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虎猫姫は冷徹皇帝と白銀に誓う
虎猫姫は冷徹皇帝と白銀に誓う-1
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序章
淡い色の月が浮かぶ夜。麗麗は自室の窓際で、土撥鼠を抱きかかえ夜空を見上げていた。
凛花は今、紫曄と共に輝月宮にいるらしい。あの夜、朔月宮から突然姿を消した凛花は紫曄に保護され、なぜかそのまま輝月宮に留まる選択をしたようなのだ。
そして麗麗は、凛花が失踪して以来ずっと、『凛花は朔月宮で伏せっている』と装い続けていた。
凛花がなぜ朔月宮から姿を消したのか、なぜ朔月宮へ戻れないのか。麗麗はその理由を知らされていない。だからつい、不安になってしまう。
「凛花さまはお元気だろうか……」
麗麗は懐に抱いた土撥鼠に頬をうずめ呟いた。
きっと健やかである。何か事情があって朔月宮へ戻れないだけだ。そう思っても心配なものは心配で、こうして毎夜のように、この毛玉相手に不安を零していた。
「ピュイ」
小さく鳴き、麗麗を見上げる瞳は丸い。黒く純真な眼差しに、麗麗はふっと笑みを零す。
この土撥鼠は、凛花を通じ黄老師から世話を託されたもの。名前はまだない。凛花が発見した『満薬草』を混ぜ込んだ傷薬を使った被検体だ。
既存の薬に満薬草を混ぜ込むと、その効果は他になく高いものになるという。月官衛士時代、凛花の作る傷薬に助けられた麗麗にとっても興味のある薬草だ。
「ピュイ、キュイッ」
「ふふ。お前もすっかり傷が癒えたね。早く凛花さまにお見せしたいな」
麗麗はじゃれつく土撥鼠を撫で、笑う。
「凛花さまは……ここへお戻りになるのだろうか」
ぽつり、そんな言葉が漏れ落ちた。
――今、後宮ならびに朝廷では、琥国の琥珀王女が望月妃に決まったのではないか。そんな噂が流れている。
紫曄は王女が現れてから、彼女が滞在する佳月宮に行くことはあっても、朔月宮を訪ねることはなくなった。それは王女と凛花の身分差、後ろ盾の強さが影響してのことだ。
さらに凛花が姿を見せなくなり、風向きは一気に王女へと傾いた。
『朔月妃は主上の寵愛を失ったのだろう』
『あれほど〝猫〟と愛玩されていたのだ。意気消沈しても仕方がない』
凛花の居場所を知らない者たちはそう囁く。
これは元々、王女を望月妃にと望む声が少なくなかったからでもある。
琥国は、月の女神を崇める国々の中で最も古く、月の加護が厚い国として他国からも敬われている。長い間ほぼ鎖国状態であることも、その神秘性を高め、別格と一目置かれる一因だ。
そんな琥国から皇后・望月妃を迎えることは、月の加護を得るようで誇らしく喜ばしい。しかもそれが王太子という、琥国の中でも最も尊い地位を持つ姫ならば断る理由がない。そういう理屈だ。
元月官衛士の麗麗としても、その理屈と感覚は分かる。月の女神の信徒としてすり込まれてきた常識だ。
三年の月日にも負けず、神託を重んじて凛花を後宮に迎えたこの国が、琥国の王女を望む流れは止められない。
(でも、凛花さまだって月の女神から神託を授かった方。それに、凛花さまは今も主上に愛され、輝月宮に留められているというのに)
悔しい。できることなら、凛花は伏せってなどいないし、寵愛を失ってもいない! と言ってやりたい。それが麗麗の本音だ。
だが、それはできない。
(主上は、私に「頼む」と言ってくださった)
命令すればいいのに、麗麗を信頼し、凛花を守る同志として認め、文を託してくれた。この任務は絶対に果たしたい。
(凛花さまを支えるために侍女になったのだ。凛花さまを隠す理由が分からなくとも、信じてくれたお二人に報いたい。だけど……)
麗麗は窓を開け、輝月宮があるほうを見つめる。
(凛花さまからの文や伝言がないのはなぜなのか)
それが気掛かりで、どうしても不安を拭えない。
(文を書けるような状況でない? でも兎杜は、主上はお元気そうだと言っていた。あの主上が上機嫌ならば、凛花さまが悪い状況だとは考えにくい)
もうしばらくの辛抱だ。もう少しの間、この朔月宮に凛花がいるように振る舞えば、きっと状況はいい方向に変わる。凛花と紫曄の二人が変えてくれる。麗麗はそう思う。
(でも、待つ以外にも何かできることがあればいいのに……)
はぁ、と溜息を吐き項垂れる。
と、麗麗の頬を冷たい風が撫でた。
季節はそろそろ晩秋。冬が近づくこの頃の夜は、温暖な皇都天満でも冷える。
「風邪をひいては大変だ。そろそろ寝ようか、毛玉」
土撥鼠にそう声をかけ窓に手を伸ばす。その時、ひらりと小さな白いものが、麗麗の指先をかすめた。
「ピュイッ」
土撥鼠が手を伸ばしそれを掴み取る。蛾か? それとも花?
「はは、器用だね。お前」
「キュ」
掴んだものをフンフン嗅ぐ土撥鼠を撫で、麗麗はその手元を覗き込んだ。もし蛾だったなら、食べてしまわないうちに逃がさなければ。そう思い土撥鼠の手を開くと、出てきたのは小さな白い花だった。
淡い月に照らされたその花弁は、凛花の銀の髪色にも似て見える。
「どこから飛んできた……?」
麗麗は窓から身を乗り出し周囲を見回す。だが、辺りに白い花は見当たらない。小花園でも見たことがないし、これは何の花だろう?
「……ん、涼やかでいい香りがする」
萎れているせいか、かすかにしか香らないが特徴のある香りだ。とはいえ、やはりこの香りにも覚えはないが。
「ピュイ」
ちょうだい、ちょうだい、と手を伸ばす土撥鼠に花を返してやる。
ああ。温かく愛らしい土撥鼠と、思いがけない涼やかな香りに癒やされた。
麗麗は、微笑み窓を閉じた。
第一章 虎猫姫は飼い慣らしたい
今夜は少し雲が多いのか、月は淡い色だ。
(どうせなら月をすっかり覆って隠してくれればいいのに)
凛花は「くぅ」と溜息まじりの声を漏らし、自身を抱き枕にする紫曄の腕に、ぽすんと顎を乗せた。
丸い耳とふわふわの白い毛皮。柔らかな肉球の手。紫曄を癒やす抱き枕としては大正解だが、凛花の呼び名は朔月妃や薬草姫であって、虎猫姫ではないのに。
そんな不満が、つい喉からこぼれ落ちてしまう。
今の凛花は自分の意思と無関係に、月が出る夜になると虎化してしまう。そのせいで、凛花はずっとここ――皇帝である紫曄の宮、輝月宮に籠もっている。
(それでも少し前までは、昼も虎化してしまって一日中この姿だったんだもの。今は夜の間だけ……)
こうなってしまった原因は、月祭に合わせて訪問してきた琥国の王太子――琥珀王女にある。彼女は凛花と同じ人虎で、その赤みがかった髪色通りの金虎だ。
『琥珀』というのは代々の金虎に付けられる号で、彼女自身の名は月夜という。
琥国は人虎を尊ぶ国。特に白虎は別格で、次に金虎、例外とされるのが黒虎。王女月夜の兄にあたる、琥珀――琥国では闇夜という名で呼ばれる彼がそうだ。
王女も琥珀も、琥国で潰えた白虎を得るために月魄国へやって来た。月華宮にいる白虎は、凛花だけではないという秘密と共に。
琥国の琥王家、月魄国の胡皇家、雲蛍州の虞家。この三家は元々同族だった。
琥国の琥家から分かれた一団が月魄国を興し、さらにそこから分かれた者が旧雲蛍国を作った。その旧雲蛍国を興したのが、白虎を受け継ぐ虞家だ。
今は人虎のことなどすっかり忘れてしまった胡家だが、かつての胡家には人虎がいただろうし、白虎の皇帝や妃だっていて当然。
そう。王女の目的は、紫曄が持つ血だ。薄くなったとはいえ紫曄にも白虎の血が流れている。だから金虎である自分こそが、紫曄と番い白虎を産み、琥国へ連れ帰るのだと。白虎の子でなくとも、確実にその血を持つ子を得るのだ。そう考え王女は自らの意思で、白虎を身籠もるため後宮に入り込んだ。
そして琥珀もまた、琥王より『神託の白虎姫を手に入れろ』と密命を受けていた。
(だけど、まさか琥国やあの二人が、あんなに白虎を特別視しているとは思わなかった)
迂闊だったと、凛花は王女と二人、虎の姿で小花園を散歩した夜を思い出す。
凛花は『虎化しない体になりたい』と願っていた。国一番の知識が集まる月華宮の大書庫になら、きっと何か手掛かりがあるはず。そう思い、『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』の神託に従い後宮へ入った。
だが、そのことが王女の不興を買ってしまった。
王女にとって白虎は、望んでも容易には手に入らないもの。凛花の願いは、白虎を消したい、不必要だと粗末に扱っているように思えたのだろう。
凛花は、王女に特別な銀桂花酒を飲まされ……虎化したまま人の姿に戻れなくなってしまった。それは『虎の秘酒』という、人虎の能力を一時的に高める効果があり、さらに『長く変化していられる薬』を混ぜたものだったのだ。
(でも、月が出ていない昼間は人の姿に戻れるようになったのも、月夜殿下がくれた『解毒の茶』のおかげ)
『解毒の茶』は、凛花が毒に倒れた王女を救った礼としてもらったが、あれ以来、王女と和解できた気がする。それに、王女と琥珀の間もだ。
兄妹でありながら対極の立場に置かれていた二人は、凛花の存在を挟むことで、初めて兄妹として成り立ったように見える。
(月夜殿下は悪い人ではない。そもそも、こんなに長く人に戻れなくしてやろうなんて強い悪意もなかった。ほんの意地悪のつもりで『長く変化していられる薬』を使っただけ。なんで私だけこんなことになってるのか……)
王女は『長く変化していられる薬』を自分も飲んだが、凛花のようにはならなかったという。
「んー……ぷぅ」
また不満げな声が漏れてしまった。
俯いた凛花は、丸く白い手をはむはむ毛繕いする。虎化しているといっても意識は人のもの。毛繕いに抵抗がある凛花だが、今のこれは無意識だ。猫は落ち着くために毛繕いをするらしい。
(そういえば……月祭で銀桂花酒を飲んだ時、紫曄は酔っ払って寝ちゃったっけ)
『虎の秘酒』は人虎の能力を高める効果があるものの、銀桂花酒の一種だ。
ただの銀桂花酒でも、人虎の血が薄い紫曄には、猫にとってのまたたびのような反応が出たのかもしれない。
紫曄が虎の秘酒を飲まされた時には、全身が脱力してしまい動けなかったと聞く。王女の狙いは、紫曄の内に眠る虎の本能を刺激することだった。
同族の匂いに惹かれ、媚薬効果が出る予定が紫曄には強すぎた。効きすぎてくれて助かったが。
――白虎は人虎の頂点。
月の加護を一番多く得ている存在とも言い換えられる。
月の加護を多く得ると月の影響を強く受けるが、抵抗力も強くなるのではないか? そう考えるとすべての辻褄が合う。
銀桂花酒は、凛花にとってはただの美味しい酒だが、紫曄にとっては『虎の秘酒』に似た効果をもたらす酒。紫曄は白虎の血を持っているが只人で、人虎としての月の加護は少ない。抵抗力が弱いから、銀桂花酒がよく効いたと考えられる。
だから人虎には、『虎の秘酒』という特別な銀桂花酒があるのかもしれない。銀桂花酒では足りないから。
王女も言っていたが、銀桂花酒や虎の秘酒の効果には個人差があるようだ。きっと、凛花が飲んでいる解毒の茶も同じ。
(毎日飲み続ければ、ある日突然、元に戻るかもしれない。願わずとも虎に変化してしまうことのない、自らの意思で制御できる体に……)
けれども問題はそれだけじゃない。
凛花は朔月妃だ。そして自身を抱きしめ眠る紫曄の寵姫。月華後宮の月妃なのだ。
『琥珀の月が白銀の背に迫る 古き杯を掲げ、月と銀桂花の結実を成せ』
王女が来た月祭の夜に下った神託だ。この神託は、解釈が定まらないことと、皇帝に関する神託であることを理由に秘された。
しかし月華宮では現在、その解釈のうちの一つが正しいと噂されている。
『琥珀王女が朔月妃・凛花に取り代わる。朔月妃・凛花は先代皇帝の妃にすべきだった。琥珀王女が皇后となり跡継ぎを産むべき』
要約するとそんな内容の噂だ。
凛花にとっては不利な噂が流れる中、希望的観測をあてにして輝月宮に隠れ続けるのはよくない。
ただの月妃なら、紫曄の腕に守られている現状でも構わないだろう。だが、紫曄は凛花を望月妃にすると言った。なってほしい、お前しか隣には欲しくないと言った。
(私だって……紫曄の一番として、望月妃になりたい)
ならば隠れ続け、守られるだけではいけない。
王女は凛花に恩を感じ、今は行動を控えているが……
(ずっと遠慮してくれるはずがない。月夜殿下にも立場や責任があるもの)
琥国は、王女は、紫曄は、あの神託を信じる月華宮の者たちは、いつまで待てるのだろう。少なくとも凛花が引き籠もったままでは、神託の後押しを受けた王女が望月妃に、せめて正式な佳月妃になるだろう。
(紫曄にも立場と責任がある)
いつまでも望月妃を決めず、跡継ぎをもうけずにいることは許されない。
(それに……私が跡継ぎとなる子を産むなら、やっぱり雲蛍州に行かなくちゃ)
雲蛍州には、人に戻れなくなった人虎の伝承と一緒に、『薬箋』が伝わっている。父からの文にはそうあった。
その薬箋がどんなものかは分からないが、凛花の現状を伝え、改善する方法はないかとの問い合わせに対する返信だ。『解毒の茶』よりも強い効果を得られる望みがある。
凛花は拳を握る要領で、思わず丸い手にぎゅっと力をこめた。
「……ッ、ん……」
頭の上から紫曄の小さな声が聞こえ、凛花はハッとし手を開く。
「にゃ」
自身を抱き込む紫曄の腕に爪を立ててしまった。人と違う爪の仕組みは、たまにこんな失敗に繋がる。虎化している時は、出し入れできる爪が当たり前すぎて、意識することを忘れがちなのだ。虎猫と呼ばれる小ささの凛花でも、この爪が人にとって凶器になることをうっかり失念してしまう。
(虎になっている時、私は人なのか、虎なのか……)
凛花はあらためて虎化について考える。
初めて虎化したのは幼い頃。凛花は今も、その時のことを覚えている。
両親は驚き、戸惑いつつも凛花を守ろうとした。だがそこに恐怖の感情が混じっていることを、凛花は気が付いていた。虎化した凛花の優れた嗅覚は、両親が発する極度の緊張を匂いとして感じたのだ。
この経験が、凛花が虎化する自身を受け入れきれない理由のひとつだ。
(理不尽よね……誰が望んだわけでもない力だもの)
虎化は血が受け継いできたもの。
凛花が願ったわけでも、両親が願ったわけでもない。
けれど凛花の中に、虎となり夜を駆けることを、楽しいと感じる部分があるのも事実だ。
虎の目だから見える暗がり。丸い耳に届く虫や鳥、夜の音。それはどれも美しくて意外と賑やかで、凛花はつい、天上の月に変化を願ってしまう。
(どうして月は願いを聞き入れ、私を虎に変えるのだろう)
よく考えなくても、人が虎に変わるなど尋常のことではない。牙や爪が生え、骨格が変わり違う生き物になるのだから。
(これは体質なんて、人の理で括れるものではない気がする)
凛花はせっせ、せっせと白い毛に覆われた手を舐め、ぐしぐしと顔を洗う。
(でも、私が白虎じゃなかったら、この人には出会えなかったかもしれない)
顎を上げ、自身を抱き込む紫曄を見上げる。
雲蛍州は月魄国の端。薬草の産地というだけの、特に旨みのない元小国の地だ。凛花を月妃に選び、しかも寵姫に推すなど人は考えない。
神託――すべて月の女神の思し召しだ。虎化も、後宮入りも、何もかもが月の女神によって導かれたもの。
「……ぬぅ」
凛花はくるりと寝返りをうち、紫曄の胸に額を押し付ける。
(まだ神託が下される前。虎化する体をなんとか変えたいと思って、一族のことを調べた)
虞家には昔も人虎がいたことを知り、虎化は代々受け継がれる病か、呪術の類いかもしれないと思った。病なら薬を、呪いなら解呪をと願い、手掛かりを求めて月華宮に来たけど――
(私の中の虎を抑えるどころか、後宮に入る前よりも少し大きな虎に変化するようになっちゃった。今なんて一日の半分は虎だし、これが呪いだとしたら、どれだけ強力なのか……)
だけど、強力で当然なのかもしれない。
凛花は帳の隙間から差し込む月明かりを横目で見つめる。虎に変化するには、月の光を浴び願うのが条件だ。
(そんなの、病や人の手による呪術であるはずがないじゃない)
雲蛍州、月魄国の月華宮、琥国。
それから小花園と小花園の隠し庭。琥国の秘庭もだ。
人虎の姿が見え隠れする場所にはどこも、必ず月の女神の影がある。
(神託は、月の女神の思し召しか)
虎化が月の女神に授けられた力だとしたら、それは『祝福』か、それとも科された『呪い』か――
◆
さらり、さらり。
頭を撫でられる心地よさに、ついっと顎を上げ喉を鳴らし……たつもりになったところで、凛花はのろのろと目を開けた。
視界に入ったのは長い銀の髪。半端に起こした上半身を支える前足は、ふわふわの白い手ではなく整えられた指先で、ああ、人に戻っていたのか。寝起きの頭がやっとそう理解した。
「よく寝ていたな、凛花」
「……紫曄。おはようございます」
ぼんやりしたまま答え、ぶるると背伸びをして目を擦る。臥室内は優しい明るさだが少々眩しい。最近、虎化している時間が長いせいか、人の姿でいる時にも虎の影響が強く出ている気がする。
それに昨晩は、つらつらと考え事をしてしまったので寝不足気味だ。
凛花があくびを噛み殺し、目をしょぼしょぼさせていると、頭の上から「ふっ」と小さな笑みが落ち、凛花の肩に上衣がかけられた。
「随分と愛らしい姿だが、そのままでは風邪をひくぞ? よければ温めるが?」
隣に腰掛け、腕を広げる紫曄はくすくす笑う。
凛花は今、素っ裸。虎の姿で寝衣は着られないので、人の姿に戻った朝はいつもこう。
けれど今日の凛花はひどく寝ぼけていた。ぼんやり顔で目を細めると、誘われるままのそりと紫曄の膝の上におさまった。人に戻ったと理解したはずなのに、まだ虎の姿でいる気になってしまっていた。
「……お?」
「確かに寒いです。温めて……」
凛花はうとうとしながら紫曄の胸にしなだれかかる。肩にかけられた上衣がずれて素肌が覗く。凛花の銀髪が短かったなら、背中から尻までが丸見えになっていただろう。
「んん……」
凛花はむずかりいつものように頬をすり寄せる。
(寒い。眩しい。どうして紫曄は、温めてやろうと言ったくせに抱きしめてくれないのか。それにこの衣。肌触りが気に入らない。なぜいつものすべすべした寝衣ではないのか…………)
と、そこまで思ったところで、凛花は目を瞬いた。ゆっくり顔を上げると、困ったような嬉しそうな顔で紫曄が見つめていた。
「わ……きゃっ」
やっと覚醒した凛花は瞬時に頬を赤くして、しがみついていた胸から手を離す。だが勢いがつきすぎて、凛花は紫曄の膝から落ち、ころんと仰向けに転がってしまった。
「はは、これはいい眺めだな? なるほど。温めようか? 凛花」
凛花の広がった髪をよけ、紫曄は牀に手をつき覆い被さるようにして囁く。
見下ろす紫曄の瞳には、触れたい、温めたい、じっくり愛でたい。そんな欲が滲んでいるようだ。
「……着替えます……寝ぼけました」
凛花は赤く染めた顔を両手で隠し、小さな声で言う。裸体ではなく顔を隠すほうを選ぶくらいに恥ずかしかった。頬どころか耳や首まで真っ赤になっているだろう。
「まだ虎猫でいてくれてもいいぞ?」
紫曄は顔を覆った手に唇を落とし、虎猫にするように髪を撫でた。
しばらくして、兎杜が朝餉を持ち訪れると、少々衣装を乱した紫曄が顔を出す。
「主上!? なんでそんなことになってるんですか!」
牀で寝転ぶ凛花にも、兎杜が怒るそんな声が聞こえていた。
淡い色の月が浮かぶ夜。麗麗は自室の窓際で、土撥鼠を抱きかかえ夜空を見上げていた。
凛花は今、紫曄と共に輝月宮にいるらしい。あの夜、朔月宮から突然姿を消した凛花は紫曄に保護され、なぜかそのまま輝月宮に留まる選択をしたようなのだ。
そして麗麗は、凛花が失踪して以来ずっと、『凛花は朔月宮で伏せっている』と装い続けていた。
凛花がなぜ朔月宮から姿を消したのか、なぜ朔月宮へ戻れないのか。麗麗はその理由を知らされていない。だからつい、不安になってしまう。
「凛花さまはお元気だろうか……」
麗麗は懐に抱いた土撥鼠に頬をうずめ呟いた。
きっと健やかである。何か事情があって朔月宮へ戻れないだけだ。そう思っても心配なものは心配で、こうして毎夜のように、この毛玉相手に不安を零していた。
「ピュイ」
小さく鳴き、麗麗を見上げる瞳は丸い。黒く純真な眼差しに、麗麗はふっと笑みを零す。
この土撥鼠は、凛花を通じ黄老師から世話を託されたもの。名前はまだない。凛花が発見した『満薬草』を混ぜ込んだ傷薬を使った被検体だ。
既存の薬に満薬草を混ぜ込むと、その効果は他になく高いものになるという。月官衛士時代、凛花の作る傷薬に助けられた麗麗にとっても興味のある薬草だ。
「ピュイ、キュイッ」
「ふふ。お前もすっかり傷が癒えたね。早く凛花さまにお見せしたいな」
麗麗はじゃれつく土撥鼠を撫で、笑う。
「凛花さまは……ここへお戻りになるのだろうか」
ぽつり、そんな言葉が漏れ落ちた。
――今、後宮ならびに朝廷では、琥国の琥珀王女が望月妃に決まったのではないか。そんな噂が流れている。
紫曄は王女が現れてから、彼女が滞在する佳月宮に行くことはあっても、朔月宮を訪ねることはなくなった。それは王女と凛花の身分差、後ろ盾の強さが影響してのことだ。
さらに凛花が姿を見せなくなり、風向きは一気に王女へと傾いた。
『朔月妃は主上の寵愛を失ったのだろう』
『あれほど〝猫〟と愛玩されていたのだ。意気消沈しても仕方がない』
凛花の居場所を知らない者たちはそう囁く。
これは元々、王女を望月妃にと望む声が少なくなかったからでもある。
琥国は、月の女神を崇める国々の中で最も古く、月の加護が厚い国として他国からも敬われている。長い間ほぼ鎖国状態であることも、その神秘性を高め、別格と一目置かれる一因だ。
そんな琥国から皇后・望月妃を迎えることは、月の加護を得るようで誇らしく喜ばしい。しかもそれが王太子という、琥国の中でも最も尊い地位を持つ姫ならば断る理由がない。そういう理屈だ。
元月官衛士の麗麗としても、その理屈と感覚は分かる。月の女神の信徒としてすり込まれてきた常識だ。
三年の月日にも負けず、神託を重んじて凛花を後宮に迎えたこの国が、琥国の王女を望む流れは止められない。
(でも、凛花さまだって月の女神から神託を授かった方。それに、凛花さまは今も主上に愛され、輝月宮に留められているというのに)
悔しい。できることなら、凛花は伏せってなどいないし、寵愛を失ってもいない! と言ってやりたい。それが麗麗の本音だ。
だが、それはできない。
(主上は、私に「頼む」と言ってくださった)
命令すればいいのに、麗麗を信頼し、凛花を守る同志として認め、文を託してくれた。この任務は絶対に果たしたい。
(凛花さまを支えるために侍女になったのだ。凛花さまを隠す理由が分からなくとも、信じてくれたお二人に報いたい。だけど……)
麗麗は窓を開け、輝月宮があるほうを見つめる。
(凛花さまからの文や伝言がないのはなぜなのか)
それが気掛かりで、どうしても不安を拭えない。
(文を書けるような状況でない? でも兎杜は、主上はお元気そうだと言っていた。あの主上が上機嫌ならば、凛花さまが悪い状況だとは考えにくい)
もうしばらくの辛抱だ。もう少しの間、この朔月宮に凛花がいるように振る舞えば、きっと状況はいい方向に変わる。凛花と紫曄の二人が変えてくれる。麗麗はそう思う。
(でも、待つ以外にも何かできることがあればいいのに……)
はぁ、と溜息を吐き項垂れる。
と、麗麗の頬を冷たい風が撫でた。
季節はそろそろ晩秋。冬が近づくこの頃の夜は、温暖な皇都天満でも冷える。
「風邪をひいては大変だ。そろそろ寝ようか、毛玉」
土撥鼠にそう声をかけ窓に手を伸ばす。その時、ひらりと小さな白いものが、麗麗の指先をかすめた。
「ピュイッ」
土撥鼠が手を伸ばしそれを掴み取る。蛾か? それとも花?
「はは、器用だね。お前」
「キュ」
掴んだものをフンフン嗅ぐ土撥鼠を撫で、麗麗はその手元を覗き込んだ。もし蛾だったなら、食べてしまわないうちに逃がさなければ。そう思い土撥鼠の手を開くと、出てきたのは小さな白い花だった。
淡い月に照らされたその花弁は、凛花の銀の髪色にも似て見える。
「どこから飛んできた……?」
麗麗は窓から身を乗り出し周囲を見回す。だが、辺りに白い花は見当たらない。小花園でも見たことがないし、これは何の花だろう?
「……ん、涼やかでいい香りがする」
萎れているせいか、かすかにしか香らないが特徴のある香りだ。とはいえ、やはりこの香りにも覚えはないが。
「ピュイ」
ちょうだい、ちょうだい、と手を伸ばす土撥鼠に花を返してやる。
ああ。温かく愛らしい土撥鼠と、思いがけない涼やかな香りに癒やされた。
麗麗は、微笑み窓を閉じた。
第一章 虎猫姫は飼い慣らしたい
今夜は少し雲が多いのか、月は淡い色だ。
(どうせなら月をすっかり覆って隠してくれればいいのに)
凛花は「くぅ」と溜息まじりの声を漏らし、自身を抱き枕にする紫曄の腕に、ぽすんと顎を乗せた。
丸い耳とふわふわの白い毛皮。柔らかな肉球の手。紫曄を癒やす抱き枕としては大正解だが、凛花の呼び名は朔月妃や薬草姫であって、虎猫姫ではないのに。
そんな不満が、つい喉からこぼれ落ちてしまう。
今の凛花は自分の意思と無関係に、月が出る夜になると虎化してしまう。そのせいで、凛花はずっとここ――皇帝である紫曄の宮、輝月宮に籠もっている。
(それでも少し前までは、昼も虎化してしまって一日中この姿だったんだもの。今は夜の間だけ……)
こうなってしまった原因は、月祭に合わせて訪問してきた琥国の王太子――琥珀王女にある。彼女は凛花と同じ人虎で、その赤みがかった髪色通りの金虎だ。
『琥珀』というのは代々の金虎に付けられる号で、彼女自身の名は月夜という。
琥国は人虎を尊ぶ国。特に白虎は別格で、次に金虎、例外とされるのが黒虎。王女月夜の兄にあたる、琥珀――琥国では闇夜という名で呼ばれる彼がそうだ。
王女も琥珀も、琥国で潰えた白虎を得るために月魄国へやって来た。月華宮にいる白虎は、凛花だけではないという秘密と共に。
琥国の琥王家、月魄国の胡皇家、雲蛍州の虞家。この三家は元々同族だった。
琥国の琥家から分かれた一団が月魄国を興し、さらにそこから分かれた者が旧雲蛍国を作った。その旧雲蛍国を興したのが、白虎を受け継ぐ虞家だ。
今は人虎のことなどすっかり忘れてしまった胡家だが、かつての胡家には人虎がいただろうし、白虎の皇帝や妃だっていて当然。
そう。王女の目的は、紫曄が持つ血だ。薄くなったとはいえ紫曄にも白虎の血が流れている。だから金虎である自分こそが、紫曄と番い白虎を産み、琥国へ連れ帰るのだと。白虎の子でなくとも、確実にその血を持つ子を得るのだ。そう考え王女は自らの意思で、白虎を身籠もるため後宮に入り込んだ。
そして琥珀もまた、琥王より『神託の白虎姫を手に入れろ』と密命を受けていた。
(だけど、まさか琥国やあの二人が、あんなに白虎を特別視しているとは思わなかった)
迂闊だったと、凛花は王女と二人、虎の姿で小花園を散歩した夜を思い出す。
凛花は『虎化しない体になりたい』と願っていた。国一番の知識が集まる月華宮の大書庫になら、きっと何か手掛かりがあるはず。そう思い、『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』の神託に従い後宮へ入った。
だが、そのことが王女の不興を買ってしまった。
王女にとって白虎は、望んでも容易には手に入らないもの。凛花の願いは、白虎を消したい、不必要だと粗末に扱っているように思えたのだろう。
凛花は、王女に特別な銀桂花酒を飲まされ……虎化したまま人の姿に戻れなくなってしまった。それは『虎の秘酒』という、人虎の能力を一時的に高める効果があり、さらに『長く変化していられる薬』を混ぜたものだったのだ。
(でも、月が出ていない昼間は人の姿に戻れるようになったのも、月夜殿下がくれた『解毒の茶』のおかげ)
『解毒の茶』は、凛花が毒に倒れた王女を救った礼としてもらったが、あれ以来、王女と和解できた気がする。それに、王女と琥珀の間もだ。
兄妹でありながら対極の立場に置かれていた二人は、凛花の存在を挟むことで、初めて兄妹として成り立ったように見える。
(月夜殿下は悪い人ではない。そもそも、こんなに長く人に戻れなくしてやろうなんて強い悪意もなかった。ほんの意地悪のつもりで『長く変化していられる薬』を使っただけ。なんで私だけこんなことになってるのか……)
王女は『長く変化していられる薬』を自分も飲んだが、凛花のようにはならなかったという。
「んー……ぷぅ」
また不満げな声が漏れてしまった。
俯いた凛花は、丸く白い手をはむはむ毛繕いする。虎化しているといっても意識は人のもの。毛繕いに抵抗がある凛花だが、今のこれは無意識だ。猫は落ち着くために毛繕いをするらしい。
(そういえば……月祭で銀桂花酒を飲んだ時、紫曄は酔っ払って寝ちゃったっけ)
『虎の秘酒』は人虎の能力を高める効果があるものの、銀桂花酒の一種だ。
ただの銀桂花酒でも、人虎の血が薄い紫曄には、猫にとってのまたたびのような反応が出たのかもしれない。
紫曄が虎の秘酒を飲まされた時には、全身が脱力してしまい動けなかったと聞く。王女の狙いは、紫曄の内に眠る虎の本能を刺激することだった。
同族の匂いに惹かれ、媚薬効果が出る予定が紫曄には強すぎた。効きすぎてくれて助かったが。
――白虎は人虎の頂点。
月の加護を一番多く得ている存在とも言い換えられる。
月の加護を多く得ると月の影響を強く受けるが、抵抗力も強くなるのではないか? そう考えるとすべての辻褄が合う。
銀桂花酒は、凛花にとってはただの美味しい酒だが、紫曄にとっては『虎の秘酒』に似た効果をもたらす酒。紫曄は白虎の血を持っているが只人で、人虎としての月の加護は少ない。抵抗力が弱いから、銀桂花酒がよく効いたと考えられる。
だから人虎には、『虎の秘酒』という特別な銀桂花酒があるのかもしれない。銀桂花酒では足りないから。
王女も言っていたが、銀桂花酒や虎の秘酒の効果には個人差があるようだ。きっと、凛花が飲んでいる解毒の茶も同じ。
(毎日飲み続ければ、ある日突然、元に戻るかもしれない。願わずとも虎に変化してしまうことのない、自らの意思で制御できる体に……)
けれども問題はそれだけじゃない。
凛花は朔月妃だ。そして自身を抱きしめ眠る紫曄の寵姫。月華後宮の月妃なのだ。
『琥珀の月が白銀の背に迫る 古き杯を掲げ、月と銀桂花の結実を成せ』
王女が来た月祭の夜に下った神託だ。この神託は、解釈が定まらないことと、皇帝に関する神託であることを理由に秘された。
しかし月華宮では現在、その解釈のうちの一つが正しいと噂されている。
『琥珀王女が朔月妃・凛花に取り代わる。朔月妃・凛花は先代皇帝の妃にすべきだった。琥珀王女が皇后となり跡継ぎを産むべき』
要約するとそんな内容の噂だ。
凛花にとっては不利な噂が流れる中、希望的観測をあてにして輝月宮に隠れ続けるのはよくない。
ただの月妃なら、紫曄の腕に守られている現状でも構わないだろう。だが、紫曄は凛花を望月妃にすると言った。なってほしい、お前しか隣には欲しくないと言った。
(私だって……紫曄の一番として、望月妃になりたい)
ならば隠れ続け、守られるだけではいけない。
王女は凛花に恩を感じ、今は行動を控えているが……
(ずっと遠慮してくれるはずがない。月夜殿下にも立場や責任があるもの)
琥国は、王女は、紫曄は、あの神託を信じる月華宮の者たちは、いつまで待てるのだろう。少なくとも凛花が引き籠もったままでは、神託の後押しを受けた王女が望月妃に、せめて正式な佳月妃になるだろう。
(紫曄にも立場と責任がある)
いつまでも望月妃を決めず、跡継ぎをもうけずにいることは許されない。
(それに……私が跡継ぎとなる子を産むなら、やっぱり雲蛍州に行かなくちゃ)
雲蛍州には、人に戻れなくなった人虎の伝承と一緒に、『薬箋』が伝わっている。父からの文にはそうあった。
その薬箋がどんなものかは分からないが、凛花の現状を伝え、改善する方法はないかとの問い合わせに対する返信だ。『解毒の茶』よりも強い効果を得られる望みがある。
凛花は拳を握る要領で、思わず丸い手にぎゅっと力をこめた。
「……ッ、ん……」
頭の上から紫曄の小さな声が聞こえ、凛花はハッとし手を開く。
「にゃ」
自身を抱き込む紫曄の腕に爪を立ててしまった。人と違う爪の仕組みは、たまにこんな失敗に繋がる。虎化している時は、出し入れできる爪が当たり前すぎて、意識することを忘れがちなのだ。虎猫と呼ばれる小ささの凛花でも、この爪が人にとって凶器になることをうっかり失念してしまう。
(虎になっている時、私は人なのか、虎なのか……)
凛花はあらためて虎化について考える。
初めて虎化したのは幼い頃。凛花は今も、その時のことを覚えている。
両親は驚き、戸惑いつつも凛花を守ろうとした。だがそこに恐怖の感情が混じっていることを、凛花は気が付いていた。虎化した凛花の優れた嗅覚は、両親が発する極度の緊張を匂いとして感じたのだ。
この経験が、凛花が虎化する自身を受け入れきれない理由のひとつだ。
(理不尽よね……誰が望んだわけでもない力だもの)
虎化は血が受け継いできたもの。
凛花が願ったわけでも、両親が願ったわけでもない。
けれど凛花の中に、虎となり夜を駆けることを、楽しいと感じる部分があるのも事実だ。
虎の目だから見える暗がり。丸い耳に届く虫や鳥、夜の音。それはどれも美しくて意外と賑やかで、凛花はつい、天上の月に変化を願ってしまう。
(どうして月は願いを聞き入れ、私を虎に変えるのだろう)
よく考えなくても、人が虎に変わるなど尋常のことではない。牙や爪が生え、骨格が変わり違う生き物になるのだから。
(これは体質なんて、人の理で括れるものではない気がする)
凛花はせっせ、せっせと白い毛に覆われた手を舐め、ぐしぐしと顔を洗う。
(でも、私が白虎じゃなかったら、この人には出会えなかったかもしれない)
顎を上げ、自身を抱き込む紫曄を見上げる。
雲蛍州は月魄国の端。薬草の産地というだけの、特に旨みのない元小国の地だ。凛花を月妃に選び、しかも寵姫に推すなど人は考えない。
神託――すべて月の女神の思し召しだ。虎化も、後宮入りも、何もかもが月の女神によって導かれたもの。
「……ぬぅ」
凛花はくるりと寝返りをうち、紫曄の胸に額を押し付ける。
(まだ神託が下される前。虎化する体をなんとか変えたいと思って、一族のことを調べた)
虞家には昔も人虎がいたことを知り、虎化は代々受け継がれる病か、呪術の類いかもしれないと思った。病なら薬を、呪いなら解呪をと願い、手掛かりを求めて月華宮に来たけど――
(私の中の虎を抑えるどころか、後宮に入る前よりも少し大きな虎に変化するようになっちゃった。今なんて一日の半分は虎だし、これが呪いだとしたら、どれだけ強力なのか……)
だけど、強力で当然なのかもしれない。
凛花は帳の隙間から差し込む月明かりを横目で見つめる。虎に変化するには、月の光を浴び願うのが条件だ。
(そんなの、病や人の手による呪術であるはずがないじゃない)
雲蛍州、月魄国の月華宮、琥国。
それから小花園と小花園の隠し庭。琥国の秘庭もだ。
人虎の姿が見え隠れする場所にはどこも、必ず月の女神の影がある。
(神託は、月の女神の思し召しか)
虎化が月の女神に授けられた力だとしたら、それは『祝福』か、それとも科された『呪い』か――
◆
さらり、さらり。
頭を撫でられる心地よさに、ついっと顎を上げ喉を鳴らし……たつもりになったところで、凛花はのろのろと目を開けた。
視界に入ったのは長い銀の髪。半端に起こした上半身を支える前足は、ふわふわの白い手ではなく整えられた指先で、ああ、人に戻っていたのか。寝起きの頭がやっとそう理解した。
「よく寝ていたな、凛花」
「……紫曄。おはようございます」
ぼんやりしたまま答え、ぶるると背伸びをして目を擦る。臥室内は優しい明るさだが少々眩しい。最近、虎化している時間が長いせいか、人の姿でいる時にも虎の影響が強く出ている気がする。
それに昨晩は、つらつらと考え事をしてしまったので寝不足気味だ。
凛花があくびを噛み殺し、目をしょぼしょぼさせていると、頭の上から「ふっ」と小さな笑みが落ち、凛花の肩に上衣がかけられた。
「随分と愛らしい姿だが、そのままでは風邪をひくぞ? よければ温めるが?」
隣に腰掛け、腕を広げる紫曄はくすくす笑う。
凛花は今、素っ裸。虎の姿で寝衣は着られないので、人の姿に戻った朝はいつもこう。
けれど今日の凛花はひどく寝ぼけていた。ぼんやり顔で目を細めると、誘われるままのそりと紫曄の膝の上におさまった。人に戻ったと理解したはずなのに、まだ虎の姿でいる気になってしまっていた。
「……お?」
「確かに寒いです。温めて……」
凛花はうとうとしながら紫曄の胸にしなだれかかる。肩にかけられた上衣がずれて素肌が覗く。凛花の銀髪が短かったなら、背中から尻までが丸見えになっていただろう。
「んん……」
凛花はむずかりいつものように頬をすり寄せる。
(寒い。眩しい。どうして紫曄は、温めてやろうと言ったくせに抱きしめてくれないのか。それにこの衣。肌触りが気に入らない。なぜいつものすべすべした寝衣ではないのか…………)
と、そこまで思ったところで、凛花は目を瞬いた。ゆっくり顔を上げると、困ったような嬉しそうな顔で紫曄が見つめていた。
「わ……きゃっ」
やっと覚醒した凛花は瞬時に頬を赤くして、しがみついていた胸から手を離す。だが勢いがつきすぎて、凛花は紫曄の膝から落ち、ころんと仰向けに転がってしまった。
「はは、これはいい眺めだな? なるほど。温めようか? 凛花」
凛花の広がった髪をよけ、紫曄は牀に手をつき覆い被さるようにして囁く。
見下ろす紫曄の瞳には、触れたい、温めたい、じっくり愛でたい。そんな欲が滲んでいるようだ。
「……着替えます……寝ぼけました」
凛花は赤く染めた顔を両手で隠し、小さな声で言う。裸体ではなく顔を隠すほうを選ぶくらいに恥ずかしかった。頬どころか耳や首まで真っ赤になっているだろう。
「まだ虎猫でいてくれてもいいぞ?」
紫曄は顔を覆った手に唇を落とし、虎猫にするように髪を撫でた。
しばらくして、兎杜が朝餉を持ち訪れると、少々衣装を乱した紫曄が顔を出す。
「主上!? なんでそんなことになってるんですか!」
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