胎動

神﨑なおはる

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27:幸せは些細なことの中にも生きているのか

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 璃亜夢の検査や内診、そして授乳指導その他諸々が終わったら既に二十三時になろうとしていた。
 採血の結果を後日聞きに来るように言われて帰されたが、その時茉莉花のための道具が何もなかったので、哺乳瓶と肌着を貸してもらえただけでなくオムツも粉ミルクも数日分持たせてくれた。
 今日だけでどれだけ人の温かさに触れたか。
 この数ヶ月は何だったのかと考えてしまう。
 璃亜夢は茉莉花を抱え、他の荷物を大黒を持って夜の街を歩く。

 目まぐるしい。
 本当に今日は何なのか。

 璃亜夢は何処か夢見心地のような気分で街を歩く。
 週末のためか、こんな夜遅くだというのに行き交う人は大勢いる。
 今まではこの人達を陰鬱な気分で見ていたのに、今夜はそうじゃない。どうしたというんだろうか。

 璃亜夢は何処かぼんやりと歩いていると、隣りを歩いている大黒は不意に「お腹空いたね」と笑う。
 そういえば、と璃亜夢も思う。
 考えてみたら今日口にしたのは、大黒の部屋で出されたホットミルクだけだ。
 大黒に言われてそのことを思い出し、璃亜夢は自身の空腹に気が付く。しかし不思議と不快感はない。一日中遊んで帰った後の空腹感のようだった。

「私も、お腹空いてる、かも」
 璃亜夢は素直に自分のことを話す。
「何か食べたいものある?」
 そう聞かれて、一瞬だけ、璃亜夢の脳裏に永延との『いつものやりとり』を思い出してしまうが、すぐに「ファミレスじゃなかったら何処でも良い。ハンバーガーでも牛丼でもうどんでも」と言う。
 この通りは駅に近いためこんな時間でも営業しているファストフードのチェーン店がいくつもある。
「じゃあ一番近い牛丼で」
 大黒がそう提案すると、璃亜夢は頷いた。

 店に入ってメニューを注文すると早速牛丼がやってくる。
 だけどそのタイミングでお腹を空かせたのは茉莉花がぐずりだす。
 璃亜夢は焦るが、大黒は「ちょっとまって」と言いスタッフにお湯を貰いに行き慣れた様子で哺乳瓶でミルクを作り出す。
 十分冷めたのを確認すると、大黒は璃亜夢から茉莉花を受け取りミルクを飲ませる。
 唖然と大黒の行動を見ていた璃亜夢に、大黒は「先に食べ始めて大丈夫だよ」と言う。

「でも」
「冷めちゃうし、それに璃亜夢さん今日何か食べた? 顔色あんまり良くないし、ゆっくり噛んで食べなよ」
 そう言いながら大黒はミルクを飲む茉莉花に視線を落とす。
 璃亜夢は「じゃあ先に頂きます」と言って目の前の牛丼に手を合わせてゆっくりと食べ始める。
 甘辛く味付けされた牛肉を噛み締めながら、璃亜夢は何だかとても久しぶりに食事をしたような気分になったし、何だったら数ヶ月ぶりくらいに口に入れて胃に落ちていくものを美味しいと感じた。
 永延は夕食に高級そうな店へ璃亜夢を連れていくことが多かったが、食べ物はどれも味気なくてそれはただ栄養を摂取するだけのものだった。
 食事を美味しいと、楽しいと最後に思ったのはいつだっただろうか。
 大黒に言われた通り、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでいく。食道を通って胃に食べ物が落ちていく感覚に少しずつ空腹が満たされていく。
 ちらりと向かいの大黒を見ると、大黒は哺乳瓶を傾けながらミルクを飲んでいく茉莉花を見ていた。
 この姿には、まるで人類の慈愛の具現化のようだった。
 その姿を見ていると璃亜夢も何だか優しくなれるような錯覚に陥ってしまう。
 璃亜夢がぼんやりと大黒を見ているとその視線に気がついた大黒は「何?」と微笑む。その言葉に返す言葉が見つからず璃亜夢は曖昧な笑いを返すことしかできなかった。

 そんな時、不意に考えてしまった。
 もし、この人とこれから一緒に生きていけるとしたら、私は真っ当になれるのか、と。
 夢みたいな戯言だ。
 璃亜夢は自分で考えたことに自分で自嘲してしまった。

 その後二人は遅めの夕食を終えてアパートまで帰ることとなった。


 さて。
 二人がいた牛丼店からアパートまでは近くの駅から電車で数駅。
 当然二人は店を出て駅へと向かう。
 まだ人が疎らにいる道を駅へ向かう璃亜夢と大黒。
 そんな二人を真横の車道から視線を投げかけている者がいた。

 永延隼人だ。

 永延はこの日取引のある会社との食事を終えて帰宅するためタクシーに乗っていた。
 すると横の歩道に見知った顔を見かけて思わず目で追いかける。
 酒栄璃亜夢。
 最近の永延の『玩具』だ。
 数ヶ月彼女を様子を見ていたが、徐々に精神が疲弊していく過程を楽しませてもらっていたが、遂に出産を迎えて彼女もそろそろ限界が近いことは先日彼女に貸しているアパートに行って察した。
 近い内、彼女は数ヶ月腹の中で育ててきた赤ん坊を殺すか捨てるかという行動に出るだろう。その後彼女自身をどうするのか、どんな行動に出るのか楽しみだ。
 網の上でじっくり焼いていた肉が食べ頃を迎えるようなそういうドキドキ感に似ていた。

 だけど。
 今、歩道を駅の方へと向かっていく彼女は少し笑っていた。
 精神をすり減らし、もう自分を傷つけることの痛みもわからなくなっていた彼女が穏やかに笑っていたのだ。
 一瞬よく似た別人かと思ったが、やはり璃亜夢だった。
 彼女の隣にはシャツにネクタイという出で立ちの男が赤ん坊を抱えて歩いている。
 あの赤ん坊は恐らく先日璃亜夢が産んだものだろう。
 男は赤ん坊を大事そうに抱きしめて何かを璃亜夢に語りかける。すると璃亜夢もその言葉にまた表情を柔らかくしているように見えた。

 それを見て、永延はただ不快感を覚えた。

 永延は二人を追い越して進んでしまうタクシーの後部座席から後ろを振り返り璃亜夢を見る。その姿に運転手は知り合いでも見つけたのかと思い「どうしたました?」と声をかける。
 その声に永延は身体を前に戻して運転手をルームミラー越しに見る。
「何でもないです」
 永延はそう言うと温和に微笑んだ。
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