ホラー短編集

Chaako

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赤い手

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※この話には暴力を想起させる表現が含まれています。

※暴力的な描写が苦手な方は読まない方が良いかもしれません。

素朴な美人が某有名美大に通っていた。

彼女の名前をMとしよう。

Mは多浪の末にその大学に合格したが、試験のデッサンの出来が悪く、その年も不合格だと思っていたそうだ。

自己肯定感が低かったMは、成功体験があっても自己の評価に繋がりにくかった。

理想の高さも抑圧の一因だったかもしれない。

しかしそれはそれ。

Mは入学後、大好きなマーク・ロスコ調の作品をいくつも描いていた。

ロスコは抽象的に場を表現しようと試みた画家で、単独の絵だと分かりづらいが、部屋に幾つもロスコの絵が並んで初めて何となく掴める、というのが筆者の印象だ。

千葉県佐倉市にある美術館のロスコ・ルームでは、薄暗い部屋を覆うようにロスコの大きな赤い絵が展示されている。

小さい頃ロスコ・ルームに連れて行ってもらったMはそのときからロスコ信者で、同じような表現者になりたいと憧れたらしい。

しかし大学の講評ではあまり芳しい感想は得られなかったようで、そのうち暗惨たる雰囲気を纏って登校するようになった。

第三学年になったとき、浪人生だった頃から溜まっていた葛藤がMをある境地へと追い込んだ。

私の絵の中の赤には官能性がない。

目は血走ってぶつぶつと独り言を唱え、食事をしているときも何かと話していた。

周囲はMの変化に気付いていたが、美大では課題提出前に徹夜して目が充血することはよくあったし、独り言を言っている人の方が多かったのでみんなあまり気にしなかった。

あるとき、大学の教授が酔って坂道で滑ったらしく、酷い擦り傷とかさぶたが足にできてしまった。

それを笑い話として、足を講義中に晒した。

教授も不本意だったであろうが、Mに電撃が走った。

それだ。それが海のように広がっていれば...。

Mは講義中に大学を飛び出し、家に帰ってしまった。

教授は呆然とMの背中を見送る。

ハッと気付いて、気分を害してしまったなら申し訳ないとすぐに詫び、沈黙を振り払うように講義を再開した。

他方、家に着いたMの眼前には、血で染まった激しい傷跡が地平線まで広がっていた。

これを描こう。

待つこともできたが、思い立ったが吉日だ。

すぐに採血した。

それはそれは退廃的で官能的な赤だった。

その色を頼りに赤を作ることにした。

少し経って、自分は何をやっているんだと我に返り、頭をキャンバスに叩きつけた。

すると今度はざわざわした感覚が沸き起こった。

破壊的な衝動の達成は、Mに万能感を与えたようだ。

試しに買ってきたスイカやトマトを風呂場で作品に叩きつけてみた。

色は気に入らなかったが練習にはいいと思った。

それから何ヶ月も描き直し、自分の見た風景を部屋に完成させたという。

Mは赤い絵を見ると興奮するようになった。

展覧会で同期生が赤い絵を覗き込んでいると、その頭を叩きつけたくなるとニヤニヤして語った。

グシャッ。

それを独り想像し、エクスタシーを安く買っては作品に叩きつけ、何か大切なものを発散した。

幸いにもMが大学生活で人の頭を叩きつけることはなかった。

ある日他学部の男子学生から告白されたときに、それを条件にしようかとも考えたが、踏みとどまって断ったらしい。

狂気に染まりつつあったMの作品は、素晴らしかったとも、昔の方が良かったとも言われる。

その後もMは狂気が正気という状態のまま、普通の(?)美大生として過ごした。

苦労はしたようだが上手く就職もできたようだ。

ブラックな仕事らしいが、そこに特筆性はなかろう。

Mは今でも画材屋さんに現れるらしい。

学生時代Mに恋心を抱いていた同期生が偶然会った。

Mは見違えるほど妖艶な大人の女性になっていたが、ずっと好きだったその同期生にはすぐに分かったようだ。

折角なのでお茶に誘ったところ、狂気じみた印象はもはやなかったという。

不思議に思って尋ねてみると、M自身はそれを内省しており、芸術から一旦離れたのが良かったのかもしれないと言っていたそうだ。

この機会を置いて他にないと考えたか、その同期生は告白を決心した。

告白は成功したらしい。

LINEグループには、お祝いの言葉が相次いだという。

グシャッ。

お客さんが落としてしまったのだろうか、スイカが心地悪い音をたてて潰れた。

Mに振られて失調した同期生の最期は自殺だったらしい。

断る理由がないのと同じく、付き合う理由もMにはなかったということか。

ストーカーと化したその同期生はしばらく警察のお世話になっていたほどだった。

仕事が終わり、電話で呼び出されたMは夜の海を眺めていた。

夜の海に感じる漠然とした恐怖が心を癒すのかもしれない。

晩年のロスコに近いような気もする。

Mは瞑想した。

その心象風景に映った赤い手は、我が子を抱かんとする父の手のように、愛しいMに忍び寄っていた。
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