胎動

神﨑なおはる

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31:不幸と幸福であることはときに選べない

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 出生届の記入にはかなり困難を極めた。
 そもそも『産んだ場所』が書けない。公園の公衆トイレだなんて書けないことは流石に璃亜夢にも理解できた。

 それから、『住所』にも悩んだ。

 璃亜夢にとって住所とは、『家』とは、母のいるあの場所なのだ。
 住所の欄にあの家の住所を無意識に書きそうになって璃亜夢は唇を噛んだ。
 それでも何とか、やや偽りで書いた箇所もあるが、何とか出生届を書き終えた。

 住所は、結局、最後まで悩んだ末あの家の住所を書いた。
 永延のアパートかあの家か、考えたときまだ家の方がマシだと思えてしまったから。
 それでも書いてしまってから、何だか言葉にできない苦痛に襲われ璃亜夢は書き上げた出生届を破り捨てたい衝動に駆られたが、「これで提出できるね」と嬉しそうに笑う大黒と、ベッドで静かに眠っている茉莉花を見てその衝動を何とか抑えた。

 ***

 出来上がった出生届を提出し、そのまま買い物へ向かった。
 オムツや粉ミルクはどんどん消費されていくので、病院でわけてもらった分もすぐに無くなりそうだったからだ。

 役所近くのドラッグストアで数あるオムツと粉ミルクから、大黒の話を聞きながら良さそうなものを選ぶ。
 あとオムツを変えるときに使うウエットティッシュも買い物カゴに入れる。
 これで絶対にないと困るものは買えたと璃亜夢は安心した。

 しかしながら、璃亜夢にはもう一つ頭を抱えるような悩みがある。
 それは茉莉花の服だ。

 産まれてからはタオル、今は病院で着せられた肌着とタオル。
 まだ夏だからこの状態で風邪を引くとかはないだろうが、このままこの格好にさせているのは忍びない。
 何か着せてあげたい。
 だけどスマートフォンのショッピングサイトで少しだけ検索をかけてみたのだが値段が高い。
 下手すると自分の服よりも高いものがある。
 以前は服装を選ぶ基準はその服が自分に似合うかだったが、家出をしてからはどうしても値段で考えてしまう。
 どうして大人サイズの服よりも小さいのに値段が張るのか。
 だけどいつまでも肌着とタオルだけでは駄目だし。
 レジに並びながら璃亜夢が難しい顔をしていると、大黒はそんな璃亜夢に「どうしたの?」と声をかける。ちなみに茉莉花は大黒が抱えている。その上買い物カゴも持ってくれている。
 璃亜夢が持っているのは大黒の財布だけだ。
 この男は、自分が財布を持って逃げ去るなんて考えていないのだろうかと頭の隅で彼のことが心配になりながらも、茉莉花の服のことを口にする。

「それに関しては宛があるんだ」

 大黒はそう言う。その時前の客の会計が終わったので、大黒は買い物カゴをレジ台に置く。
「今、姉さんが二人、妊娠中で実家に帰ってきてるって言ったでしょ? 実は二人共、お腹にいるのは男の子らしいんだ。女の子だったら、一番上の姉さんのコの服を使うってことだったんだけど、男の子だったから今回女の子の服は使わないって言ってたんだ。だから、璃亜夢さんが嫌じゃないなら姉さんに貸してもらおうかなって思ってたんだけど、どうかな?」
 品物のスキャンが終わり会計のスタッフが買ったものを袋に詰めてくれるのを見ながら、璃亜夢は大黒の財布からお金をトレイに出していく。
 璃亜夢は大黒の話を聞きながら、俯きながら唇を軽くむ。
 ただアパートの隣りの部屋に住んでいるというだけの繋がりなのに、彼は璃亜夢のことだけではなく、茉莉花のことも考えてくれている。
 それが堪らなく嬉しい。
 今まで会った大人で一番凄い人だ。誠実で素敵な人だ。
 この人に会えたことは何よりも幸運だと璃亜夢は感じた。

「お姉さんが嫌じゃないなら……」

 そう呟く頃には会計は終わりビニール袋を渡される。そのビニール袋は璃亜夢が受け取る前に大黒が受け取ってしまう。
 璃亜夢の返事に、大黒は安心したように微笑む。

「じゃあ今から行こうか。茉莉花さんにも可愛いお洋服選んであげて欲しいし」
 大黒はそう言うと、店の出口へ向かう。
 璃亜夢はとても言葉にできないような幸福感に襲われながら彼の後を追いかけた。
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