セルフサービス

中島菘

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セルフサービス

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 気分を変えようといつもの散歩道から外れると、そこには見慣れないパン屋があった。こんな店あったかしらと思い返してみても、一向に記憶はない。

 こういう、新しい店や施設ができたとき、前に何があったかをいくら思い出そうとしても無理なのはどうしてだろう? ともかく、知らないパン屋がそこにあった。

 その店は、パン屋とわかる看板以外には雑貨や花の一つとして装飾を置いていない質素な店だった。注意深く見ていないと簡単に見逃してしまうほどに地味だ。

 しかし外観はたいして重要ではない。かえって見てくれを気にしないその姿勢に感心した私はいつの間にか扉を開けていた。



 ドアを開けると、備え付けのベルが軽やかに音を鳴らし、暗い色をした木目の床が目に入った。店はあまり広くない。その広くない床の上に立て看板が一つ置かれているから、それが異様なほどに目立った。

「当店はセルフサービスでございます。」

いまさら書くことか? 最近はどこのパン屋に行っても大抵はセルフサービスだろうに。トングとプレートを重ねて置けば、書かずとも分かる……

 そこで店内がおかしいことに気づいた。この店、今見える範囲のどこを見てみても、トングやプレートはおろか、パンの一つも見当たらないのである。

 店の奥にまだ続いているのかしらと思ったけれど、奥にはレジのカウンターと、従業員が控えているだろうスタッフルームしかない。パンはもちろんそこにはないし、そもそも生地の香りが少しもしないのである。

 これは騙されたか? もう一度外に出て看板を見たけど、やはりパン屋とはっきり書かれていた。これは一体どういうことだろう? 困惑を通り越して、不気味である。

 ほぼ何もない店内にまた戻ると、カウンターに目が行った。聞いてしまうのが早い。奥には店員さんがいるだろうから、その人に聞いてみよう。




 カウンターのレジの横には呼び鈴があったからそれを鳴らした。真ん中を押し込むとリンと高い音が鳴る金属製のタイプ。三回ほど鳴らしたところで奥のスタッフルームの扉が開いた。

 ゆっくり開いた扉の向こうから出てきたのは、女性だった。かなり若いな。私よりも二回りは若い。成人しているのかさえ怪しいくらいだ。彼女は私が入店していたこと自体にはずっと気づいていたという素振り。しかし悪びれる様子は全くなく、淡々としゃべりだしたからかえって面食らってしまった。

「いらっしゃいませ。この度は当店にご来店くださり誠にありがとうございます。」

表情は一切変わらない。私の顔を見ているくせに、全く何の感想も抱いていないように見える。店員としてはある意味での正解なのかもしれないけど、なんだかロボットみたい。

 そんな無機質な彼女に話を聞こうとした。

「ここは、パン屋さんなんですよね?」

「……左様にございます。」

うーん、やはりパン屋ってことには間違いないのか。

「それなら、どうして店に一つもパンがないのかしら?」

「はい?」

「はい?」

……? どうしてかみ合わない? 普通のことを聞いているつもりだけど。

 しかし女の子は困惑した表情を向けてくる。ようやく真顔以外の顔が見れた。

「パンが並んでいないのはどうして?」

そこで彼女は「ああ!」と納得した顔をした。

「当店はセルフサービスでございますので。」

「はい?」

やっぱり噛み合っていないじゃん。

「セルフサービス? でもトングとか、まったくおいてないじゃん。第一商品がないわけだし。」

そう言うと女の子はまたもや困惑してしまった。おそらく私も同じような表情をしているのだろうな。





 しばらく、数十秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。私たちは互いに首を傾げたまま顔を見合っていた。私はといえば、もはや目の前の彼女と会話することを半ばあきらめていた。帰るきっかけを探し始めている。

 目の前の女の子の顔はなまじ美形だからこそ、化かされているような恐怖があった。静寂は不気味さを重くしていくし、もはや神経が削れていってしまう。早くこの店から出て、普段の散歩道に戻ろう。そしてこの奇妙な店のことを綺麗さっぱり忘れてしまおう。




 「すべて私の勘違いでした、お騒がせしました失礼します。」とでも言って退散しようとしたその時だった。

「お客様のおっしゃることは分かりかねますが、当店は完全セルフサービスのパン屋でございます。」

再び女の子は無表情のままそう言う。

「でも、やはり私には分からないわ。」

「商品をお見せしましょう。」

「商品?」

「待っていてください。」

女の子はスタッフルームの奥に消えていった。



 話は結局通じないけど、ようやくパンが出てくるのかしら? 待っていろと言われては帰ることもできずにレジの前に立っていると、一分もたたないうちに再び扉が開いて女の子が出てきた。彼女は茶色い壺を二つ抱えている。

 ちょっと重そうな壺二つは、ゴトっとカウンターの上に並べられた。

「本来ならお客様のご注文を受けてから私がお持ちするのですけれど、ご存じでなかったようなので。」

「それは失礼したわね。でもまだ分からないわ。この中身は何なの?」

とてもパンが入っているようには見えない。

 女の子は二つの壺を塞いでいた丸板のフタを両方取った。私から見て右の壺の中を覗いてみると、薄暗い底に何か種のようなものが山盛りに積もっていた。反対も大体同じよう。種の種類が違うみたい。

「ごめんなさい、まだ分からないわ。これはつまるところ何なの?」

女の子の顔は少し呆れの色が見えた。

 声音も若干投げやりな感じになっている。

「お客様の向かって右側が小麦の種、左側がライ麦の種でございます。」

説明されてもこんなに分からないことがあるなんて、これは白昼夢かしら?




 ついに疑問が消えることはないと思えてきた。

「どうして種を? 材料にさえまだなっていない、ただの種じゃない。」

もう訳が分からなくなっている私に、女の子は冷たい。ため息をついたかと思えば、また最初の無表情に戻った。

「当店は "セルフサービス" でございますので。」
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