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第2話『はじめての処世術』

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 祐生の頬に出来た黒いシミも俺にしか見えていないようだった。
 はじめは誤って半紙の落とされた墨くらいの大きさだったそれは日に日に大きくなっていた。

 数日の内に祐生の顔は黒いシミで覆われた。
 まるで墨汁を塗りたくったような弟の顔。
 シミが少しずつ広がっていくのに比例して、弟の体調も悪くなっていった。

 最初は元気がなくなった。いつも起きている時は凄まじい行動力で覚えたての這いずり歩行で部屋中を動き回って母さんを困らせていたのに染みができて二日目くらいから動き回ることがなくなった。
 ソファーに寝かされると、いつもはすぐさまソファーから降りようとするのにまるでぬいぐるみのように動かなくなった。

 次に泣かなくなった。喜怒哀楽がはっきりしているというか、感情がジェットコースターのような仕様になっているかのようにころころと表情が変わり、笑っていたかと思ったら急に泣き出したりしていたのにシミが片頬を埋める頃にはすっかり泣かなくってしまった。ただぼんやりと、ただ静かに、ただそこにいるだけの生き物になった。

 そこからは急激に悪化していった。
 動かない、泣かない。その次は食べない、だった。
 ミルクを飲む量が格段に少なくなった。いつも数時間すれば泣いて喚いてミルクを強請ったのに泣かなくなってから、母さんはミルクを強請ってこないからお腹が空いていないのかと思ったのだろう。
 でも泣かないから、ミルクを飲まない時間が少しずつ増えていき、顔が真っ黒になる頃には哺乳瓶の口先を目の前に持ってきても飲むことをしなくなってしまった。
 日に日に衰弱していく祐生に俺は何もできなかった。
 だってその黒いシミだって、母さんには見えてないのだから。
 俺がいくら、祐生がこうなったのはきっと黒いシミのせいだ、と言ったって信じるはずもない。だって見えないから。

 父さんも母さんも発熱もないのにぐったりとした祐生を近隣の小児科をはしごしたが、原因はわからなかった。少し大きな病院に紹介されて受診したが結局原因はわからなかった。
 母さんは祐生を抱きしめて泣いていた。
 原因不明の病態に父さんも頭を抱えていた。
 俺はそんな二人を見ていることしかできなかった。

 本当に何もできずに一緒に泣いていた。

 そんな俺を、母方の祖母ばあちゃんが慰めてくれた。
 ほど毎日のように病院に通う母さんと祐生。その間、近くに住む祖母ちゃんが面倒を見ててくれていた。
 祖母ちゃんは元気のない俺の肩を抱いて「ユウちゃん大丈夫だよ」と言って安心させようとしてくれた。
 だけど俺は祐生が大丈夫じゃないことを知っていた。
 だってあの女が祐生が死ぬと言っていたから。もう祐生は助からないんだとしくしく泣いていた。

「大丈夫よシュウちゃん。ユウちゃんも元気になるから」
 何度もそう言われるが、俺は遂に言ってしまったのだ。
「元気にならないよ、だって黒いシミが取れないから。あの女が言ってたんだ」
 俺が泣きながらそう言うと、祖母ちゃんは不思議そうな顔をした。
 この人にもきっと俺の言うことがわからないし、きっと信じてくれないだろう。
 だけど祖母ちゃんは「それはどういうこと? 祖母ちゃんに教えて?」と話を聞いてくれた。
 信じてもらえないかもしれない。
 でもとても俺だけが抱え続けるには重荷で、公園で見てしまった女の話を祖母ちゃんにぶちまけた。
 どうして、女も、シミも、誰も見れないのかがわからない。
 俺はそう言いながらわんわんと泣いた。
 その話を、祖母ちゃんが一蹴せず「それは大変だったね」と言ってくれたことに救われた。

「シュウちゃんはちょっと目が良すぎるんだね。でも他の人には見えないものは見ちゃいけないの」
「でも、見たんだ」
「見ても見なかった振りしないといけないの」
「どうして?」
「人ってね、自分が見えないものは信じられないの。夜のお空に、光るカーテンがあるのって言われてシュウちゃん信じる?」
「光るカーテン? そんなのあるの?」
「信じた?」
「わかんない」
「ばあちゃんは見たことあるよ」
「嘘だあ」
「ほらね。でもあるのよ」
「……」
 空に光るカーテンだなんて。
 今にしてみたら、それが『オーロラ』だという知識はあるけど、当時の俺にはわからなかったし、そんなものは存在しないと思っていた。
 それはその時の俺の状況と同じ。

「お空のカーテンは見ようと思えば、誰でも見ることができるの。だけどシュウちゃんが見たのは、誰でも見れるものじゃないの。だけど見えない人には信じられないし、見えないものを見える人は嘘を言ってるって思われちゃう」
「でも見たんだ」
「ママには見えてなかったんでしょ?」
「……うん」
「真っ黒いシミも見えてないよね?」
「……うん」
「大変だけど、見えない振りをしないと駄目。難しいけど、できる?」
 そう聞かれて、俺は素直に頷けなかった。
 納得できなかった。
 どうして見えているものを見えないと言わなくちゃいけないのか。
 どうして俺が見ているものを誰もわかってくれないのか。
 どうして俺にあんなものが見えてしまったのか。

「どうして?」

 俺は何度も祖母ちゃんに訊いた。
 だけど祖母ちゃんは俺を抱きしめて何度も撫でてくれたけど、遂にその理由を教えてくれることはなかった。
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