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43:自分にできることは多くないけど
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大黒朱鳥はその夜仕事を終えてから実家に立ち寄っていた。
夜にも関わらず茹だるような熱気に巻かれながら実家に入ると、出産を控えて実家に帰ってきている一番目の姉の娘たちに熱烈な歓迎を受けた後、先日出産した三番目の姉に頼まれ産まれたばかりの甥っ子にミルクをあげた。
ぐびぐびとミルクを勢いよく飲む甥っ子の姿に、大黒は隣の部屋に住む少女が産み落とした赤ん坊の姿と重ねてしまう。
璃亜夢が発熱した日、大黒は次の日までベッドを璃亜夢に提供した。
朝にはすっかり熱も下がり安心したものの、前日に大黒の留守の間に茉莉花の世話をしてもらうために呼んでいた友人・宮からあまり璃亜夢に構いすぎないように注意を受けてしまったのだ。
確かに彼女の境遇に同情して世話を焼いてしまったことを自覚している。
彼女が今後のことを考える時間は必要なことも重々承知している。だけど、彼女が精神的に未熟であることは言動から察しているから、一人にしていくことに危うさも感じていた。
とはいえ、宮が言おうとしていることも理解できる。
璃亜夢に裸で迫られた時、驚き以上に悲しさが勝った。
十五歳の少女が、懇願することに自分の身体を利用してきたことに、彼女の生きてきた環境とそれを良しとしてきた人間たちの多さに気分が悪くなった。
誰かが彼女と一緒にいるべきなのだ。
だけどそれはきっと大黒ではない。
そもそも彼女にそんな気もないのにこれ以上親身になりすぎても、きっとまた彼女のことを惑わせるだけだ。
家族の手が必要なのだ。どういう家で育ったか深くは聞いていないから、一概に強制できるはずもないが、帰れるなら帰る方が良いと大黒は思っている。
だけど決めるのは璃亜夢だ。
本当に家が帰れない場所であるなら、市営の施設を探すのを手伝うことは吝かではない。
そんなことを大黒が考えていると、既に哺乳瓶のミルクはなくなっており、甥っ子はうとうととし始めていた。
「天姉《てんねえ》、終わったよ」
「ありがと、助かったあ」
三番目の姉の天和は最初の子供ということもあるのか、既に育児の疲れが出始めている。数時間置きに泣き声で起こされミルクをあげなくてはならないのは大変ということは認識としてあっても、実際にやってみるとその大変さは凄まじい。家族の助けがなくては。
ぐったりとソファーに沈んでいる天和に、大黒は抱えていた甥っ子を返す。
天和は赤ん坊を抱きしめると、愛おしそうにその顔を覗き込む。
だけどふと何かを思い出したかのように天和は大黒を見る。
「そうだ、あの子は元気? 璃亜夢ちゃんだっけ」
「この間熱出したけど、今は、多分元気」
「多分って。まあ、訳ありな感じはするけど、気にかけててあげてね。育児って本当に大変だから」
天和は隈の浮いた顔でそう苦笑する。
何とも説得力のある言葉だ。
姉にそう言われて大黒は曖昧に笑うことしかできなかった。
姉たちの手伝いをして、ついでに夕食も実家で済ませると大黒はアパートに向かって歩き出す。父親にビールを勧められ一本付き合ったせいか、今夜の暑さをより強く感じてしまう。
アルコールを摂取してしまったせいか、思考がやや低下するのがわかる。
考えてしまうのは、璃亜夢と茉莉花のことだ。
かれこれ数日顔を合わせていないが、彼女はどうしているだろうか。荒れた生活はしていないだろうか。
隣人という立場よりも、手のかかる妹を見る兄のような心境に近い。
彼女の助けになるなら、何かしてあげたいという気持ちはある。だけど彼女の全てを抱える気もないのに期待させるようなことをするのは、宮に言わせるなら自分勝手なのだろう。
どうすることが彼女達にとって良い結果になるのか。
考えるけれど、当事者でもない大黒がいくら考えて結果がでるはずもない。
ぐるぐると考えている間にアパートに戻ってくる。
一度璃亜夢の状態を確認しておく方が良いだろうか。
大黒はそんなことを考えながら外階段をゆっくりとした足取りで上っていくが、上に進むにつれどうにも子供の泣き声が聞こえてくることに気が付く。
子供がこんなにも大きな声で泣いている。
このアパートで子供がいる部屋といえば、まず思い浮かぶのが璃亜夢と茉莉花だった。彼女たちの顔を思い出した瞬間、大黒は血の気が引くのを自覚する。
彼女は一度、茉莉花を殺そうした、と話したからだ。
まさか暫く放っておいたせいで、また彼女の精神が逼迫してしまったのか。
虐待、育児放棄。
そんな不穏な単語が頭を巡るのを感じて大黒はアルコールで少し足をもつけさせながらも慌てて外階段を駆け上がり彼女の住む部屋の前まで行き、扉を叩く。
「璃亜夢さん?! いる?!」
扉に近づくと、やはりこの部屋から泣き声がする。茉莉花の声。だけどあの子がこんなにも大きな声で泣いているのを大黒は初めて聞き、中では何が起こっているのか恐ろしさがこみ上げる。
しかしこのまま見て見ぬ振りができるはずもなく、大黒は扉を叩き、そしてその扉のドアノブに手をかけてしまった。
扉は鍵がかかっていなかったのか、驚く程あっさりを開いた。
大黒は焦りから慌てて扉を開けると、室内の状況に凍りつくような思いがした。
部屋には見知らぬ男が立っていた。
いや、見覚えはあった。何度かアパートの廊下で擦れ違ったことがある。
この男がこの部屋の本来の主なのだと察する。確か表札の名前には『永延』とあった。彼が璃亜夢の話に出ていた男だとわかった。
その彼がこの部屋にいることには納得ができた。
だけど、それ以外は到底納得できる状況ではなかった。
彼の足元には、泣き喚く茉莉花を庇うように抱き込んで転がっている璃亜夢がいて、彼女の背中には永延の足が乗せられていた。
どう見ても、永延が璃亜夢を踏みつけにしている場面。
やってきた大黒を、永延は冷ややかな視線を向ける。
璃亜夢の顔を上げて大黒を見ると「大黒さん……!」とか細い声で叫ぶ。その顔は歪な赤さがあり、口元には血が滲んでいる。
どう見ても、永延は璃亜夢に暴力を振るっている現場だ。
璃亜夢は殴られながらも、茉莉花を守っている。
「何をしているんですか、璃亜夢さんから離れてください!」
大黒はこの状況に飲まれながらも永延に叫ぶ。その声に他ならぬ大黒が驚く。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろうか。
興奮? 激高?
それとも実家で飲んだビールのせいで高揚しているのか。どれかはわからないが、頭に血が上っていることはわかった。
大黒は永延を見据える。
永延は相変わらず冷ややかに大黒を見るばかり。
茉莉花の悲鳴のような泣き声が延々と室内に響いていた。
夜にも関わらず茹だるような熱気に巻かれながら実家に入ると、出産を控えて実家に帰ってきている一番目の姉の娘たちに熱烈な歓迎を受けた後、先日出産した三番目の姉に頼まれ産まれたばかりの甥っ子にミルクをあげた。
ぐびぐびとミルクを勢いよく飲む甥っ子の姿に、大黒は隣の部屋に住む少女が産み落とした赤ん坊の姿と重ねてしまう。
璃亜夢が発熱した日、大黒は次の日までベッドを璃亜夢に提供した。
朝にはすっかり熱も下がり安心したものの、前日に大黒の留守の間に茉莉花の世話をしてもらうために呼んでいた友人・宮からあまり璃亜夢に構いすぎないように注意を受けてしまったのだ。
確かに彼女の境遇に同情して世話を焼いてしまったことを自覚している。
彼女が今後のことを考える時間は必要なことも重々承知している。だけど、彼女が精神的に未熟であることは言動から察しているから、一人にしていくことに危うさも感じていた。
とはいえ、宮が言おうとしていることも理解できる。
璃亜夢に裸で迫られた時、驚き以上に悲しさが勝った。
十五歳の少女が、懇願することに自分の身体を利用してきたことに、彼女の生きてきた環境とそれを良しとしてきた人間たちの多さに気分が悪くなった。
誰かが彼女と一緒にいるべきなのだ。
だけどそれはきっと大黒ではない。
そもそも彼女にそんな気もないのにこれ以上親身になりすぎても、きっとまた彼女のことを惑わせるだけだ。
家族の手が必要なのだ。どういう家で育ったか深くは聞いていないから、一概に強制できるはずもないが、帰れるなら帰る方が良いと大黒は思っている。
だけど決めるのは璃亜夢だ。
本当に家が帰れない場所であるなら、市営の施設を探すのを手伝うことは吝かではない。
そんなことを大黒が考えていると、既に哺乳瓶のミルクはなくなっており、甥っ子はうとうととし始めていた。
「天姉《てんねえ》、終わったよ」
「ありがと、助かったあ」
三番目の姉の天和は最初の子供ということもあるのか、既に育児の疲れが出始めている。数時間置きに泣き声で起こされミルクをあげなくてはならないのは大変ということは認識としてあっても、実際にやってみるとその大変さは凄まじい。家族の助けがなくては。
ぐったりとソファーに沈んでいる天和に、大黒は抱えていた甥っ子を返す。
天和は赤ん坊を抱きしめると、愛おしそうにその顔を覗き込む。
だけどふと何かを思い出したかのように天和は大黒を見る。
「そうだ、あの子は元気? 璃亜夢ちゃんだっけ」
「この間熱出したけど、今は、多分元気」
「多分って。まあ、訳ありな感じはするけど、気にかけててあげてね。育児って本当に大変だから」
天和は隈の浮いた顔でそう苦笑する。
何とも説得力のある言葉だ。
姉にそう言われて大黒は曖昧に笑うことしかできなかった。
姉たちの手伝いをして、ついでに夕食も実家で済ませると大黒はアパートに向かって歩き出す。父親にビールを勧められ一本付き合ったせいか、今夜の暑さをより強く感じてしまう。
アルコールを摂取してしまったせいか、思考がやや低下するのがわかる。
考えてしまうのは、璃亜夢と茉莉花のことだ。
かれこれ数日顔を合わせていないが、彼女はどうしているだろうか。荒れた生活はしていないだろうか。
隣人という立場よりも、手のかかる妹を見る兄のような心境に近い。
彼女の助けになるなら、何かしてあげたいという気持ちはある。だけど彼女の全てを抱える気もないのに期待させるようなことをするのは、宮に言わせるなら自分勝手なのだろう。
どうすることが彼女達にとって良い結果になるのか。
考えるけれど、当事者でもない大黒がいくら考えて結果がでるはずもない。
ぐるぐると考えている間にアパートに戻ってくる。
一度璃亜夢の状態を確認しておく方が良いだろうか。
大黒はそんなことを考えながら外階段をゆっくりとした足取りで上っていくが、上に進むにつれどうにも子供の泣き声が聞こえてくることに気が付く。
子供がこんなにも大きな声で泣いている。
このアパートで子供がいる部屋といえば、まず思い浮かぶのが璃亜夢と茉莉花だった。彼女たちの顔を思い出した瞬間、大黒は血の気が引くのを自覚する。
彼女は一度、茉莉花を殺そうした、と話したからだ。
まさか暫く放っておいたせいで、また彼女の精神が逼迫してしまったのか。
虐待、育児放棄。
そんな不穏な単語が頭を巡るのを感じて大黒はアルコールで少し足をもつけさせながらも慌てて外階段を駆け上がり彼女の住む部屋の前まで行き、扉を叩く。
「璃亜夢さん?! いる?!」
扉に近づくと、やはりこの部屋から泣き声がする。茉莉花の声。だけどあの子がこんなにも大きな声で泣いているのを大黒は初めて聞き、中では何が起こっているのか恐ろしさがこみ上げる。
しかしこのまま見て見ぬ振りができるはずもなく、大黒は扉を叩き、そしてその扉のドアノブに手をかけてしまった。
扉は鍵がかかっていなかったのか、驚く程あっさりを開いた。
大黒は焦りから慌てて扉を開けると、室内の状況に凍りつくような思いがした。
部屋には見知らぬ男が立っていた。
いや、見覚えはあった。何度かアパートの廊下で擦れ違ったことがある。
この男がこの部屋の本来の主なのだと察する。確か表札の名前には『永延』とあった。彼が璃亜夢の話に出ていた男だとわかった。
その彼がこの部屋にいることには納得ができた。
だけど、それ以外は到底納得できる状況ではなかった。
彼の足元には、泣き喚く茉莉花を庇うように抱き込んで転がっている璃亜夢がいて、彼女の背中には永延の足が乗せられていた。
どう見ても、永延が璃亜夢を踏みつけにしている場面。
やってきた大黒を、永延は冷ややかな視線を向ける。
璃亜夢の顔を上げて大黒を見ると「大黒さん……!」とか細い声で叫ぶ。その顔は歪な赤さがあり、口元には血が滲んでいる。
どう見ても、永延は璃亜夢に暴力を振るっている現場だ。
璃亜夢は殴られながらも、茉莉花を守っている。
「何をしているんですか、璃亜夢さんから離れてください!」
大黒はこの状況に飲まれながらも永延に叫ぶ。その声に他ならぬ大黒が驚く。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろうか。
興奮? 激高?
それとも実家で飲んだビールのせいで高揚しているのか。どれかはわからないが、頭に血が上っていることはわかった。
大黒は永延を見据える。
永延は相変わらず冷ややかに大黒を見るばかり。
茉莉花の悲鳴のような泣き声が延々と室内に響いていた。
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