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第16歩目 迷夢へ
今度こそ、本当の想いを
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物語の話から辿り着いた事実。
どくん、と。
心臓が大きく跳ねた。
では、彼がくれたこの名前は―――
「君に名前がないって知った時、私は迷わずにこの名前をつけようと思った。あの時は、ただ思い浮かんだ名前をあてただけだと思っていたんだが……なるほど、こういうことだったんだな。」
ヒンスは苦笑し、ミシェリアの手を包む力を強くした。
「ひどい仕打ちを受けて怯えていたのに、泣かずにまっすぐこちらを見てきた君の姿を、私はそのお姫様に重ねたのかもしれない。君が私にとって、ミシェリア姫みたいな存在になればいい。あの王子様のように、君を大事にできればいい。多分、無意識にそう思ったんだ。それなのに私は……大事な夢と一緒に、大事なものとの向き合い方も捨ててしまっていたらしい。」
ヒンスはゆっくりと目を閉じる。
そして息を細く吐いたかと思うと、ヒンスはミシェリアの肩に自分の顔をうずめた。
「分からなかったんだ。どうすれば、自分が守りたいものを大事にできるのか。守ることは簡単だ。君のことを悪く言う奴なんか、屋敷から追い出してしまえばいい。私に対する風評が耳に入らないよう、他の貴族が集まる場所には君を連れていかなければいい。私の仕事のことなんて何も考えなくていいから、まずはつらい過去の傷を癒すことに時間を使ってほしかった。そう思ったのに……全然上手くいかない。」
まるでそれは、懺悔のような声。
独白のように言葉を連ねるヒンスの体が、微かに震えた。
「やれるだけのことはやってるつもりだったのに、君はいつもどこかつらそうで、いつも何かを我慢していた。周りの悪意から守れれば、それが相手を大事にすることなんじゃないのか。もし違うなら、大事にすることはどういうことで、そもそも守ることはどういうことなのか……何も分からなくて、君にどんな言葉をかければいいのかも分からなかった。」
その懊悩はいかほどか。
それは、大きく歪んでいる表情に滲む悔恨が語っている気がした。
「そのうち、君の心も自分の心も分からなくなって、君の反抗的な物言いに乗っかることでしか、場を繋げなくなっていた。家の品格がどうのこうのと、心にもないことばかりしか言えなくて。……私は愚か者だ。君のことを、死を選ばせるまで追い詰めて、こんな場所に突き落としてしまった。」
「―――っ。いいえ。……いいえ! 違いますわ!!」
ミシェリアは思わずヒンスの背中に手を回し、彼の体を掻き抱いた。
「旦那様だけが悪いのではありませんわ。わたくしも悪いのです。もっとちゃんと、あなたにお話を聞きに行けばよかったのです。それなのに……わたくしは、一人で勝手に思い込んで………」
だって、知らなかった。
自分のために、彼がどれだけのことをしていてくれたのかなんて。
使用人の入れ替わりが激しかった頃は、どうせ皆、自分が嫌で辞めていったのだと思った。
彼が自分を外に連れて歩かないのは、奴隷だった自分を連れ歩くのが恥ずかしいからだと思っていた。
彼が仕事に自分を関わらせてくれないのは、形だけの妻に仕事の領域まで汚されたくないからなのだと思っていた。
全部、自分の思い込みだ。
一度でもいいから、勇気を出して彼に理由を訊いてみればよかったのだ。
それなのに、答えを聞くのが怖くて逃げたのは自分。
結局自分は、本当の意味で彼を信じてあげることができなかったのだ。
ミシェリア、なんて。
こんなにも特別な名前をもらっていたのに。
「……ほんと、馬鹿みたいな遠回りだな。」
ヒンスは肩をすくめる。
「思い出した今なら、答えなんて簡単に分かるのに。私は、私の夢を支えてくれた物語たちから、ずっと昔にその答えをもらっていたはずなのにな……」
ヒンスは下げていた腕を上げた。
その腕を垂直に伸ばし―――自分を抱いてくれたミシェリアの体を抱き締める。
彼女の想いに応えるように強く。
自分の想いを伝えるように、もっと強く。
「君のことが好きだった。あの場所で、初めて君と目が合ったその時から。」
ようやく、その一言を音に乗せる。
「君が奴隷だったことなんて、一度も気にしたことはなかった。無理をさせてまで、貴族としての教養を身につけさせるつもりもなかった。ただ傍にいてくれるだけで、君の姿を見ていられるだけでよかった。君のことを見ていられるなら、好きじゃなかったこの仕事も、やっていてよかったと思えたんだ。でも、それが君を傷つけるだけなら、もうそんなものいらない。」
彼女と出会ってから五年以上。
そんなにも長い間でどうしても言えなかった本当の気持ちを、今度はちゃんと、はっきりと彼女に伝える。
「頼む。戻ってきてくれ。君が望むなら、この地位も何もかも捨てていい。君がいてくれれば、他には何もいらないんだ。誰よりも、何よりも―――君のことを愛している。」
「―――っ」
ああ、なんて幸せなんだろう。
ぽろぽろと涙を流しながら、ミシェリアは無我夢中でヒンスに抱きついた。
「……はい。………はい! あなたのお傍にいます。お傍にいさせてください。」
彼の傍にいたい。
たとえこれが、迷夢がもたらす甘い甘い幻だったとしても構わない。
今この心を満たしている幸せに酔いしれることができるなら、この身が朽ち果てたって―――
互いの体を強く抱き締め合っていた二人は、ふとした拍子に見つめ合い、ゆっくりと互いの唇を重ねた。
それはどちらから迫ったわけでもない、ごく自然に引き合うようにして交わされた口づけ。
「行こう。」
ヒンスは、ミシェリアに向かって手を差し出す。
「はい。」
ミシェリアは笑い、誰よりも愛しい人の手に自分のそれを重ねた。
どくん、と。
心臓が大きく跳ねた。
では、彼がくれたこの名前は―――
「君に名前がないって知った時、私は迷わずにこの名前をつけようと思った。あの時は、ただ思い浮かんだ名前をあてただけだと思っていたんだが……なるほど、こういうことだったんだな。」
ヒンスは苦笑し、ミシェリアの手を包む力を強くした。
「ひどい仕打ちを受けて怯えていたのに、泣かずにまっすぐこちらを見てきた君の姿を、私はそのお姫様に重ねたのかもしれない。君が私にとって、ミシェリア姫みたいな存在になればいい。あの王子様のように、君を大事にできればいい。多分、無意識にそう思ったんだ。それなのに私は……大事な夢と一緒に、大事なものとの向き合い方も捨ててしまっていたらしい。」
ヒンスはゆっくりと目を閉じる。
そして息を細く吐いたかと思うと、ヒンスはミシェリアの肩に自分の顔をうずめた。
「分からなかったんだ。どうすれば、自分が守りたいものを大事にできるのか。守ることは簡単だ。君のことを悪く言う奴なんか、屋敷から追い出してしまえばいい。私に対する風評が耳に入らないよう、他の貴族が集まる場所には君を連れていかなければいい。私の仕事のことなんて何も考えなくていいから、まずはつらい過去の傷を癒すことに時間を使ってほしかった。そう思ったのに……全然上手くいかない。」
まるでそれは、懺悔のような声。
独白のように言葉を連ねるヒンスの体が、微かに震えた。
「やれるだけのことはやってるつもりだったのに、君はいつもどこかつらそうで、いつも何かを我慢していた。周りの悪意から守れれば、それが相手を大事にすることなんじゃないのか。もし違うなら、大事にすることはどういうことで、そもそも守ることはどういうことなのか……何も分からなくて、君にどんな言葉をかければいいのかも分からなかった。」
その懊悩はいかほどか。
それは、大きく歪んでいる表情に滲む悔恨が語っている気がした。
「そのうち、君の心も自分の心も分からなくなって、君の反抗的な物言いに乗っかることでしか、場を繋げなくなっていた。家の品格がどうのこうのと、心にもないことばかりしか言えなくて。……私は愚か者だ。君のことを、死を選ばせるまで追い詰めて、こんな場所に突き落としてしまった。」
「―――っ。いいえ。……いいえ! 違いますわ!!」
ミシェリアは思わずヒンスの背中に手を回し、彼の体を掻き抱いた。
「旦那様だけが悪いのではありませんわ。わたくしも悪いのです。もっとちゃんと、あなたにお話を聞きに行けばよかったのです。それなのに……わたくしは、一人で勝手に思い込んで………」
だって、知らなかった。
自分のために、彼がどれだけのことをしていてくれたのかなんて。
使用人の入れ替わりが激しかった頃は、どうせ皆、自分が嫌で辞めていったのだと思った。
彼が自分を外に連れて歩かないのは、奴隷だった自分を連れ歩くのが恥ずかしいからだと思っていた。
彼が仕事に自分を関わらせてくれないのは、形だけの妻に仕事の領域まで汚されたくないからなのだと思っていた。
全部、自分の思い込みだ。
一度でもいいから、勇気を出して彼に理由を訊いてみればよかったのだ。
それなのに、答えを聞くのが怖くて逃げたのは自分。
結局自分は、本当の意味で彼を信じてあげることができなかったのだ。
ミシェリア、なんて。
こんなにも特別な名前をもらっていたのに。
「……ほんと、馬鹿みたいな遠回りだな。」
ヒンスは肩をすくめる。
「思い出した今なら、答えなんて簡単に分かるのに。私は、私の夢を支えてくれた物語たちから、ずっと昔にその答えをもらっていたはずなのにな……」
ヒンスは下げていた腕を上げた。
その腕を垂直に伸ばし―――自分を抱いてくれたミシェリアの体を抱き締める。
彼女の想いに応えるように強く。
自分の想いを伝えるように、もっと強く。
「君のことが好きだった。あの場所で、初めて君と目が合ったその時から。」
ようやく、その一言を音に乗せる。
「君が奴隷だったことなんて、一度も気にしたことはなかった。無理をさせてまで、貴族としての教養を身につけさせるつもりもなかった。ただ傍にいてくれるだけで、君の姿を見ていられるだけでよかった。君のことを見ていられるなら、好きじゃなかったこの仕事も、やっていてよかったと思えたんだ。でも、それが君を傷つけるだけなら、もうそんなものいらない。」
彼女と出会ってから五年以上。
そんなにも長い間でどうしても言えなかった本当の気持ちを、今度はちゃんと、はっきりと彼女に伝える。
「頼む。戻ってきてくれ。君が望むなら、この地位も何もかも捨てていい。君がいてくれれば、他には何もいらないんだ。誰よりも、何よりも―――君のことを愛している。」
「―――っ」
ああ、なんて幸せなんだろう。
ぽろぽろと涙を流しながら、ミシェリアは無我夢中でヒンスに抱きついた。
「……はい。………はい! あなたのお傍にいます。お傍にいさせてください。」
彼の傍にいたい。
たとえこれが、迷夢がもたらす甘い甘い幻だったとしても構わない。
今この心を満たしている幸せに酔いしれることができるなら、この身が朽ち果てたって―――
互いの体を強く抱き締め合っていた二人は、ふとした拍子に見つめ合い、ゆっくりと互いの唇を重ねた。
それはどちらから迫ったわけでもない、ごく自然に引き合うようにして交わされた口づけ。
「行こう。」
ヒンスは、ミシェリアに向かって手を差し出す。
「はい。」
ミシェリアは笑い、誰よりも愛しい人の手に自分のそれを重ねた。
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