1 / 7
1
しおりを挟む
「陽が落ちるのが早くなった」と、店の軒先に暖簾をかけていた彼が言った。
見上げるとわずかに空に残された鮮やかな黄色とオレンジを押しつぶし、少しの星を率いて薄い紺色の幕が一面にのしかかっていた。
「わぁ……火星とアンタレスが接近してる。それに水星が東方最大離角だ……」
どことなく淋しく感じさせる夕方の空をしばらく見つめたあと、壁際に置いてあった看板をずるずると定位置まで引っぱって明かりをつける。
白地に黒の文字で『小料理 正』と書いてあるシンプルなものだった。
「そろそろ金木犀が落ちる頃だな。……早く入れ、洸太」
「あ、うん」
肩までのびた髪を後ろでひとつにまとめると、店主である彼はくわえていたタバコを消すために店の中へ入った。
自分もそのあとを追って店へ入り、年季の入った木製の引き戸をカラリと閉める。
カウンターが七席と、四人がけのテーブルが三つの小ぢんまりとしたお店。でも店内は彼の作る料理の幸せな匂いでいっぱいだった。
「ねえ、マサさん。今の話、金木犀が落ちたらどうなるの?」
「冬になる」
「えっ……」
彼はカウンターの中で灰皿にタバコを押しつけると、タオルをとって頭に巻いた。
「あのちいさな花が落ちれば、一気に寒くなるということだ」
「そうなんだ。……マサさんって、ときどきオヤジ臭いこと言うよね」
「三十五の三十路男だしな」
「認めちゃってるし。マサさんちゃんとすればカッコいいんだから、もっと小ギレイにすればいいんじゃない?伸びた髪切って、無精ヒゲ剃って、頭にタオルはやめようよ」
ようやく百六十センチの自分より二十センチは背の高い彼の横に立って、おしぼりの準備をする。といっても洗濯したおしぼりを水で濡らしてくるくると巻き、殺菌灯つきのおしぼり器の中に放り込むだけなんだけれど。
ちらりと目をやると、彼は『本日おすすめ』の魚の煮つけの味を確かめていた。
こうしてその横顔を見ていても精悍で男らしいと思う。背だって高いし、もう少し話し上手になって外見に気をつければ、今よりすごくモテると思うのに。
そう考えたら、なぜだか洸太の胸がチクリと痛んだ。
「洸太。客が来るぞ」
彼の大きな手のひらが、ぽんと洸太の頭に乗っかる。
「うん」
古びた引き戸が音を立てて開くと、その手は自然に離れていく。それが少し淋しかったけれど、明るい声でお客さんを迎えた。
「いらっしゃいませ!」
今日も一日、幸せな時間のはじまりだった。
寿洸太が彼と出逢ったのは二ヶ月前、八月の終わりのことだった。
日本列島を南から大型台風が縦断しようとしていた夜、『正』の壁によりかかってうずくまっていた洸太を、早めの店じまいをしようと出てきた彼が見つけてくれたのだ。
大丈夫かと声をかけられても動かない洸太を軽々と抱え、店の中に運んでくれたことはかすかに憶えている。
しばらくして雨が降りだしたように思うけれど、この辺は記憶が曖昧だった。あとで聞くと、自分はずいぶんと高い熱でうなされていたらしい。
ふと目覚めれば、彼の住居である店の二階の布団の中にいた。反射的に起き上がって部屋の中を一通り見回してから視線を落とすと、布団のそばには自分を見守る彼と、一人用の土鍋に入った作りたてのお粥が用意されていた。
「食え。晩メシだ」
卓袱台代わりのアイロン台にドンと男らしく置かれたそれは、とてもいい匂いで美味しそうだったけれど、どうしても手が伸びなかった。
「と言ってもお前と逢ったのは昨日の夜だぞ。丸一日寝てたんだ、腹も減ってるだろう」
「丸一日……」
「まあそれだけ寝ても別にもったいなくはないがな。ちょうど台風でこの辺にも大雨警報が出ている最中だ。今回のは風よりも広範囲の雨がひどいらしい」
肩まで伸びた髪はボサボサで無精ヒゲで、火をつけずにくわえタバコをした彼がずっとこっちを見ている。こんなにもお世話になってしまった手前、食べないわけにはいかないという状況だった。
「い……いただきます」
「ん」
小ぶりのレンゲで恐る恐る口をつけたそれは、塩味をつけて卵を溶いただけのシンプルなもので、意外に美味しくてとても温かな味がした。何だか懐かしい、家族の味だった。
彼の手前とりあえず少し食べてはみたが、きっとそれもムダに終わる。なぜなら自分は……。
「……むり」
「何だ?」
「……ッ……はく……」
グゥっとせり上がってくるものを堪えると、気が遠くなって冷や汗が滴る。
次の瞬間彼に抱きかかえられ洗面所を過ぎてトイレに連れ込まれると、洸太はそこで文字通り食べたものを水に流した。
心臓が早鐘をうち、耳の奥でも同じ音が鳴り響く。遠くなる意識をなんとか現実に取り戻そうと荒い呼吸をくり返していると、いきなり冷たいタオルで顔中を拭かれた。
「もう一枚あるから持っておけ。行くぞ」
「は……い……」
洸太が自力で立ち上がろうとする前に、さっきと同じように彼にヒョイと後ろから抱え上げられる。
「無理はするな」
ぶっきらぼうだけどやさしさが伝わってくる。そんな話しかたをする人だと思った。
「……すみません」
見ず知らずの人に、と言ったところでブラックアウト。気がつけば次の日のお昼前だった。
彼は洸太のことをなにも聞かなかった。その代わり自分のことも話さない人だった。
「コータくん、瓶ビールもう一本ちょうだい」
だから彼を知るには、お客さんの言葉の端々から拾い上げるしかなかった。
「はーい!」
もう二ヶ月もここに居るのに、彼から言われたことはたった二つだけだ。
「お待たせ~島永さん」
お客さん側に置いてある冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜いてから島永さんの元へと持っていく。彼が一人で忙しいときは、お客さんが自分で取り出せるようにしていたらしい。
「ありがとう。いやー、しかしコータくんが来てくれてよかったねぇ」
島永さんは警備会社に勤めている、もうすぐ還暦の体格のいいおじさんだ。この店の常連さんで、仕事帰りにはかならず立ち寄ってくれる。奥さんとはずいぶん前に死別していて、今は年頃の娘さんと二人暮らしらしく、いつ嫁に行くと言い出すかと思うと心配で夜も眠れないという可愛らしい一面もあった。
「ほんと? おれ、役に立ってる?」
「うんうん、立ってるとも。コータくんはこのムサ苦しい店の一輪の花だよ」
「ありがと島永さん! サービスでお酌しちゃうから!」
水滴のついた瓶ビールを両手で持ってグラスに注ぐと、上のほうにきれいな白い泡ができた。島永さんはそれを見ると、「上手だねぇ」とうれしそうに飲み干した。
「しかしマサがバイトを入れるなんてねえ。おじさん思いもしなかったよ」
「バイトっておれが初めてなの?」
もう一杯ビールのお酌をしてからイカと里芋の煮物をカウンター越しに受け取り、島永さんの前に置いた。
「開店して四年経つけど、コータくんが初めてだよ。確かにマサは男前だけど、こういう店にはやっぱりカワイイお花がいなくちゃなぁ!」
「おれ、カワイイお花なの?」
「そうさ。おじさんはね、コータ君という小動物みたいにちっちゃくてカワイイお花に毎日癒されにきてるんだよ」
「えへへ、ちょっとうれしい。でもおれもちっちゃいかもしれないけど、島永さんがおっきいんだからねっ」
ニコニコと笑ってくれる島永さんの前で、少し照れてしまった。こんな人がお父さんだなんて、娘さんがちょっぴりうらやましいなと思った。
「こんばんはー。僕ひとりなんですけど座れますか」
ちょうど洸太がカウンターの中に戻ったとき、ときどきこの店に訪れる人が引き戸から顔をのぞかせた。
「おっ、いらっしゃい澪ちゃん! 久しぶりだねえ」
洸太よりも先に島永さんが声をかけ、自分の隣に予備の椅子を突っ込んで無理矢理座れと促した。そこはいつも澪さんの定位置で、調理場で仕事をする彼の真正面の席だった。
「すみません島永さん。みなさんも」
澪さんは椅子を少しずつずらしてくれた人たちと島永さんに礼を言って笑いかけると、やわらかな物腰で椅子に腰掛けた。
「いらっしゃいませって、島永さんに先に言われちゃった」
つき出しをカウンター越しに澪さんの前へ置いておしぼりを手渡すと、澪さんは洸太にも同じように微笑んでくれる。
「ありがとう、洸太くん。君、相変わらずちっちゃくて可愛いね」
「コータくんはこの店のお花だって今言ってたとこなんだよ、な!」
「二人ともちっちゃいとか余計だけどありがと。えっと、なに飲みますか。澪さん明日はお仕事?」
「ううん、めずらしく明日と明後日は休みなんだよ。だから久しぶりに飲んじゃおっかなーと思って」
うふふ、と笑う澪さんはすらりとした美人さんで、それに上品で可愛らしい男の人だ。洸太がちいさなお花だったら、澪さんは間違いなく大輪の花だった。
「おじさんも明日の土曜は休みなんだけど、コータくんか澪ちゃんがデートでもしてくれないかなぁ」
そう言って豪快に笑う島永さんに、澪さんが面白そうですねと賛同する。
「どちらかと言わずに僕と洸太くん、いっぺんに面倒見てもらえます?」
「えっ、ええええ!」
澪さんにいたずらっぽく微笑まれて、島永さんは慌てて手元のビールを飲み干した。
「澪、うちのお客さんをたぶらかすな」
「そんなことしてません」
ぷいっと横を向いて口をとがらせる澪さんに、彼が表情をゆるめる。
「注文は?」
「……しょうさんのおすすめでいいです」
「今日入った日本酒がある。人肌燗で飲むと旨いぞ」
澪さんは彼の提案にこくりと頷くと、おしぼりで手を拭いて大人しくつき出しの小鉢をつつきはじめた。
澪さんは彼のことを「マサさん」ではなく「しょうさん」と呼ぶ。一度どうしてなのか訪ねたら、彼の名前が「まさ」ではなく、本当は「しょう」と読むからだそうだ。
どうしてそれを知っているのかといえば、学生時代澪さんは彼のひとつ年下の後輩だったらしい。
「洸太、今日はもういい。九時過ぎたから上がれ」
「あっ、うん……」
「なんだよマサ。金曜の夜なのにもうコータくん終わりなのかい」
「もうすぐ二十歳になるとはいえ、洸太はまだ十九歳の学生ですから勉強が本分です」
怖いくらいの愛想笑いで彼が島永さんに笑いかける。あんなのでよく四年も店をやってきたと、こっちがため息をついてしまう笑顔だった。
「マサさん目が笑ってないッスよー」
「すごんでるようにしか見えない……」
「ムリヤリ笑うとこえーぞ!」
他のお客さんたちも思わずその愛想笑いにつっこんでいた。
「じゃあおれ、上がります。おやすみなさい」
「コータくんまた明日な! おやすみー」
「お休みなさい、洸太くん」
お客さんたちの笑顔に見送られながらカウンター内に戻り、調理場の後ろにある三和土で下履きを脱いでから上がり框を上って家の中へと入る。
店と家をつなぐドアを閉めると、それ一枚を隔てただけなのにみんなの笑い声がとたんに遠くなって、洸太ひとりだけが取り残された感じがした。
ここに来てから彼に言われたこと。
「何か人に言えない事情があるんだったら、お前さえよければこのままここにいても構わない。ここは俺一人だから時々店を手伝ってくれればバイト代も出す。だが学生なんだったらきちんと勉強はしろ。それがお前の本分だろう」
ブラックアウトから目覚めたとき、彼は洸太に向かっていちばんにそう言った。
いきなりのことに面食らってしまってなにも言えずにいると、自分が見慣れない就寝用の浴衣を着ていることに気がついた。
「俺ので悪いが、パジャマは持ってなくてな。汗をかいていたからお前の服は洗濯して干してある。下着も替えたぞ」
「あの……」
「元気になったら家から必要最低限の荷物をとってこい。それからそこにある薬はちゃんと飲んどけ」
「薬……」
洸太がブラックアウトしているあいだに、知り合いの医者に診てもらったのだと彼は言った。
「それと、もうひとつ。少しずつでもいいからメシはちゃんと食え」
それだけだと言って、彼は階下へ続く階段を下りていってしまった。
「なに、これ……」
目が覚めると同時に、知らない世界へきたみたいな感覚だった。突然自分とは関係のない、平穏な場所へ飛ばされたような感じ。
だが現実はそう甘くはない。
「……見られたのかな」
発熱後の辛い身体を引きずって洗面所まで歩き、鏡の前で浴衣をはだけて背中を確認する。そこには見慣れた無数の傷あとと、まだ生々しさの残る傷が少しあるはずだ。
「やっぱり……」
まだ新しい傷の場所には、手当の跡があった。
見られた以上は仕方がない。でも彼はこの傷についてなにも聞かなかった。それどころか、ここにいてもいいとさえ言ってくれたのだ。
いや、傷を見たからこそそう言ったのかもしれない。警察に通報するならさっさとしているだろう。
洸太はもしかしたら自分が変わっていけるんじゃないかと、少しばかり期待してしまった。だからここに……彼の元にいようと決めたのだった。
彼は大抵日付けが変わってから二階へ上がってくる。この古びた木造の家は店よりも住居部分のほうが大きくて、店じまいをしたあと一階にある風呂へ入ってから二階の自分の部屋へと戻るのだ。
ちなみに洸太が間借りしている部屋はその隣。最初にかつぎ込まれた場所は彼の部屋だった。
店を手伝うにあたってバイト代を出すと彼は言ってくれたけど、ここにいさせてもらった上にお金までもらうなんてできないと突っぱねた。その代わりに家賃や食費などの必要経費をバイト代と相殺する形にしてくれと頼んだのだ。えらそうに相殺といっても、洸太が店を手伝うのは体調のいい日だけだったけれど。
遊ぶ金はいらないのかとも聞かれたけれど、遊ばないしお金なら少しは持ってるからと答えたら、彼は黙り込んでしまった。
普通ならこんな人間、抱え込みたくないだろうに。
「寝るぞ」
階段を上がってきた彼から襖越しに声をかけられ、洸太はうんと答える。
読んでいた本を閉じて膝にかけていたブランケットをたたみ、ここに来てすぐに買ってもらった浴衣の寝巻き姿で蛍光灯のヒモを三回引っぱって部屋の明かりを消す。それから襖を開けて板張りの廊下に出た。
十月の終わりの夜は結構寒くて、板張りの上は素足では冷たいくらいだった。
「こ、こんばんは……」
「何言ってるんだ。そこ閉めて早く来い」
「……うん」
明かりが落とされた彼の部屋に入ると、そう言われた。
「お邪魔しまーす」
襖を閉めてから彼が寝ている掛け布団をそっとめくり、ゆっくりと足からもぐり込む。
「マサさん今日もあったかーい」
「風呂から上がったばかりだから俺は暑い」
約ひと月前に初めてこの状況に陥ったとき、どうして男二人でシングルの布団に入るのかと眉間にしわを寄せて彼に聞くと、夏布団はよく汗をかくから二枚あるけど冬布団はひとつしかないからだとあっさり言われた。
洸太も彼もエアコンが苦手なので、ある程度の暑さまでは窓を網戸にしてタオルケットで雑魚寝でもよかったけれど、寒くなるとそうはいかない。背に腹は代えられぬといざ飛び込んでみれば、人肌のせいもあってとても暖かかった。
「お客さん早くひけた?」
「ああ、うちは客筋がいいからな。おかげで週末でも十一時には店が閉められる」
「おれ、もっと手伝えればよかったけど……」
学生だからというのは、お客さんの前での建前だ。本当は洸太の体調をいつも気にしてくれている。
「大丈夫だ。お前が来るまでは俺一人でやってたし、客も勝手にやってる」
「あはは、お客さんも慣れっこなんだね」
誰かと同じ布団に入って、眠るまでの時間を共有する。洸太にとってそれは初めてのことでとてもうれしいのだけれど、出逢って二ヶ月の彼と話すことといえば店のことくらいしかない。
「澪さんも早く帰ったの?」
「いや、最後までいた。というより店じまい一緒にさせた」
「えっ、今自分一人で大丈夫だって言ったじゃん! ……澪さんお客さんなんだから、呼んでくれればおれも手伝ったのに」
「お前はいいんだ。それよりほら、こっちへ来い」
すねて布団のはしっこに寝返りを打つと、横からたくましい腕が伸びてきて腰の辺りから引き寄せられた。
彼は無意識にやっているのかもしれないけれど、洸太にとってはそうはいかない行為だ。ちいさな子供扱いされてるみたいで恥ずかしくて、そして胸がバカみたいに高鳴った。
「あったかいのはいいけど……暑いのはやだよ」
「俺は冷たくて気持ちがいい」
彼の浴衣からはみ出した足が涼を求めて冷えた洸太のそれに絡み、追い討ちをかける。
そんな男同士のたわい無い行為で反応しそうになっている自分が恥ずかしかった。
別に男が好きなわけじゃない。彼だから、そう思うのだろうか。
「もーやめてよマサさん、暑い……」
足を絡めたまま後ろを振り返ると、寝つきのいい彼はもう夢の中だった。
「……ッ、やば……」
家を離れてもう二ヶ月だ。最初は緊張もしたし時間が忙しなく過ぎていったけれど、ここでの生活が日常となって落ち着いた今、眠っていた昏い欲望が時折顔をのぞかせる。
ちいさくため息をひとつついてから、彼を起こさないようにそっと布団から抜け出す。寒くないように分厚い綿の入った掛け布団の端を、隙間から冷たい風が入らないように押さえつけた。
そして着崩れた浴衣を整えてから、早足で階下へ向かう。
「……っ」
目的地である店のトイレに入ると内から鍵をかけ、裾を割って下着の中に手をすべり込ませた。
「ん……」
溜まっていた欲望を早く吐き出そうとトイレのドアにそのままもたれ、目を閉じて中途半端に勃ち上がった己のモノを扱き上げたのだが。
「だめ、か……」
二ヶ月も自慰さえしていないのに、やっぱり前だけでは達けなかった。
一旦トイレから出ると調理場へ向かい、綺麗に整理された棚からオリーブオイルを拝借する。店で使うものなのにごめんなさいと、心の中で彼に謝るばかりだ。
そして再びトイレに閉じこもると下着をずらし、便座に腰掛けてオリーブオイルを指へ垂らす。膝のあいだから手を入れ後ろの秘肛に塗りつけて、入口をやわらかくほぐしてからゆっくりと指を挿れた。
「はぁ……っ」
久しぶりの中を弄る感覚に、快感が総動員されているみたいだった。
「ん……ふっ……あっ、あん……」
こんなこと、覚えたくて覚えたんじゃなかった。
「あぁっ、あ……」
それなのに洸太の身体はつま先まで痺れて悦んで、それどころか指さえも締めつけてもっと大きなものを欲しがってしまう。
男に馴らされてしまった身体にはそれがないとつらくて、欲しがって与えられては失望することをくり返していた。
「あ……くっ……ん、ぅ」
大きな声が出るのをできるだけ抑えて、感じるポイントに指の腹をこすりつける。最初から前なんて弄っても仕方がなかったのだと思い知らされた。
「や……あっ、あん、あ……!」
空いている手で慌ててトイレットペーパーを取り、前にあてがった。それと同時にナカの指で小刻みに快感の湧き出るポイントを刺激する。
言いたくない言葉が洸太の口から出ようとするのをこらえるけれど、せり上がってくる強烈な快感ともう何年にもなるその決まりごとに、身体が自然と反応してしまった。
「や……あっ……す、きっ……ゆうじ、さんっ……」
あてがっていたトイレットペーパーが湿りけを帯びてちいさくしぼんでいく。達く瞬間に秘肛をきゅうっと締めつけてしまうので、指が余計にポイントにあたって怖いくらいに感じてしまうのだ。
それを淫乱だと言われてしまえば、そうなのだろうけれど。
好き?
そんなこと一度だって思ったことがない。今までも、そしてこれからも。さみしさと引きかえに、言うだけならば簡単だ。
身体が覚えてしまっただけ。覚えこまされてしまっただけなのだから。
見上げるとわずかに空に残された鮮やかな黄色とオレンジを押しつぶし、少しの星を率いて薄い紺色の幕が一面にのしかかっていた。
「わぁ……火星とアンタレスが接近してる。それに水星が東方最大離角だ……」
どことなく淋しく感じさせる夕方の空をしばらく見つめたあと、壁際に置いてあった看板をずるずると定位置まで引っぱって明かりをつける。
白地に黒の文字で『小料理 正』と書いてあるシンプルなものだった。
「そろそろ金木犀が落ちる頃だな。……早く入れ、洸太」
「あ、うん」
肩までのびた髪を後ろでひとつにまとめると、店主である彼はくわえていたタバコを消すために店の中へ入った。
自分もそのあとを追って店へ入り、年季の入った木製の引き戸をカラリと閉める。
カウンターが七席と、四人がけのテーブルが三つの小ぢんまりとしたお店。でも店内は彼の作る料理の幸せな匂いでいっぱいだった。
「ねえ、マサさん。今の話、金木犀が落ちたらどうなるの?」
「冬になる」
「えっ……」
彼はカウンターの中で灰皿にタバコを押しつけると、タオルをとって頭に巻いた。
「あのちいさな花が落ちれば、一気に寒くなるということだ」
「そうなんだ。……マサさんって、ときどきオヤジ臭いこと言うよね」
「三十五の三十路男だしな」
「認めちゃってるし。マサさんちゃんとすればカッコいいんだから、もっと小ギレイにすればいいんじゃない?伸びた髪切って、無精ヒゲ剃って、頭にタオルはやめようよ」
ようやく百六十センチの自分より二十センチは背の高い彼の横に立って、おしぼりの準備をする。といっても洗濯したおしぼりを水で濡らしてくるくると巻き、殺菌灯つきのおしぼり器の中に放り込むだけなんだけれど。
ちらりと目をやると、彼は『本日おすすめ』の魚の煮つけの味を確かめていた。
こうしてその横顔を見ていても精悍で男らしいと思う。背だって高いし、もう少し話し上手になって外見に気をつければ、今よりすごくモテると思うのに。
そう考えたら、なぜだか洸太の胸がチクリと痛んだ。
「洸太。客が来るぞ」
彼の大きな手のひらが、ぽんと洸太の頭に乗っかる。
「うん」
古びた引き戸が音を立てて開くと、その手は自然に離れていく。それが少し淋しかったけれど、明るい声でお客さんを迎えた。
「いらっしゃいませ!」
今日も一日、幸せな時間のはじまりだった。
寿洸太が彼と出逢ったのは二ヶ月前、八月の終わりのことだった。
日本列島を南から大型台風が縦断しようとしていた夜、『正』の壁によりかかってうずくまっていた洸太を、早めの店じまいをしようと出てきた彼が見つけてくれたのだ。
大丈夫かと声をかけられても動かない洸太を軽々と抱え、店の中に運んでくれたことはかすかに憶えている。
しばらくして雨が降りだしたように思うけれど、この辺は記憶が曖昧だった。あとで聞くと、自分はずいぶんと高い熱でうなされていたらしい。
ふと目覚めれば、彼の住居である店の二階の布団の中にいた。反射的に起き上がって部屋の中を一通り見回してから視線を落とすと、布団のそばには自分を見守る彼と、一人用の土鍋に入った作りたてのお粥が用意されていた。
「食え。晩メシだ」
卓袱台代わりのアイロン台にドンと男らしく置かれたそれは、とてもいい匂いで美味しそうだったけれど、どうしても手が伸びなかった。
「と言ってもお前と逢ったのは昨日の夜だぞ。丸一日寝てたんだ、腹も減ってるだろう」
「丸一日……」
「まあそれだけ寝ても別にもったいなくはないがな。ちょうど台風でこの辺にも大雨警報が出ている最中だ。今回のは風よりも広範囲の雨がひどいらしい」
肩まで伸びた髪はボサボサで無精ヒゲで、火をつけずにくわえタバコをした彼がずっとこっちを見ている。こんなにもお世話になってしまった手前、食べないわけにはいかないという状況だった。
「い……いただきます」
「ん」
小ぶりのレンゲで恐る恐る口をつけたそれは、塩味をつけて卵を溶いただけのシンプルなもので、意外に美味しくてとても温かな味がした。何だか懐かしい、家族の味だった。
彼の手前とりあえず少し食べてはみたが、きっとそれもムダに終わる。なぜなら自分は……。
「……むり」
「何だ?」
「……ッ……はく……」
グゥっとせり上がってくるものを堪えると、気が遠くなって冷や汗が滴る。
次の瞬間彼に抱きかかえられ洗面所を過ぎてトイレに連れ込まれると、洸太はそこで文字通り食べたものを水に流した。
心臓が早鐘をうち、耳の奥でも同じ音が鳴り響く。遠くなる意識をなんとか現実に取り戻そうと荒い呼吸をくり返していると、いきなり冷たいタオルで顔中を拭かれた。
「もう一枚あるから持っておけ。行くぞ」
「は……い……」
洸太が自力で立ち上がろうとする前に、さっきと同じように彼にヒョイと後ろから抱え上げられる。
「無理はするな」
ぶっきらぼうだけどやさしさが伝わってくる。そんな話しかたをする人だと思った。
「……すみません」
見ず知らずの人に、と言ったところでブラックアウト。気がつけば次の日のお昼前だった。
彼は洸太のことをなにも聞かなかった。その代わり自分のことも話さない人だった。
「コータくん、瓶ビールもう一本ちょうだい」
だから彼を知るには、お客さんの言葉の端々から拾い上げるしかなかった。
「はーい!」
もう二ヶ月もここに居るのに、彼から言われたことはたった二つだけだ。
「お待たせ~島永さん」
お客さん側に置いてある冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜いてから島永さんの元へと持っていく。彼が一人で忙しいときは、お客さんが自分で取り出せるようにしていたらしい。
「ありがとう。いやー、しかしコータくんが来てくれてよかったねぇ」
島永さんは警備会社に勤めている、もうすぐ還暦の体格のいいおじさんだ。この店の常連さんで、仕事帰りにはかならず立ち寄ってくれる。奥さんとはずいぶん前に死別していて、今は年頃の娘さんと二人暮らしらしく、いつ嫁に行くと言い出すかと思うと心配で夜も眠れないという可愛らしい一面もあった。
「ほんと? おれ、役に立ってる?」
「うんうん、立ってるとも。コータくんはこのムサ苦しい店の一輪の花だよ」
「ありがと島永さん! サービスでお酌しちゃうから!」
水滴のついた瓶ビールを両手で持ってグラスに注ぐと、上のほうにきれいな白い泡ができた。島永さんはそれを見ると、「上手だねぇ」とうれしそうに飲み干した。
「しかしマサがバイトを入れるなんてねえ。おじさん思いもしなかったよ」
「バイトっておれが初めてなの?」
もう一杯ビールのお酌をしてからイカと里芋の煮物をカウンター越しに受け取り、島永さんの前に置いた。
「開店して四年経つけど、コータくんが初めてだよ。確かにマサは男前だけど、こういう店にはやっぱりカワイイお花がいなくちゃなぁ!」
「おれ、カワイイお花なの?」
「そうさ。おじさんはね、コータ君という小動物みたいにちっちゃくてカワイイお花に毎日癒されにきてるんだよ」
「えへへ、ちょっとうれしい。でもおれもちっちゃいかもしれないけど、島永さんがおっきいんだからねっ」
ニコニコと笑ってくれる島永さんの前で、少し照れてしまった。こんな人がお父さんだなんて、娘さんがちょっぴりうらやましいなと思った。
「こんばんはー。僕ひとりなんですけど座れますか」
ちょうど洸太がカウンターの中に戻ったとき、ときどきこの店に訪れる人が引き戸から顔をのぞかせた。
「おっ、いらっしゃい澪ちゃん! 久しぶりだねえ」
洸太よりも先に島永さんが声をかけ、自分の隣に予備の椅子を突っ込んで無理矢理座れと促した。そこはいつも澪さんの定位置で、調理場で仕事をする彼の真正面の席だった。
「すみません島永さん。みなさんも」
澪さんは椅子を少しずつずらしてくれた人たちと島永さんに礼を言って笑いかけると、やわらかな物腰で椅子に腰掛けた。
「いらっしゃいませって、島永さんに先に言われちゃった」
つき出しをカウンター越しに澪さんの前へ置いておしぼりを手渡すと、澪さんは洸太にも同じように微笑んでくれる。
「ありがとう、洸太くん。君、相変わらずちっちゃくて可愛いね」
「コータくんはこの店のお花だって今言ってたとこなんだよ、な!」
「二人ともちっちゃいとか余計だけどありがと。えっと、なに飲みますか。澪さん明日はお仕事?」
「ううん、めずらしく明日と明後日は休みなんだよ。だから久しぶりに飲んじゃおっかなーと思って」
うふふ、と笑う澪さんはすらりとした美人さんで、それに上品で可愛らしい男の人だ。洸太がちいさなお花だったら、澪さんは間違いなく大輪の花だった。
「おじさんも明日の土曜は休みなんだけど、コータくんか澪ちゃんがデートでもしてくれないかなぁ」
そう言って豪快に笑う島永さんに、澪さんが面白そうですねと賛同する。
「どちらかと言わずに僕と洸太くん、いっぺんに面倒見てもらえます?」
「えっ、ええええ!」
澪さんにいたずらっぽく微笑まれて、島永さんは慌てて手元のビールを飲み干した。
「澪、うちのお客さんをたぶらかすな」
「そんなことしてません」
ぷいっと横を向いて口をとがらせる澪さんに、彼が表情をゆるめる。
「注文は?」
「……しょうさんのおすすめでいいです」
「今日入った日本酒がある。人肌燗で飲むと旨いぞ」
澪さんは彼の提案にこくりと頷くと、おしぼりで手を拭いて大人しくつき出しの小鉢をつつきはじめた。
澪さんは彼のことを「マサさん」ではなく「しょうさん」と呼ぶ。一度どうしてなのか訪ねたら、彼の名前が「まさ」ではなく、本当は「しょう」と読むからだそうだ。
どうしてそれを知っているのかといえば、学生時代澪さんは彼のひとつ年下の後輩だったらしい。
「洸太、今日はもういい。九時過ぎたから上がれ」
「あっ、うん……」
「なんだよマサ。金曜の夜なのにもうコータくん終わりなのかい」
「もうすぐ二十歳になるとはいえ、洸太はまだ十九歳の学生ですから勉強が本分です」
怖いくらいの愛想笑いで彼が島永さんに笑いかける。あんなのでよく四年も店をやってきたと、こっちがため息をついてしまう笑顔だった。
「マサさん目が笑ってないッスよー」
「すごんでるようにしか見えない……」
「ムリヤリ笑うとこえーぞ!」
他のお客さんたちも思わずその愛想笑いにつっこんでいた。
「じゃあおれ、上がります。おやすみなさい」
「コータくんまた明日な! おやすみー」
「お休みなさい、洸太くん」
お客さんたちの笑顔に見送られながらカウンター内に戻り、調理場の後ろにある三和土で下履きを脱いでから上がり框を上って家の中へと入る。
店と家をつなぐドアを閉めると、それ一枚を隔てただけなのにみんなの笑い声がとたんに遠くなって、洸太ひとりだけが取り残された感じがした。
ここに来てから彼に言われたこと。
「何か人に言えない事情があるんだったら、お前さえよければこのままここにいても構わない。ここは俺一人だから時々店を手伝ってくれればバイト代も出す。だが学生なんだったらきちんと勉強はしろ。それがお前の本分だろう」
ブラックアウトから目覚めたとき、彼は洸太に向かっていちばんにそう言った。
いきなりのことに面食らってしまってなにも言えずにいると、自分が見慣れない就寝用の浴衣を着ていることに気がついた。
「俺ので悪いが、パジャマは持ってなくてな。汗をかいていたからお前の服は洗濯して干してある。下着も替えたぞ」
「あの……」
「元気になったら家から必要最低限の荷物をとってこい。それからそこにある薬はちゃんと飲んどけ」
「薬……」
洸太がブラックアウトしているあいだに、知り合いの医者に診てもらったのだと彼は言った。
「それと、もうひとつ。少しずつでもいいからメシはちゃんと食え」
それだけだと言って、彼は階下へ続く階段を下りていってしまった。
「なに、これ……」
目が覚めると同時に、知らない世界へきたみたいな感覚だった。突然自分とは関係のない、平穏な場所へ飛ばされたような感じ。
だが現実はそう甘くはない。
「……見られたのかな」
発熱後の辛い身体を引きずって洗面所まで歩き、鏡の前で浴衣をはだけて背中を確認する。そこには見慣れた無数の傷あとと、まだ生々しさの残る傷が少しあるはずだ。
「やっぱり……」
まだ新しい傷の場所には、手当の跡があった。
見られた以上は仕方がない。でも彼はこの傷についてなにも聞かなかった。それどころか、ここにいてもいいとさえ言ってくれたのだ。
いや、傷を見たからこそそう言ったのかもしれない。警察に通報するならさっさとしているだろう。
洸太はもしかしたら自分が変わっていけるんじゃないかと、少しばかり期待してしまった。だからここに……彼の元にいようと決めたのだった。
彼は大抵日付けが変わってから二階へ上がってくる。この古びた木造の家は店よりも住居部分のほうが大きくて、店じまいをしたあと一階にある風呂へ入ってから二階の自分の部屋へと戻るのだ。
ちなみに洸太が間借りしている部屋はその隣。最初にかつぎ込まれた場所は彼の部屋だった。
店を手伝うにあたってバイト代を出すと彼は言ってくれたけど、ここにいさせてもらった上にお金までもらうなんてできないと突っぱねた。その代わりに家賃や食費などの必要経費をバイト代と相殺する形にしてくれと頼んだのだ。えらそうに相殺といっても、洸太が店を手伝うのは体調のいい日だけだったけれど。
遊ぶ金はいらないのかとも聞かれたけれど、遊ばないしお金なら少しは持ってるからと答えたら、彼は黙り込んでしまった。
普通ならこんな人間、抱え込みたくないだろうに。
「寝るぞ」
階段を上がってきた彼から襖越しに声をかけられ、洸太はうんと答える。
読んでいた本を閉じて膝にかけていたブランケットをたたみ、ここに来てすぐに買ってもらった浴衣の寝巻き姿で蛍光灯のヒモを三回引っぱって部屋の明かりを消す。それから襖を開けて板張りの廊下に出た。
十月の終わりの夜は結構寒くて、板張りの上は素足では冷たいくらいだった。
「こ、こんばんは……」
「何言ってるんだ。そこ閉めて早く来い」
「……うん」
明かりが落とされた彼の部屋に入ると、そう言われた。
「お邪魔しまーす」
襖を閉めてから彼が寝ている掛け布団をそっとめくり、ゆっくりと足からもぐり込む。
「マサさん今日もあったかーい」
「風呂から上がったばかりだから俺は暑い」
約ひと月前に初めてこの状況に陥ったとき、どうして男二人でシングルの布団に入るのかと眉間にしわを寄せて彼に聞くと、夏布団はよく汗をかくから二枚あるけど冬布団はひとつしかないからだとあっさり言われた。
洸太も彼もエアコンが苦手なので、ある程度の暑さまでは窓を網戸にしてタオルケットで雑魚寝でもよかったけれど、寒くなるとそうはいかない。背に腹は代えられぬといざ飛び込んでみれば、人肌のせいもあってとても暖かかった。
「お客さん早くひけた?」
「ああ、うちは客筋がいいからな。おかげで週末でも十一時には店が閉められる」
「おれ、もっと手伝えればよかったけど……」
学生だからというのは、お客さんの前での建前だ。本当は洸太の体調をいつも気にしてくれている。
「大丈夫だ。お前が来るまでは俺一人でやってたし、客も勝手にやってる」
「あはは、お客さんも慣れっこなんだね」
誰かと同じ布団に入って、眠るまでの時間を共有する。洸太にとってそれは初めてのことでとてもうれしいのだけれど、出逢って二ヶ月の彼と話すことといえば店のことくらいしかない。
「澪さんも早く帰ったの?」
「いや、最後までいた。というより店じまい一緒にさせた」
「えっ、今自分一人で大丈夫だって言ったじゃん! ……澪さんお客さんなんだから、呼んでくれればおれも手伝ったのに」
「お前はいいんだ。それよりほら、こっちへ来い」
すねて布団のはしっこに寝返りを打つと、横からたくましい腕が伸びてきて腰の辺りから引き寄せられた。
彼は無意識にやっているのかもしれないけれど、洸太にとってはそうはいかない行為だ。ちいさな子供扱いされてるみたいで恥ずかしくて、そして胸がバカみたいに高鳴った。
「あったかいのはいいけど……暑いのはやだよ」
「俺は冷たくて気持ちがいい」
彼の浴衣からはみ出した足が涼を求めて冷えた洸太のそれに絡み、追い討ちをかける。
そんな男同士のたわい無い行為で反応しそうになっている自分が恥ずかしかった。
別に男が好きなわけじゃない。彼だから、そう思うのだろうか。
「もーやめてよマサさん、暑い……」
足を絡めたまま後ろを振り返ると、寝つきのいい彼はもう夢の中だった。
「……ッ、やば……」
家を離れてもう二ヶ月だ。最初は緊張もしたし時間が忙しなく過ぎていったけれど、ここでの生活が日常となって落ち着いた今、眠っていた昏い欲望が時折顔をのぞかせる。
ちいさくため息をひとつついてから、彼を起こさないようにそっと布団から抜け出す。寒くないように分厚い綿の入った掛け布団の端を、隙間から冷たい風が入らないように押さえつけた。
そして着崩れた浴衣を整えてから、早足で階下へ向かう。
「……っ」
目的地である店のトイレに入ると内から鍵をかけ、裾を割って下着の中に手をすべり込ませた。
「ん……」
溜まっていた欲望を早く吐き出そうとトイレのドアにそのままもたれ、目を閉じて中途半端に勃ち上がった己のモノを扱き上げたのだが。
「だめ、か……」
二ヶ月も自慰さえしていないのに、やっぱり前だけでは達けなかった。
一旦トイレから出ると調理場へ向かい、綺麗に整理された棚からオリーブオイルを拝借する。店で使うものなのにごめんなさいと、心の中で彼に謝るばかりだ。
そして再びトイレに閉じこもると下着をずらし、便座に腰掛けてオリーブオイルを指へ垂らす。膝のあいだから手を入れ後ろの秘肛に塗りつけて、入口をやわらかくほぐしてからゆっくりと指を挿れた。
「はぁ……っ」
久しぶりの中を弄る感覚に、快感が総動員されているみたいだった。
「ん……ふっ……あっ、あん……」
こんなこと、覚えたくて覚えたんじゃなかった。
「あぁっ、あ……」
それなのに洸太の身体はつま先まで痺れて悦んで、それどころか指さえも締めつけてもっと大きなものを欲しがってしまう。
男に馴らされてしまった身体にはそれがないとつらくて、欲しがって与えられては失望することをくり返していた。
「あ……くっ……ん、ぅ」
大きな声が出るのをできるだけ抑えて、感じるポイントに指の腹をこすりつける。最初から前なんて弄っても仕方がなかったのだと思い知らされた。
「や……あっ、あん、あ……!」
空いている手で慌ててトイレットペーパーを取り、前にあてがった。それと同時にナカの指で小刻みに快感の湧き出るポイントを刺激する。
言いたくない言葉が洸太の口から出ようとするのをこらえるけれど、せり上がってくる強烈な快感ともう何年にもなるその決まりごとに、身体が自然と反応してしまった。
「や……あっ……す、きっ……ゆうじ、さんっ……」
あてがっていたトイレットペーパーが湿りけを帯びてちいさくしぼんでいく。達く瞬間に秘肛をきゅうっと締めつけてしまうので、指が余計にポイントにあたって怖いくらいに感じてしまうのだ。
それを淫乱だと言われてしまえば、そうなのだろうけれど。
好き?
そんなこと一度だって思ったことがない。今までも、そしてこれからも。さみしさと引きかえに、言うだけならば簡単だ。
身体が覚えてしまっただけ。覚えこまされてしまっただけなのだから。
10
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした
なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。
「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」
高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。
そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに…
その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。
ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。
かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで…
ハッピーエンドです。
R18の場面には※をつけます。
年上が敷かれるタイプの短編集
あかさたな!
BL
年下が責める系のお話が多めです。
予告なくr18な内容に入ってしまうので、取扱注意です!
全話独立したお話です!
【開放的なところでされるがままな先輩】【弟の寝込みを襲うが返り討ちにあう兄】【浮気を疑われ恋人にタジタジにされる先輩】【幼い主人に狩られるピュアな執事】【サービスが良すぎるエステティシャン】【部室で思い出づくり】【No.1の女王様を屈服させる】【吸血鬼を拾ったら】【人間とヴァンパイアの逆転主従関係】【幼馴染の力関係って決まっている】【拗ねている弟を甘やかす兄】【ドSな執着系執事】【やはり天才には勝てない秀才】
------------------
新しい短編集を出しました。
詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。
ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
強引で絶倫系の恋人と転移した!
モト
BL
恋人の阿久津は強引で絶倫だ。
ある日、セックスのし過ぎで足腰立たずにふらついた。阿久津にキャッチされて床に直撃は免れたのだが、天地がひっくり返るような感覚に襲われた。
その感覚は何だったのだと不思議に思いながら、家の外に牛丼を食べに出た。
そして、ここが元いた世界ではなくDom/Subユニバースの世界だと知り……!?!?!
Dom/Smbユニバースの世界をお借りしました。設定知らない方も大丈夫です。登場人物たちも分かっていないですので。ゆるくて平和な世界となっております。
独自解釈あり。
ムーンライトノベルズにも投稿しています。
【完結】お嬢様の身代わりで冷酷公爵閣下とのお見合いに参加した僕だけど、公爵閣下は僕を離しません
八神紫音
BL
やりたい放題のわがままお嬢様。そんなお嬢様の付き人……いや、下僕をしている僕は、毎日お嬢様に虐げられる日々。
そんなお嬢様のために、旦那様は王族である公爵閣下との縁談を持ってくるが、それは初めから叶わない縁談。それに気付いたプライドの高いお嬢様は、振られるくらいなら、と僕に女装をしてお嬢様の代わりを果たすよう命令を下す。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる