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龍のうたげ編

働く!

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 ――一体あれは、何だったのか――。

 まるで夢のような時間。トランス状態が解けたモリカはぼんやりとそんなことを思い浮かべていた。
 時は日暮れ。所は天楼前。教団体験が終わったので次は天楼だと、ほとんど無我状態でここへ来ていた。

「ちょいとすまねぇな。楼主さんはいるかい!」

 前方ではピュノと思われる生き物が常連ばりの態度で門の中へ声を掛けている。その尻を間抜け面で見ていたモリカの前に、ぼんぼりに照らされたテイエンの顔が広がった。

「おーい。大丈夫かい?」
「あ……」
「こいつは……よほど教団が濃かったようだな」
「なぁに。食パンの一つでもくれてやれば元に戻るさ」
「食パン…?」

 まぁとにかく、とテイエンに手を引かれ天楼へ上がるモリカ。忙しなく働く店の者達の間を上手に抜けて厨に入る。そこでテイエンは生簀に餌を撒いていた女性に声を掛けた。

「すまねぇ、食パン一切れ貰っても良いか」

 鱗のように幾重にも重なった透ける生地が、ヒレのように広がる青の襦袢。白い羽織は艶々でとろみがある。振り返った顔には紫混じりの薄青の鱗があった。結い上げた豊かなプラチナブランドを飾るのは真珠や美しい貝殻。

『どうぞ』

 相手に思念派を送ることで対話する生き物、サカナ。
 星の大半を海が占めている世界。そこでは海に心があり、海の色は一つではなかった。
 そんな海が生んだ初めて言葉を持つ生命サカナ。海はサカナの誕生をそれは喜び、共に様々な感情で心を揺らし、喜怒哀楽に海の色を変えては睦まじく暮らしていたのである。
 ある時、海中で呼吸出来なくなった者が現れる。それは伝染するように少しずつ増えていった。彼等が息を吸うのは海上。しかし変化はそれで終わらない。
 サカナ達のヒレが別の形を取り始めたのである。
 いつしか彼等は互いに≪名≫なるものを付け合い、内密に数少ない陸を目指そうとしていた。
 それを知った海は大激怒。赤く染まる海より迫る追手と戦いながら、サカナ達は陸を目指した。けれど海の力は強大で。
 こんな想いをするくらいなら、感情など要らない。通じない言葉など要らない。自らの心と共に、サカナも、陸も、全てを深い底へ沈めてしまった海は青く冴え渡る。
 以後、二度と海の色が変わることはなかった。
 ……という物語のヒロインが儚く微笑んだ。モリカがあまり構想を練らないままに頓挫した物語である。しかし一目で彼女だと理解した自分に少し嬉しくなった。

「うふふ、愛……」
「悪いな。昼間の余韻が抜けないようで。モリカ、お嬢さんがくれたぜ。ほら食べな」

 ピュノの手で食パンを一切れ与えられるモリカ。こんな少量で元気が出るものか、流石にそこまで単純ではないと内心不貞腐れつつ口に含む。耳まで柔らかい、食感の軽さに重きを置いた物だった。ほのかな甘み、幸福の味が口いっぱいに広がる。

「うん美味しい! 食パンは最高だぜ!」
「よし! じゃあこっちだ!」

 モリカは単細胞であった。
 テイエンに連れて行かれた先は同厨内、座敷へ料理を運ぶ者達の場所。そこでお皿を運ぼうとしていたタクとリクに声を掛けた。

「あれ? モリカだ。どうしたんだよ」
「体験入楼だ。オレに用事が出来た時は代わりに面倒見てやってくれないか」
「一緒に働くってことか?」
「そうだ。出来る範囲で良いから経験させたくてな」
「ちぃとばかしとろくさいが頼むぜ。ま、せいぜいおき気張りなっせ。モリカ」

 謎マスコットは本当に煩い。モリカは思った。
 こうして始まったモリカの天楼体験。自分でも持てそうな皿を両手で持ちテンエン達の後に続く。しかし彼女を待っていたのは、酔っ払いによる早速の洗礼であった。
 閉じられた襖をテイエンが開いた先、切り取られた四角から突然現れた、牙を剥き出した大型の獣。それが涎を撒き散らしながら地を揺らすように吠えた。

「きゃあああ!!」
「おっと!」

 思わず怯んだモリカ。彼女が手を離してしまった皿をテイエンが支える。

「いやああぁ!!」
「まぁ落ち着けって。こら、驚かすんじゃない」

 走り去ろうとするモリカはピュノに首根っこを掴まれて足がその場で滑るばかり。その前にリクがやってきて、彼女を呼んだ。

「モリカ、大丈夫よ。あれはお客さんだから」
「へ? お客さん……?」

 リクの言葉にようやく足を止め、そろそろと後ろを振り返る。そこには四つ足を折り曲げ、畳の上を笑い転げる獣の姿があった。

「わ~いおどろいた~! へへへ~!」
「どうどう。席に戻るぜ、兄さん。連れはどこだ?」

 テイエンが獣を連れて座敷の奥へ入っていく。他の客はこちらを気にも止めずに各自で盛り上がっていた。
 冷静になってみればエイリアンや魔物、獣など街に溢れていたというのに、あの瞬間それが頭から吹き飛んでいたと思い至るモリカ。怒りに震えた。

「酔っ払いなんてきらい……」

 ぐすんと鼻を啜りながら廊下へ視線を移す。その先、隅の暗がり。不規則に明滅する明かりがあった。
 淡くか細い明かりがついたかと思えば、気まぐれに激しくバツンッと光り、力尽きたように消える。ジジ…と蛍光灯と思わせる音が時折聞こえてきた。
 照明の調子が悪いようだ。テイエン達に伝えなければ、と視線を戻そうとしたモリカの目にパッと飛び込んだ、暗闇に浮かび上がる丸い水縹。中心は黒く、水縹色の部分だけが異様に光を放っている。円の縁は白い。それが、一瞬消えて、再び現れた。
 ――瞬きだ。

「ぎゃぁあああ!!」
「モリカ!? どうした!?」
「モリカ!?」

 暗闇に視線を縫い付けられたまま、前方から聞こえたタクとリクの声に手探りで飛びつく。けれどぬめりを帯びたあまりにも心当たりのない手触りに振り向いた。
 産まれ損なったような膜に包まれたエイリアンが、触手をずるりと上げる。幾本の触手の付け根。その中心が丸く開き、粘膜を纏わり付かせる無数の細かい牙が覗いた。

「あら、積極的ねぇ……」
「ぎぃやあああ!!」

 顔を逸らした先は先程の暗がり。単眼の生き物が、闇をもぎったような漆黒の身体をするりと現した。

「あああああ!?」
「モリカー!?」

 遠くでテイエンの声が響いた気がしたモリカであった。
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