら月をすっかり覆って隠してくれればいいのに)

 凛花は「くぅ」と溜息まじりの声を漏らし、自身を抱き枕にする紫曄の腕に、ぽすんとあごを乗せた。
 丸い耳とふわふわの白い毛皮。柔らかな肉球の手。紫曄を癒やす抱き枕としては大正解だが、凛花の呼び名は朔月妃や薬草姫であって、虎猫姫ではないのに。
 そんな不満が、つい喉からこぼれ落ちてしまう。
 今の凛花は自分の意思と無関係に、月が出る夜になると虎化してしまう。そのせいで、凛花はずっとここ――皇帝である紫曄の宮、輝月宮に籠もっている。

(それでも少し前までは、昼も虎化してしまって一日中この姿だったんだもの。今は夜の間だけ……)

 こうなってしまった原因は、月祭つきまつりに合わせて訪問してきた琥国の王太子――琥珀王女にある。彼女は凛花と同じ人虎じんこで、その赤みがかった髪色通りの金虎きんこだ。
『琥珀』というのは代々の金虎に付けられる号で、彼女自身の名は月夜げつやという。
 琥国は人虎を尊ぶ国。特に白虎びゃっこは別格で、次に金虎、例外とされるのが黒虎こっこ。王女月夜の兄にあたる、琥珀――琥国では闇夜あんやという名で呼ばれる彼がそうだ。
 王女も琥珀も、琥国で潰えたを得るために月魄国げっぱくこくへやって来た。月華宮げっかきゅうにいる白虎は、という秘密と共に。
 琥国の琥王家、月魄国の皇家、雲蛍州うんけいしゅう家。この三家は元々同族だった。
 琥国の琥家から分かれた一団が月魄国を興し、さらにそこから分かれた者が旧雲蛍国を作った。その旧雲蛍国を興したのが、白虎を受け継ぐ虞家だ。
 今は人虎のことなどすっかり忘れてしまった胡家だが、かつての胡家には人虎がいただろうし、白虎の皇帝や妃だっていて当然。
 そう。王女の目的は、紫曄が持つ血だ。薄くなったとはいえ紫曄にも白虎の血が流れている。だから金虎である自分こそが、紫曄とつがい白虎を産み、琥国へ連れ帰るのだと。白虎の子でなくとも、確実にその血を持つ子を得るのだ。そう考え王女は自らの意思で、白虎を身籠もるため後宮に入り込んだ。
 そして琥珀もまた、琥王より『神託の白虎姫を手に入れろ』と密命を受けていた。

(だけど、まさか琥国やあの二人が、あんなに白虎を特別視しているとは思わなかった)

 迂闊うかつだったと、凛花は王女と二人、虎の姿で小花園を散歩した夜を思い出す。
 凛花は『虎化とらかしない体になりたい』と願っていた。国一番の知識が集まる月華宮の大書庫になら、きっと何か手掛かりがあるはず。そう思い、『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』の神託に従い後宮へ入った。
 だが、そのことが王女の不興を買ってしまった。
 王女にとって白虎は、望んでも容易には手に入らないもの。凛花の願いは、白虎を消したい、不必要だと粗末に扱っているように思えたのだろう。
 凛花は、王女に特別な銀桂花酒ぎんけいかしゅを飲まされ……虎化したまま人の姿に戻れなくなってしまった。それは『とら秘酒ひしゅ』という、人虎の能力を一時的に高める効果があり、さらに『長く変化していられる薬』を混ぜたものだったのだ。

(でも、月が出ていない昼間は人の姿に戻れるようになったのも、月夜殿下がくれた『解毒げどくちゃ』のおかげ)

『解毒の茶』は、凛花が毒に倒れた王女を救った礼としてもらったが、あれ以来、王女と和解できた気がする。それに、王女と琥珀の間もだ。
 兄妹でありながら対極の立場に置かれていた二人は、凛花の存在を挟むことで、初めて兄妹として成り立ったように見える。

(月夜殿下は悪い人ではない。そもそも、こんなに長く人に戻れなくしてやろうなんて強い悪意もなかった。ほんの意地悪のつもりで『長く変化していられる薬』を使っただけ。なんで私だけこんなことになってるのか……)

 王女は『長く変化していられる薬』を自分も飲んだが、凛花のようにはならなかったという。

「んー……ぷぅ」

 また不満げな声が漏れてしまった。
 俯いた凛花は、丸く白い手をはむはむ毛繕けづくろいする。虎化しているといっても意識は人のもの。毛繕けづくろいに抵抗がある凛花だが、今のこれは無意識だ。猫は落ち着くために毛繕けづくろいをするらしい。

(そういえば……月祭で銀桂花酒を飲んだ時、紫曄は酔っ払って寝ちゃったっけ)

『虎の秘酒』は人虎の能力を高める効果があるものの、銀桂花酒の一種だ。
 ただの銀桂花酒でも、人虎の血が薄い紫曄には、猫にとってのまたたびのような反応が出たのかもしれない。
 紫曄が虎の秘酒を飲まされた時には、全身が脱力してしまい動けなかったと聞く。王女の狙いは、紫曄の内に眠る虎の本能を刺激することだった。
 同族の匂いに惹かれ、媚薬びやく効果が出る予定が紫曄には強すぎた。効きすぎてくれて助かったが。
 ――白虎は人虎の頂点。
 月の加護を一番多く得ている存在とも言い換えられる。
 月の加護を多く得ると月の影響を強く受けるが、抵抗力も強くなるのではないか? そう考えるとすべての辻褄つじつまが合う。
 銀桂花酒は、凛花にとってはただの美味しい酒だが、紫曄にとっては『虎の秘酒』に似た効果をもたらす酒。紫曄は白虎の血を持っているが只人ただびとで、人虎としての月の加護は少ない。抵抗力が弱いから、銀桂花酒がと考えられる。
 だから人虎には、『虎の秘酒』という特別な銀桂花酒があるのかもしれない。銀桂花酒ではから。
 王女も言っていたが、銀桂花酒や虎の秘酒の効果には個人差があるようだ。きっと、凛花が飲んでいる解毒の茶も同じ。

(毎日飲み続ければ、ある日突然、元に戻るかもしれない。願わずとも虎に変化してしまうことのない、自らの意思で制御できる体に……)

 けれども問題はそれだけじゃない。
 凛花は朔月妃だ。そして自身を抱きしめ眠る紫曄の寵姫ちょうき。月華後宮の月妃げっぴなのだ。

『琥珀の月が白銀の背に迫る 古き杯を掲げ、月と銀桂花の結実を成せ』

 王女が来た月祭の夜に下った神託だ。この神託は、解釈が定まらないことと、皇帝に関する神託であることを理由に秘された。
 しかし月華宮では現在、その解釈のうちの一つが正しいと噂されている。

『琥珀王女が朔月妃・凛花に取り代わる。朔月妃・凛花は先代皇帝の妃にすべきだった。琥珀王女が皇后となり跡継ぎを産むべき』

 要約するとそんな内容の噂だ。
 凛花にとっては不利な噂が流れる中、希望的観測をあてにして輝月宮に隠れ続けるのはよくない。
 ただの月妃なら、紫曄の腕に守られている現状でも構わないだろう。だが、紫曄は凛花を望月妃にすると言った。なってほしい、お前しか隣には欲しくないと言った。

(私だって……紫曄の一番として、望月妃になりたい)

 ならば隠れ続け、守られるだけではいけない。
 王女は凛花に恩を感じ、今は行動を控えているが……

(ずっと遠慮してくれるはずがない。月夜殿下にも立場や責任があるもの)

 琥国は、王女は、紫曄は、あの神託を信じる月華宮の者たちは、いつまで待てるのだろう。少なくとも凛花が引き籠もったままでは、神託の後押しを受けた王女が望月妃に、せめて正式な佳月妃かげつひになるだろう。

(紫曄にも立場と責任がある)

 いつまでも望月妃を決めず、跡継ぎをもうけずにいることは許されない。

(それに……私が跡継ぎとなる子を産むなら、やっぱり雲蛍州に行かなくちゃ)

 雲蛍州には、人に戻れなくなった人虎の伝承と一緒に、『薬箋やくせん』が伝わっている。父からのふみにはそうあった。
 その薬箋やくせんがどんなものかは分からないが、凛花の現状を伝え、改善する方法はないかとの問い合わせに対する返信だ。『解毒の茶』よりも強い効果を得られる望みがある。
 凛花は拳を握る要領で、思わず丸い手にぎゅっと力をこめた。

「……ッ、ん……」

 頭の上から紫曄の小さな声が聞こえ、凛花はハッとし手を開く。

「にゃ」

 自身を抱き込む紫曄の腕に爪を立ててしまった。人と違う爪の仕組みは、たまにこんな失敗に繋がる。虎化している時は、出し入れできる爪が当たり前すぎて、意識することを忘れがちなのだ。虎猫と呼ばれる小ささの凛花でも、この爪が人にとって凶器になることをうっかり失念してしまう。

(虎になっている時、私は人なのか、虎なのか……)

 凛花はあらためて虎化について考える。
 初めて虎化したのは幼い頃。凛花は今も、その時のことを覚えている。
 両親は驚き、戸惑いつつも凛花を守ろうとした。だがそこに恐怖の感情が混じっていることを、凛花は気が付いていた。虎化した凛花の優れた嗅覚は、両親が発する極度の緊張を匂いとして感じたのだ。
 この経験が、凛花が虎化する自身を受け入れきれない理由のひとつだ。

(理不尽よね……誰が望んだわけでもない力だもの)

 虎化は血が受け継いできたもの。
 凛花が願ったわけでも、両親が願ったわけでもない。
 けれど凛花の中に、虎となり夜をけることを、楽しいと感じる部分があるのも事実だ。
 虎の目だから見える暗がり。丸い耳に届く虫や鳥、夜の音。それはどれも美しくて意外と賑やかで、凛花はつい、天上の月に変化を願ってしまう。

(どうして月は願いを聞き入れ、私を虎に変えるのだろう)

 よく考えなくても、人が虎に変わるなど尋常のことではない。牙や爪が生え、骨格が変わり違う生き物になるのだから。

(これは体質なんて、人のことわりくくれるものではない気がする)

 凛花はせっせ、せっせと白い毛に覆われた手を舐め、ぐしぐしと顔を洗う。

(でも、私が白虎じゃなかったら、この人には出会えなかったかもしれない)

 あごを上げ、自身を抱き込む紫曄を見上げる。
 雲蛍州は月魄国の端。薬草の産地というだけの、特に旨みのない元小国の地だ。凛花を月妃に選び、しかも寵姫ちょうきに推すなどは考えない。
 神託――すべて月の女神の思し召しだ。虎化も、後宮入りも、何もかもが月の女神によって導かれたもの。

「……ぬぅ」

 凛花はくるりと寝返りをうち、紫曄の胸に額を押し付ける。

(まだ神託が下される前。虎化する体をなんとか変えたいと思って、一族のことを調べた)

 虞家には昔も人虎がいたことを知り、虎化は代々受け継がれる病か、呪術じゅじゅつたぐいかもしれないと思った。病なら薬を、のろいなら解呪をと願い、手掛かりを求めて月華宮に来たけど――

(私の中の虎を抑えるどころか、後宮に入る前よりも少し大きな虎に変化するようになっちゃった。今なんて一日の半分は虎だし、これがのろいだとしたら、どれだけ強力なのか……)

 だけど、強力で当然なのかもしれない。
 凛花はとばりの隙間から差し込む月明かりを横目で見つめる。虎に変化するには、月の光を浴び願うのが条件だ。

(そんなの、病や人の手による呪術じゅじゅつであるはずがないじゃない)

 雲蛍州、月魄国の月華宮、琥国。
 それから小花園と小花園の隠し庭。琥国の秘庭ひていもだ。
 人虎の姿が見え隠れする場所にはどこも、必ず月の女神の影がある。

(神託は、月の女神の思し召しか)

 虎化が月の女神に授けられた力だとしたら、それは『祝福』か、それとも科された『のろい』か――


 ◆


 さらり、さらり。
 頭を撫でられる心地よさに、ついっとあごを上げ喉を鳴らし……たつもりになったところで、凛花はのろのろと目を開けた。
 視界に入ったのは長い銀の髪。半端に起こした上半身を支える前足は、ふわふわの白い手ではなく整えられた指先で、ああ、人に戻っていたのか。寝起きの頭がやっとそう理解した。

「よく寝ていたな、凛花」
「……紫曄。おはようございます」

 ぼんやりしたまま答え、ぶるると背伸びをして目を擦る。臥室しんしつ内は優しい明るさだが少々眩しい。最近、虎化している時間が長いせいか、人の姿でいる時にも虎の影響が強く出ている気がする。
 それに昨晩は、つらつらと考え事をしてしまったので寝不足気味だ。
 凛花があくびを噛み殺し、目をしょぼしょぼさせていると、頭の上から「ふっ」と小さな笑みが落ち、凛花の肩に上衣うわぎがかけられた。

「随分と愛らしい姿だが、そのままでは風邪をひくぞ? よければ温めるが?」

 隣に腰掛け、腕を広げる紫曄はくすくす笑う。
 凛花は今、素っ裸。虎の姿で寝衣は着られないので、人の姿に戻った朝はいつもこう。
 けれど今日の凛花はひどく寝ぼけていた。ぼんやり顔で目を細めると、誘われるままのそりと紫曄の膝の上におさまった。人に戻ったと理解したはずなのに、まだ虎の姿でいる気になってしまっていた。

「……お?」
「確かに寒いです。温めて……」

 凛花はうとうとしながら紫曄の胸にしなだれかかる。肩にかけられた上衣うわぎがずれて素肌が覗く。凛花の銀髪が短かったなら、背中から尻までが丸見えになっていただろう。

「んん……」

 凛花はむずかりいつものように頬をすり寄せる。

(寒い。眩しい。どうして紫曄は、温めてやろうと言ったくせに抱きしめてくれないのか。それにこの衣。肌触りが気に入らない。なぜいつものすべすべした寝衣ではないのか…………)

 と、そこまで思ったところで、凛花は目を瞬いた。ゆっくり顔を上げると、困ったような嬉しそうな顔で紫曄が見つめていた。

「わ……きゃっ」

 やっと覚醒した凛花は瞬時に頬を赤くして、しがみついていた胸から手を離す。だが勢いがつきすぎて、凛花は紫曄の膝から落ち、ころんと仰向けに転がってしまった。

「はは、これはいい眺めだな? なるほど。温めようか? 凛花」

 凛花の広がった髪をよけ、紫曄はしんだいに手をつき覆い被さるようにして囁く。
 見下ろす紫曄の瞳には、触れたい、温めたい、じっくり愛でたい。そんな欲が滲んでいるようだ。

「……着替えます……寝ぼけました」

 凛花は赤く染めた顔を両手で隠し、小さな声で言う。裸体ではなく顔を隠すほうを選ぶくらいに恥ずかしかった。頬どころか耳や首まで真っ赤になっているだろう。

「まだ虎猫でいてくれてもいいぞ?」

 紫曄は顔を覆った手に唇を落とし、虎猫にするように髪を撫でた。


 しばらくして、兎杜が朝餉あさげを持ち訪れると、少々衣装を乱した紫曄が顔を出す。

「主上!? なんでそんなことになってるんですか!」

 しんだいで寝転ぶ凛花にも、兎杜が怒るそんな声が聞こえていた。


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