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しおりを挟む初夏の風に熱気が混じるようになったある日。
茜は今日も紫生に文字を習いに裏山へ日参していた。
眩しい日差しを避けるように木陰で今日も茜は文字の書き取り練習をする。
切り株を文机代わりとし、和紙を敷き、紙の上に筆を運ぶ。
「……お前の字はとてもお前らしいよな」
紫生は木の幹にもたれかかる寛いだ姿勢でぽそっと呟く。その視線は茜が初めて書いた『しき』という拙い文字へ注がれていた。
茜は和紙に滑らせていた筆を止める。紫生の視線を感じ取りながら、自分の書いた字に目を落とす。
その字はやっと字の形を成しているほどだ。真っ直ぐ伸びすぎた『し』という文字の横に小さく『き』と紙の余白に寄りすぎている。
(こんな不格好な字のように紫生には私が見えてるんだ)
「違う」
鼻を指で摘まれ、茜は驚きで思わず筆を落としそうになる。だが、折良く紫生が手早く筆を取り上げ難を逃れる。
「お前の真っ直ぐな気性が表れていると褒めたんだよ……」
紫生は茜から筆を取り、竹筒の中に納める。
ぽかんと紫生を見つめたまま身動きを忘れた茜から罰が悪そうに紫生は視線を外す。
紫生が茜を褒めるなんてめったにない。いつもは「ニヤけるな」とか「手加減しろ」とか頬をつままれたり、叱られてばかりだった。
「お前は隠し事なんてないんだな。顔にも、字にも、思っていることがそのまま出てる。嘘も駆け引きも、まったく必要ないんだな……」
どこか遠くを見るような目で紫生は呟いた。
どこか寂しげを滲んでいて、茜は胸の奥が引き絞られるような感覚を覚える。
「ああ……そうか」
何かが腑に落ちたように、ふっと小さく笑う紫生がこちらを向く。
「お前といると、いやお前との時間が堪らなく心地いいんだ。俺には得難いものだと思っていたのにな……」
茜色の瞳を眩しそうに細め、甘やかすような声音で紫生は言う。
嬉しいけれどくすぐったいような眼差しに茜は鼓動が早まり、紫生から目が離せなくなった。
茜がどぎまぎしながらもはにかむと、見つめ返す紫生がふわり、と笑う。
今まで見たことがない屈託無いやわらかな笑顔で、茜の頬もさらに緩んでしまう。
二人の間に、ほんのりと甘い空気が流れた。
「ん。……やる」
紫生は茜の書いた紙を丁寧に折り、懐へ仕舞う。白絹に包まれたなにかをおもむろにそこから取り出し、すっと茜に押し付けるように手を差し出す。
(なんで?)
突然なぜそんなものを紫生がくれようとしているのかわからず。
茜は首を傾げ、両手を胸元の位置で振る。
「……文字の練習を頑張っているからな。ご褒美というのか労いだっ」
紫生はさらにそれを茜の目の前に突き出す。
「大人しくもらえばいい」
絶対に引く様子のない紫生に茜はおそるおそるそれを受け取る。布を開け、息をのんだ。
中には赤漆で塗られ、繊細な花が螺鈿細工であしらわれた美しい簪だ。光を反射し、小さな花が紫がかった色合いや白色にも変化し、思わず見惚れた。
「気に入ったようだな」
紫生の満足というよりほっとしたような声に聞こえた。茜はわけもなく胸が締め付けられる。
簪を大事に胸に抱えると茜は何度も頷く。
「簪にある茜の花は、花の中では小さく地味だが……俺は好きだ」
大事にしろよ、と紫生は頭を撫でる。優しい笑顔と思いがけず掛けられた「好き」という言葉に焦って視線を伏せる。心臓が急におかしな音を立てた。
(紫生が言ったのは茜はお花の方なんだけど、嬉しいし。あの笑顔とか……全部かっこ良すぎてずるい)
茜の耳に紫生の小さく息をのむ音が届く。心の声が紫生には筒抜けだったことに、今さら気づく。
(どうしよう。えっと、勘違いしていないよ)
ありがとう、と何度も心の中で念じる。バクバクと逸る心臓の音が紫生に伝わっていませんように、と。
紫生の顔が見ることができす、そっと膝でじりと後退ると、紫生の大きな手が頭から離れていく。
その離れた温もりと重さにふと名残惜しい気持ちが掠めるが、それを頭をふって追い払う。
もうそろそろ家にも帰らないと、と考えたその時。
「……なあ。お前大丈夫か?」
ふいに紫生が真剣な声で問いかけた。
弾かれたように顔を上げると、いつの間にか正面にいた紫生がじっと茜を見下ろしていた。
緋色の瞳は真摯な眼差しを向けてくるが、紫生の真意が見えず戸惑う。
何も思いつかない茜は眉を寄せ、胸元に持つ簪をぎゅうと抱きしめる。
紫生は茜からの何か言葉を待つように、思い詰めた真っ直ぐな視線を向ける。
だが、やがて諦めたようにまつ毛を伏せ、ふうと小さく息を吐いた。
「また明日も気をつけて来いよ」
けれど、紫生はすぐにいつものように気だるげな表情になり、しっしっと追い払うように手を振った。
茜は戸惑いながらもコクリと頷き、里へ向かって歩き出す。
先程の紫生の表情はなんだったのかな。怖いぐらい真剣だった。
茜は数歩歩いたあと、ふと振り返った。
なにかを期待なんかしていない。名残惜しいと思っているのはたぶん自分だけ。
でも、紫生は茜の方を見つめながら、同じ場所にに立ったままだった。
その顔は、甘く、優しく見守るような表情を浮かべている。
(なんでそんな顔しているの?)
いつもそうやって見送ってくれたのかもと錯覚しそう。
紫生にとって私は単なる暇つぶしでしょ?
疑問を浮かべたまま、紫生と目を合わせる。
「茜」
紫生の凛々しい唇がゆっくり言葉を紡ぎ出し、笑みの形に崩れた。
その瞳はやっぱり優しい。
なぜかその瞬間、心の奥に新たな痛みを感じ、目の奥が熱くなる。
甘さを帯びた痛みは、何も言えず大切にしたい気持ちだった。
茜はもどかしい想いを抱えながら、紫生と静かにただ見つめ合った。
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