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第4章 それぞれが深みへ……
悲しく切ない子守歌
しおりを挟む「くっ……なんて熱さだ。」
扉をすり抜けて病室に入ったユアンは、思わず袖口で口元を覆う。
肉体を持っていない自分にもここまでの熱さを感じさせるとは、《焔乱舞》がかなり興奮していると見える。
「はは…。僕が三百年前に焔を持ててたなら……シアノを殺された時に、もっとすごい炎でレクトを焼けたんだろうな……」
そうすれば、こんなことにはならなかったのに。
思っても意味のないことが、頭を巡る。
それを振り切るように、ユアンは周囲を見渡した。
大丈夫だ。
点滴のチューブが融けていたり、カーテンが焦げていたりはするが、炎は建物を燃やしてはいない。
ギリギリで、キリハが最後の理性を繋いでいるようだ。
「キリハ……」
捜す姿を見つけ、ユアンは眉を下げる。
病室の隅。
子供のように膝を抱えて、キリハは小さく縮こまっていた。
彼の周囲には、炎がぐるぐると渦を作っている。
まるで、弱りきってしまったこの子を守るように。
(君も……この子が大好きなんだね。)
かつて自分が生み出した我が子のような存在に、気付けばそう語りかけていた。
自分の声は、この子に届くだろうか。
傷を負ったこの子に、触れることは叶うだろうか。
キリハの前に膝をついた瞬間、そんな不安に駆られる。
―――いや。きっと大丈夫。
この子は一度、夢見の合間に自分を見つめてくれた。
そして自分は、その時確かにこの子に触れられたはずだから。
ゆっくりと手を伸ばす。
(焔……君が大好きなこの子を守るために、力を貸しておくれ。)
これはきっと、我が子たる《焔乱舞》が自分にもたらしてくれた奇跡。
長い時を超えて、かつての自分と同じ志を持てる優しいキリハの心と自分の心を―――魂と魂を結んだ、たった一度の奇跡なのだろう。
小さな肩に、指先が触れる。
もっと手を伸ばせば、しっかりとその腕を掴める。
奇跡を噛み締めて。
涙を飲んで。
以前は頭をなでるにとどめたキリハを―――強く抱き締める。
「キリハ。僕の声が聞こえるかい?」
そっと。
震える体に呼びかける。
すると、あんなに周囲を拒絶していた心が反応を示した。
「―――ユアン……なの…?」
弱々しい声ながらも、キリハは確かに自分の名前を呼ぶ。
ユアンは微笑んで、キリハの頬をそっとなでた。
「そうだよ。この姿で会うのは、二度目だね。」
囁くように頷いて、キリハの瞳から零れていく涙をすくってやる。
自分と同じになってしまった、紅色の瞳。
それが、胸に罪悪感のナイフを深く突き立てる。
自分と同じ道を辿って、ドラゴンに手を伸ばさなければ……この子は、こんなにも傷つかなかっただろうか。
レクトにもジャミルにも目をつけられることなく、ただ純粋に、大好きな人たちと共に笑っていられただろうか。
「本当にごめんね……」
謝って許されることではないと、分かってはいるけれど。
それでもこの炎の中では、ちっぽけな人間の一人に戻らせてくれ。
「キリハ。ゆっくりでいいから、炎を鎮めよう。」
「………」
こちらの言葉に、キリハは頷かない。
「………?」
キリハの様子を窺って、ユアンは微かに眉を寄せる。
やたらと落ち着いた、キリハの表情。
その双眸に宿る光はきちんとした意思を伴っていて、ただ静かにこちらを貫いてくる。
止められないわけじゃない。
止めたくない。
キリハの態度が、そう訴えているように見えた。
「キリハ…?」
「……して?」
キリハの唇が、薄く開く。
「どうして―――鎮めなきゃいけないの?」
それは、あまりにもまっすぐで、純粋な口調での問いかけだった。
「どうしてって……」
「だって今は、人間を裁く時じゃないの?」
「―――っ!?」
ぶつけられた言葉に、ユアンは大きく目を見開く。
「だ、だめだ!!」
とっさに、その肩を大きく揺さぶっていた。
かつてのシアノと、道が分かれた。
だけどその道は、シアノ以上に救いのない奈落への道だ。
このままではなんの揶揄でもなく、《焔乱舞》が破滅の剣となってしまう。
そしてその破滅は、最後にキリハの心を完膚なきまでに壊してしまう。
「落ち着いて! 今の君が、人間を信じられなくなる気持ちは分かる! だけど、それは君が本当に望むことではないはずだ!! 一時の感情に盲目になって自分を殺した子がどうなるか…っ。僕は、君にまでそうなってほしくない!!」
どうにか、この気持ちが伝わってくれと。
ありったけの力を込めて叫ぶ。
「………」
キリハは何も告げないまま、微かに視線を下げた。
しばらくの時間が流れて。
「……そうだね。」
空虚な声で、小さく呟いた。
「俺……本当に、何も知らなかったんだなって……そう思った。宮殿に来てから、嫌なこともつらいこともたくさんあって……理想だけじゃなくて、少しは現実も見られるようになったんだって思ってたけど……随分と身勝手な、自己満足だったよね。」
「キリハ……」
「今なら、俺……レクトの気持ちが分かる気がする。」
人間を裁かんとする炎を身にまとったまま、キリハは訥々と語る。
「人間の、どこが美しいんだろう…? 俺はやっぱり、ドラゴン大戦がレクトのせいだけで起こったものだとは思えない。」
「………」
「今まで、たくさんのものを見てきた。人間の話も、ドラゴンの話もたくさん聞いた。その上で思う。……いつだって、傷つけるのは人間の方だよ。」
「………」
「どうして、こうなっちゃったんだろう…? そんなに……そんなに、ドラゴンと仲良くなろうとしたことがいけなかったのかな? 友達になりたいって思っちゃいけなかったのかな? どうして人間は……自分とは違う何かを、こんなにも攻撃しちゃうの…?」
キリハが至ってしまった結論が、耳に痛い。
無垢な問いかけが、こんなにも胸を締め上げてくる。
「―――ああ、そうだね……」
自分には、こうとしか言えない。
一度同じ苦悩を味わった身として、この子の想いを否定なんてできない……
ユアンは静かに目を閉じて、もう一度キリハをその胸に抱く。
「僕も、腐るほど見てきたよ。何百年もの間、愚かな人間の姿も、美しい人間の姿も……」
「………」
「分からないね。分からなくて当然だ。僕だって分からないもの。見れば見るほど、知れば知るほど、人間はどんな生き物か分からなくなる。こうしてよかったんだって思うことより……どうしてこうなっちゃったんだろうって思うことの方が多いのが人間さ。」
「………」
「―――いいよ、キリハ。」
ユアンは優しく告げる。
「人間のことを、これまでどおりに信じてくれとは言わない。疑ったっていい。嫌いになったって構わない。君の心は誰に縛られるものでもなく、君だけが形を決められるものだ。僕は―――どんな君も、肯定するよ。」
「………」
キリハはやはり、何も答えなかった。
ただ……ゆっくりと。
瞼が半分落ちて、瞳から光が拡散して、その体がユアンの胸に傾いでいく。
「うん…。今は、色んなことが起こりすぎて、色んなことを考えすぎて、疲れちゃったね。まずはとにかく、ゆっくりと眠ろう。」
「………」
「本当に……本当によく頑張った。誰も傷つけずに今日を乗り越えたことを、めいいっぱい誇るといい。君は本当に、とても優しい子だ。焔を託せたのが、君でよかった。」
少しずつ。
少しずつ、炎の勢いが落ちていく。
「……父さん……母さん……」
空気に溶けていくような囁き。
それと共に、閉じた瞼の隙間から新たな雫が落ちていく。
「おやすみ……可愛い坊や。」
己と同じ苦痛と、己とは違う苦痛を同時に味わう子孫。
愛しい子供を胸に抱いて、遠い先祖は歌を歌う。
それは炎と共に消えていく、悲しく切ない子守歌―――
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