月華後宮伝

織部ソマリ

文字の大きさ
上 下
50 / 65
虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う

虎猫姫は冷徹皇帝と琥珀に惑う-2

しおりを挟む
 戻った朱歌を迎え入れたばかりの暁月宮は、まだ門に灯りがともされている。この時間にしては宮女が多く目に付くが、衛士えじたちは落ち着いた様子だ。

「危険が起きたようではありませんが、薄月宮のほうも何やらざわついております。急ぎ朔月宮へ戻りましょう」

 凛花は頷くと、麗麗と共に早足でその場を後にした。
 朔月宮が近付くと、やはり妙なざわめきが聞こえてきた。門の前には出迎えの女官にょかんの姿がある。人が少ない朔月宮では珍しい光景だ。

「おかえりなさいませ。朔月妃さま」
「何かあったの?」
「その……」

 困惑顔をした女官にょかんの視線を追いかけ門をくぐると、目に飛び込んできたのは、濃い桃色、つややかな紅色の薔薇ばらの山だった。正面入口までをすっかり埋め尽くしている。

「すごい……!」
「凛花さま、まだお手を触れぬよう願います」

 留守中に持ち込まれたものだ。それについ先ほど、後宮に厄介な事態が起こっていると判明したばかり。麗麗が警戒するのも分かる。

「これはどうしたの? どなたが?」

 凛花は並んだ薔薇ばらを見回し女官にょかんに尋ねる。物凄い数の鉢植はちうえだ。
 花弁かべんの縁が波打ち、幾重にも重なった大輪の薔薇ばらは、芍薬しゃくやく牡丹ぼたんにも似ている。それにこの華やかさと色は、つい先ほど見た人物を思い起こさせる。この色は、琥国の王太子、琥珀王女がまとっていた色にそっくりだ。

「この薔薇ばらは先ほど届きました。琥国の王太子殿下からでございます。『お近づきのしるしに』と、殿下のお使いの方が持ってこられて……。朔月妃さま。いかがいたしましょう」

 女官にょかんは困惑顔で、どこか恐れている様子まである。彼女だけではない。周囲で窺っている宮女官にょかんも同様だ。

(なんだか妙な緊張感ね? 大量の薔薇ばらの扱いに困っているのか……ああ、毒物を警戒しているとか?)
「大丈夫だとは思うけど、危険な植物でないかを確認して、それから庭に運び入れましょう」

 そう言ったが、なぜか女官にょかんたちの表情が曇っている。面倒を言ってしまったか? しかし一応の用心は必要だ。後宮で月妃が害された事例は多々ある。
 とはいえ、後宮への出入りは人も物も厳重に管理されているし、今回は突然の訪問だ。誰かがこの機会を利用する準備期間もない。
 それに贈り主はあの琥国の王太子だ。彼女が凛花に毒を贈る利点はないし――と、そう思ったところで、凛花は「そうか!」と気が付いた。
 月祭に出席した凛花たち以外の皆は、琥国の王太子が王女だとは知らない。王太子は当然、王子だと思っているのだ。
 それなら女官にょかんたちの困惑も頷ける。男性である王太子が、皇帝を通さず後宮の月妃に贈り物をするのは非常識。しかも『お近づきのしるし』と言付けられた花の贈り物は、『お誘い』にも取れる。

「皆に伝えておきます。察していると思うけど、後宮に客人として、琥国の王太子殿下が滞在されています。この薔薇ばらのように華やかな殿下です」

 えっ、と女官にょかんの口から声が零れた。そして直後、きゅっと唇を引き結び表情に硬いものを滲ませた。
 男性でないのなら、贈り物については問題ない。だが、後宮に新たな女性が入ったことは問題だ。主である朔月妃・凛花の、寵姫ちょうきとしての立場を揺るがせてはならない。凛花の立場が変われば、仕える彼女たちにも影響が及ぶのだ。

(でも、王女なら王女で『お近づき』の意味はガラッと変わるのよね)

 凛花は微笑み薔薇ばらを眺めつつ、内心でそう呟く。

(『後宮妃として仲良くしましょう』という意味にも取れるわよね)

 主上は一時的な滞在先として佳月宮を提供したつもりでも、周囲はそう見ないし、この贈り物によって王女の意識を知ることができた気がする。
 琥珀王女は、紫曄の妃になるつもりだ。

「凛花さま。これは寵姫ちょうきへの宣戦布告でございましょう。無礼です。突き返しましょう!」
「いいえ。受け取ります」
「受け取るのですか⁉ ハッ! 受けて立つ、お前など敵ではない……という意思表示ですね!」

 麗麗は興奮ぎみだ。月祭で見た王女は、凛花を見下すような、値踏みするような視線を向けていて、腹立たしく思っていたからだ。

「なるほど。贈り物を突き返すより、相手は悔しく思いましょう!」
「麗麗。そうかもしれないけど、薔薇ばらに罪はないわ。それに小花園しょうかえん薔薇ばらはないでしょう? ちょうどいいから植えようかと思って」
「えっ。主上から頂いた小花園に、植えるのですか?」
「ええ。そうだ、朔月宮にも植えてみましょうか。根付くかどうか、楽しみね」

 育て方を調べなくては。その前に、これはなんという名の薔薇ばらだろうか。
 涼しい雲蛍州でも薔薇ばらは見かけたが、薬草ではない薔薇ばらは、凛花にとって馴染みが薄い。森で見掛けて「野ばらだな」と思う程度だった。

(でもこれ、薔薇ばらにしては香りが弱くない?)

 華やかな外見に反しての控えめな香り。王女と同じだなと思う。
 凛花はフフッと笑みを零す。凛花にとって、新しい植物を育てることは楽しみ以外の何物でもない。
 しかし、そんな気持ちが溢れた笑みだったのだが、麗麗や女官にょかんたちは目を丸くして、それぞれ主の笑みと言葉の意味を推し量っていた。
 麗麗は、凛花にとって大切な小花園に、敵から贈られたものを受け入れる度量が素晴らしい! と感じ、ひとりの女官にょかんは、小花園に薔薇ばらを加えるのは、『お前など呑み込んでやる』という意思表示かと頷く。
 また他の女官にょかんは、朔月宮に植えるということは、月妃として並び立つことを受け入れるという意味か? いや、『根付くかどうか、楽しみね』の言葉は『月妃として寵愛ちょうあいを得られるか見ものだ』と言っているのでは。
 そんなふうにも考え、宮の中へ入っていく凛花を見送った。


 ◆


「ねえ、麗麗。明日は書庫へ行こうと思うの」

 薔薇ばらの育て方を調べなくては。早く書庫に行って調べたい。王女に聞ければ一番いいが、それは難しいし、そもそも王女が花の名や、育て方を知っているのか分からない。たぶん、普通の王女は知らないのではと思う。

「明日は少々難しいのでは? 朝起きられますか?」
「……そうね。厳しいかも」

 この後、凛花には一晩かかる予定がある。
 月祭の本番はこれから。凛花には寵姫ちょうきとしての仕事が待っているのだ。

「さあ凛花さま。神月殿へ行く準備をいたしましょう!」

 麗麗の言葉を合図に、待機していた女官にょかんたちが凛花を囲んだ。
 用意されている衣装は白一色。銀髪の凛花が着ると全身真っ白になってしまうが、神月殿の儀式でまとう衣装は白と決まっている。
 手早く着替え、最後に控えめに結った髪にかんざしを挿す。かんざしには朔月妃の色である、薄い水色――白藍色しらあいいろの石が輝いている。儀式の衣装では、身分を示す色のみ着用が許されているからだ。
 あっという間に準備を終え、白藍色しらあいいろの羽織りを身に着けた凛花は、足早に朔月宮を出る。神月殿へは紫曄とは別の馬車で向かうことになっており、段取りでは神月殿で月妃が皇帝を迎えることになっている。先に着いていなければならないので、急がなくては。バタバタと出掛ける凛花の目に入ったのは、まだ門の辺りに置かれていたつややかな薔薇ばらだ。
 向かい合わせの会場で相対した王女は、自信に満ち溢れ、己を誇ることに恐れがないように見えた。

(きっとあの王女は、虎に変化することを誇りに思っている。……私とは正反対ね)

 堂々とした彼女の背中には、本当に金虎がられているのだろうか? と同じ図柄なのだろうか。彼女はそれを、知っているのだろうか。
 凛花は自分と同じ人虎の、二人の琥珀に想いを馳せた。


 ◆


 神月殿へ到着した凛花は、無事しきたり通り紫曄を出迎えた。
 麗麗はここへ来た馬車に乗り、既に後宮へ戻されている。ここからは限られた月官げっかんと、皇帝と月妃のみで儀式に臨む。
 一般の月官げっかんは、それぞれの役目を果たすため各部署に籠り、月が沈む朝まで出てこない。祈る者、占う者、書き記す者。誰にとっても、月祭は一年に一度の特別な夜だ。
 紫曄と凛花は、神月殿長に先導され特別な祈りの場である『奥宮おくみや』へと向かう。古くは皇帝と皇后こうごう初夜しょやを迎える場だったというあの場所だ。

「主上。朔月妃さま。月が昇っている間、お二人は月の女神に感謝と祈りを捧げますように。そして金の祝福と銀の加護かごを賜りますように」

 離れのような奥宮へ続く通路の前で、神月殿長が決まり文句で礼を取る。ここからは皇帝と月妃の二人きり。そして私語も厳禁となる。奥宮へ入り、最初の儀式を終えるまで二人は無言を守らねばならない。
 紫曄は凛花の手を取り、金桂花きんけいかが囲む白い敷石の上を進む。咲き誇る金桂花の香りに囲まれ、頭上からは早咲きの金桂花がヒラヒラと舞っている。
 月と金桂花が、二人の白い衣装と足下を黄金に染めていた。


 二人が白い奥宮へ入ると、今夜はその奥――其処こそが奥宮なのだが、月祭の夜にだけ開かれるその場へと足を踏み入れる。
 その瞬間、凛花は心の中で「あ……!」と声を上げた。

(銀桂花の木がある!)

 懐かしい涼やかな香りに凛花は鼻をそよがせる。
 奥宮は屋内でありながら、銀桂花の周囲だけはむき出しの地面で、その手前には祭壇さいだんがあった。そして宮の中央には大きな水盆すいぼんが置かれ、台座には月や桃、杯など様々なものが彫り込まれている。鏡のような水面を覗き込むと、そこには白い天井ではなく夜空が映り込んでいた。
 凛花が見上げると、高い天井の中央部分は玻璃はりが嵌め込まれており、夜空が透けている。もう少しすればきっと、ここから月が見えるだろう。

(不思議な場所。それにここ……雲蛍州の『奥宮』とよく似てる)

 銀桂花の木があり、祭壇さいだんに、水鏡の水盆すいぼん。宮の作りも、祈りの場ということも雲蛍州と同じ。こんなところで遥か昔に分れた虞家と胡家の繋がりを感じるとは。

(銀桂花と金桂花という違いはあるけど、月祭の祝い方は同じなのかな)

 凛花がそんなふうに思い奥宮を見回していると、不意に繋いだ手が引かれた。紫曄が祭壇さいだんを指差している。
 そうだった。今はまだ儀式の始まり。進めなければ口を開くことすらできない。
 凛花は紫曄とともに祭壇さいだんに歩み寄る。教えられた手順は、まず供えられた金桂花酒きんけいかしゅと銀桂花酒を口にすること。皇帝は金桂花酒を、月妃は銀桂花酒と決められている。

(嬉しい……皇都こうとでは銀桂花酒を飲まないみたいだったから、儀式で飲めるの楽しみにしてたのよね)

 酒好きというわけではないが、月祭には銀桂花と銀桂花酒。それがお決まりだったので、金桂花ばかりの月祭を凛花は少し物足りなく思っていた。
 しかもこの銀桂花酒は、儀式のために神月殿で特別に作られたもの。月官げっかんたちにも振る舞われるそうで、麗麗や朱歌も楽しみにしていたらしい。
 凛花は銀桂花酒の杯を傾けると、その甘さにまばたいて、唇に付いた銀桂花の花をぺろりと舐めた。

「あとは水鏡に月が映る頃、水盆すいぼんに金桂花酒と銀桂花酒を捧げれば儀式は終了だ」

 紫曄はふぅと息を吐き、しんだいに腰掛け言った。
 この奥宮には軽食や金桂花と銀桂花の酒やお茶が用意されている。月が頂点に昇るまでにはまだ時が掛かる。のんびり待つしかないが――

「紫曄、お疲れですね」

 凛花は紫曄の隣に腰掛け、ぽんぽんと自らの膝を叩く。

「昨夜から儀式続きでしょう? 少し休みませんか」
「今寝たら起きられない気がする……」

 と言いつつ紫曄はごろりと横になり、凛花の膝に頭を預け、目を閉じる。さらりと広がった黒髪を、凛花がそうっとく。すると「すぅ……すぅ……」と小さな寝息が聞こえてきた。
 凛花はあっという間に微睡まどろみへ落ちてしまった紫曄を覗き込み、思わず笑みを零した。

「ふふっ」
「……ん」
「あ、起こしちゃってごめんなさい」
「いや、眠るつもりはなかったんだが……」
「ふふふ。お疲れなのは心配ですけど、でも、うたた寝ができるようになってよかった」

 元々は、安眠のための抱き枕から始まった関係だ。そんな紫曄から、『眠れない』ではなく『起きられない』という言葉が出るようになったのはいいことだと思う。

「そうだな。だが今夜は、満月が昇るのを待たなければならない。それにこの酒も飲み干さねばならんしな」
「えっ、これも儀式の一部だったんですか」

 卓に置かれた金桂花酒と銀桂花酒を指差す。用意されている酒は嗜む程度の量。これなら二人でも、食事をしながら飲み干せそうだと凛花はホッとする。

「今夜の我々は月への供物くもつらしいからな。祈りと感謝を込めた酒に身を浸し、女神に身を捧げることで褒美ほうびを得るのだと」
「ご褒美ほうびですか。いいものを下さればいいけど……」

 祈り、身を捧げることで得られる褒美ほうびとはなんだろうか。虎化するこの身を捧げたなら、金銀の桂花酒と共に、虎化の能力も貰い受けてくれたらいいのに。凛花はそんなふうに思う。

「いいものか……。凛花? この宮はなんのための場所だと言ったか、覚えているか?」

 寝転んだままの紫曄が、凛花の長い髪を軽く引く。なんだか上機嫌というか、面白そうな笑みを浮かべた顔で見上げている。

「……えっ」
『昔はこの場所で、皇帝と望月妃は初夜しょやを迎えたらしい』

 以前、神月殿詣しんげつでんもうでと称してここに宿泊した時、紫曄はそう言っていた。ということは、この場で月の女神から得られる『いいもの』とは……
 凛花の頬に、じわわと朱が差す。

「ご褒美ほうびがほしい? 凛花」

 銀の髪を指にくるくる絡め、凛花を引き寄せ紫曄が尋ねる。

「神月殿長が、月が昇っている間、月の女神に感謝と祈りを捧げますように。そして金の祝福と銀の加護かごを賜りますように……と言っていただろう? あれは一晩かけて、褒美ほうびという意味だ」

 紫曄がニヤリと微笑む。凛花は目を丸くして益々頬を赤く染め上げた。

(あれって、そういう意味だったの⁉)

 神月殿長のくせに何を言ってくれたのか。そこに含まれた意味を知らず、頷き微笑み返してしまった凛花は羞恥に悶える。

「月祭の夜に授かった子は、月の加護かごが強いらしい」

 紫曄は枕にしている凛花の太ももを指でくすぐり笑う。

「期待に応えてみるか?」
「……だめ」

 悪戯いたずらな指をそっと掌で押さえ窘める。揶揄からかい半分、本気も半分。紫曄のそんな声色に、凛花の声がほんの少し震えた。
 怖いからではない。散々、中途半端に甘く過ごした記憶のせいで、思わず「はい」と言いかけ舌がもつれたからだ。

「今は駄目です。……あ、月がだいぶ昇ってきたようですね」

 窓を見上げて言う。二人には、月が頂点に届く前にやらなくてはならない事がある。

「金桂花酒と銀桂花酒を飲み干すか」

 はぁ、と一息零し、紫曄は若干残念そうに呟いた。


 ◆


「美味い」

 紫曄の杯に入っているのは銀桂花酒だ。最初の儀式では、皇帝は金桂花酒と決められていたが、ここで飲むのは金でも銀でも自由だ。

「でしょう! この銀桂花酒は特に美味しいです。香りがすごく良くて、最高」

 鼻に抜ける香りに目を閉じれば、満開の銀桂花が見えるよう。凛花も上機嫌で白い花が躍る杯を傾ける。

「これを昨年まで月官げっかんが独占していたとは、惜しいことをした」
「え? 紫曄は銀桂花酒を飲んだこと、なかったんですか?」
「ない。今夜が初めてだ。皇都ここで銀桂花酒を作っているのは神月殿くらいだ。それも儀式用でしかない」

 献上させればよかったなと言いながら、紫曄は唇を舐め二杯目をたっぷり注ぐ。

「昨年までは月妃がいなかったからな。月祭の儀式は俺一人だ」

 だから口にしていたのは最初の儀式での金桂花酒のみ。皇帝一人の奥宮には、夜を過ごすための酒は用意されず、軽い食事だけだったと紫曄は続ける。

(月妃がいなければ用意されない? それって……)

 月祭の夜の褒美ほうび。授かりもの。そんな話の後に聞くと、まるでこの酒には何か特別な目的があったり、作用があったりするのでは。そんな風に思ってしまうが、警戒しても遅い。
 あまりにも美味しい銀桂花酒は、みるみるうちに紫曄が飲み干し、金桂花酒も杯に入っているだけになった。
 しばらく経つと、瞳をとろりとさせた紫曄が襟元えりもとをくつろげ、椅子にもたれていた。

「大丈夫ですか? お酒、あまり強くなかったんですね」
「いや、そんなことは……?」
「疲れが出たのかもしれませんね。それとも初めて飲む銀桂花酒が合わなかったか……」
(銀桂花以外に、何か薬草が入っていそうな香りもするし……そのせいかも?)

 凛花はなんともないので、毒や媚薬びやくたぐいではない。
 だけどこの銀桂花酒は、普通の酒ではない。凛花の鼻と舌はそう思う。神月殿の特別製と聞いたが、一体どのように造り、何を入れているのやら。

(すごく美味しいし、甘いし、香りも味も何もかもが引き上げられている感じ。何か特別なものでも入っているのかと思ったけど、私の記憶に引っ掛かるものは入っていないっぽいのよね)

『薬草姫』と呼ばれる凛花だ。
 酒も薬のうち。酒に使うような香草や木の実、隠し味は大抵知っている。味では分からなくても、匂いには敏感だ。虎の嗅覚は鋭い。

「う……ん。お前はなんともないな」
「そうですね……? 慣れでしょうか?」

 凛花はなんともないどころか、妙に元気というか、虎の感覚が冴え渡っている気がする。風に揺れる金桂花の葉音だけでなく、遠くであげられている祝詞のりとまで聞こえている。集中すれば、ありもしない月光が降り注ぐ音まで感じられそうなくらい。

「はー……飲みすぎたか」
「そんな日もあります。紫曄、横になりましょうか」

 くたりとしている紫曄に肩を貸し、牀榻しょうとうまで連れていくと、横たわらせようとした凛花の腕がグイッと引っ張られた。

「わっ」

 ぺたりと紫曄の胸に倒れ込む形となり、ぎゅっと抱きしめられる。紫曄の熱い体温が伝わって、少し早い鼓動が耳だけでなく全身に響く。

「凛花」
「ふふっ。どうしたんですか? 酔っ払いの甘えん坊でした?」
「お前が笑ってくれてよかった……」
「どうしたんですか? 本当に」

 紫曄は虎猫の凛花を抱え込むように、凛花を抱きしめる。

「琥国の王太子を、王女だと知らず後宮に滞在させてしまった。しかも佳月宮だ……」

 ぼそぼそと小さな声。失敗を見られてばつが悪い、そんな子供のような声だ。凛花はクスリと笑うと、ぎゅうっと抱き返し、慰めるようにその背をぽんぽん叩いた。

「そうですね。まずい失敗でした」

 失敗は失敗。だけど今回は仕方がない部分もあった。琥国は基本的に鎖国さこく状態なので、情報が入りにくい。ひょんなことから出会い、今では協力体制をとっている『琥珀』から、もっと話を聞いておけばよかったと後悔してももう遅い。

「失敗だと凛花に言われるのは堪えるな……はぁ。いや。すまない。言い訳だが、まさか琥国の王太子が王女とは思わなかった」
「私もです。でもよく考えれば、琥国には女王がいたことがあったんですよね」

 王太子が王女である可能性を、視野に入れておくべきだった。
 書庫で調べものをしている時、凛花は何代か前の琥王が女王であったという記録を目にしている。きっと紫曄も知っているはずだ。
 しかし思い込みとは恐ろしいもの。月魄国をはじめ、周辺国では男子が家督かとくを相続するのが一般的。だから紫曄たちは、『王太子』が王子だと思い込んでしまった。それは凛花にも言える。
 虞家は月魄国の中にありながら、女性が家督かとくを継ぐこともある家だ。実際に、後宮に入らなければ、次の虞家当主は凛花だった。だというのに、月魄国の常識に囚われてしまっていた。

虞家うちが女当主を認めているのって、元は琥国から来た一族だったからなのかな)

 思わぬところで繋がりを見つけてしまった気がする。

「はー……凛花」

 ぼんやりと潤んだ瞳で紫曄が見上げた。
 気怠げで妙に色っぽくて、凛花はドキリとしてしまう。乗り上げている紫曄の胸からは、どくどくと心音が響いてくる。なんだか、凛花の中に潜んでいる、虎の獰猛どうもうな部分が刺激されてしまいそうだ。

「凛花。しばらく朔月宮へ行けないかもしれん」
「はい」

 分かっている。上位である琥国の王女を差し置いて、朔月妃のもとを訪れるわけにはいかない。それが身分で構築された世界の常識だ。

「すまない。王太子は早めに自国へ帰ってもらうようにする」
「はい」

 凛花は紫曄の胸にぺたりと額を付ける。ついさっきまで、舌なめずりをしていた内なる虎も、今は半分ねてしゅんと丸まっている。

「凛花。妃を増やすつもりはない」

 さらりと銀の髪を熱い掌が撫でる。何度も何度も、頭から背中を優しくなぞる。虎の姿だったなら、ゴロゴロと喉を鳴らしているところだ。

「……はい」
「凛花」 
「はい。…………紫曄?」

 そっと顔を上げると、紫曄は瞼を閉じていた。

「ふふっ。おやすみなさい、紫曄」

 酔って眠ってしまうなんて、相当疲れているのだろう。その証拠に、いつもはがっちり抱き込んでいる腕も今夜は緩い。凛花は紫曄を起こさぬようにとそっと抜け出す。
 そして窓から空を見上げた。この窓からは、もう月は見えていない。

「そろそろね」

 月祭の儀式はまだ残っている。
 凛花は一人で銀桂花の木のもとへ向かう。しばらく花を見上げその香りを楽しむと、手前にある祭壇さいだんから、供えられていた金と銀の桂花酒を手に持った。
 くるりと後ろを向けば、白一色の祈り間に淡い月の光が差し込んでいる。じき満月が頂点に達する。凛花は中央に置かれた水鏡へと急ぐ。覗き込むと、静かな水面に真ん丸の月が見えた。

(月の女神さま。皇帝ではなく月妃のみでの奉納ほうのうですが、どうか貴女様のしもべである白虎の身に免じてお許しください)

 心の中でそう祈り、月が映る水盆すいぼんに金銀の桂花酒を注ぎ、捧げる。

「よし」

 呟き頷いた凛花の髪から銀桂花の花が舞い、満月の水鏡をゆらり揺らした。
 これで公式の儀式は終了だ。慣例ではこの後、月妃のお役目が期待されていたようだが――
 凛花は水鏡を見つめ少し考えて、そっと衣装の帯紐を解く。
 儀式用だから、結び方も華美ではないのだと思っていたが、紫曄から話を聞いた今、そうではないと分かってしまう。
 今夜の皇帝と月妃は、月への供物くもつであり、その対価は一晩をかけて授かるもの。この衣装は、侍女がいなくとも脱ぎ着できるよう配慮はいりょされているのだ。
 そういえば、これを着せてくれた麗々がやけに着付けの手順を説明していたな。凛花はそう思い、ほんのり頬を染める。

「でも、助かったわ」

 するりと腕を抜き、肩から衣を滑り落とす。
 そして玻璃はりの天井から望む月に『変わりたい』と願いを掛けた。


 トットットッ、と床石の上を走る凛花は、そのままぴょん! としんだいに上がった。虎猫の体は身軽で柔らかい。だから寝入っている紫曄の腕の下をくぐり、その懐に潜り込むことだって簡単だ。

(ふふ。これでぐっすり眠れるでしょう!)

 凛花はくつろげられた紫曄の胸元に、柔らかな頬を擦り寄せる。すると紫曄の腕が、無意識のままに虎猫の凛花を抱きしめた。

「にゃっ」

 いつものように撫でられて、ふわふわの毛に指をうずめる。
 だけど今夜は容赦ようしゃがない。いつもはギリギリ避けてくれていた腹や尻尾にまで手を這わせ、いつの間にか頭を吸われている。

「むぅ。ンー……」

 腹や尻尾はゾワゾワするのでやめてほしい。だけど凛花は、今夜に限り許してあげようと思う。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

9番と呼ばれていた妻は執着してくる夫に別れを告げる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:88,970pt お気に入り:3,081

鎌倉お宿のあやかし花嫁

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:34

あやかし鬼嫁婚姻譚

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:255pt お気に入り:1,226

深夜の背徳あやかし飯~憑かれた私とワケあり小料理屋~

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:622

鬼束くんと神様のケーキ

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:115

月が導く異世界道中

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:51,973pt お気に入り:54,569

神さまお宿、あやかしたちとおもてなし

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:158

転生王子はダラけたい

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:6,816pt お気に入り:29,433

ぽんこつ陰陽師あやかし縁起 京都木屋町通りの神隠しと暗躍の鬼

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:328

訳あって、あやかしの子育て始めます

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:468pt お気に入り:337

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。