やさしい月

残月

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 あと一週間でクリスマスがやってくる頃、店のお客さんに「あのマサが浮かれている」と言われるくらい、目に見えて彼の機嫌のいい日が多くなった。
「今から? 大丈夫だ。うん……うん……」
 澪さんはあの日から姿を見せない。でもこのひと月で彼への電話は多くなったみたいだ。もしかしたら洸太が大学へ行っているあいだに彼と逢っていたのかもしれないけれど。
「それなんだが、やっぱりお前の親父さんと直接話をしたい……ああ、わかってる……覚悟はあるさ」
 彼は携帯を持たないので、店の電話でやり取りをする。時間が時間なら洸太にも丸聞こえの会話だった。
「反対されたら? そうなったら勝手に嫁に貰うだけだろう……ああ……そんなに笑うなよ。それよりそっちこそどうなんだ、正月明けには休みがとれそうなのか……」
 嫁に貰う。冗談でもその言葉が示すように、きっと二人はうまくいったのだと思う。あんな風に澪さんから想いをぶつけられては、彼だって心を動かしたに違いないのだから。
 洸太は来年の進級と同時に『正』を出ていこうと考えていた。元々世話になっていい立場でもないし、新学年になれば早々にゼミがはじまる。この際本当に大学の近くに引越しをしようと考え、最近では講義の帰りに不動産屋へ立ち寄ってみることもあった。
「ああ、じゃあ待ってる」
 電話を切ると彼は短くなったタバコを吸って、ふうっと大きな息をついた。
「……マサさんけむいよー」
 いつものようにおしぼりをくるくると巻いていると、彼の吐き出した煙が目にしみた。
「悪い、大丈夫か」
 慌ててタバコを消した彼の指に洸太の顎を持ち上げられて、上から顔をのぞき込まれる。
 最近こうした触れかたが多くなった気がするのは、彼にしてみれば子供を相手にするのと同じような感覚だからだろう。
 そして洸太自身もそうだった。彼に甘えるようにくちびるをとがらせ、ふるふると頭を横にふってみせる。
「だいじょうぶじゃないもん……目に入った……タバコきらい」
 以前ならだいじょうぶだと答えていたのに、まるで本当のだだっ子だ。
「俺が悪かった」
「ん……」
 彼が甘えさせてくれるから、洸太は子供のようにわがままになったのだろうか。それとも悪あがきの独占欲か。
「……電話、澪さんだったの」
 わかっているくせに、彼のつけている紺色の短い前掛けをそっとつかみながら、それとなく聞いてみる。
「ああ、今からここへ来るそうだ。もう近くまで来てるみたいだからすぐだろう」
「そ、なんだ……澪さんに逢うの久しぶり。……か、開店前にくるの、めずらしいね」
 前掛けをつかむ手に力が入って、少しシワをつけてしまった。そのあいだも彼は洸太の髪をやさしくなでてくれている。
「お前に渡すものがあるらしいぞ」
「なん、だろ……」
「さあな」
 あれ以来、澪さんに逢うのが怖かった。もし澪さんの口から彼との関係を聞かされたら、きっと洸太は壊れてしまう。ようやく安心してすがるものができたのに、それがなくなってしまうのは少し考えただけでも恐ろしいことだった。
 少しずつ彼から離れていかなければと理屈ではわかっているのだけれど、まだそばにいたいという気持ちのほうが強いのだ。
「澪さんがくるんだったら、おれ……ここにいないほうがいい、よね」
「どうして。澪はお前に用があるんだぞ」
「でも、二人で話があるんでしょ」
「洸太……?」
「そしたらおれ、ジャマなだけだし……」
「お前、何言って……」
 彼の視線をまともに受けることができない。だってこんなのはバカなやきもちだ。それくらい洸太にだってわかっている。
「おれ……やっぱり二階に行ってるから、マサさんが用事聞いといて」
 彼の前掛けから手を離し走って逃げようとしたところを、後ろから右腕を捕えられてしまった。
「うー……! やだあ……!」
「どうしたんだ、洸太」
 強い力で軽々と引き寄せられ、その勢いで彼の腕の中へ倒れ込む。
「お前……もう少し食べないと折れるぞ」
「折れたっていーんだもん! はなしてっ……!」
 閉じ込められた彼の胸へ手を突っぱったり、腕をほどこうとしてみてもその力にはかなわなかった。彼の身体の下に敷かれて背中の傷を見られた、あの夜を思い出す。
「こんばんはー! 洸太くんいる?」
 引き戸がガラリと開き、胸元に包みを抱えた澪さんが現れた。
「おう」
 彼は片手を洸太から放し、その手を挙げて澪さんに応える。
 洸太といえばあれだけ彼から離れたがっていたのに、とっさに彼の腕をつかんで、そのまま固まってしまった。
「しょうさんったら、あんまりいじめちゃダメだよ……って、洸太くん?」
 いらっしゃいませとかこんばんはとか、何か言わなきゃいけないのにうつむいて、どうしても声が出せなかった。
 それなのにこんな風に彼の腕にしがみついて、澪さんに変に思われたらどうしようと考えているうちに、目の前がだんだんと暗くなってきて久しぶりに冷や汗やめまいがする。
 そうしてふっと洸太の腕が彼から離れて宙に浮いた瞬間、彼と澪さんの慌てる声が聞こえたような気もするけれど、心臓の鼓動が耳にも響いてそれを邪魔した。
「や……だ……」
 薄れていく意識の中、彼が洸太の名前を呼びながら、しっかりと抱きしめてくれた気がした。


 『正』にきてから何度も倒れて、本当に情けなくてバカみたいだと思う。いつも彼や澪さんに迷惑をかけて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 その二人は予想どおり、店のほうでなにか話をしているみたいだ。洸太はあのとき澪さんが泣いていた居間のコタツで、ひとりボーッと壁を見つめていた。
 またご飯しっかり食べろだとか言われるんだろうなぁと思いつつ、そんなんじゃ一人暮らしもできないと自嘲する。
 コタツのテーブルに視線を落とすと、澪さんが洸太にくれた包みが置いてあった。
「クリスマスプレゼント……」
 クリスマスらしい赤いラインの入った、グリーン系のバーバリーチェックの包装紙でラッピングされたそれは、まるで澪さん自身のようだ。可愛らしくもあるのにちゃんと大人で、ちょっぴりビターなチョコレートを連想させる。
「もうやだぁ……苦しいよ……」
 どんなに頑張っても勝てない相手と、好きな人が同じだなんて。
 どう考えても彼が自分なんかを相手にするはずがないし、これが失恋ってやつなのかと張り裂けそうな胸に手をあて、目が覚めたときと同じようにコタツにもぐり込んで横になった。
 せめて二人の幸せを祈りたいけれど、この気持ちを吹っ切るにはかなり時間がかかりそうだ。
「洸太、目が覚めたか」
 仕事前にいつもそうするように、頭にタオルを巻いた彼が居間に入ってきた。
「……マサさん」
 急いで起き上がろうとしたところを手で制され、ゆっくりとした口調でこう言われた。
「起きなくていい、無理はするな。それと急で悪いが明日は店を休む。野暮用で出かけるから、あとで家の合鍵渡す」
「休むって……忘年会……予約のお客さんは……」
「連絡して別の日にしてもらった」
「そう、なの……」
「ああ、だからその時は洸太も頑張ってくれるとうれしい」
「……ん」
 洸太の頭をなでながら、笑ってそんなこと言うなんて卑怯だ。
 ひとりなの? それとも誰かとどこかへ行くの? なんて聞けなくなる。
「明日は遅くなると思うが心配しなくていい。大学もあと少しで冬休みだろう。洸太もたまには友達とゆっくりしてこい」
「わかった……」
「じゃあ店に出るから、何かあったら言え」
 言いたいことだけ言って彼は行ってしまった。その後ろ姿を見て、自分が取り残されたような気がしてじんわりと涙があふれてくる。
「こんなに泣き虫だったかなぁ……おれ」
 コタツの上の包みが、涙でにじんでぼやけて見えた。


 講義が終わったあとにゆっくりしてこいとは言われたけれど、洸太にはそんな相手も場所もない。友だちと言えるかどうかわからない知人は数人いるけれど、それは全学共通科目や食堂で一緒になると話をする程度の人たちだった。後期の授業が始まってからは彼がお弁当を持たせてくれているので、そんなに逢うこともなくなったけれど。
 ふう、とため息をつくと空気が白く変わる。強い寒波がやってくるとかで、しばらくは寒さが続きそうだった。
 そして来週末で大学も冬休みに入る。
「まだ夕方だし、映画にでも行ってみようかな……」
 うすい青の空を見上げてぽそりとつぶやいてみるものの、そんな気にもなれなかった。ただ彼のいない『正』に帰ってもどうしていいのかわからなくて、気の向くまま電車に乗り込む。車窓から眺める街の風景はクリスマス一色だった。
「プレゼント……」
 昨日澪さんからもらった包みの中には暖かそうな水色の手袋と、著名な外国人写真家が世界中の星空を撮影した写真集が入っていた。きっと洸太の部屋の写真の代わりにと思って用意してくれたのだろう。
「澪さんにお返ししなきゃ」
 彼とのことがどうであれ、澪さんが洸太を思ってくれているのは確かで、そして洸太もそんな澪さんが大好きだから。
 そう思って、この付近でもひと際大きな繁華街に立ち寄った。
 駅から歩けば街のいたる場所がクリスマスのイルミネーションで覆われていて、ちいさな街路樹でさえまばゆいばかりの光をまとっていた。
 まずは電車の中で思いついたプレゼントを探そうと、目的の店へ向かう。洸太には縁のないタイプの店だったが、地図は電車の中でタブレットを使って調べてある。
 少し歩いたところで遠目からでもきらびやかなその店を見つけ、恐る恐る中へ入った。
 様々な品物が並ぶショーケースの中に無事にそのちいさなものを見つけたが、値段に少しばかり驚ていてしまった。
 そんな洸太の様子を訝しんだのか、一人の女性店員が話しかけてきた。
「クリスマスプレゼントをお探しですか」
「あ、はい。あの……これがいいんですけど……」
 おずおずと目的のものを指さす洸太に、女性店員はあれこれ見立ててもう少し値段の安いものを勧めてくれたけれど、なにかのはずみでプレゼントする相手が年上の人だと洸太が言った途端、満面の笑みで最初の商品を丁寧にラッピングしてくれた。
「クリスマス、頑張ってね」
 どうやら年上のカノジョにでも告白すると思われたらしい。
「あ……ありがとうございます」
「良いクリスマスを」
 光沢のある赤の包装紙にベルベットの緑のリボンで可愛くラッピングされたプレゼントを抱え、激しく誤解されたまま店の外へと出る。
「……まあいっか」
 ガラス張りのドアから手を振る女性店員に洸太も笑いながら手を振り返し、プレゼントをそっとカバンの中に入れた。
 冬の空は移ろいが早く、見上げるときれいな群青色に夕陽のオレンジが飲みこまれようとしていた。
 洸太は夜の街のキラキラと輝くイルミネーションを楽しみながら、ひとり目的もなく歩いていく。
 カップルや仕事帰りのビジネスマンが多かったが、親子連れや洸太と同じく一人で歩いている人もいて、街も人もお店もクリスマスというイベントに浮かれているようだった。
 とある通りの広場に差しかかったとき、やわらかな光を放つツリーをぐるりと取り囲む人たちがいたので、洸太も興味本位でその大きな輪にくわわった。
 今も隣で光る人工的なイルミネーションとは違い、和紙で作られた灯篭をいくつも重ねて作られたそのツリーは、オレンジがかったやさしい黄色を放っていてまるで宇宙に浮かぶ星たちのようだった。
 そのやさしい色あいが、ざわつく洸太の心を落ち着かせてくれる。和紙の中のろうそくがゆらゆらと揺れると、ツリー全体の影が道やビルの壁に大きく映って、とても幻想的だった。
 長いあいだ無心にそれを眺めたあと、ずいぶんと冷えてきたのでそろそろ『正』へ帰ろうと一歩を踏みだしたときだった。
「あ……」
 やはり、というべきだろうか。人でできた輪の向こう側に、寄り添って幸せそうに微笑みあう彼と澪さんを見つけたのだ。
「……かっこいー……」
 口に手を当てて思わずそう言ったのは、彼の格好が普段とはあまりにも違ったからだ。澪さんがいなければ、見つけずにすんだかもしれないくらいに。
 あのボサボサの髪をきちんと整髪料でなでつけて、無精ヒゲだって見当たらない。服装も上等そうな濃灰色のスーツの上に、長身を活かした黒のロングコートを軽く羽織っていて、まるでどこかのモデルみたいだった。
 ちゃんとすればかなりの美形だとは思っていたが、まさかここまで変わるとは。
 隣に立つ澪さんも相変わらず美人で、ベージュのコートと白のマフラーが澪さんのやさしさをますます引き立たせている。そしてその右手は彼のコートの左腕と当たり前のように絡んでいて、この夜の星たちがお似合いの二人を祝福しているみたいだった。
「そうだ……今日はマサさんのご飯、食べられないんだ」
 どういうわけか二人を見て、現実的なことを考える。
 普段からあの温かい味のする料理を、もっとちゃんと食べておけばよかった。彼の作る料理で、洸太の細胞全部が作り変えられてしまうくらいに。
 たくさんの見物人の影に隠れながら、彼の一挙手一投足を目で追ってしまう。
 澪さんに微笑む彼、やさしい目でツリーを見る彼、少しかがんで澪さんの耳元になにかささやく彼、そして澪さんにくちづける彼……。
 なんだ……やっぱり彼も、澪さんのことが好きなんじゃないか。
 泣くのは嫌だから、振り返らずに大好きな夜空を見上げて帰り道を歩いていく。
 あと数日でこぐま座流星群の活動がピークになるころだ。このところ天体観測ができない日々が続いたので、久しぶりにどこかへ星を見に行こうか。ひとりだと誰にも気兼ねすることもないから。
「あれ、ダメだ……」
 顔では笑っているのに、心が悲しいと涙が流れるのだとはじめて知った。今までそんなことは一度だってなかったのだけれど。
 冬の冷えた空気の中、頭上で大きく輝く月だけが洸太をやさしく見守っていた。
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