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夜と初恋・番外編
甘い日々 2
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年が明けてから水原の事務所で仕事をするのは二回目だ。でも今日以降は当分来られなくなる。だから一旦『Holly Olive』での仕事は終了だ。
「昨年度の各種データはここにありますから、確定申告資料としてこれを税理士さんへ提出してもらえればいいと思います」
「ありがとう。律くんのおかげで今年は余裕が持てそうだわ。専門学校のほうの書類はもう揃ったのかしら」
アッサムの茶葉を使ったロイヤルミルクティーを飲みながら、水原がおっとりと話す。
律の手元には彼女が入れてくれたココアのカップがあった。
「卒業した高校に調査書を依頼しているので、あとはそれが送られてくるのを待つだけなんです」
座ったまま回転椅子を引いて、水原のいる方向へ身体を向けた。
「来月末に専門学校の特別選考試験を受けるのね」
「はい」
「大学に行こうとは思わなかった?」
遠慮がちに聞いてくる水原に、律は自分の考えを述べた。
「公認会計士は学歴よりも、資格そのものが重視されると聞きました。大学受験となると今年は無理だから来年の入学になるし、二浪して大学出るよりも、この一、二年で勝負かけて資格を取ろうと思っているんです」
狙っているのは今年十二月の短答式試験と、来年八月の論文式試験だ。どちらも一回で決着をつけたかった。
「沖さんにお金の心配かけたくないですし、いざとなれば奨学金もありますから」
高校時代お世話になった商業科の教師にもアドバイスを受け、すでに選考試験に向けて準備をしている。無事に専門学校に入学しても勉強ばかりで、プライベートの時間はほとんど取れないかもしれない。そうなれば家事だって沖に任せきりになるだろうし、だからそれ以上のことは甘えられなかった。
「律くんがそう決めたなら応援するわ。私としては大学に行って欲しかったのだけど」
大学で四年間、のびのびと羽を広げてやりたいことをやって欲しい。学費なら自分が出すから、と年明けすぐに水原が言ってくれた。
水原だけではない。新年のあいさつがてら沖にかかってきた電話で松川にも言われてしまった。
「ありがとうございます。ここでの仕事も中途半端になって申し訳ないんですけど……おれ、頑張りますから」
周りの大人たちに期待をされるのは少しくすぐったかったが、なんとか自分の力でつかみ取ってみようと決めたのだ。
「いいのよ、そんなこと。でも寂しいから時々は顔を見せにきてね。私との約束よ」
「もちろんです」
ティーカップをテーブルの上に置いた水原の両手が、律の頭をそっと抱え込む。水原はゆっくりと自分の顔を近づけると、律と額同士をあわせた。
「律くんなら絶対に大丈夫よ。それと、律くんの身体を気遣うように沖さんにはちゃんと言い聞かせておくから、そっちは任せておいて」
なんでもお見通しの水原は、本当に凄い人だと思った。
✽
夕方になると沖が車で迎えにきてくれたので、水原にあいさつをして事務所を出た。沖のマンションへ帰るより先に、律が借りているひとり暮らしのアパートへ寄ってもらう。
「とりあえず大事なモンはこれだけか」
大きめのダンボールを抱える沖に、頷いてみせる。
「……あと一回か二回で全部持ち出せるんじゃないか、荷物」
「なにもない部屋ですから」
江戸間の六帖に小さなキッチン。一人分の食器に、諸々の日用品。小さな冷蔵庫。衣装ケースが三つ。箪笥がないので一張羅のスーツはカバーをして壁際にかけてある。玄関には革靴が一足。洗濯機とエアコンはアパートの備え付けだ。夜に寝ることもなかったので寝具はなく、ごろ寝用のクッションと毛布があるだけだった。
「大家さんには今月末で出ていくって言ってあります」
「わかった」
沖が車のトランクにダンボールを積み込む。
「あ、帰ったら仕事部屋のコピー機を使わせてください」
「なんでも勝手に使え。お前の家なんだから」
「はい……」
沖の言葉にかあっと顔が赤くなる。
選考試験の手続きのこともあり、年明け早々に住所を沖のマンションへと変更したのだ。たったそれだけのことなのに、こんなにも気恥ずかしい。
マンションに帰ってきて、沖にダンボールを部屋まで運んでもらう。
寝室とウォークスルークローゼットでつながった隣の空き部屋が、律の部屋になった。沖が使っている主寝室よりは小さいが、それでも十二帖はあって充分な広さだ。
「ここに置くぞ」
沖がダンボールをドアの傍に置いてくれた。
「早々に家具を入れないとな。机と椅子、キャビネットとサイドボード。カーペットかラグマット敷いて、勉強が立て込んだとき用に……ベッドはダブルでいいか」
暗めのウォールナットの床だけの、なにもない部屋をぐるりと見渡し沖が唸る。
「普段はあっちで寝るだろう」
ウォークスルークローゼットの先をちらりと見て沖が笑った。
「はい。ひとりは寂しいですから」
沖の服をきゅっと引っ張ると、抱きしめられてくちづけが降ってくる。
「週明けにでも家具屋へ行こう。その帰りにアパートの荷物を回収する。松川が手伝ってくれるそうだ」
「よろしくお願いします」
照れたように笑う沖に幾度かくちびるを啄まれる。
「よし、風呂に入るか。お湯ためてくる」
最後にもう一度律のくちびるを吸い上げてから、沖はバスルームへ向かった。
その背中を見送ってダンボールからA4サイズのクリアブックを探し出す。その中の一枚が日商簿記検定一級の合格証書だった。
「頑張らなきゃ……」
合格証書を確認して新たに気を引きしめると、律は沖のあとを追いかけた。
「昨年度の各種データはここにありますから、確定申告資料としてこれを税理士さんへ提出してもらえればいいと思います」
「ありがとう。律くんのおかげで今年は余裕が持てそうだわ。専門学校のほうの書類はもう揃ったのかしら」
アッサムの茶葉を使ったロイヤルミルクティーを飲みながら、水原がおっとりと話す。
律の手元には彼女が入れてくれたココアのカップがあった。
「卒業した高校に調査書を依頼しているので、あとはそれが送られてくるのを待つだけなんです」
座ったまま回転椅子を引いて、水原のいる方向へ身体を向けた。
「来月末に専門学校の特別選考試験を受けるのね」
「はい」
「大学に行こうとは思わなかった?」
遠慮がちに聞いてくる水原に、律は自分の考えを述べた。
「公認会計士は学歴よりも、資格そのものが重視されると聞きました。大学受験となると今年は無理だから来年の入学になるし、二浪して大学出るよりも、この一、二年で勝負かけて資格を取ろうと思っているんです」
狙っているのは今年十二月の短答式試験と、来年八月の論文式試験だ。どちらも一回で決着をつけたかった。
「沖さんにお金の心配かけたくないですし、いざとなれば奨学金もありますから」
高校時代お世話になった商業科の教師にもアドバイスを受け、すでに選考試験に向けて準備をしている。無事に専門学校に入学しても勉強ばかりで、プライベートの時間はほとんど取れないかもしれない。そうなれば家事だって沖に任せきりになるだろうし、だからそれ以上のことは甘えられなかった。
「律くんがそう決めたなら応援するわ。私としては大学に行って欲しかったのだけど」
大学で四年間、のびのびと羽を広げてやりたいことをやって欲しい。学費なら自分が出すから、と年明けすぐに水原が言ってくれた。
水原だけではない。新年のあいさつがてら沖にかかってきた電話で松川にも言われてしまった。
「ありがとうございます。ここでの仕事も中途半端になって申し訳ないんですけど……おれ、頑張りますから」
周りの大人たちに期待をされるのは少しくすぐったかったが、なんとか自分の力でつかみ取ってみようと決めたのだ。
「いいのよ、そんなこと。でも寂しいから時々は顔を見せにきてね。私との約束よ」
「もちろんです」
ティーカップをテーブルの上に置いた水原の両手が、律の頭をそっと抱え込む。水原はゆっくりと自分の顔を近づけると、律と額同士をあわせた。
「律くんなら絶対に大丈夫よ。それと、律くんの身体を気遣うように沖さんにはちゃんと言い聞かせておくから、そっちは任せておいて」
なんでもお見通しの水原は、本当に凄い人だと思った。
✽
夕方になると沖が車で迎えにきてくれたので、水原にあいさつをして事務所を出た。沖のマンションへ帰るより先に、律が借りているひとり暮らしのアパートへ寄ってもらう。
「とりあえず大事なモンはこれだけか」
大きめのダンボールを抱える沖に、頷いてみせる。
「……あと一回か二回で全部持ち出せるんじゃないか、荷物」
「なにもない部屋ですから」
江戸間の六帖に小さなキッチン。一人分の食器に、諸々の日用品。小さな冷蔵庫。衣装ケースが三つ。箪笥がないので一張羅のスーツはカバーをして壁際にかけてある。玄関には革靴が一足。洗濯機とエアコンはアパートの備え付けだ。夜に寝ることもなかったので寝具はなく、ごろ寝用のクッションと毛布があるだけだった。
「大家さんには今月末で出ていくって言ってあります」
「わかった」
沖が車のトランクにダンボールを積み込む。
「あ、帰ったら仕事部屋のコピー機を使わせてください」
「なんでも勝手に使え。お前の家なんだから」
「はい……」
沖の言葉にかあっと顔が赤くなる。
選考試験の手続きのこともあり、年明け早々に住所を沖のマンションへと変更したのだ。たったそれだけのことなのに、こんなにも気恥ずかしい。
マンションに帰ってきて、沖にダンボールを部屋まで運んでもらう。
寝室とウォークスルークローゼットでつながった隣の空き部屋が、律の部屋になった。沖が使っている主寝室よりは小さいが、それでも十二帖はあって充分な広さだ。
「ここに置くぞ」
沖がダンボールをドアの傍に置いてくれた。
「早々に家具を入れないとな。机と椅子、キャビネットとサイドボード。カーペットかラグマット敷いて、勉強が立て込んだとき用に……ベッドはダブルでいいか」
暗めのウォールナットの床だけの、なにもない部屋をぐるりと見渡し沖が唸る。
「普段はあっちで寝るだろう」
ウォークスルークローゼットの先をちらりと見て沖が笑った。
「はい。ひとりは寂しいですから」
沖の服をきゅっと引っ張ると、抱きしめられてくちづけが降ってくる。
「週明けにでも家具屋へ行こう。その帰りにアパートの荷物を回収する。松川が手伝ってくれるそうだ」
「よろしくお願いします」
照れたように笑う沖に幾度かくちびるを啄まれる。
「よし、風呂に入るか。お湯ためてくる」
最後にもう一度律のくちびるを吸い上げてから、沖はバスルームへ向かった。
その背中を見送ってダンボールからA4サイズのクリアブックを探し出す。その中の一枚が日商簿記検定一級の合格証書だった。
「頑張らなきゃ……」
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