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ラウンド1 可愛い……だと?
しおりを挟む『―――ありがとうございました。』
彼から初めてあの言葉を聞いた日の衝撃は、今でも忘れられない。
『あなたがいなかったら、僕は……くそ兄貴の亡霊に憑りつかれたまま、アルシードとしての心も人生も捨てていたでしょう。そしてきっと、それがどういう意味を示すのかにも、永遠に気付けなかった。キリハ君とロイリアを助けられたのは……あなたのおかげです。』
ものすごく不本意そうな口調。
どこか拗ねたようにも見える、そっぽを向いた目。
仄かに赤らんだ頬。
さすがの彼も、礼を言わざるを得ない状況だったというのは分かる。
キリハやルカのためにロイリアを助けたいのに、〝ジョー〟であること捨てて〝アルシード〟として動く一歩を踏み出せずにいた彼に語りかけ、その背中を押したのは自分だから。
初対面から危険な香りを隠さなかった、ジョー・レインという男。
彼がルルアの内部に仕込みを入れていると知り、最初は危機感から彼のことを調べさせた。
そして、その結果に愕然としたのを覚えている。
今ジョー・レインとして生きている彼が、兄の皮を被った弟のアルシード・レインであると。
その衝撃の真実は、最初は確証もないただの憶測でしかなかった。
何せ、アルシードに関する情報は、セレニアから綺麗に抹消されていたのだ。
それはもう、不自然なほどに。
そしてルルアでも情報を掻き集めて、古参の薬学研究者の一人から、幼き天才科学者ことアルシードの功績と、それが生んだ悲劇を聞かされた。
それと同時に、ジョーがディアラント経由で作った伝手を使って、ルルアに存在する論文や資料からアルシードの名を消させていることも分かった。
ここまで執拗に弟の情報を消すのは、それだけ弟の存在が目障りだからなのか。
同じ研究者から、ジョーがアルシードをテロ組織に売り渡して死なせた可能性があるとも聞いていたので、最初はそう思った。
……だが、調べを進めるうちに違和感を抱いた。
ジョーはアルシードの情報を徹底的に消す一方で、自身に関する情報には手を出していなかったのだ。
―――おかしい。
犯罪に問われないほど幼い時の行為だからと開き直っているとしても、自分の過ちは隠したがるのが普通だろう?
あれだけ正確に情報を操作できる技術があれば、弟の情報と共にその情報だって消せたはずだ。
それなのに、あえて自分に関する情報を遊ばせているのは、むしろ自分を疑ってほしいからだとしか考えられない。
消化できない違和感は、ウルドが仕入れてきたレイン兄弟の写真を見たことで、さらに大きくなった。
(似ている……)
髪や瞳の色も、物腰柔らかな雰囲気も。
レイン兄弟は、本当によく似ていた。
(まさか……事故をきっかけに、兄弟が入れ替わったのか…?)
にわかには信じ難い答えだったが、それをきっかけに認識がひっくり返った。
もはや空想の世界に近い推測だが、こんなにありえる推測もない。
その証拠だとでもいうように、ジョーが弟を殺したのだと親戚たちが囁くのに対し、事件を事細かに知る両親だけは、その件に黙秘を貫いている。
そして極めつけは、アルシードが死んでからジョーが転校先の中学校に復帰するまでの、空白の一年半。
体調を崩しての療養期間だったとされているその一年半が、アルシードが兄の体格に追いつくまでの準備期間だったとしたら?
思考を巡らせながら、眩暈がするようだった。
彼がジョーではなくアルシードだったとして、こんなことをした理由はなんだ?
真っ先に頭に浮かんだのは―――復讐。
親戚の中では、ジョーの立ち位置は底辺に堕ちている。
そして、今の彼の周りにいるのは、ほんの一握りの味方と数え切れないほどの敵。
この状況で彼が死んだとしても、ほとんどの人間が〝自業自得だ〟と一笑に付して悲しまないだろう。
まさか、それがアルシードの目的なのか?
そう考えるなら、ジョーが貶められているこの状況は、弟であるアルシードにとってかなり得であろう。
アルシードとしての人生を捨ててジョーの人生を潰すくらい、彼は兄のことを憎んでいるとでも?
それならば……必然的に、ジョーがアルシードを売ったという噂が事実だと証明される。
この推測が真実かを確かめるために、あの日ジョーの元へ乗り込んだ。
そして、レティシアたちの生体情報を見せてくれと言いながら彼に近寄って―――推測が確信に変わった。
ディスプレイには、レティシアたちのバイタル情報。
彼の手元には、血液や鱗の成分表に、様々な推論が並べられた手書きのノート。
いくら情報の権化といえども、ドラゴンの生体情報まで網羅する理由などない。
しかも、なんの専門知識もなしに、どうやってこのデータを読み解くというのだ。
明らかに、彼は科学に精通した人間だった。
しかも、たったこれっぽっちの生体情報から、ここまで大量の推論を導き出せるほどに、その頭脳は抜きん出ている。
一般的な科学者がどんなものか知っていれば、彼が内に秘めている能力の高さが分かるはずだ。
そうして写真と共に本当の名を突きつけた時、彼の瞳の奥にある深淵を垣間見た。
その深淵から真実を悟った口から零れたのが、『あまりにもお前が憐れだ』という言葉だった。
だって、それ以外に言える言葉があるか?
今の彼は、ある意味自分の望みどおりに生きているのだろう。
だがその代わりに―――彼は傷を癒すどころか、自ら傷を深くしながら生きているのだ。
憎むべき兄を忘れないために、他でもない自分自身を殺しながら生きる。
それは、どんなに残酷な道だろうか。
彼の能力が、いずれはキリハの助けになるだろう。
そう思って取りつけた取引だったが、彼には強制的に〝アルシード〟を思い出させる誰かが必要だとも思って、彼を揺さぶる機会を繋ぐために持ちかけた取引でもあった。
その結果がこれだ。
彼がアルシードとしての矜持を取り戻せたのなら、私のこれまでの苦労も報われるのだが……
(可愛い……だと?)
月明かりとわずかな照明に照らされた奴の姿に、まともな思考能力が弾け飛んでしまった。
おい。
お前、そんな子供っぽい顔ができたのか。
いつもの鉄壁スマイルよ、どこへ行った。
『じゃあ、言うべきことは言いましたから。もう無駄に絡んでこないでくださいね?』
一方的に話を切り上げられ、その場から逃げられる。
それから思い出したように体が動くまで、ゆうに十分はかかったと思う。
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