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第10歩目 眩暈
信じられない自分の行動
しおりを挟む『あの子を、殺して?』
冷たく。
それでもどこか甘く。
何度もあの声が響いては、意識を絡め取っていく。
まるで、理性が甘い毒にどんどん溶かされていくよう。
全身が痺れて、それしか考えられなくなっていく……
「シュルク?」
「………え…?」
くい、と。
服の裾を小さく引かれて、ふと我に返る。
目の前には、全く手がついていない翻訳中の資料。
そして隣には、こちらを心配そうに見つめるフィオリアの姿。
「大丈夫? なんかぼーっとしちゃってたけど、具合悪いの?」
「あ…」
目が合い、シュルクは思わず息を飲む。
「ちょっと、最近寝不足でな……」
苦し紛れにそんな言い訳を口にし、シュルクはさっとフィオリアから目を逸らした。
あの夜から数日。
今まで以上にフィオリアとの距離感が分からなくなってしまい、彼女とまともに目を合わせられた試しがない。
それなのに、この間からセルカのお節介がパワーアップして、何かにつけてはフィオリアと一緒に仕事をさせられることが増えた。
今日だって、わざわざ別室で書類整理と翻訳作業を頼まれている状況だ。
ここ数日の気疲れの度合いは、以前の比ではなかった。
しかも、あれから毎晩リリアが霊神を使って声だけを送ってくるのがさらに厄介。
『焦らなくていいのよ。ゆっくりでいいわ。可愛い坊や。』
決まって黙り込む自分に、リリアは今までの狂気が嘘のように優しく言う。
それが気持ち悪くて仕方ない。
なんだか、常にリリアの手が首にかかっているような気分。
徐々に力を込められた結果息ができなくなって、空気を求めた自分がいつ何をやらかすのか分かったもんじゃない。
今だって、ちょっと気を抜くだけで頭に霞がかかる。
この状況において、自分以上に信用ならないものはないだろう。
それだけは確信できた。
「なんか、ほんとに変だね。いつもはもっとつっけんどんなのに。」
「俺だって生きてるんだから、調子が悪い日の一日や二日くらいあるっての。」
これでも極力、いつもどおりを装うように意識しているつもりだ。
しかし、こうやってフィオリアに異変を悟られるということは、それだけ自分が参っている証拠なのだろう。
覇気のない声で言うシュルクに、フィオリアが眉を下げた。
「ねぇ、本当に大丈夫? お手伝いなんてしてる場合じゃないんじゃないの? 私、セルカさんたちに話してくるから、今日は休もうよ。」
「………」
「シュルクったら!」
何度も肩を揺さぶられ、半ば強制的にフィオリアと目を合わせられる。
「……頼むから、しばらく放っておいてくれ。」
「だめ。お願いだから、今日は休んで。本当に顔色悪いよ?」
「ああもう…。なんでお前は……」
シュルクは大きく息を吐いた。
なんてお気楽なんだろう。
目の前にいる奴がいつ自分を殺すかも分からないというのに、暢気にそいつの心配をするなんて。
本当に―――――イライラする。
頭が冷たく痺れて、鼓動がやけにゆっくりと響く。
……お前はもっと、危機感というものを持つべきだ。
フィオリアへの思いは、心の奥底だけでゆらゆらと揺れて消える。
自分の非力さを分かってるのか?
いくら霊神召喚ができたって、そんなものより数倍も早く迫ってくる物理的暴力に勝てるわけじゃない。
例えば、今ここで俺がお前の首を締めたとしたら、お前は霊神召喚なんてする間もなく死ぬんだぞ?
お前が、俺の力に勝てるわけがないんだ。
そしたら、お前なんてあっさり―――
そう。
きっと……
簡単に―――
「シュルク?」
「―――っ!!」
澄んだ声が鼓膜を叩く。
それにハッとして、シュルクはまばたきを繰り返した。
「今……俺…………」
なんだか、白昼夢を見ていた気分だった。
「シュルク、やっぱ休まなきゃだめだよ。今にも倒れそうだもん。」
フィオリアはこちらを見上げて、瞳を潤ませている。
そんな彼女の首元に今にもかかろうとしている―――自分の手。
それを視認した瞬間、体中の血という血が勢いよく引いていった。
「―――っ!?」
シュルクは慌てて立ち上がって、その場から勢いよく退いた。
その拍子に背後にあった棚にぶつかってしまい、上の方に置いてあった物が落下してくる。
「シュルク!?」
物が落ちる派手な音も、フィオリアの叫び声も、まるで夢を見ているかのように、ぼんやりとしか聞こえてこない。
それくらいに動揺していた。
(俺、何しようとしてた…?)
ばくばくと暴れる心臓を押さえるように胸に手をやって、もう片方の手で震える唇を覆う。
こんな感覚知らない。
こんな、自分の体が自分のものじゃないような感覚なんて。
(俺は……何を考えて……)
彼女に惹かれている自分がいるのは事実。
でもその中に―――彼女に対して、どす黒い感情を持つ自分もいるのか?
もしそんな気持ちが、彼女に手を伸ばしたのだとしたら……
「………っ」
気持ち悪い。
地面が揺れる。
今ここに立っているのが誰なのか。
それすらも分からなくなりそうだ。
「シュルク、大丈夫!?」
血相を変えて駆け寄ってくるフィオリア。
やめてくれ。
俺に近寄るな。
本当に、何をするか分からないから……
今まさに起きたかもしれない〝もしも〟を全神経が拒絶しようとして、現実が霞んでぼやけていく。
いっそこのまま、意識を手放してしまいたいと。
切にそう願った。
その時―――
「シュルクー!! 山に行こうぜー!!」
フィオリアとは明らかに違う、無邪気な声が部屋に響いた。
「……あれ、どうかした?」
真っ青な顔のシュルクと今にも泣きそうなフィオリアの双方を見やり、ルーウェルはきょとんと首を傾げる。
「なんでもない。今行く。」
シュルクは首を横に振り、ルーウェルの元へと急いだ。
完全にすがる思いだった。
「えっ……シュルク!?」
「ちょっと外の空気を吸ってくる。そこの書類は、帰ってから片付けるって伝えといて。」
早口に要件だけを伝え、シュルクは一刻も早く部屋を出ようとした。
「だ、だめだって! 今はそれどころじゃ―――」
「触るな!!」
シュルクを引き留めようとしたフィオリアの手は、鋭い一喝と共に強く払われる。
「あっ…」
振り払ってから自分の行いに気付いて、シュルクは大きく狼狽えてしまった。
「……わ、悪い。本当に大丈夫だから………今は、行かせてくれ。頼むから……」
フィオリアと目を合わせないまま、シュルクは消え入りそうな声を絞り出す。
こんなに大きく取り乱しておいて、今さら〝大丈夫〟という言葉に信憑性なんて皆無。
それでも今は、とにかくフィオリアと同じ空間にいたくない。
「………っ」
大きく顔を歪め、シュルクは逃げるように部屋を後にした。
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