鵺の泪[アキハル妖怪シリーズ①]

神﨑なおはる

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第36話『震天動地⑪-シンテンドウチ-』

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 さて、西澤顕人にしざわあきと滝田晴臣たきたはるおみ荒瀬川あらせがわを襲った彼女を追いかけて走り出す頃に時間は遡る。
 先に走り出す晴臣を顕人が追いかける形で、二人は歩道を逸れる。歩道の奥は芝生と不規則に木が植えられており、足元が悪ければ視界も悪かった。木々のせいで光も遮られているのに、夕方という時間はそれを更に悪化させる。
 先に走っていった『美須々さん』を追いかけるなんて無理なのではと顕人に思わせる。しかし晴臣は違うようで、一瞬立ち止まりぐるりと辺りを見渡すと「こっち」と言って走り出す。
 晴臣が目指す方向を顕人も見るが、鬱蒼した木々しか見えず焦る。彼女の服装も暗かったし、見分けられる気がしないのだ。

「本当にこっちか?」
 顕人は晴臣を追いかけつつ問いかける。
 すると晴臣は足を止めることなく「後ろ姿見えたから大丈夫」と答える。
 本気マジか、こいつ。
 顕人は驚きと称賛の入り混じった複雑な気分で晴臣の背中を追う。
 相変わらず彼女の姿は見えないが、晴臣が見えているのなら、きっとこの向こうに彼女がいる。方向としては、社会学部棟の方だろうか。
 晴臣は木々の間を縫うように走るのに、その速度が落ちることはない。だけどそれに反して顕人の速度は徐々に落ちていく。呼吸も乱れ、少しずつ晴臣との距離が開き出す。
「アキ、大丈夫?」
「無理。先に行ってくれ」
「了解。でももう追いつく」
「え」
 晴臣の声に顕人は驚いて足を止める。晴臣は宣言すると同時に更に加速して走る。
 彼が一直線に走り抜ける方向に、顕人は木々の影の間に何か蠢くものを見た。おそらくはそれが彼女だ。

 晴臣は手を伸ばし、よたよたと走る彼女の肩に手を伸ばす。恐らく晴臣から蹴りと手洗い場に激突した痛みが彼女の足を引っ張っているのだろう。
 しかしながら、彼女も晴臣達が追いかけてきていることには気が付いていたようで、晴臣の手が届く瞬間に振り返り先程部室棟の前で晴臣に吹きかけたスプレー缶を再度向ける。
 しゅうううう、とスプレーが吹き出る瞬間、晴臣は思い切り身を屈めて避けると下からスプレー缶を持つ彼女の右手を思い切り突き上げるように払う。
 晴臣は相手が女性であることを認識していたせいか、男相手にする程の力は入れずに振り払ったつもりだったが、幸い、彼女の手を振り払うと同時にスプレー缶が宙を舞う。
 しかし散布されたスプレーが空気中に残っていたのか、晴臣は思わず目に違和感を覚えて慌てて数歩下がる。恐らく催涙ガスだろう。晴臣は袖で少し痛む目を覆う。
 彼女は晴臣の足が止まるのを見るとそのまま走り出した。

「ハル、大丈夫か?!」
 顕人は漸く晴臣に追いつくと、散布されたスプレーを薄めるように大きく腕を振りながら晴臣を見る。
 今回も目に入ったのは少量だったようで、晴臣はすぐに立ち上がるが目尻には涙が溜まり目も赤くなっている。

「ちょっと痛いって……。アキ、水持ってなかった?」
「ちょっと待て」
 晴臣に言われて、顕人は慌ててミネラルウォーターのペットボトルを出して晴臣に差し出す。
「後で新しいので返すから」
 晴臣はそう言うとキャップを開けて、まるで勢いよく飲むかのように上を向き、水を両目にかける。どぼどぼと水が落ちて晴臣の服を濡らすが、彼は気にする様子も無くペットボトルの全ての水で目を濯ぐ。落ちてくる水が無くなると晴臣は頭を降って水滴を落とすと真っ直ぐに木々の影を見据える。
 相変わらず顕人には見えないが、晴臣は空になったペットボトルを顕人に投げて寄こすと、再び走り出した。
 それを見て顕人はペットボトルをカバンに詰め込むと晴臣を追いかけた。

 晴臣は先程よりも速い足取りで彼女を追いかける。
 植木や雑草も飛び越えていく。そりゃあ、陸上部も顔を青くして逃げていく走りだと顕人は追いかけながら思ってしまう。
 彼女と晴臣の距離は瞬く間に縮まっていくが、もう一度追いつこうかという瞬間、彼女は鬱蒼とした木々の間を抜け開けた場所に出る。彼女が抜け出す直後に晴臣と顕人も木々の間を抜けて場所を確認した。

 そこは社会学部棟の横の広場だった。
 が、かなり乱雑な状況だった。
 四台の軽トラック、そこに積まれた自転車の山。
 モップやライオットシールドとさすまたで戦う、紺色のツナギとヘルメット・タオルの集団。
 学生自治会『サモエド管理中隊』と、恐らく函南の話に聞いていた『自転車愚連隊』だろう。その二つの組織が武力抗争を行っているのだ。何とおっかない状況だ。
 自分達が走り回っている間にこんなことが起こっているとは……。
 顕人は思わず唖然と抗争を見てしまう。

 しかし顕人があちらのいざこざに気を取られていると、突然晴臣に突き飛ばされる。
 何事かと思ったが、自分達も今が大変な状況であることを思い出して顕人は晴臣を見る。
 晴臣の方を見ると、彼の前には、そこらへんに転がっているモップを振り回す彼女の姿があった。恐らく晴臣が顕人を突き飛ばしたのは、あのモップが迫っていたからだろう。
 危なかった……!
 顕人は心臓が早鐘を打つのを感じながら、モップを振り回す彼女と晴臣を交互に見る。
 鉄パイプよりは攻撃力が低い気がするが、それでも顕人にしてみたらモップも充分武器だ。大丈夫なのだろうかと顕人は晴臣を見るが、晴臣は動じる様子はない。
 晴臣は彼女が振り下ろすモップを手で弾きながら一歩ずつ間合いを詰める。
 徐々に近づいてくる晴臣に、彼女の感じるプレッシャーはどれだけのものだったか。彼女は晴臣の顔面目掛けてモップの柄を突き上げる。
 しかし晴臣は自分に迫るモップの柄を容易く避けるとその柄を掴み、思い切り自分の方へ引いた。
 強い力でモップを引っ張られた彼女はがくりとバランスを前へ崩すが、その瞬間、晴臣はモップを蹴りつけ遠くへ転がしてしまう。
 彼女は右手を押さえてよろよろと後ろへ下がる。

「もう止めてください」
 晴臣がそう彼女に声をかけると、彼女の肩は一瞬揺れる。
 確かに晴臣の言う通り、このまま彼女と追いかけっこを続けるわけにはいかない。何とか此処で諦めてもらわないと。そう思いながら顕人も彼女を見る。
「荒瀬川さんもあの状態じゃあ、『オープンキャンパス』には参加できません。それでもう良いじゃないですか」
 顕人がそう言うと、彼女は顕人に視線を向けた。
 被っていたフードの端から彼女の目が顕人を睨んでいた。

「『もう良いじゃない』ですって? 何を言ってるの? あいつはまだ生きてるじゃない。あいつは生きてる限りこれからも周囲に害をもたらす。それは絶対に許されないことなの」

 彼女ははっきりとした口調でそう呟く。
 その声には妙な圧力が篭っていた。
 彼女が低い声で呟くのを二人は聞いている。
 すぐ横で学生自治会と『自転車愚連隊』が争っている音が五月蝿いのに、彼女の声は重く低く二人の鼓膜を揺らした。
 その声にぞっとしながらも聞き入ってしまって動けずにいた。
 彼女はそんな二人を睨みながら更に続ける。

「私は半年荒瀬川を見てきたわ。あの男は必要なのかしら。威張り散らして、ときに暴力を振るって。周りから顰蹙ひんしゅくを買っているのにも気が付かない。腫れ物にされていることがわからないの。誰か一人でもいたかしら、あいつの良いところを話した人が」
 彼女はそう呟きながら首を傾げる。
 だけどその目は見開かれていて、射抜くような視線が二人を貫く。
 しかしながら、彼女の言う通り、昨日今日と荒瀬川のことも聞いてきたが、誰も彼を褒めるようなことは言っていなかった。
 顕人には、彼女の言わんとしていることが理解できた。
 彼女は顕人の様子を察して口を開く。

「ねえ、あの男は同情に値する人間だった?」

 そう問われて、顕人は何も返せなかった。
 正直あの怪我も彼の行動が招いた結果だと思っていたからだ。彼女もそれがわかっていて、押し黙る顕人を見てフードの下から見えていた彼女の口元は笑みを作る。
 きっと彼女は自分の行為の正当性を手に入れたのだ。
 だけど、晴臣は、この重い空気に気が付いていないのか、怪訝そうに口を開いた。

「でも、それって貴女がすることじゃなくないですか? 室江先輩も、自分の知ってる人がそんなことしたって聞いたら、驚くのを通り越して悲しみません?」

 そうあっけらかんと言い放つと、顕人は思わず「確かに」と答えてしまう。
 確かに、荒瀬川はどうしようもない野郎かもしれないが、それを彼女がどうこうするのは許されないことなのだ、残念ながら。
 学生課や学生自治会に訴え、然るべき処置を行ってもらうのが『正しい』のだ。
 晴臣の言葉が出た瞬間、彼女の『正当性』は崩れる。
 彼女はこれに対して何というか。顕人は彼女の反応を待つが、想像していたものとは違う反応だった。
 フードの隙間から見えていた口元は歪み、誰かの名前を呟いている。
 最初はよく聞こえなかったが、それがすぐに室江の名前だとわかる。
 晴臣が室江のことを引き合いに出したからだろうか。
 彼女は口の中で転がすように彼の名前を何度か呟いたが、徐々に様子がおかしくなっていく。

 何度も何度も彼の名前を呼んでいたがすぐに言葉にならない声をあげ、頭を抱えてその場に崩れる。
 その様子に流石の晴臣も驚いて焦りだす。

「―――あぁ、あああああ、たかや、あぁ、どうして、あぁっ、たか、や」

 彼女は叫ぶ。
 まるで壊れたロボットのように彼女は声を漏らし続ける。
 一体何がどうなったのか、顕人は困惑しつつも彼女に近づき彼女の肩に触れようと手を伸ばす。
 だけど顕人が彼女の肩を掴み「『美須々さん』!」と呼んだ瞬間、彼女の動きはぴたりと止まった。
 一瞬の静寂、だけどすぐに再起動した彼女は顕人を睨みつけて呟いた。

「違う、きっと、私はもう美須々じゃあなくなってるの」

 それはどういう意味なのか。
 顕人が彼女の言葉の意味を解釈しようとしたが、その間に彼女は顕人を強く押して彼の腕から逃げる。
 彼女は立ち上がると、一番近くにあった軽トラックに乗り込む。
 鍵が刺さっていたようで、すぐにエンジンがかかり彼女は軽トラックを発進させる。
 だけどその軽トラックに積まれていた大量の自転車のせいで、スピードは出ずよろよろとした速度で、広場中央で行われていた学生自治会と『自転車愚連隊』との抗争に突っ込むが、速度が出ていなかったおかげで皆軽トラックを避けることができた。
 軽トラックはあまりの自転車の重みにふらつきながら、近くの街灯に激突し、そのまま横転してしまう。
 軽トラックの横転に、顕人も晴臣も顔を青くして歩み寄るが、それよりも早く学生自治会と『自転車愚連隊』のメンバーが彼女を助けようと軽トラックに近づく。

 彼女は這いずるように軽トラックが出てきて、ゆっくりと立ち上がった。
 そして漸くフードを脱ぐと、彼女は顕人と晴臣を見た。

 だが、二人は勿論、その場にいた全員が、彼女の背後にある社会学部棟の壁に視線を奪われてしまった。
 倒れた自転車や軽トラック、そしてその場にいる人達の形が色んな角度からライトで照らされ一つの大きな影絵を作っていた。

 その影絵は社会学部棟の影に張り付く大きな獣だった。

 大きな四足歩行の獣の影が蛇のような尻尾を振っていたのだ。
 その光景に皆唖然と社会学部棟の壁を見ていた。

 晴臣はその獣を見て、昨日宮准教授の部屋を掃除したときに見た『平家物語』とそれに添えられていた資料を思い出した。確か何かの妖怪画集のコピーだったはずだが、名前は思い出せない。
 でもそこに描かれていた獣の姿はよく覚えいていた。

「『鵺』だ」
 晴臣がそう呟くと、顕人はもう一度社会学部棟に映った影を見る。
 確かに、そう見えなくもない。

 彼女の後ろには、確かに鵺がいた。
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ここまで読んでいただきありがとうございます。
一応シリーズ一本目ですので、その内二本目を書き始められればと思っております。
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