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虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う
虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う-2
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戻った朱歌を迎え入れたばかりの暁月宮は、まだ門に灯りがともされている。この時間にしては宮女が多く目に付くが、衛士たちは落ち着いた様子だ。
「危険が起きたようではありませんが、薄月宮のほうも何やらざわついております。急ぎ朔月宮へ戻りましょう」
凛花は頷くと、麗麗と共に早足でその場を後にした。
朔月宮が近付くと、やはり妙なざわめきが聞こえてきた。門の前には出迎えの女官の姿がある。人が少ない朔月宮では珍しい光景だ。
「おかえりなさいませ。朔月妃さま」
「何かあったの?」
「その……」
困惑顔をした女官の視線を追いかけ門をくぐると、目に飛び込んできたのは、濃い桃色、艶やかな紅色の薔薇の山だった。正面入口までをすっかり埋め尽くしている。
「すごい……!」
「凛花さま、まだお手を触れぬよう願います」
留守中に持ち込まれたものだ。それについ先ほど、後宮に厄介な事態が起こっていると判明したばかり。麗麗が警戒するのも分かる。
「これはどうしたの? どなたが?」
凛花は並んだ薔薇を見回し女官に尋ねる。物凄い数の鉢植えだ。
花弁の縁が波打ち、幾重にも重なった大輪の薔薇は、芍薬や牡丹にも似ている。それにこの華やかさと色は、つい先ほど見た人物を思い起こさせる。この色は、琥国の王太子、琥珀王女がまとっていた色にそっくりだ。
「この薔薇は先ほど届きました。琥国の王太子殿下からでございます。『お近づきのしるしに』と、殿下のお使いの方が持ってこられて……。朔月妃さま。いかがいたしましょう」
女官は困惑顔で、どこか恐れている様子まである。彼女だけではない。周囲で窺っている宮女官も同様だ。
(なんだか妙な緊張感ね? 大量の薔薇の扱いに困っているのか……ああ、毒物を警戒しているとか?)
「大丈夫だとは思うけど、危険な植物でないかを確認して、それから庭に運び入れましょう」
そう言ったが、なぜか女官たちの表情が曇っている。面倒を言ってしまったか? しかし一応の用心は必要だ。後宮で月妃が害された事例は多々ある。
とはいえ、後宮への出入りは人も物も厳重に管理されているし、今回は突然の訪問だ。誰かがこの機会を利用する準備期間もない。
それに贈り主はあの琥国の王太子だ。彼女が凛花に毒を贈る利点はないし――と、そう思ったところで、凛花は「そうか!」と気が付いた。
月祭に出席した凛花たち以外の皆は、琥国の王太子が王女だとは知らない。王太子は当然、王子だと思っているのだ。
それなら女官たちの困惑も頷ける。男性である王太子が、皇帝を通さず後宮の月妃に贈り物をするのは非常識。しかも『お近づきのしるし』と言付けられた花の贈り物は、『お誘い』にも取れる。
「皆に伝えておきます。察していると思うけど、後宮に客人として、琥国の王太子殿下が滞在されています。この薔薇のように華やかな王女殿下です」
えっ、と女官の口から声が零れた。そして直後、きゅっと唇を引き結び表情に硬いものを滲ませた。
男性でないのなら、贈り物については問題ない。だが、後宮に新たな女性が入ったことは問題だ。主である朔月妃・凛花の、寵姫としての立場を揺るがせてはならない。凛花の立場が変われば、仕える彼女たちにも影響が及ぶのだ。
(でも、王女なら王女で『お近づき』の意味はガラッと変わるのよね)
凛花は微笑み薔薇を眺めつつ、内心でそう呟く。
(『後宮妃として仲良くしましょう』という意味にも取れるわよね)
主上は一時的な滞在先として佳月宮を提供したつもりでも、周囲はそう見ないし、この贈り物によって王女の意識を知ることができた気がする。
琥珀王女は、紫曄の妃になるつもりだ。
「凛花さま。これは寵姫への宣戦布告でございましょう。無礼です。突き返しましょう!」
「いいえ。受け取ります」
「受け取るのですか⁉ ハッ! 受けて立つ、お前など敵ではない……という意思表示ですね!」
麗麗は興奮ぎみだ。月祭で見た王女は、凛花を見下すような、値踏みするような視線を向けていて、腹立たしく思っていたからだ。
「なるほど。贈り物を突き返すより、相手は悔しく思いましょう!」
「麗麗。そうかもしれないけど、薔薇に罪はないわ。それに小花園に薔薇はないでしょう? ちょうどいいから植えようかと思って」
「えっ。主上から頂いた小花園に、植えるのですか?」
「ええ。そうだ、朔月宮にも植えてみましょうか。根付くかどうか、楽しみね」
育て方を調べなくては。その前に、これはなんという名の薔薇だろうか。
涼しい雲蛍州でも薔薇は見かけたが、薬草ではない薔薇は、凛花にとって馴染みが薄い。森で見掛けて「野ばらだな」と思う程度だった。
(でもこれ、薔薇にしては香りが弱くない?)
華やかな外見に反しての控えめな香り。王女と同じだなと思う。
凛花はフフッと笑みを零す。凛花にとって、新しい植物を育てることは楽しみ以外の何物でもない。
しかし、そんな気持ちが溢れた笑みだったのだが、麗麗や女官たちは目を丸くして、それぞれ主の笑みと言葉の意味を推し量っていた。
麗麗は、凛花にとって大切な小花園に、敵から贈られたものを受け入れる度量が素晴らしい! と感じ、ひとりの女官は、小花園に薔薇を加えるのは、『お前など呑み込んでやる』という意思表示かと頷く。
また他の女官は、朔月宮に植えるということは、月妃として並び立つことを受け入れるという意味か? いや、『根付くかどうか、楽しみね』の言葉は『月妃として寵愛を得られるか見ものだ』と言っているのでは。
そんなふうにも考え、宮の中へ入っていく凛花を見送った。
◆
「ねえ、麗麗。明日は書庫へ行こうと思うの」
薔薇の育て方を調べなくては。早く書庫に行って調べたい。王女に聞ければ一番いいが、それは難しいし、そもそも王女が花の名や、育て方を知っているのか分からない。たぶん、普通の王女は知らないのではと思う。
「明日は少々難しいのでは? 朝起きられますか?」
「……そうね。厳しいかも」
この後、凛花には一晩かかる予定がある。
月祭の本番はこれから。凛花には寵姫としての仕事が待っているのだ。
「さあ凛花さま。神月殿へ行く準備をいたしましょう!」
麗麗の言葉を合図に、待機していた女官たちが凛花を囲んだ。
用意されている衣装は白一色。銀髪の凛花が着ると全身真っ白になってしまうが、神月殿の儀式でまとう衣装は白と決まっている。
手早く着替え、最後に控えめに結った髪に簪を挿す。簪には朔月妃の色である、薄い水色――白藍色の石が輝いている。儀式の衣装では、身分を示す色のみ着用が許されているからだ。
あっという間に準備を終え、白藍色の羽織りを身に着けた凛花は、足早に朔月宮を出る。神月殿へは紫曄とは別の馬車で向かうことになっており、段取りでは神月殿で月妃が皇帝を迎えることになっている。先に着いていなければならないので、急がなくては。バタバタと出掛ける凛花の目に入ったのは、まだ門の辺りに置かれていた艶やかな薔薇だ。
向かい合わせの会場で相対した王女は、自信に満ち溢れ、己を誇ることに恐れがないように見えた。
(きっとあの王女は、虎に変化することを誇りに思っている。……私とは正反対ね)
堂々とした彼女の背中には、本当に金虎が彫られているのだろうか? 琥珀と同じ図柄なのだろうか。彼女はそれを、知っているのだろうか。
凛花は自分と同じ人虎の、二人の琥珀に想いを馳せた。
◆
神月殿へ到着した凛花は、無事しきたり通り紫曄を出迎えた。
麗麗はここへ来た馬車に乗り、既に後宮へ戻されている。ここからは限られた月官と、皇帝と月妃のみで儀式に臨む。
一般の月官は、それぞれの役目を果たすため各部署に籠り、月が沈む朝まで出てこない。祈る者、占う者、書き記す者。誰にとっても、月祭は一年に一度の特別な夜だ。
紫曄と凛花は、神月殿長に先導され特別な祈りの場である『奥宮』へと向かう。古くは皇帝と皇后が初夜を迎える場だったというあの場所だ。
「主上。朔月妃さま。月が昇っている間、お二人は月の女神に感謝と祈りを捧げますように。そして金の祝福と銀の加護を賜りますように」
離れのような奥宮へ続く通路の前で、神月殿長が決まり文句で礼を取る。ここからは皇帝と月妃の二人きり。そして私語も厳禁となる。奥宮へ入り、最初の儀式を終えるまで二人は無言を守らねばならない。
紫曄は凛花の手を取り、金桂花が囲む白い敷石の上を進む。咲き誇る金桂花の香りに囲まれ、頭上からは早咲きの金桂花がヒラヒラと舞っている。
月と金桂花が、二人の白い衣装と足下を黄金に染めていた。
二人が白い奥宮へ入ると、今夜はその奥――其処こそが奥宮なのだが、月祭の夜にだけ開かれるその場へと足を踏み入れる。
その瞬間、凛花は心の中で「あ……!」と声を上げた。
(銀桂花の木がある!)
懐かしい涼やかな香りに凛花は鼻をそよがせる。
奥宮は屋内でありながら、銀桂花の周囲だけはむき出しの地面で、その手前には祭壇があった。そして宮の中央には大きな水盆が置かれ、台座には月や桃、杯など様々なものが彫り込まれている。鏡のような水面を覗き込むと、そこには白い天井ではなく夜空が映り込んでいた。
凛花が見上げると、高い天井の中央部分は玻璃が嵌め込まれており、夜空が透けている。もう少しすればきっと、ここから月が見えるだろう。
(不思議な場所。それにここ……雲蛍州の『奥宮』とよく似てる)
銀桂花の木があり、祭壇に、水鏡の水盆。宮の作りも、祈りの場ということも雲蛍州と同じ。こんなところで遥か昔に分れた虞家と胡家の繋がりを感じるとは。
(銀桂花と金桂花という違いはあるけど、月祭の祝い方は同じなのかな)
凛花がそんなふうに思い奥宮を見回していると、不意に繋いだ手が引かれた。紫曄が祭壇を指差している。
そうだった。今はまだ儀式の始まり。進めなければ口を開くことすらできない。
凛花は紫曄とともに祭壇に歩み寄る。教えられた手順は、まず供えられた金桂花酒と銀桂花酒を口にすること。皇帝は金桂花酒を、月妃は銀桂花酒と決められている。
(嬉しい……皇都では銀桂花酒を飲まないみたいだったから、儀式で飲めるの楽しみにしてたのよね)
酒好きというわけではないが、月祭には銀桂花と銀桂花酒。それがお決まりだったので、金桂花ばかりの月祭を凛花は少し物足りなく思っていた。
しかもこの銀桂花酒は、儀式のために神月殿で特別に作られたもの。月官たちにも振る舞われるそうで、麗麗や朱歌も楽しみにしていたらしい。
凛花は銀桂花酒の杯を傾けると、その甘さにまばたいて、唇に付いた銀桂花の花をぺろりと舐めた。
「あとは水鏡に月が映る頃、水盆に金桂花酒と銀桂花酒を捧げれば儀式は終了だ」
紫曄はふぅと息を吐き、牀に腰掛け言った。
この奥宮には軽食や金桂花と銀桂花の酒やお茶が用意されている。月が頂点に昇るまでにはまだ時が掛かる。のんびり待つしかないが――
「紫曄、お疲れですね」
凛花は紫曄の隣に腰掛け、ぽんぽんと自らの膝を叩く。
「昨夜から儀式続きでしょう? 少し休みませんか」
「今寝たら起きられない気がする……」
と言いつつ紫曄はごろりと横になり、凛花の膝に頭を預け、目を閉じる。さらりと広がった黒髪を、凛花がそうっと梳く。すると「すぅ……すぅ……」と小さな寝息が聞こえてきた。
凛花はあっという間に微睡へ落ちてしまった紫曄を覗き込み、思わず笑みを零した。
「ふふっ」
「……ん」
「あ、起こしちゃってごめんなさい」
「いや、眠るつもりはなかったんだが……」
「ふふふ。お疲れなのは心配ですけど、でも、うたた寝ができるようになってよかった」
元々は、安眠のための抱き枕から始まった関係だ。そんな紫曄から、『眠れない』ではなく『起きられない』という言葉が出るようになったのはいいことだと思う。
「そうだな。だが今夜は、満月が昇るのを待たなければならない。それにこの酒も飲み干さねばならんしな」
「えっ、これも儀式の一部だったんですか」
卓に置かれた金桂花酒と銀桂花酒を指差す。用意されている酒は嗜む程度の量。これなら二人でも、食事をしながら飲み干せそうだと凛花はホッとする。
「今夜の我々は月への供物らしいからな。祈りと感謝を込めた酒に身を浸し、女神に身を捧げることで褒美を得るのだと」
「ご褒美ですか。いいものを下さればいいけど……」
祈り、身を捧げることで得られる褒美とはなんだろうか。虎化するこの身を捧げたなら、金銀の桂花酒と共に、虎化の能力も貰い受けてくれたらいいのに。凛花はそんなふうに思う。
「いいものか……。凛花? この宮はなんのための場所だと言ったか、覚えているか?」
寝転んだままの紫曄が、凛花の長い髪を軽く引く。なんだか上機嫌というか、面白そうな笑みを浮かべた顔で見上げている。
「……えっ」
『昔はこの場所で、皇帝と望月妃は初夜を迎えたらしい』
以前、神月殿詣と称してここに宿泊した時、紫曄はそう言っていた。ということは、この場で月の女神から得られる『いいもの』とは……
凛花の頬に、じわわと朱が差す。
「ご褒美がほしい? 凛花」
銀の髪を指にくるくる絡め、凛花を引き寄せ紫曄が尋ねる。
「神月殿長が、月が昇っている間、月の女神に感謝と祈りを捧げますように。そして金の祝福と銀の加護を賜りますように……と言っていただろう? あれは一晩かけて、褒美を授かれという意味だ」
紫曄がニヤリと微笑む。凛花は目を丸くして益々頬を赤く染め上げた。
(あれって、そういう意味だったの⁉)
神月殿長のくせに何を言ってくれたのか。そこに含まれた意味を知らず、頷き微笑み返してしまった凛花は羞恥に悶える。
「月祭の夜に授かった子は、月の加護が強いらしい」
紫曄は枕にしている凛花の太ももを指でくすぐり笑う。
「期待に応えてみるか?」
「……だめ」
悪戯な指をそっと掌で押さえ窘める。揶揄い半分、本気も半分。紫曄のそんな声色に、凛花の声がほんの少し震えた。
怖いからではない。散々、中途半端に甘く過ごした記憶のせいで、思わず「はい」と言いかけ舌がもつれたからだ。
「今は駄目です。……あ、月がだいぶ昇ってきたようですね」
窓を見上げて言う。二人には、月が頂点に届く前にやらなくてはならない事がある。
「金桂花酒と銀桂花酒を飲み干すか」
はぁ、と一息零し、紫曄は若干残念そうに呟いた。
◆
「美味い」
紫曄の杯に入っているのは銀桂花酒だ。最初の儀式では、皇帝は金桂花酒と決められていたが、ここで飲むのは金でも銀でも自由だ。
「でしょう! この銀桂花酒は特に美味しいです。香りがすごく良くて、最高」
鼻に抜ける香りに目を閉じれば、満開の銀桂花が見えるよう。凛花も上機嫌で白い花が躍る杯を傾ける。
「これを昨年まで月官が独占していたとは、惜しいことをした」
「え? 紫曄は銀桂花酒を飲んだこと、なかったんですか?」
「ない。今夜が初めてだ。皇都で銀桂花酒を作っているのは神月殿くらいだ。それも儀式用でしかない」
献上させればよかったなと言いながら、紫曄は唇を舐め二杯目をたっぷり注ぐ。
「昨年までは月妃がいなかったからな。月祭の儀式は俺一人だ」
だから口にしていたのは最初の儀式での金桂花酒のみ。皇帝一人の奥宮には、夜を過ごすための酒は用意されず、軽い食事だけだったと紫曄は続ける。
(月妃がいなければ用意されない? それって……)
月祭の夜の褒美。授かりもの。そんな話の後に聞くと、まるでこの酒には何か特別な目的があったり、作用があったりするのでは。そんな風に思ってしまうが、警戒しても遅い。
あまりにも美味しい銀桂花酒は、みるみるうちに紫曄が飲み干し、金桂花酒も杯に入っているだけになった。
しばらく経つと、瞳をとろりとさせた紫曄が襟元をくつろげ、椅子にもたれていた。
「大丈夫ですか? お酒、あまり強くなかったんですね」
「いや、そんなことは……?」
「疲れが出たのかもしれませんね。それとも初めて飲む銀桂花酒が合わなかったか……」
(銀桂花以外に、何か薬草が入っていそうな香りもするし……そのせいかも?)
凛花はなんともないので、毒や媚薬の類ではない。
だけどこの銀桂花酒は、普通の酒ではない。凛花の鼻と舌はそう思う。神月殿の特別製と聞いたが、一体どのように造り、何を入れているのやら。
(すごく美味しいし、甘いし、香りも味も何もかもが引き上げられている感じ。何か特別なものでも入っているのかと思ったけど、私の記憶に引っ掛かるものは入っていないっぽいのよね)
『薬草姫』と呼ばれる凛花だ。
酒も薬のうち。酒に使うような香草や木の実、隠し味は大抵知っている。味では分からなくても、匂いには敏感だ。虎の嗅覚は鋭い。
「う……ん。お前はなんともないな」
「そうですね……? 慣れでしょうか?」
凛花はなんともないどころか、妙に元気というか、虎の感覚が冴え渡っている気がする。風に揺れる金桂花の葉音だけでなく、遠くであげられている祝詞まで聞こえている。集中すれば、ありもしない月光が降り注ぐ音まで感じられそうなくらい。
「はー……飲みすぎたか」
「そんな日もあります。紫曄、横になりましょうか」
くたりとしている紫曄に肩を貸し、牀榻まで連れていくと、横たわらせようとした凛花の腕がグイッと引っ張られた。
「わっ」
ぺたりと紫曄の胸に倒れ込む形となり、ぎゅっと抱きしめられる。紫曄の熱い体温が伝わって、少し早い鼓動が耳だけでなく全身に響く。
「凛花」
「ふふっ。どうしたんですか? 酔っ払いの甘えん坊でした?」
「お前が笑ってくれてよかった……」
「どうしたんですか? 本当に」
紫曄は虎猫の凛花を抱え込むように、凛花を抱きしめる。
「琥国の王太子を、王女だと知らず後宮に滞在させてしまった。しかも佳月宮だ……」
ぼそぼそと小さな声。失敗を見られてばつが悪い、そんな子供のような声だ。凛花はクスリと笑うと、ぎゅうっと抱き返し、慰めるようにその背をぽんぽん叩いた。
「そうですね。まずい失敗でした」
失敗は失敗。だけど今回は仕方がない部分もあった。琥国は基本的に鎖国状態なので、情報が入りにくい。ひょんなことから出会い、今では協力体制をとっている『琥珀』から、もっと話を聞いておけばよかったと後悔してももう遅い。
「失敗だと凛花に言われるのは堪えるな……はぁ。いや。すまない。言い訳だが、まさか琥国の王太子が王女とは思わなかった」
「私もです。でもよく考えれば、琥国には女王がいたことがあったんですよね」
王太子が王女である可能性を、視野に入れておくべきだった。
書庫で調べものをしている時、凛花は何代か前の琥王が女王であったという記録を目にしている。きっと紫曄も知っているはずだ。
しかし思い込みとは恐ろしいもの。月魄国をはじめ、周辺国では男子が家督を相続するのが一般的。だから紫曄たちは、『王太子』が王子だと思い込んでしまった。それは凛花にも言える。
虞家は月魄国の中にありながら、女性が家督を継ぐこともある家だ。実際に、後宮に入らなければ、次の虞家当主は凛花だった。だというのに、月魄国の常識に囚われてしまっていた。
(虞家が女当主を認めているのって、元は琥国から来た一族だったからなのかな)
思わぬところで繋がりを見つけてしまった気がする。
「はー……凛花」
ぼんやりと潤んだ瞳で紫曄が見上げた。
気怠げで妙に色っぽくて、凛花はドキリとしてしまう。乗り上げている紫曄の胸からは、どくどくと心音が響いてくる。なんだか、凛花の中に潜んでいる、虎の獰猛な部分が刺激されてしまいそうだ。
「凛花。しばらく朔月宮へ行けないかもしれん」
「はい」
分かっている。上位である琥国の王女を差し置いて、朔月妃のもとを訪れるわけにはいかない。それが身分で構築された世界の常識だ。
「すまない。王太子は早めに自国へ帰ってもらうようにする」
「はい」
凛花は紫曄の胸にぺたりと額を付ける。ついさっきまで、舌なめずりをしていた内なる虎も、今は半分拗ねてしゅんと丸まっている。
「凛花。妃を増やすつもりはない」
さらりと銀の髪を熱い掌が撫でる。何度も何度も、頭から背中を優しくなぞる。虎の姿だったなら、ゴロゴロと喉を鳴らしているところだ。
「……はい」
「凛花」
「はい。…………紫曄?」
そっと顔を上げると、紫曄は瞼を閉じていた。
「ふふっ。おやすみなさい、紫曄」
酔って眠ってしまうなんて、相当疲れているのだろう。その証拠に、いつもはがっちり抱き込んでいる腕も今夜は緩い。凛花は紫曄を起こさぬようにとそっと抜け出す。
そして窓から空を見上げた。この窓からは、もう月は見えていない。
「そろそろね」
月祭の儀式はまだ残っている。
凛花は一人で銀桂花の木のもとへ向かう。しばらく花を見上げその香りを楽しむと、手前にある祭壇から、供えられていた金と銀の桂花酒を手に持った。
くるりと後ろを向けば、白一色の祈り間に淡い月の光が差し込んでいる。じき満月が頂点に達する。凛花は中央に置かれた水鏡へと急ぐ。覗き込むと、静かな水面に真ん丸の月が見えた。
(月の女神さま。皇帝ではなく月妃のみでの奉納ですが、どうか貴女様の僕である白虎の身に免じてお許しください)
心の中でそう祈り、月が映る水盆に金銀の桂花酒を注ぎ、捧げる。
「よし」
呟き頷いた凛花の髪から銀桂花の花が舞い、満月の水鏡をゆらり揺らした。
これで公式の儀式は終了だ。慣例ではこの後、月妃のお役目が期待されていたようだが――
凛花は水鏡を見つめ少し考えて、そっと衣装の帯紐を解く。
儀式用だから、結び方も華美ではないのだと思っていたが、紫曄から話を聞いた今、そうではないと分かってしまう。
今夜の皇帝と月妃は、月への供物であり、その対価は一晩をかけて授かるもの。この衣装は、侍女がいなくとも脱ぎ着できるよう配慮されているのだ。
そういえば、これを着せてくれた麗々がやけに着付けの手順を説明していたな。凛花はそう思い、ほんのり頬を染める。
「でも、助かったわ」
するりと腕を抜き、肩から衣を滑り落とす。
そして玻璃の天井から望む月に『変わりたい』と願いを掛けた。
トットットッ、と床石の上を走る凛花は、そのままぴょん! と牀に上がった。虎猫の体は身軽で柔らかい。だから寝入っている紫曄の腕の下をくぐり、その懐に潜り込むことだって簡単だ。
(ふふ。これでぐっすり眠れるでしょう!)
凛花はくつろげられた紫曄の胸元に、柔らかな頬を擦り寄せる。すると紫曄の腕が、無意識のままに虎猫の凛花を抱きしめた。
「にゃっ」
いつものように撫でられて、ふわふわの毛に指をうずめる。
だけど今夜は容赦がない。いつもはギリギリ避けてくれていた腹や尻尾にまで手を這わせ、いつの間にか頭を吸われている。
「むぅ。ンー……」
腹や尻尾はゾワゾワするのでやめてほしい。だけど凛花は、今夜に限り許してあげようと思う。
「危険が起きたようではありませんが、薄月宮のほうも何やらざわついております。急ぎ朔月宮へ戻りましょう」
凛花は頷くと、麗麗と共に早足でその場を後にした。
朔月宮が近付くと、やはり妙なざわめきが聞こえてきた。門の前には出迎えの女官の姿がある。人が少ない朔月宮では珍しい光景だ。
「おかえりなさいませ。朔月妃さま」
「何かあったの?」
「その……」
困惑顔をした女官の視線を追いかけ門をくぐると、目に飛び込んできたのは、濃い桃色、艶やかな紅色の薔薇の山だった。正面入口までをすっかり埋め尽くしている。
「すごい……!」
「凛花さま、まだお手を触れぬよう願います」
留守中に持ち込まれたものだ。それについ先ほど、後宮に厄介な事態が起こっていると判明したばかり。麗麗が警戒するのも分かる。
「これはどうしたの? どなたが?」
凛花は並んだ薔薇を見回し女官に尋ねる。物凄い数の鉢植えだ。
花弁の縁が波打ち、幾重にも重なった大輪の薔薇は、芍薬や牡丹にも似ている。それにこの華やかさと色は、つい先ほど見た人物を思い起こさせる。この色は、琥国の王太子、琥珀王女がまとっていた色にそっくりだ。
「この薔薇は先ほど届きました。琥国の王太子殿下からでございます。『お近づきのしるしに』と、殿下のお使いの方が持ってこられて……。朔月妃さま。いかがいたしましょう」
女官は困惑顔で、どこか恐れている様子まである。彼女だけではない。周囲で窺っている宮女官も同様だ。
(なんだか妙な緊張感ね? 大量の薔薇の扱いに困っているのか……ああ、毒物を警戒しているとか?)
「大丈夫だとは思うけど、危険な植物でないかを確認して、それから庭に運び入れましょう」
そう言ったが、なぜか女官たちの表情が曇っている。面倒を言ってしまったか? しかし一応の用心は必要だ。後宮で月妃が害された事例は多々ある。
とはいえ、後宮への出入りは人も物も厳重に管理されているし、今回は突然の訪問だ。誰かがこの機会を利用する準備期間もない。
それに贈り主はあの琥国の王太子だ。彼女が凛花に毒を贈る利点はないし――と、そう思ったところで、凛花は「そうか!」と気が付いた。
月祭に出席した凛花たち以外の皆は、琥国の王太子が王女だとは知らない。王太子は当然、王子だと思っているのだ。
それなら女官たちの困惑も頷ける。男性である王太子が、皇帝を通さず後宮の月妃に贈り物をするのは非常識。しかも『お近づきのしるし』と言付けられた花の贈り物は、『お誘い』にも取れる。
「皆に伝えておきます。察していると思うけど、後宮に客人として、琥国の王太子殿下が滞在されています。この薔薇のように華やかな王女殿下です」
えっ、と女官の口から声が零れた。そして直後、きゅっと唇を引き結び表情に硬いものを滲ませた。
男性でないのなら、贈り物については問題ない。だが、後宮に新たな女性が入ったことは問題だ。主である朔月妃・凛花の、寵姫としての立場を揺るがせてはならない。凛花の立場が変われば、仕える彼女たちにも影響が及ぶのだ。
(でも、王女なら王女で『お近づき』の意味はガラッと変わるのよね)
凛花は微笑み薔薇を眺めつつ、内心でそう呟く。
(『後宮妃として仲良くしましょう』という意味にも取れるわよね)
主上は一時的な滞在先として佳月宮を提供したつもりでも、周囲はそう見ないし、この贈り物によって王女の意識を知ることができた気がする。
琥珀王女は、紫曄の妃になるつもりだ。
「凛花さま。これは寵姫への宣戦布告でございましょう。無礼です。突き返しましょう!」
「いいえ。受け取ります」
「受け取るのですか⁉ ハッ! 受けて立つ、お前など敵ではない……という意思表示ですね!」
麗麗は興奮ぎみだ。月祭で見た王女は、凛花を見下すような、値踏みするような視線を向けていて、腹立たしく思っていたからだ。
「なるほど。贈り物を突き返すより、相手は悔しく思いましょう!」
「麗麗。そうかもしれないけど、薔薇に罪はないわ。それに小花園に薔薇はないでしょう? ちょうどいいから植えようかと思って」
「えっ。主上から頂いた小花園に、植えるのですか?」
「ええ。そうだ、朔月宮にも植えてみましょうか。根付くかどうか、楽しみね」
育て方を調べなくては。その前に、これはなんという名の薔薇だろうか。
涼しい雲蛍州でも薔薇は見かけたが、薬草ではない薔薇は、凛花にとって馴染みが薄い。森で見掛けて「野ばらだな」と思う程度だった。
(でもこれ、薔薇にしては香りが弱くない?)
華やかな外見に反しての控えめな香り。王女と同じだなと思う。
凛花はフフッと笑みを零す。凛花にとって、新しい植物を育てることは楽しみ以外の何物でもない。
しかし、そんな気持ちが溢れた笑みだったのだが、麗麗や女官たちは目を丸くして、それぞれ主の笑みと言葉の意味を推し量っていた。
麗麗は、凛花にとって大切な小花園に、敵から贈られたものを受け入れる度量が素晴らしい! と感じ、ひとりの女官は、小花園に薔薇を加えるのは、『お前など呑み込んでやる』という意思表示かと頷く。
また他の女官は、朔月宮に植えるということは、月妃として並び立つことを受け入れるという意味か? いや、『根付くかどうか、楽しみね』の言葉は『月妃として寵愛を得られるか見ものだ』と言っているのでは。
そんなふうにも考え、宮の中へ入っていく凛花を見送った。
◆
「ねえ、麗麗。明日は書庫へ行こうと思うの」
薔薇の育て方を調べなくては。早く書庫に行って調べたい。王女に聞ければ一番いいが、それは難しいし、そもそも王女が花の名や、育て方を知っているのか分からない。たぶん、普通の王女は知らないのではと思う。
「明日は少々難しいのでは? 朝起きられますか?」
「……そうね。厳しいかも」
この後、凛花には一晩かかる予定がある。
月祭の本番はこれから。凛花には寵姫としての仕事が待っているのだ。
「さあ凛花さま。神月殿へ行く準備をいたしましょう!」
麗麗の言葉を合図に、待機していた女官たちが凛花を囲んだ。
用意されている衣装は白一色。銀髪の凛花が着ると全身真っ白になってしまうが、神月殿の儀式でまとう衣装は白と決まっている。
手早く着替え、最後に控えめに結った髪に簪を挿す。簪には朔月妃の色である、薄い水色――白藍色の石が輝いている。儀式の衣装では、身分を示す色のみ着用が許されているからだ。
あっという間に準備を終え、白藍色の羽織りを身に着けた凛花は、足早に朔月宮を出る。神月殿へは紫曄とは別の馬車で向かうことになっており、段取りでは神月殿で月妃が皇帝を迎えることになっている。先に着いていなければならないので、急がなくては。バタバタと出掛ける凛花の目に入ったのは、まだ門の辺りに置かれていた艶やかな薔薇だ。
向かい合わせの会場で相対した王女は、自信に満ち溢れ、己を誇ることに恐れがないように見えた。
(きっとあの王女は、虎に変化することを誇りに思っている。……私とは正反対ね)
堂々とした彼女の背中には、本当に金虎が彫られているのだろうか? 琥珀と同じ図柄なのだろうか。彼女はそれを、知っているのだろうか。
凛花は自分と同じ人虎の、二人の琥珀に想いを馳せた。
◆
神月殿へ到着した凛花は、無事しきたり通り紫曄を出迎えた。
麗麗はここへ来た馬車に乗り、既に後宮へ戻されている。ここからは限られた月官と、皇帝と月妃のみで儀式に臨む。
一般の月官は、それぞれの役目を果たすため各部署に籠り、月が沈む朝まで出てこない。祈る者、占う者、書き記す者。誰にとっても、月祭は一年に一度の特別な夜だ。
紫曄と凛花は、神月殿長に先導され特別な祈りの場である『奥宮』へと向かう。古くは皇帝と皇后が初夜を迎える場だったというあの場所だ。
「主上。朔月妃さま。月が昇っている間、お二人は月の女神に感謝と祈りを捧げますように。そして金の祝福と銀の加護を賜りますように」
離れのような奥宮へ続く通路の前で、神月殿長が決まり文句で礼を取る。ここからは皇帝と月妃の二人きり。そして私語も厳禁となる。奥宮へ入り、最初の儀式を終えるまで二人は無言を守らねばならない。
紫曄は凛花の手を取り、金桂花が囲む白い敷石の上を進む。咲き誇る金桂花の香りに囲まれ、頭上からは早咲きの金桂花がヒラヒラと舞っている。
月と金桂花が、二人の白い衣装と足下を黄金に染めていた。
二人が白い奥宮へ入ると、今夜はその奥――其処こそが奥宮なのだが、月祭の夜にだけ開かれるその場へと足を踏み入れる。
その瞬間、凛花は心の中で「あ……!」と声を上げた。
(銀桂花の木がある!)
懐かしい涼やかな香りに凛花は鼻をそよがせる。
奥宮は屋内でありながら、銀桂花の周囲だけはむき出しの地面で、その手前には祭壇があった。そして宮の中央には大きな水盆が置かれ、台座には月や桃、杯など様々なものが彫り込まれている。鏡のような水面を覗き込むと、そこには白い天井ではなく夜空が映り込んでいた。
凛花が見上げると、高い天井の中央部分は玻璃が嵌め込まれており、夜空が透けている。もう少しすればきっと、ここから月が見えるだろう。
(不思議な場所。それにここ……雲蛍州の『奥宮』とよく似てる)
銀桂花の木があり、祭壇に、水鏡の水盆。宮の作りも、祈りの場ということも雲蛍州と同じ。こんなところで遥か昔に分れた虞家と胡家の繋がりを感じるとは。
(銀桂花と金桂花という違いはあるけど、月祭の祝い方は同じなのかな)
凛花がそんなふうに思い奥宮を見回していると、不意に繋いだ手が引かれた。紫曄が祭壇を指差している。
そうだった。今はまだ儀式の始まり。進めなければ口を開くことすらできない。
凛花は紫曄とともに祭壇に歩み寄る。教えられた手順は、まず供えられた金桂花酒と銀桂花酒を口にすること。皇帝は金桂花酒を、月妃は銀桂花酒と決められている。
(嬉しい……皇都では銀桂花酒を飲まないみたいだったから、儀式で飲めるの楽しみにしてたのよね)
酒好きというわけではないが、月祭には銀桂花と銀桂花酒。それがお決まりだったので、金桂花ばかりの月祭を凛花は少し物足りなく思っていた。
しかもこの銀桂花酒は、儀式のために神月殿で特別に作られたもの。月官たちにも振る舞われるそうで、麗麗や朱歌も楽しみにしていたらしい。
凛花は銀桂花酒の杯を傾けると、その甘さにまばたいて、唇に付いた銀桂花の花をぺろりと舐めた。
「あとは水鏡に月が映る頃、水盆に金桂花酒と銀桂花酒を捧げれば儀式は終了だ」
紫曄はふぅと息を吐き、牀に腰掛け言った。
この奥宮には軽食や金桂花と銀桂花の酒やお茶が用意されている。月が頂点に昇るまでにはまだ時が掛かる。のんびり待つしかないが――
「紫曄、お疲れですね」
凛花は紫曄の隣に腰掛け、ぽんぽんと自らの膝を叩く。
「昨夜から儀式続きでしょう? 少し休みませんか」
「今寝たら起きられない気がする……」
と言いつつ紫曄はごろりと横になり、凛花の膝に頭を預け、目を閉じる。さらりと広がった黒髪を、凛花がそうっと梳く。すると「すぅ……すぅ……」と小さな寝息が聞こえてきた。
凛花はあっという間に微睡へ落ちてしまった紫曄を覗き込み、思わず笑みを零した。
「ふふっ」
「……ん」
「あ、起こしちゃってごめんなさい」
「いや、眠るつもりはなかったんだが……」
「ふふふ。お疲れなのは心配ですけど、でも、うたた寝ができるようになってよかった」
元々は、安眠のための抱き枕から始まった関係だ。そんな紫曄から、『眠れない』ではなく『起きられない』という言葉が出るようになったのはいいことだと思う。
「そうだな。だが今夜は、満月が昇るのを待たなければならない。それにこの酒も飲み干さねばならんしな」
「えっ、これも儀式の一部だったんですか」
卓に置かれた金桂花酒と銀桂花酒を指差す。用意されている酒は嗜む程度の量。これなら二人でも、食事をしながら飲み干せそうだと凛花はホッとする。
「今夜の我々は月への供物らしいからな。祈りと感謝を込めた酒に身を浸し、女神に身を捧げることで褒美を得るのだと」
「ご褒美ですか。いいものを下さればいいけど……」
祈り、身を捧げることで得られる褒美とはなんだろうか。虎化するこの身を捧げたなら、金銀の桂花酒と共に、虎化の能力も貰い受けてくれたらいいのに。凛花はそんなふうに思う。
「いいものか……。凛花? この宮はなんのための場所だと言ったか、覚えているか?」
寝転んだままの紫曄が、凛花の長い髪を軽く引く。なんだか上機嫌というか、面白そうな笑みを浮かべた顔で見上げている。
「……えっ」
『昔はこの場所で、皇帝と望月妃は初夜を迎えたらしい』
以前、神月殿詣と称してここに宿泊した時、紫曄はそう言っていた。ということは、この場で月の女神から得られる『いいもの』とは……
凛花の頬に、じわわと朱が差す。
「ご褒美がほしい? 凛花」
銀の髪を指にくるくる絡め、凛花を引き寄せ紫曄が尋ねる。
「神月殿長が、月が昇っている間、月の女神に感謝と祈りを捧げますように。そして金の祝福と銀の加護を賜りますように……と言っていただろう? あれは一晩かけて、褒美を授かれという意味だ」
紫曄がニヤリと微笑む。凛花は目を丸くして益々頬を赤く染め上げた。
(あれって、そういう意味だったの⁉)
神月殿長のくせに何を言ってくれたのか。そこに含まれた意味を知らず、頷き微笑み返してしまった凛花は羞恥に悶える。
「月祭の夜に授かった子は、月の加護が強いらしい」
紫曄は枕にしている凛花の太ももを指でくすぐり笑う。
「期待に応えてみるか?」
「……だめ」
悪戯な指をそっと掌で押さえ窘める。揶揄い半分、本気も半分。紫曄のそんな声色に、凛花の声がほんの少し震えた。
怖いからではない。散々、中途半端に甘く過ごした記憶のせいで、思わず「はい」と言いかけ舌がもつれたからだ。
「今は駄目です。……あ、月がだいぶ昇ってきたようですね」
窓を見上げて言う。二人には、月が頂点に届く前にやらなくてはならない事がある。
「金桂花酒と銀桂花酒を飲み干すか」
はぁ、と一息零し、紫曄は若干残念そうに呟いた。
◆
「美味い」
紫曄の杯に入っているのは銀桂花酒だ。最初の儀式では、皇帝は金桂花酒と決められていたが、ここで飲むのは金でも銀でも自由だ。
「でしょう! この銀桂花酒は特に美味しいです。香りがすごく良くて、最高」
鼻に抜ける香りに目を閉じれば、満開の銀桂花が見えるよう。凛花も上機嫌で白い花が躍る杯を傾ける。
「これを昨年まで月官が独占していたとは、惜しいことをした」
「え? 紫曄は銀桂花酒を飲んだこと、なかったんですか?」
「ない。今夜が初めてだ。皇都で銀桂花酒を作っているのは神月殿くらいだ。それも儀式用でしかない」
献上させればよかったなと言いながら、紫曄は唇を舐め二杯目をたっぷり注ぐ。
「昨年までは月妃がいなかったからな。月祭の儀式は俺一人だ」
だから口にしていたのは最初の儀式での金桂花酒のみ。皇帝一人の奥宮には、夜を過ごすための酒は用意されず、軽い食事だけだったと紫曄は続ける。
(月妃がいなければ用意されない? それって……)
月祭の夜の褒美。授かりもの。そんな話の後に聞くと、まるでこの酒には何か特別な目的があったり、作用があったりするのでは。そんな風に思ってしまうが、警戒しても遅い。
あまりにも美味しい銀桂花酒は、みるみるうちに紫曄が飲み干し、金桂花酒も杯に入っているだけになった。
しばらく経つと、瞳をとろりとさせた紫曄が襟元をくつろげ、椅子にもたれていた。
「大丈夫ですか? お酒、あまり強くなかったんですね」
「いや、そんなことは……?」
「疲れが出たのかもしれませんね。それとも初めて飲む銀桂花酒が合わなかったか……」
(銀桂花以外に、何か薬草が入っていそうな香りもするし……そのせいかも?)
凛花はなんともないので、毒や媚薬の類ではない。
だけどこの銀桂花酒は、普通の酒ではない。凛花の鼻と舌はそう思う。神月殿の特別製と聞いたが、一体どのように造り、何を入れているのやら。
(すごく美味しいし、甘いし、香りも味も何もかもが引き上げられている感じ。何か特別なものでも入っているのかと思ったけど、私の記憶に引っ掛かるものは入っていないっぽいのよね)
『薬草姫』と呼ばれる凛花だ。
酒も薬のうち。酒に使うような香草や木の実、隠し味は大抵知っている。味では分からなくても、匂いには敏感だ。虎の嗅覚は鋭い。
「う……ん。お前はなんともないな」
「そうですね……? 慣れでしょうか?」
凛花はなんともないどころか、妙に元気というか、虎の感覚が冴え渡っている気がする。風に揺れる金桂花の葉音だけでなく、遠くであげられている祝詞まで聞こえている。集中すれば、ありもしない月光が降り注ぐ音まで感じられそうなくらい。
「はー……飲みすぎたか」
「そんな日もあります。紫曄、横になりましょうか」
くたりとしている紫曄に肩を貸し、牀榻まで連れていくと、横たわらせようとした凛花の腕がグイッと引っ張られた。
「わっ」
ぺたりと紫曄の胸に倒れ込む形となり、ぎゅっと抱きしめられる。紫曄の熱い体温が伝わって、少し早い鼓動が耳だけでなく全身に響く。
「凛花」
「ふふっ。どうしたんですか? 酔っ払いの甘えん坊でした?」
「お前が笑ってくれてよかった……」
「どうしたんですか? 本当に」
紫曄は虎猫の凛花を抱え込むように、凛花を抱きしめる。
「琥国の王太子を、王女だと知らず後宮に滞在させてしまった。しかも佳月宮だ……」
ぼそぼそと小さな声。失敗を見られてばつが悪い、そんな子供のような声だ。凛花はクスリと笑うと、ぎゅうっと抱き返し、慰めるようにその背をぽんぽん叩いた。
「そうですね。まずい失敗でした」
失敗は失敗。だけど今回は仕方がない部分もあった。琥国は基本的に鎖国状態なので、情報が入りにくい。ひょんなことから出会い、今では協力体制をとっている『琥珀』から、もっと話を聞いておけばよかったと後悔してももう遅い。
「失敗だと凛花に言われるのは堪えるな……はぁ。いや。すまない。言い訳だが、まさか琥国の王太子が王女とは思わなかった」
「私もです。でもよく考えれば、琥国には女王がいたことがあったんですよね」
王太子が王女である可能性を、視野に入れておくべきだった。
書庫で調べものをしている時、凛花は何代か前の琥王が女王であったという記録を目にしている。きっと紫曄も知っているはずだ。
しかし思い込みとは恐ろしいもの。月魄国をはじめ、周辺国では男子が家督を相続するのが一般的。だから紫曄たちは、『王太子』が王子だと思い込んでしまった。それは凛花にも言える。
虞家は月魄国の中にありながら、女性が家督を継ぐこともある家だ。実際に、後宮に入らなければ、次の虞家当主は凛花だった。だというのに、月魄国の常識に囚われてしまっていた。
(虞家が女当主を認めているのって、元は琥国から来た一族だったからなのかな)
思わぬところで繋がりを見つけてしまった気がする。
「はー……凛花」
ぼんやりと潤んだ瞳で紫曄が見上げた。
気怠げで妙に色っぽくて、凛花はドキリとしてしまう。乗り上げている紫曄の胸からは、どくどくと心音が響いてくる。なんだか、凛花の中に潜んでいる、虎の獰猛な部分が刺激されてしまいそうだ。
「凛花。しばらく朔月宮へ行けないかもしれん」
「はい」
分かっている。上位である琥国の王女を差し置いて、朔月妃のもとを訪れるわけにはいかない。それが身分で構築された世界の常識だ。
「すまない。王太子は早めに自国へ帰ってもらうようにする」
「はい」
凛花は紫曄の胸にぺたりと額を付ける。ついさっきまで、舌なめずりをしていた内なる虎も、今は半分拗ねてしゅんと丸まっている。
「凛花。妃を増やすつもりはない」
さらりと銀の髪を熱い掌が撫でる。何度も何度も、頭から背中を優しくなぞる。虎の姿だったなら、ゴロゴロと喉を鳴らしているところだ。
「……はい」
「凛花」
「はい。…………紫曄?」
そっと顔を上げると、紫曄は瞼を閉じていた。
「ふふっ。おやすみなさい、紫曄」
酔って眠ってしまうなんて、相当疲れているのだろう。その証拠に、いつもはがっちり抱き込んでいる腕も今夜は緩い。凛花は紫曄を起こさぬようにとそっと抜け出す。
そして窓から空を見上げた。この窓からは、もう月は見えていない。
「そろそろね」
月祭の儀式はまだ残っている。
凛花は一人で銀桂花の木のもとへ向かう。しばらく花を見上げその香りを楽しむと、手前にある祭壇から、供えられていた金と銀の桂花酒を手に持った。
くるりと後ろを向けば、白一色の祈り間に淡い月の光が差し込んでいる。じき満月が頂点に達する。凛花は中央に置かれた水鏡へと急ぐ。覗き込むと、静かな水面に真ん丸の月が見えた。
(月の女神さま。皇帝ではなく月妃のみでの奉納ですが、どうか貴女様の僕である白虎の身に免じてお許しください)
心の中でそう祈り、月が映る水盆に金銀の桂花酒を注ぎ、捧げる。
「よし」
呟き頷いた凛花の髪から銀桂花の花が舞い、満月の水鏡をゆらり揺らした。
これで公式の儀式は終了だ。慣例ではこの後、月妃のお役目が期待されていたようだが――
凛花は水鏡を見つめ少し考えて、そっと衣装の帯紐を解く。
儀式用だから、結び方も華美ではないのだと思っていたが、紫曄から話を聞いた今、そうではないと分かってしまう。
今夜の皇帝と月妃は、月への供物であり、その対価は一晩をかけて授かるもの。この衣装は、侍女がいなくとも脱ぎ着できるよう配慮されているのだ。
そういえば、これを着せてくれた麗々がやけに着付けの手順を説明していたな。凛花はそう思い、ほんのり頬を染める。
「でも、助かったわ」
するりと腕を抜き、肩から衣を滑り落とす。
そして玻璃の天井から望む月に『変わりたい』と願いを掛けた。
トットットッ、と床石の上を走る凛花は、そのままぴょん! と牀に上がった。虎猫の体は身軽で柔らかい。だから寝入っている紫曄の腕の下をくぐり、その懐に潜り込むことだって簡単だ。
(ふふ。これでぐっすり眠れるでしょう!)
凛花はくつろげられた紫曄の胸元に、柔らかな頬を擦り寄せる。すると紫曄の腕が、無意識のままに虎猫の凛花を抱きしめた。
「にゃっ」
いつものように撫でられて、ふわふわの毛に指をうずめる。
だけど今夜は容赦がない。いつもはギリギリ避けてくれていた腹や尻尾にまで手を這わせ、いつの間にか頭を吸われている。
「むぅ。ンー……」
腹や尻尾はゾワゾワするのでやめてほしい。だけど凛花は、今夜に限り許してあげようと思う。
応援ありがとうございます!
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