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第3章 普通じゃないから
どうか、嘘だと―――
しおりを挟む(待って……どういうこと?)
すくむ足。
妙に遅く、そして大きく鳴り響く鼓動。
からからに乾いた喉。
今にも思考停止しそうな頭。
そんな状態でも、今言われたことを必死になぞる。
死んだことになっている?
生まれたことすら、なかったことに?
そんな馬鹿な。
だって、シアノは現にここにいるじゃないか。
でも、ジョーがこんな悪趣味な冗談を言うとは思えない。
目で見た現実とデータが示す現実が、真っ向から衝突する。
「なんで、そんなことに……」
その一言を絞り出すことで、精一杯だった。
「さあね。でも、その子の親御さんにがまともじゃないのは確かだよ。」
ジョーの口調に嫌悪感が混じる。
「元から望まずに産んだ子供だったのか、あるいは産んだものの、見た目のせいで自分の子供だと思えなかったのか…。理由がどちらにせよ、その子の親御さんが、子供を育てることを放棄したのには変わりない。その子が今まで生きてこられたのは、奇跡みたいなものだね。」
「………」
「まあ、これは本当にその子が、セレニアで生まれた子ならって話。今はその子が海外生まれだった可能性を加味して、その線での調査を追加で依頼しているところ。」
「………」
「キリハ君?」
途中から、ジョーの声は耳に入っていなかった。
親が子供を捨てる?
その可能性が心に与える衝撃は、半端じゃなかった。
珍しい容姿―――特に、竜使いに似た目の色を持ってしまったシアノは、ただでさえ周囲からよくない目を向けられていたはず。
それなのに、血を分けた親にまで見放されてしまったら。
そうしたら一体、この世界で誰がシアノの味方でいてあげられるというのだ。
否定したい。
否定したいのに……
(ああ、そっか……だから、シアノは……)
ふと、今日の出来事を思い出す。
ちゃんと味方でいるから、と。
そう語りかけた時に、シアノはひどく驚いたような顔をしていた。
あの時シアノがそんな顔をしたのは、きっと―――
「キリハ君! 返事して!!」
ジョーの声が、ひどく遠くに聞こえる。
心臓が勢いよく押し出す血液が耳障りなノイズとなって聴覚を満たし、目の前に見える景色から現実感を奪っていく。
最後に残ったのは、ただ一つの衝動だけ。
「―――っ」
それに突き動かされるまま、キリハは電話を切って踵を返した。
今しがた歩いてきた道のりを全力で引き返し、インターホンを鳴らす。
「あれ、キリハ君どうし―――」
玄関を開けたエリクの体を押しのけ、キリハはリビングへ続く短い廊下を必死に駆け抜けた。
「シアノ!!」
テレビを物珍しそうに眺めていたシアノに、無我夢中で詰め寄る。
「ねえ、シアノ。お願い。お父さんとお母さんのことを教えて。嘘、だよね…? シアノがお父さんやお母さんに捨てられたなんて……何かの間違いだよね…?」
慌ててリビングに戻ってきたエリクが、キリハの言葉を聞いて息を飲む。
「お願い……お願いだから……嘘だって言って……」
それは、心からの叫びだった。
悪い夢なら早く覚めてくれ。
こんな残酷な夢なんて―――
「そうだよ。」
空気の中に響いたのは、あまりにも静かな声だった。
「あの人たちは、ぼくのことを捨てた。理由は、なんとなく分かってた。」
ただでさえ感情に乏しかったシアノの表情から、今度こそ一切のそれらが消える。
ざんばらに伸びた自分の髪を一房つまみ、シアノは無感動に語る。
「ぼくの髪と目が気持ち悪いんだってさ。嫌われてることは知ってた。だから捨てられたって分かっても、特に悲しくはなかったよ。」
「でも、シアノ君……」
そこで口を開いたのはエリクだ。
「君、ご飯のことを訊いた時に、お父さんがお肉を焼いてくれるって言ってたよね。」
「父さんは、あの人たちと違う。あの人たちに捨てられた後、ずっとぼくと一緒に暮らしてくれてる。」
「その人はどこに?」
「だめ。」
シアノは首を横に振る。
「あそこは内緒なんだって。父さんとぼくだけの、秘密の場所。だから教えない。」
そんな風に真っ向から拒絶されては食い下がることもできず、エリクが次の言葉に窮する。
「…………ぼくのこと、変だと思う?」
部屋に満ちた気まずさを感じたらしく、シアノはそう問いかけた。
答えによっては、自分の存在を肯定も否定もされる問い。
そんな問いを投げるシアノは、訊いておきながらその答えはどうでもいいというような、そんな風に期待も不安も感じさせない様子だった。
「別にいいよ。普通じゃないことは分かってるから。」
キリハやエリクが何かを答えるより前に、シアノは自らそう言って目を伏せた。
「ぼくは普通じゃない。でも、普通って何かが分からないから……普通ってなんだろうって、少しだけ、気になっただけなんだ。」
シアノの表情に、微かな苦悩が生じる。
何か迷うことがあったのか、シアノはぐっと眉を寄せて視線を右往左往させ、やがて諦めたように肩を落とした。
「……ごめんなさい。ぼく、帰るね。昨日と今日、ありがとう。」
シアノはキリハの手を自分の肩から離し、ゆっくりとキリハの隣を通り過ぎようとする。
そんなシアノを、キリハは後ろから強く抱き締めた。
「……キリハ?」
怪訝そうに首を巡らせたシアノの眼前を、きらりと光るものが落ちていく。
それに、シアノは目を丸くする。
ゆっくりとキリハの方へと顔を向けて……
そして問う。
「キリハ……なんで泣いてるの?」
どうして自分のことで他人が泣くのか、と。
不思議そうな反応をするシアノは、純粋にそう思っているようだった。
シアノは知らないのだ。
誰かに助けを求めることも。
誰かと痛みを共有することも。
普通が何かも知らず、他人からぶつけられる悪意の理不尽さも知らないまま。
自分が望まれない存在だという事実だけを、当然のことのように受け入れるしかなくて。
「………っ」
言葉も出なかった。
ただシアノの体をきつく抱いて、次々とあふれてくる涙を流し続けることしかできなかった。
シアノは何も悪くない。
それなのに、どうして―――
『だめだ!! その子に関わっちゃいけない!!』
フールの叫び声が、激情の向こうに霞んで消えていく。
(無理だよ…。関わっちゃいけないなんて、そんなこと……)
こんなの、放っておけるわけがない。
だけど、こんなシアノにどう接すればいいのかも分からない。
切られたように痛む心に自分の無力さがさらに沁みて、胸が苦しくてたまらなかった。
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