夜と初恋

残月

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 クリスマスイブの今夜は、高級住宅街で有名な高台にあるリストランテでの食事となった。
 律が見る限り沖は煙草を吸わなかったし、酒も基本的には飲まなかった。飲むのは仕事での付き合いの場か、心許せる友人と一緒のときだけだと聞いた。
 だから律の前では酒を飲まない。いつも車に乗って食事にきているのも理由のひとつだろうけれど。
 去年は施設で過ごす最後のクリスマスということで、みんなで苺のショートケーキを食べながら記念写真を撮った。
 あれから一年が経ち、いつでも見惚れてしまう大人の男に出逢い、自分がオーダースーツを着て高級と名の付くレストランで食事をしているだなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「ありがとうございました、沖様。お連れ様も、またのお越しをお待ちしております」
 食後のテーブルでパドローネと呼称される店のオーナーから直々に挨拶をされ、それを制するように沖が片手を上げて椅子から立ち上がった。
「ご馳走様。いい夕食だった。ありがとう」
 今夜はこのイタリアンレストランのオーナーから直々に招待があったのだそうだ。
 この三日ほどは外食が続いている。もしかしたら前に言っていたメインの仕事となにか関係があるのかもしれなかった。
 そして会計はいつもサインひとつで通ってしまう。沖に連れられて食事をしたどの店でも、彼が現金やカードで支払っているところを見たことがなかった。
 外まで見送ると言って譲らない年若いオーナーを、沖がようやく引き下がらせて店の出入口まできたとき、瀟洒しょうしゃなガラス製の二枚扉の向こうから派手な女性が店へ向かって歩いてくるのが見えた。
 金に近い色の髪を結い上げ、クラッチバッグを持つ長い爪には綺麗に紅いネイルが施されている。高級ブランドのドレススーツで身を固め、ファーコートを肩で羽織る様は堂々としていた。高いヒールを履いているにしても女性にしては長身で、律よりも上背があった。
 モデルのようにスラリとした綺麗な女性だと思ったが、その表情は決して穏やかでなく、心なしかこちらを睨んでいるような気さえした。笑えばすごく美人だろうに、少し残念だ。
 女性が店へ入ると同時に、律が外へ出る。その一歩を踏み出したところで、後ろから声がかかった。
「見つけたわ。待ちなさいよ、子猫ちゃん」
 一瞬なんのことだかわからずに戸惑ったが、振り返ってみると律と沖のあいだにその女性が立っていた。
「そう、あなたよ」
 女性はその美しい顔に怒りを湛え、眦を吊り上げて律を睨みつけた。
「あなた、一彬のなんなのかしら」
「え……」
 一彬とは、確か沖の下の名前だ。女性の意図がわからずじっと顔を見つめていると、真紅のルージュが引かれた口元が怒りにふるえた。
「しらばっくれないで。遊ばれてるだけなのよ、あなた。それとも一彬の財産が目あてで家に転がり込んだのかしら。そのスーツも一彬に用意させたのよね? まさかこんな男を本気で好きってわけじゃないでしょうし、やっぱりお金が目当てなんだわ」
「……っ、すみません。なんのことだか……本当にわからないです」
 助けを求めるように女性の後方へ視線をやると、ようやく沖が彼女に声をかけた。
「よう美咲、おかえり。オンシーズンのゴールドコーストは楽しめたか?」
 その声に振り向くと、女性はなにも言わずに沖の左頬をピシャリと叩いた。
「痛ってー……。いきなりなにするんだ」
「なにがおかえりよ! 一彬のとこになんて戻らないんだから!」
「ああ、問題はないぜ」
 沖は叩かれた左頬を押さえ、それでもニヤリと笑っていた。
「これはそっちのマイナスポイントよ。早速弁護士に言いつけてやるわ」
「じゃあ俺も、公衆の面前で暴力ふるわれましたって伝えるわ」
「勝手になさい! まったく……あのヒイラギだけじゃないなんて、あなたたち本当にどうかしてるわ!」
「こんな場所で喚くなよ。それに、ちゃんとヒイラギだけを愛している」
 そう答えた沖を、彼女は心底いやそうに睨みつける。
「そんなことよりお前、早くどうにかしろよ。俺はもう一年以上も待ってるんだぞ。今更だが、こういうのは引き際が大切なんじゃないのか」
「うるさいわね! 言われなくてもそんなこと、とっくの昔にわかってるわよっ!」
 沖と律をひと睨みし、怒りをあらわにヒールの音を響かせて、彼女は店の奥へと消えてしまった。まるで嵐が通り過ぎたようだ。
「まったく、どこから律のことを聞きつけたんだ……。しかしあの様子じゃ、そろそろってところか」
 沖はため息をつきながら律に近づき、「いやなものを見せて悪かった」と言った。
「大丈夫ですか……すごく赤くなってる」
 叩かれた頬に手形がついて、随分と痛々しい。
「顔以外は気にしてくれないのか」
「そんなこと……ないですけど」
 気にしなくはないがあの女性が誰なのか、沖とどういう関係なのか。違う意味で気になるのは当然だ。
 黙って沖と並んで歩きながら、クリスマスイブの夜空を見上げる。上弦の月が墨を刷いたような雲間から顔を出し、吐く息は濃紺の空に白く冴えて凍えた。
「……綺麗な人でしたね」
「気になるか」
「ヒイラギさん、とは……また違ったタイプだなって、思って……」
「まあ理想と現実ってやつだな。世間的にはさっきの……美咲は、俺の女房だ」
「にょ……って、奥さん、ですか」
「そうだな」
 食事をした店から駐車場までは少し遠い。沖に与えられた上質なカシミヤのチェスターコートを着ていても、身体の芯から冷えるように感じた。自分で自分の腕を抱くようにしてその身を縮めると、沖が彼のジャケットを脱いで律の肩に掛けてくれた。
 それは律が羽織ると自分のコートよりも大きく、そして温かくて、シプレ系のオードトワレの――沖の匂いがした。
「結婚……してるんですね」
「一緒に住んでたのはほんの短い期間だけどな。家で顔をあわせたのも数えるほどだ」
 律の動揺などお構いなしに、沖は美咲の愚痴をこぼしていく。
「なんせ育ちがお嬢様だから、爪が割れるとか言って家事もしたことないし、俺が家にいれば邪魔だから出てけってうるさいし、水原の事務所に行ったら行ったで浮気だなんだってこれがもう目茶苦茶で……。二ヶ月ほど経ったところであいつのパパに泣きついて自分から出ていったんだ。なんであんな女と結婚したんだろうなって考えたら、役所に婚姻届を勝手に出されてたってオチなんだが……。自分の結婚が他人からの事後報告って、人生において最悪だよな」
 話を聞きたくなくて律が押し黙っていると、そのまま会話もなく駐車場に着き、車で沖のマンションへと戻った。
 車の中でも会話はなく、沖の家に入ってからようやく肩に掛けられたジャケットを返すと、お礼だけを口にして逃げるようにバスルームへとかけ込んだ。
 思いもかけなかった現実に手足がふるえ、ズキズキと胸が傷んで呼吸が苦しい。
 律のために仕立てられたスーツも脱がずに床へ座り込んで、立てた膝に両腕を乗せて顔を伏せる。
 キツそうだけれど綺麗な人だった。背も高くて沖の隣に並べばお似合いで、絵に描いたような美男美女のカップルだと誰しもが口を揃えて言うだろう。
 沖は何度あの人を抱いたのだろうか。結婚する前も、してからも。
 律を抱きしめるのと同じ腕で、同じ手で、あの人の肌にも髪にも触れたのだ。きっと、あのくちびるでも……。
 ぎゅうっと心臓を引き絞られる感覚がして、目の前が暗くなる。それからじわりと涙が浮かんできた。
 もうあのベッドで沖に抱きしめられて眠るなんて、できるわけがないと思った。

    ✥    ✥
 
 翌朝、沖の携帯電話に雪下から着信があった。結局昨夜は一睡もできずにリビングで過ごしたので、ダイニングテーブルに忘れられていた沖の携帯電話を寝室まで持っていった。
 沖はチラリと律の顔色を窺ってから電話に出て、通話を終えたあと「雪下から時々あるヘルプ要請だ」と律に説明してくれた。
 律はそれに頷いてみたけれど、朝食はスープだけしか喉を通らなかった。
 それでも沖は律を水原の事務所まで送り届けてくれた。夕方から雪下の店へ行くので、帰りは迎えにこられないと言われたけれど。
 昨夜、沖はマンションに帰ってからも変わらずやさしかった。いつも通りに律を抱きしめて眠ろうとした。
 でも律は初めてそれを拒否してしまった。
 なぜなのだろう、あのベッドで沖が一緒に眠るのは、律だけだと思っていたのだ。いま考えればとても浅慮だった。
 もしかしたら美咲以外にも、沖と一緒にあのベッドで眠った女性がいるかもしれない。きっとそうだ。だって女性が……もしかしたら男性だって、沖を放ってはおかないだろうから。
「ごめんね、律くん。ひとりにしてしまって」
 午後二時を回ってから、ようやく水原が事務所へ戻ってきた。今日はクリスマス本番なので、店舗のほうが大変な賑わいらしい。
 在庫の確認や休憩にくるアルバイトも疲れている者が多く、今日の律はそんな彼らにお茶とお菓子を運ぶ係だった。
「おれもなにか手伝えたらいいんですけど」
 ひとり事務所に残っての入力作業は落ち着かなかった。皆のようにレジが打てたり、プレゼント用の包装や品出しができるわけでもなかったからだ。
「その気持ちだけでうれしいわ」
 いつものようにのんびりと話す水原が、ローズヒップティーを淹れてくれた。ローズヒップの実を乾燥させてから細かく砕いたもので、お湯を注いで数分置けば実もそのまま食べられるものだった。
「ありがとうございます」
「いいえ。よかったら感想教えてもらえるかしら。そのうちカフェも併設しようかと考えているんだけど、これもメニューに加えてみようかと思ってて。冬青そよごの蜂蜜を入れてあるから、さっぱりして飲みやすいと思うけど」
 思わぬ事業計画を聞かされてしまった。本当に水原は精力的だ。
「あ、美味しいです」
 お湯で戻ったカップの中の細かな実はトマトに近い酸味で、舌で押しつぶすととろみがある。
「よかった~。ローズヒップはビタミンが豊富なの。特にビタミンCが多くて、ビタミンCの爆弾なんて言われているのよ。律くん今日は元気がないみたいだから、これで元気になるといいわね」
 うふふと笑う水原に、ふと昨夜の出来事を話してみようと思った。
「あの……沖さんって、結婚されてたんですね。おれ……昨夜、奥さんにお会いしたんです」
 上手く水原に切りだせただろうか。それとも突然だと思われているだろうか。恐る恐る水原の顔を窺う。
「あら、奥さんに会ったの? 結婚の経緯はよくわからないんだけど、去年の夏頃だったかしら。急な話だったから私も驚いたわ」
 水原はいつもと変わらない笑顔で、律の話にこたえてくれた。これならもう少し話を聞けるかもしれない。
「水原さんは、奥さんを知っているんですか」
「入籍だけだったし、奥さんとは大学が違っていたから私は直接会ったことはないんだけど、昔からずっと一途? だったとか聞いたわ」
「一途、ですか」
「う~ん、噂話だしよくわからないんだけれど……好きすぎて、どうしても振り向かせたくて、結婚した……みたいな?」
 話の最後がよく見えないが、強引に結婚したものの奥さんのほうがいやになったということだろうか。
「雪下さんあたりなら詳しく事情を知っているかもね。でも私は沖さんが誰かと結婚するなんて、まったく想像もしていなかったから」
 水原は笑って、手にしていたお茶をひとくち飲んだ。
「そういえば、理想と現実……って、沖さんが」
 昨夜、確かに沖はそう言った。
「沖さんが愛しているのは、ヒイラギさんだけだって……」
「そう言ったの? 沖さんが?」
 水原の言葉にゆっくりと頷く。
「確かに特別な人ね、ヒイラギさんは。決して手に入らない、理想の女神様だもの」
 初めて『Holly Olive』へ行ったときに香月もそう言っていたことを思い出し、律は朱鷺色のくちびるを噛みしめた。
「ヒイラギさんには私も一度だけ会ったことがあるけど……、でも心配しなくても大丈夫よ。理想は理想だから、現実とは全然違うわ。そんなに悩むくらい、律くんは沖さんのことが大好きなのね。律くんにそれだけ想われるだなんて、ちょっとだけ沖さんが羨ましいわ」
 やさしい言葉をくれた水原が、律の髪にそっと触れてくる。水原の温もりが律に伝わってきて鼻の奥がツンとした瞬間、涙が頬にこぼれ落ちた。
 
   ◇    ◇

 雪下から沖へ『Snow White』のヘルプ要請が入ったのは、クリスマス当日の朝のことだった。
「従業員にクリスマス休暇を認める飲み屋のマスターって、笑えるぜお前」
 沖は厨房でフライパンを振りつつ、ニコニコと笑いながらできあがった料理をカウンターまで運ぶ雪下へ文句を言った。
 時刻は午後七時を回ったところだった。
「なに言ってるんだよ、こんなときのための一彬じゃないか。昨日のイブは全員出勤だったんだから、もう少し頑張ってよ。あと一時間くらいで二人戻ってくる予定だから」
 それを軽くあしらう雪下は、沖の扱いにとても慣れていた。
「それより律くんの様子はどう? もうすぐ一緒に暮らし始めてひと月だろう。いまは水原のとこで事務やってるんだよね?」
 数人分のドリンクを手際よく作りながら、雪下が沖に尋ねた。
「……わからん」
「なにそれ」
「昨夜から、また夜に寝ることをやめたんだ」
 律を食事に連れていったまではよかったのだが、その帰りから様子がおかしくなった。せっかく順調に眠れていたのにまたリビングで過ごすようになってしまい、今朝の顔色もよくなかった。
「律くんに睡眠障害があるって聞いたときは驚いたけど、うちの仕事って律くん的にはよかったのかな」
「日の高いあいだに寝る生活ってのが身体にいいわけはないが、精神的には落ち着くみたいだな。昼間ならある程度は寝られるみたいだし」
「夜だって一彬と一緒なら眠れてたんだよね? ちゃんと朝まで」
「……一昨日までの、ほんの十日ほどだけだったけどな」
「それでも随分な進歩じゃないか。なのになんでまた元に戻ったんだろう。……なにかあった?」
 思いつくことはひとつしかない。食事帰りに美咲に会ったことだ。
 美咲が沖の妻だと言った途端、律は黙り込んでしまった。帰りの車でも、そしてマンションに帰ってからもだ。
 沖が風呂から上がったあと、律は寝室ではなくリビングで過ごすと言って、沖の顔も見ずにブランケットと枕を持って出ていってしまった。
 連れ戻そうかとも思ったのだが、なにやら思いつめている様子に無理強いはできないと判断し、エアコンと床暖房は入れておけと念を押して後ろ姿を見送った。
 二十近くも年下の青年に、どうして強く出られないのか。
 答えは簡単。嫌われたくないのだ、律に。
 雪下を通して出会ったときは、犬猫のように可愛いと思っていた。なかなか懐かない動物が自分の世話によって懐柔されていくようで、律にもそれと同じ気持ちを抱いていた。
 しかし一緒に暮らし始めて三日目。沖の姿を探して玄関で律がパニックになっていたあの日。あの細い身体を腕に抱きしめて眠りにつかせたあのときから、きっと自分は律にそれ以上の感情を抱いていたのだろう。
 以前の恋愛は沖が三十路に入ってすぐの頃に終わったこともあって、感情の認識が追いついていなかった。
 律を守りたい、律を喜ばせたい、律の笑顔が見たい。
 食事のたびに律の好きなものを聞き出し、律が眠るときは自分から逃げられぬよう腕の中に閉じ込め、時折律が見せる笑顔に心が躍った。
 そう、これは恋だ。
 自覚をすれば忘れていた感情が昂ぶって、律を想っては年甲斐もなく心臓が爆ぜる。
 おそらく律も、沖に対して同じような感情を抱いているはずだ。だから沖と美咲の関係に顔色を失い、動揺したのだろう。
 沖はいま、誰にも感じたことのなかった情欲を律に抱いている。
 律という孤高に咲く凜とした花を、ただ愛でるだけではなく、くちづけて、この手で手折り、獣のように荒々しく散らしてしまいたかった。
「こっちが聞きたいくらいだ」
 沖は昨夜の美咲との遭遇を雪下には言わず、そう答えてフライパンの中身を皿に移した。
 雪下はそんな沖を尻目にドリンクとできあがった料理をトレーに乗せ、それをカウンターまで持っていって従業員に手渡す。その振り返り際、客席を見て声を上げそうになり慌てて手で口を塞いだ。
「ちょっと、一彬」
 厨房の入口で声を潜め、手振りで沖を呼ぶ雪下に何事かと近づくと、店内を見るよう視線で促された。
「あれは……」
 まさかと言うか、やはりと言うか、カウンターにほど近いテーブル席に弘樹がいた。今日は四、五十代くらいの、サングラスを掛けた痩せた男と二人だけのようだった。
「あいつ、いつきたんだろう……。裏方に徹してたからわからなかったよ」
「あれからも顔を見せるのか」
「うん、今日で三度目。律くんが一彬の部屋へ行ってから、彼は辞めたって説明したんだけど……気に入られたみたい」
 雪下はやれやれとため息をつく。
「……律がずっとお前に逢いたがっているんだが、今日も連れてこなくて正解だったな」
「えー、それは残念だなあ」
「雪下には世話になったから……お前にちゃんと顔見せて礼を言いたいって、最近はそればかり言っている」
「なるほど、一彬ってばそれでオレにヤキモチ焼いてるんだ。確かに一彬のカワイイ律くんがオレのことばっかり言ってたら、一彬は面白くないよねぇ」
 雪下がニタリと笑ってからかうと、沖の眉間にくっきりとシワが寄った。
「うるせえ。お前に俺の気持ちがわかるか」
 十七も年下の男に惚れた男の気持ちが、だ。
「わかりますとも」
「なんでだよ」
「一彬があの部屋に律くんを連れて帰るってことはさ、もう最初に見たときから律くんのこと気に入ってたんだよ。言うなれば一目惚れです」
「お前な、簡単に言うなよ」
「だって、オレは『一彬のところで』預かってとは言ったけど、『一彬の部屋で』預かれとは言わなかったし。律くんを自分が住んでいる部屋に連れて帰ったのは一彬じゃないか。まあ見てればわかるけど……本気で好きなんでしょう、律くんのこと」
「ああ……そうだよ、律が可愛くて仕方ねえよ。悪いか」
 沖は観念したかのように大きく息を吐き出した。
「悪いっていうより、オレ的には一彬のそんな顔が見られて嬉しいよ。律くんってホントにいい子だもんねえ」
 雪下は沖の拗ねたような表情を見て、その端麗な美貌に笑みを浮かべた。
「よし。そんないい子の律を守るため、オジさんはちょっと行ってくるぞ」
 沖はエプロンを外してジレから覗くネクタイを締め直し、厨房作業で乱れた髪を手ぐしで整える。
「どこ行くの」
「偵察だ。カウンターに出るから料理のできる従業員ひとり引っ込めろ」
 雪下にそう言うと沖はすぐにカウンターへ向かい、そこにいた従業員と少し話をしてから、彼にはホールを見回るように伝えた。
 ゆっくりと店内を見回すと、さすがはクリスマス本番の夜だ。客の七割は男女のカップルで占められていた。
「あれ、お兄さん前に会ったことあるよね。タッパあるし男前だから憶えてるわ」
 相手がどう出るだろうかと思ったが、すぐに弘樹の反応があった。相変わらず片耳にピアスをジャラジャラとつけ、金髪を逆立てている。
「失礼ですが、どちらかでお目にかかったでしょうか。申し訳ありません、私こういった店のヘルプを生業なりわいとしておりまして。よろしければなにかお作りいたしましょうか」
「ふうん。ま、いいや。カクテルは作れるの」
「はい」
「じゃあ、ジンフィズ」
「かしこまりました」
 顔では笑っているが腹立たしい。ジンフィズはバーテン泣かせとも言われる代物だ。作りかたは至ってシンプルだが、客の好みに合わせるのが最も難しいカクテルだからだ。
 沖は弘樹のいるテーブルをさっと見渡し、注文した料理や酒からいまの弘樹の好みそうなベースのジンを選んでいく。
「ねえ林田さん、あいつ見つかりましたか。せっかく住んでる家探しあててもらったのに、本人がそこにいないんっすよね」
 弘樹が連れの人物に声をかけた。
「そう焦んなって。うちの若い連中が探してる最中だからよ」
 林田と呼ばれた痩せた男は、紫に黒の柄が入った趣味の悪いサテンシャツに白のコーデュロイのパンツ姿で、店の中でも金縁のサングラスを外さず、頭髪に至っては絶滅寸前といわれるパンチパーマだった。なんでもその技術を継承する理髪店が年々少なくなっているとかで、愛好家の人口も減ってきていると聞いたことがある。
「天下の松川組にお願いしてるんですから、大丈夫っすよね」
「あ、ああ……。しかしお前もだけど、本家の若頭も本当にあんなガキがいいのかねえ。確か女みたいな名前だったな、律とか」
 やはりヤクザだったかと思いつつ律の名が出た瞬間、沖のこめかみがピクリと引きつった。こんな男に律の名前を口にさせたくもないが、ここは悟られぬよう我慢してシェーカーを振る。
「そりゃイイに決まってんでしょー。あいつ女より肌理きめが細かくて、いい肌してるんっすよ。ケツなんてもうスベッスベだし、あいつを美少年好きの若頭に献上すれば絶対喜んでくれますって。んで林田さんの出世も間違いナシ!」
 弘樹の言葉に、林田が品のない笑いでグラスの中身をあおる。
「見つけたら林田さんにもマワしますよ。あ、でもあいつのバージンは俺がもらいますからね」
「いやいや、俺は女がいいわー」
「だから女よりいい肌してるんですって」
 怒りを抑え、まだ下卑た笑いが続くテーブルへジンフィズを持って近づく。
「お待たせいたしました」
 弘樹の前へタンブラーを置くと、早速と言わんばかりに口をつける。それから沖のほうを見て、目を見開いた。
「お兄さん美味いよコレ! さすがヘルプの達人って感じ! 林田さんもどうっすか」
「いや俺はウイスキーが……」
 林田に視線を移すと、カクテルに詳しくないのか焦りが見えたので助け舟を出す。
「ではドライマンハッタンなどいかがでしょう。ライウイスキーベースですよ」
「じゃ……じゃあそれを一杯」
「かしこまりました」
 それ以降二人のあいだに律の話題は出ず、一時間ほどで機嫌よく店を出ていった。
「カクテルが美味しかったからまたくるって。よかったね、一彬」
「俺はさすらいのバーテンダーだからもうこの店にはこない」
「なにそれ」
「設定だ」
 弘樹が店を出たあとクリスマスを楽しんだ従業員が戻ってきたので、休憩室のソファで雪下と休憩をとる。
「で、首尾はどうだったの」
「上々……とはいかないが、片割れは予想通りヤクザみたいだな」
「ふうん」
 机に置かれたグラスの中身を一気に飲み干す。氷で冷やされた柑橘系のスカッシュが、沖の昂ぶりを鎮めてくれた。
「弘樹が言うには松川組だそうだが」
「松川組ねぇ。……ホントなのかな」
 そう呟いた雪下の視線が沖へと飛ぶ。
 しばらく見つめあうと沖はため息をついて視線を外し、グラスの中の氷を口に含んで噛み砕いた。
「あの痩せた男、林田とか言ってたな。ただの下っ端かもしれんが、まあ確認はしておいたほうがいいかもな」
 沖がもう一度視線を雪下にあわせると、目の前の友人は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「……オレ?」
 雪下の弱々しい言葉に、沖は大きく頷く。
「適任だろう」
「……オレの身の安全は考えてくれないわけ」
「なにを今更。いい加減お前がはっきりしないから現状がこうなってるんだぞ。俺たち全員が、それぞれ立ってる場所に縛りつけられている。お前もそろそろ覚悟を決めろよ」
「……ごめん」
 伏し目になった雪下の睫毛が、彼の頬に濃い影を落とす。
 本当に造形の美しい男だ。雪下自身はこの容姿のせいで、昔からトラブルが絶えなかったのだが。
「とにかく律の言う通り、弘樹はまだ律を探してるってことだ。松川組の若頭に献上するためにな」
「若頭に献上……? 律くんを?」
「そう言ってたぞ。ちなみにその本家の若頭は美少年好きらしい。それでいくと、きっと律もお眼鏡に適うだろうな」
 沖の言葉に雪下は下を向いたまま、額に手をあててひとつ息をついた。
「わかった。さっきのオッサンの所属確認はオレに任せて。あと、なにをするにしても気をつけてね」
「お、今日はやけにやさしいじゃないか。さすが魔法がかかるクリスマスだな」
「お前じゃないよ、律くんのことに決まってるだろう」
「へえへえ、わかってますよ。じゃあもうひと頑張りしますか」
 気合を入れてソファから立ち上がったが、ふとした違和感を覚え部屋の隅に視線を向けた。
「気づいた? あれからひと月になるし、もうここに律くんの寝る場所はなくなったから」
「……寂しがるかもしれんぞ」
「そうならないように一彬が頑張ってよ。そのうちオレから逢いにいくって律くんに伝えて」
 雪下は大柄な友人に向かって、優美に右手を差し出す。
「ああ、伝えておく」
 沖はその右手をつかんで、お姫様よろしく雪下をソファから立ち上がらせる。「このままラストまでお願いしようかな」といたずらっぽく笑う雪下に、沖は苦笑するしかなかった。

    ✥    ✥

 森林の香りのする大きな浴槽で温まっても神経が昂ぶるのは、いつも以上に緊張しているせいだ。
 それなのに眠れなくてもベッドにいろと沖に怒られたので、大きなベッドにひとりで寝転がって、ナイトランプのオレンジがかった淡い光を眺めている。
 沖は『Snow White』から日付が変わる二時間前に帰ってきた。雪下の店は客が退けるまで営業をするので、こんなに早い時間に帰ってくるということは途中で抜けてきたのだろう。一度この寝室を覗いて律に声をかけてから、バスルームに行ってしまった。
 沖は律にやさしい気遣いをしてくれる。頼りがいもあるし、笑うと少年のようで可愛いかった。
 だから無理にでも奥さんになりたい女性がいるのも当然だと思う。二人の仲がどうなっているかなんて律にはわからないけれど、でもいま律の胸が苦しいのは、沖のことを本当に好きになってしまったからだ。
 水原にも簡単に知られてしまうくらいに、律の心の奥の、もう引き返せない深いところまでが沖で侵されている。
 今日だって沖のことで一日中、頭がいっぱいだった。
「ちゃんと布団かけてるか」
 寝室のドアが開き、パジャマのズボンを穿いた半裸姿で沖が入ってきた。そして彼はさもあたり前のような顔をして、律の隣に潜り込んでくる。
「や……っ」
 沖に抱き寄せられる寸前で、また反射的に身体が逃げてしまった。沖に対する気持ちや美咲への嫉妬を自覚したこともあって、素直に身体を預けられない。
 思わず広いベッドの上に起き上がると、その勢いでずっと考えていたことを沖に伝えた。
「あの……おれ、自分のアパートに帰ります」
「なにか取りに行くのか」
「いいえ。でも、このまま沖さんの部屋にいるのも悪いし、うちの家賃だってもったいないし……」
「……お前、昨夜からどうしたんだ」
 起き上がってベッドに胡座で座り直してこちらを訝しむ沖の視線に耐えられず、律はシーツをつかんで下を向いた。
「おれ……もう、ここには、いられません……」
「どういう意味だ。それにアパートへ帰ったって、眠れないんじゃ同じことだろう」
 逃げ出したいのだ。妻がいて、心の底からヒイラギを想う沖を、本気で好きになってしまったから。目の前にあるその逞しい腕も、体温も、笑顔もなにもかも、律以外には向けて欲しくなかった。
 初めて他人にこんな気持ちを持ってしまって、自分でそれを持てあましている。
 そう思うと律に告白してくれた人たちに、申し訳ない気持ちが起こった。これだけ勇気のいる行動をとってくれたのに、律は淡々と断りの言葉だけを伝えてしまったから。
 きっと自分も、沖から拒絶の言葉を投げかけられる。そうなる前に、沖の前から逃げてしまいたかった。
 実らない恋の相手に抱きしめられて眠るのは、とても苦しいことだから。
「お、おい……泣くなよ、律……」
 いつの間にかシーツに涙がこぼれ落ちていた。
「ちが……う……」
 ひとりに戻ることなんて簡単なのに、自分でもなぜ涙が頬を伝っているのかわからなかった。
 律の涙を見てひどく焦った沖に今度こそ抱きしめられて、一日振りに与えられた体温に余計に涙が募る。
 こんなときでも好きな人の腕の中は、世界でいちばん居心地がよかった。
「……律、聞いてもいいか。お前は普通の不眠症とは違うよな。眠れないわけじゃない、ただ真夜中が恐いんだろう? 原因はわかっているのか」
 躊躇ためらいながら話しかけてくる沖に、律はゆっくりと頷いた。
「俺に話せるなら話してみろ。少しでも楽になるかもしれないぞ」
 話せるだろうか。いや、沖になら話せるかもしれない。
 過去の記憶をたどるとき、いつも心臓はうるさく早鐘を打った。
「大丈夫だ。俺はここにいる」
 律の背中を行き来する大きな手と、耳元へ落ちる低い声に少しずつ心を落ち着かせてゆく。目を閉じて厚みのある沖の胸にそっともたれかかると、その規則正しい心音に勇気づけられた。
 大丈夫。話せるはずだ。
「おれ、四人……家族だったんです……」
 父は小さな町工場を経営していた。十数人の従業員に混じって、母も時々それを手伝っていたように思う。三つ違いの弟とも仲が良く、決して裕福ではないけれど幸せな家族だった。
 律が四年生になる直前の春休み、めずらしく父が旅行をしようと言いだした。それまでは家族で旅行なんて行ったことがなかった。律はいつも友達の家を羨んでばかりだったから、とりわけ喜んだのを憶えている。
 ――少し遠くへ行くから、夜の暗いうちに家を出発するのよ。
 よそ行きの服を着た母に言われ、律と弟は車の後部座席に乗せられた。
 運転席に座る父も工場の作業服ではなくスーツを着ていたので、友達に聞いて自分も一度泊まってみたいと思っていたテーマパークのホテルにでも泊まるのだろうかとワクワクした。
 いつの間に眠っていたのか、日付が変わる頃に車が停まった振動で目が覚めた。窓から周りを見ると、そこは律が想像した場所とは随分違う、樹々が生い茂った山の中だった。
 父と母は車から荷物を下ろし、すぐ横にある木造の古い家に運び込んでいた。
 隣で律と同じように目を覚ました弟が、寝ぼけまなこで母を呼んだ。
 母はそれに気づくと、開いていた助手席のドアから弟を抱き上げ家の中に連れていった。
 律は母の表情にどこか違和感を覚えて寝たふりをしていた。
 両親が家の中で会話をしている。父の険しい声。母の涙声。
 しばらく経ってから、父が後部座席で眠る律のところへやってきた。ドアが開いたが、絶対に起きていることを悟られてはならないと思った。
 父は長いあいだ律を見ていたが、やがて車のドアを閉めて家の中へ入っていった。父も泣いていたように思う。
 そのうち家の中から弟が泣きじゃくる声が聞こえてきたが、少し経って眠ってしまったのか大人しくなった。
 それから両親が歩き回ったり、なにか衣擦きぬずれの音がしていたように思うが、律は再び睡魔に襲われ眠ってしまった。
 次は寒くて目が覚めた。車内のデジタル時計は午前二時を表示していた。辺りは真っ暗で鳥や動物の鳴く声が時々聞こえてくる。
 ここにきてようやく律はひとりでいることが怖くなり、車から降りた。
 ――おかあさん。
 声に出して家の玄関の引き戸を開けると、父と母が上り框の脇にある台所にいた。
 二人は常夜灯だけをつけた薄闇の中、小さなテーブルを前にして床に座ってた。
 ――寒いからようちゃんの隣で寝ていなさい。明日の朝に出発するからね。
 母はまた泣きそうになりながらそう言った。
 母の視線の先を追いかけると、台所の横の大きな畳の部屋に布団が二組敷かれていた。律がその場所に移動すると、弟はすでに眠っていた。
 律もその隣の布団に入ったが、眠る前にもう一度両親の顔を見た。父は煙草を吸っていて、母は律を見て笑いながら涙をこぼしていた。
 みんな今日は泣いてばかりだなと思った。父も母も弟も。家族の初めての楽しい旅行のはずなのに、もっと笑って欲しかった。
 どうしてなのか眠れず、しばらくして律はまた目が覚めてしまった。隣に弟がいたけれど、両親は台所にはいなかった。
 まだ朝はきていないのに、置いていかれたのだろうか。そんなはずはない。朝に出発すると言っていたから。それに弟もまだ眠っているのだ。
 でも、今日の両親はちょっと変だった。……もしかしたら、捨てられたのかもしれない。学校の図書室にある本で、そんなお話を読んだことがあった。小さな兄弟が親に捨てられ、二人だけで旅をするお話だった。
 律は一気に不安になって、眠っている弟を揺すって起こした。
 ――陽ちゃん、起きて。ねえ、ようちゃ……ん……。
 弟の様子がおかしかった。身体が冷たかった。ずっと布団に入っているのに全然身体が温かくなかった。それに弟は寝相が悪くてしょっちゅう律を蹴ったりするのに、今日は眠っている体勢がまったく変わっていなかった。
 その異変に気づいたとき、得も言われぬ恐怖が律の全身を貫いた。
 布団から飛び上がって駆けだし、靴も履かずに玄関から出て車へと向かった。ドアを開けてそこに両親がいないか確かめた。
 期待に外れて両親の姿はなく、車内の時計は午前四時半頃を告げていた。
 ――お母さん……お父さん……? どこ……! ねえ、出てきてよ……!
 まだ明けぬ闇の中を泣き叫びながら、見知らぬ家の周辺を両親を探して回った。
 夜目に慣れた頃、家の裏手に別棟の小屋を見つけた。まるで律を迎え入れるかのように、その扉は開いていた。見る限り農機具らしきものが保管されていたから、納屋だったのだと思う。
 酷くいやな気配がして入るのを躊躇ったが、二人を探さなければならない。
 律はふるえる足で中へと入った。
 そこからの記憶はいまでも曖昧だ。写真のように切りとられた場面は出てくるが、映像のように連続性は持たなかった。
 気配に顔を上げると、父と母がこちらを向いて並んでいた。
 その足は宙に浮いていた。
 闇の中、車まで必死に逃げた。
 夢の中のように足がもつれて全然前に進めなかった。
 車の中で大声で泣き叫んだ。
 身体はこんなにもふるえるものなのだと知った。
 それでも涙越しにぼやけた夜明けを見たとき、とても綺麗だと思った。
 後で聞かされた話だが当時無人だったあの家は、律の祖母にあたる人の……母の実家だったそうだ。どうしてあそこに自分ひとりだけが残されたのか。それを考えればいまでも胸が張り裂ける。
「気がついたら父の工場の人がいて、警察官も何人かいました。……そのあと色々聞かれたけど、九歳になったばかりの子供だったし……なにもわからなくて。おれがひとりで車の中にいたときに、あんな……っ、あんなことがあっただなんて……」
 小さな弟は、両親の手にかけられていたそうだ。思い出すのも身体がふるえる。そして涙が止まらなかった。九歳の自分はあたり前に子供で、あまりにも非力だった。
「弟が……泣いているときに……止めに行けばよかった……っ。せめて、おっ……弟だけでもっ……」
 いま考えれば、あれは弟の断末魔だ。入学式直前で、ランドセルを背負って学校に行くのをとても楽しみにしていたのに。
 しゃくり上げて泣く律を、沖が強く抱え込んでくる。
「すまなかった、律。イヤなこと思い出させちまった……」
 律の背中や髪を撫でて必死に宥めてくれる沖の胸で、首を横に振る。沖のやさしさが嬉しかった。
「なあ、律……。お前、ずっと俺の傍にいろよ。ここにいてくれ。どこにも行くな」
 耳元に落ちてきた沖の真摯な言葉に、涙に濡れた目をみはった。
 参ったなと呟いた沖が、律の頬を両手で挟み込んでくる。大きな手のその親指が、濡れた睫毛の上を左右同時に滑った。
 涙を拭われそっと目を開けると、沖が強い双眸で律を見つめていた。
「俺は、お前が可愛くて仕方ないんだ……」
 低いけれど甘く響くその声に、律の心臓がうるさく跳ねた。
 律の頬にある両手はそのままに、沖がゆっくりと顔を近づけてくる。恥ずかしくてきつく目を閉じると、くちびるを幾度か啄まれてから、ちゅっと音を立てて吸い上げられた。
「あっ……んん……っ」
 驚いて声を上げた律の歯列の隙間から、沖の舌が侵入してくる。それからゆっくりと味わうように、律の舌を絡めとった。
「ふ……、ぅ……ん」
 沖は逃げ腰の律の舌を執拗に追いかけ、こすりあわせ、やわらかく吸っては幾度もそれを繰り返す。
 沖のくちづけに翻弄されてうっとりとしていると、やがてくちびるが離れ、律の頬に沖のそれが重なってくる。首筋に沖の吐息がかかって、ぴくりと身体が震えた。
「家族の話聞いたすぐあとで……悪かった」
 沖がそう言って身体を離そうとしたので、律は彼の腕をつかんでそれを止めた。律の細い腕とは違って、筋肉のしっかりと乗った大人の男の腕だった。
「いやじゃ……ないです」
「……律」
「もっと、して欲しい……」
「いいのか」
 沖と視線がぶつかって、ゆっくりと頷いた。
 これがチャンスなら、積極的につかみにいくしかない。二人の女性を相手にただでさえ勝ち目なんてないのに、好きな人に触れてもらえる好機を逃したくはなかった。
 胡座で座る沖の腰を律の両脚で挟む形で座らされて、さっきよりも長くくちづけを受けた。
 沖は雰囲気に流されるままの律のくちびるを丁寧に吸い、舐めとり、何度も角度を変え舌を絡めとってくる。
 舌どころか歯列の裏側や上顎をくすぐるように舐められるのは、恋愛初心者の律には刺激が強すぎた。その行為にすぐに息は上がって、粘膜同士のやわらかな触れあいに全身の力が抜けた。
 こんなの、心臓が破裂しそうだ……。
 キスと同時に、肩や背中をさする沖のてのひらが時々いやらしく動いて、律の未熟な性感を煽った。
「ん……ふ……ぁっ……」
 こんな声が自分から出るなんて思ってもいなくて、とても恥ずかしかった。でも沖とのキスは気持ちよくて、ずっとずっとこうしていたいと思った。
「ぁ……」
 巧みなキスを続けながら沖の手がパジャマのボタンを外してきて、直接律の肌に触れた。その手は律の胸の飾りを探ってか、あちこちさまよっている。そうして律の背中がそっとシーツへ押しつけられると、見つけだした胸の粒を口に含まれた。
「んっ……あぁっ」
「いい声だ……律……」
 舌と指で胸の粒をころころと転がされているだけなのに、なぜかお腹がきゅんと疼いて中心に熱が集まる。
「……苦し、あっ、……へ、んに……なる……」
 沖は泣き言をこぼす律を再びキスで宥め、喉の奥で笑いながら、熱を帯びて勃ち上がった律の下半身に手を伸ばしてきた。
「や、だ……め……」
「これを鎮めないとな」
 言いながら沖は律のパジャマのズボンを下着と一緒に剥ぎとり、律の前に触れた。
「や、ぁ……っ」
 大きな手にやさしく昂りを握り込まれ、ゆっくりと上下に擦られる。自慰すら滅多にしない律には刺激が強くて、頭がどうにかなりそうだった。
 沖の手の中で、律のそれがどうなっているかなんて想像したくない。それなのに自分の中心で鳴る水音が着実にその様子を伝えてきて、羞恥で死ねると思った。
「いいぞ、律……もうすぐだ……」
 沖の言葉にギュッと目を瞑ってその刺激をやり過ごそうとしても、身体の内側から湧き上がる法悦の波には逆らえない。
「あぁっ……!」
 沖の手の中、律自身が幾度かに渡って白濁を吐き出すと、その精に汚されて下腹が熱くなり、身体がふわりと浮いた感覚がした。それが怖くて両手を伸ばし、沖の首へしがみつく。
「やべえ……シーツ汚しちまった」
「え……」
 その沖の言葉に息を荒げながら目を開けると、律のモノとは色も大きさも段違いの沖自身が、律のモノと一緒に沖の手の中に握られていた。
 沖自身からも律の腹の上に大量に吐精されていて、恥ずかしくて居た堪れなかった。
「まだ動くなよ」
 そう言って慌てて寝室を出ていった沖が、タオルを何枚か持って戻ってきた。そのタオルで律の腹部やシーツに落ちた白濁を丁寧に拭う。
「先に風呂へ入れ。シーツ替えてから俺も行く」
 気だるい身体を起こし、パジャマのズボンと下着を回収してから言われた通りにバスルームへ向かう。
 シャワーを出してタオルで拭ってもらった下腹に手をあてると、独特のぬめりがまだそこにあった。
 さらりとしているようで適度にネバつきがあり、お湯に素直に流れずに律の肌にしがみついている。無理に擦る必要はないが、幾度かはボディソープをつけなおした。自分のものと混じってはいるが、これが沖のものなのだと思うと愛おしくなる。
 丁寧に身体を洗い終えると、お湯が冷めてしまった大きな浴槽に浸かった。沖は熱めのお湯を好むが、律にはこのお湯と水の狭間の温度が心地よかった。全身の熱が冷めていく気がする。
「入るぞ」
 沖がバスルームへ入ってきた。シャワーを出し、まずは手をお湯で洗ってからボディソープを手に取った。その手が沖の性器の上を滑ると、綺麗に泡立っていく。見てはいけないと思いつつも、その成熟した雄に魅了されてしまう。
 鼻の下までぬるま湯に浸かりながら目を閉じていると、沖に追い焚きをされてお湯の温度が上がりだす。
「熱い……」
「お前の身体が冷えてるからだ」
 身体を綺麗にし終えた沖が浴槽に入ってくる。沖に腕を捕らえられ、そのまま彼のほうへ引き寄せられた。
「沖さ、ん……っ」
 沖の膝の上へ向かいあわせに乗せられ、その腕に閉じ込められて、さっきみたいに深いキスをされた。もうそれだけでのぼせてしまって、律の鼓動は何度も跳ね上がってしまう。
 温度が上がっていくお湯と、身体を融かす熱いキス。脳みそがバカになりそうだ。
「もう……やぁ……」
「……律」
 自分の名を呼ぶ声が、甘く熱を帯びている。その艶のある声にまた下腹の奥がきゅんと疼いてしまって、なにかの魔法にかかったようだと思った。
「お前、俺が好きか」
 大人はずるい。確かにもっとして欲しいと言ったのは律だけれど、最初にキスを仕掛けてきたのは沖のほうなのに。
「……好きじゃなかったら、こんなこと……しません」
「そうだよな。射精だってしないよな」
 あからさまな言葉に恥ずかしくなって、沖の胸を拳で小さくつ。もっとロマンチックな言いかたはないものなのか。恋愛初心者の律にも、夢はあるのだ。
 それでも自分を抱きしめ照れた表情をする沖を見て、なにがあってもこの人が大好きだと思った。
「おれ……色々と、初めてだったんです……」
「いっぺんに悪かったな」
「でも、おれは……沖さんだからいいと思って……」
 沖の顔を正面から見ると、目の前の彼は甘い笑みを浮かべていた。
「……昨夜、奥さんがいるって聞いて、ショックでした」
「そうか」
 宥めるように律の目尻や頬、口元にやさしいキスが落とされる。沖はロマンチストではなさそうだけれど、意外に行為は甘ったるい。
「それよりお前、誕生日はいつだ」
「三月です」
「三月、だと……」
「三月十四日ですけど」
 律の誕生日を聞いて、目の前で沖ががっくりとうなだれた。
「なんでそんなに遅いんだ」
「そんなこと言われても……。おれの誕生日が、どうかしたんですか」
「だってお前、まだ十八だろ。なんていうかだな、その……十八歳って聞くと手を出しづらいっていうか……」
「いまさっき、手を出したじゃないですか」
「あれは勢いというか、あんなの本番じゃねえし」
「ほ……本番って言うな!」
 沖の再びの直截ちょくせつな物言いに、律は真っ赤になって顔を背けた。熱い湯でのぼせそうなのもあって、ついでに立ち上がって高野槙の浴槽の縁に腰を下ろす。
「おいおい、目の毒だろ。そんなお宝見せつけやがって」
「もう、恥ずかしいな沖さんは! ……股のあいだに挟んでるから、見えません」
「お前は小学生か」
 律のいらえに吹き出す沖が、やっぱり可愛いと思ってしまう。
「……誕生日がこないと、さっきの続きはナシですか」
「律にも覚悟がいるかと思ってな」
「覚悟……?」
「男同士だからすんなり入るわけはないし、ましてやお前は以前そういう目に遭ってるんだ。心の準備も必要だろう? 最初は穴を拡げるのも大変だぞ」
「……面倒くさいと思ってますか、おれのこと」
「いや、どっちかというと燃えるな」
 沖の深いコーヒー色の視線がきらめいて、真っ直ぐに律の心を射抜く。
「律にいっぱい色んなこと教えて、いっぱいやさしくして、いっぱい舐めて、それからいっぱい善がらせてやりたい」
 低く響く甘い声に男を感じて、律の心と身体が絡めとられていく。
「……誕生日までなんて、待てないです」
「いいのか。寝かせてやれんぞ」
 沖の言葉は冗談のようでいて、でもその視線は獲物を前にした獣のようだった。
「眠れない夜なら、有意義に過ごしたいですから」
 律を見る沖の眼差しに、熱が孕む。視線だけで融かされてしまいそうだ。
「あと三日すれば年末年始の連休に入る。それなら多少動けなくても問題はないだろう。だから三日後に……律、お前を抱く。楽しみにしてろよ」
 沖に腕を引かれてもう一度お湯の中で抱きあうと、甘いくちづけを落とされた。
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