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さえずる小鳥を窓から見れば、ほのり暑い日差しが顔に注ぐ。こんなにも穏やかな日常ってあるかしら? いや、ないわ。みんなもっとこう、激しい人生を送っているはずだもの。それなのに、私ときたら何事もない昼下がりを過ごしてる。
何事もないのは今に始まったことじゃないわ。ずっと前からよ。何事もない少女時代、何事もない青春、それに何事もない今現在。
不幸だなんて口が裂けても言えない。むしろ私は、世間から見れば幸福そのものだろう。旦那様は高潔な貴族だし、それに私にとてもやさしい。はっきり言って完璧。その妻たる私は伯爵夫人ということになるから、この何一つ不自由のない暮らしがあるのも、ある意味納得だ。こんなことを言ってしまうと、顰蹙を買ってしまいそうだけどね。
でも、だからこそ……
「刺激が足りないわ!」
私の人生には、特にこれといったアクセントが全くない。とてつもない困難も、それを乗り越えた経験もない。大不幸が一度もなかっただなんて、なんて幸福だろうと思うかもしれないけれど、そんなことはない。
もしも人生を大海に喩えるとするならば、私の人生はずっと凪だろう。風が立たなければ波もない。そんな人生だ。それが果たして幸せかしら?
「どうしたんだいフランシス? そんな声出して」
隣にいた夫が、突然声を出した私を不思議そうに見ていた。彼の名はハイト・ダカール、このジャチ王国の伯爵で、政府に務めている。
そんな彼は、私を大切にしてくれるよい夫だ。歳は二歳私より年上で、落ち着いている。端的に言って理想の夫とでもいうべきかしら?
「いいえ、何でもないわ。だけどね、なんとなく退屈なのよ」
「……それはそうだろうね」
「え?」
彼は驚くと思っていた。だからこう、平然と返されて逆に私が驚いてしまう。
「どうしてそう思うの?」
「だって、君はずっと家にいるじゃないか。そんなの息が詰まってしまって当たり前だよ。もっと外に出て、なにか刺激的なことを始めるといいさ……」
「刺激的なことね……」
私は日頃、外にほとんど出ない。唯一外出するのは、週に一回程度近所のカフェに行くくらい。それを除いたら、本当に家の外には出ない。友人と会うときも、この屋敷に招いており、こちらから出向くことなんてまずない。
「まあそう急いで見つけることでもないさ。外の世界を見ていれば、きっとそのうち素敵なものに出会えるはずだよ」
彼は爽やかに笑った。
とはいえ、そもそも外のことを知らない私に外の刺激を探すこと自体無理がある。
「仕方ない、あそこに行こうかしら」
私は、唯一出かけるそのカフェに向かった。前に行ってからまだ一週間経っていないけれど、今日は特別。なにせ、偉大な決断をした日だから。
カフェに行って、その決断を意味のあるものにしよう。きっとなにかヒントがあるはずだわ。あそこは雰囲気がいいもの。
カフェは、私の家があるこのストリートをずっとまっすぐ行ったところの左手にある。大通り沿いの人気店だ。それだから、客もたくさんいてにぎわっている。普段屋敷に閉じこもっている私からすれば、このくらい騒がしいほうが心地いい。
「おや、いらっしゃいませレイディ・フランシス」
私はすっかりこの店の常連なので、店長とは顔なじみになっている。この人もなかなかに人が良くて、普段私が来ることになっている日は私のために窓側のいい席を確保してくれている。
「申し訳ないです、今日は貴女がいらっしゃるとは思わず、いつもの席が埋まってしまっております」
「ああ、気にしないで。突然来ちゃったのは私の方だもの」
あいにく、今日はその席が埋まってしまっているらしい。私は店の奥の方の壁際にある席に座った。
店の雰囲気としては、上品というよりも、どちらかといえば大衆向けのわいわいとした感じになっている。店長には品があるが、内装はどこか若者向けを意識している。いい店だけど、一つだけ難点があるとすれば、このカフェはビルの一階に入っているので、上の階にも別の店か何かがあり、天井が低いことかしら。ちょっとだけ窮屈な気がする。
店長は私のところにメニュー表を持ってきてくれた。
「普段と違う曜日にお越しになったということは、メニューも違うということでしょうか?」
「ああ、いえ。普段通りパンケーキでよろしくね」
「左様ですか。しかしあいにくコーヒーのほうは」
「分かってる。日替わりだから今日はいつものと違うのね」
「ええ、そうでございます」
「構わないわ」
「ありがとうございます」
彼はメニュー表を直した。
「それでレイディ・フランシス、貴女はなにやら意志があってここに来ているようにお見受けするのですが」
「さすがね店長。私、刺激を探しているの」
「刺激、ですか」
「そう、退屈な日常を変えてくれるスパイスになってくれるものよ。家にいるばかりの私にもっと張りのある人生を送らせてくれる、そんな何かが欲しい」
店長は天井を見上げて、すこし考えるそぶりを見せた。そして私の顔を再び見ると言った。
「ならば……いや、こんなことを伯爵夫人ともあろうお方に言うのは憚られますな」
「いいえ構わないから言ってちょうだい」
店長はやはりちょっとためらったけれど、口を開いた。
「働いてみる、というのはいかがでしょうか?」
何事もないのは今に始まったことじゃないわ。ずっと前からよ。何事もない少女時代、何事もない青春、それに何事もない今現在。
不幸だなんて口が裂けても言えない。むしろ私は、世間から見れば幸福そのものだろう。旦那様は高潔な貴族だし、それに私にとてもやさしい。はっきり言って完璧。その妻たる私は伯爵夫人ということになるから、この何一つ不自由のない暮らしがあるのも、ある意味納得だ。こんなことを言ってしまうと、顰蹙を買ってしまいそうだけどね。
でも、だからこそ……
「刺激が足りないわ!」
私の人生には、特にこれといったアクセントが全くない。とてつもない困難も、それを乗り越えた経験もない。大不幸が一度もなかっただなんて、なんて幸福だろうと思うかもしれないけれど、そんなことはない。
もしも人生を大海に喩えるとするならば、私の人生はずっと凪だろう。風が立たなければ波もない。そんな人生だ。それが果たして幸せかしら?
「どうしたんだいフランシス? そんな声出して」
隣にいた夫が、突然声を出した私を不思議そうに見ていた。彼の名はハイト・ダカール、このジャチ王国の伯爵で、政府に務めている。
そんな彼は、私を大切にしてくれるよい夫だ。歳は二歳私より年上で、落ち着いている。端的に言って理想の夫とでもいうべきかしら?
「いいえ、何でもないわ。だけどね、なんとなく退屈なのよ」
「……それはそうだろうね」
「え?」
彼は驚くと思っていた。だからこう、平然と返されて逆に私が驚いてしまう。
「どうしてそう思うの?」
「だって、君はずっと家にいるじゃないか。そんなの息が詰まってしまって当たり前だよ。もっと外に出て、なにか刺激的なことを始めるといいさ……」
「刺激的なことね……」
私は日頃、外にほとんど出ない。唯一外出するのは、週に一回程度近所のカフェに行くくらい。それを除いたら、本当に家の外には出ない。友人と会うときも、この屋敷に招いており、こちらから出向くことなんてまずない。
「まあそう急いで見つけることでもないさ。外の世界を見ていれば、きっとそのうち素敵なものに出会えるはずだよ」
彼は爽やかに笑った。
とはいえ、そもそも外のことを知らない私に外の刺激を探すこと自体無理がある。
「仕方ない、あそこに行こうかしら」
私は、唯一出かけるそのカフェに向かった。前に行ってからまだ一週間経っていないけれど、今日は特別。なにせ、偉大な決断をした日だから。
カフェに行って、その決断を意味のあるものにしよう。きっとなにかヒントがあるはずだわ。あそこは雰囲気がいいもの。
カフェは、私の家があるこのストリートをずっとまっすぐ行ったところの左手にある。大通り沿いの人気店だ。それだから、客もたくさんいてにぎわっている。普段屋敷に閉じこもっている私からすれば、このくらい騒がしいほうが心地いい。
「おや、いらっしゃいませレイディ・フランシス」
私はすっかりこの店の常連なので、店長とは顔なじみになっている。この人もなかなかに人が良くて、普段私が来ることになっている日は私のために窓側のいい席を確保してくれている。
「申し訳ないです、今日は貴女がいらっしゃるとは思わず、いつもの席が埋まってしまっております」
「ああ、気にしないで。突然来ちゃったのは私の方だもの」
あいにく、今日はその席が埋まってしまっているらしい。私は店の奥の方の壁際にある席に座った。
店の雰囲気としては、上品というよりも、どちらかといえば大衆向けのわいわいとした感じになっている。店長には品があるが、内装はどこか若者向けを意識している。いい店だけど、一つだけ難点があるとすれば、このカフェはビルの一階に入っているので、上の階にも別の店か何かがあり、天井が低いことかしら。ちょっとだけ窮屈な気がする。
店長は私のところにメニュー表を持ってきてくれた。
「普段と違う曜日にお越しになったということは、メニューも違うということでしょうか?」
「ああ、いえ。普段通りパンケーキでよろしくね」
「左様ですか。しかしあいにくコーヒーのほうは」
「分かってる。日替わりだから今日はいつものと違うのね」
「ええ、そうでございます」
「構わないわ」
「ありがとうございます」
彼はメニュー表を直した。
「それでレイディ・フランシス、貴女はなにやら意志があってここに来ているようにお見受けするのですが」
「さすがね店長。私、刺激を探しているの」
「刺激、ですか」
「そう、退屈な日常を変えてくれるスパイスになってくれるものよ。家にいるばかりの私にもっと張りのある人生を送らせてくれる、そんな何かが欲しい」
店長は天井を見上げて、すこし考えるそぶりを見せた。そして私の顔を再び見ると言った。
「ならば……いや、こんなことを伯爵夫人ともあろうお方に言うのは憚られますな」
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