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第1話『潜移暗化-センイアンカ-』
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春とは言え、夜の寒さは身体に堪えた。
女の身体はまるで吹雪の中にいるかの様に震えていたが、それは寒さからではなかったし、それ以前に彼女は自身の身体が震えていることには気付いていなかった。
彼女は喉が焼けるような熱さに呼吸もままならない状態だった。
まるで喉に火で熱した石を押し込まれているように熱く痛んでいた。
さっき、彼女自身が驚くほどの大きな声を出したからだろうか。
今はひゅーひゅーと狭窄音が熱風のような呼吸と共に夜の帳に溶けていく。
ただただ熱い喉に対して、手足は恐ろしい冷え切り感覚もない。
女は、今、自身の手が開いているのか握り込んでいるのかもわからなかった。
足も手と同様に感覚なんてなかったが、それでも牛歩のような歩みではあったが、少しずつ前へ進める。
身体が重い、頭も痛い、意識が朦朧とする。
頭の中で、記憶の断片が意識へと転がってきては消えていく。
何か一つのことに意識を集中させたいが、今の彼女の状態ではそれもままならない。
そんなとき前方から、ヒヒッと何処か上擦った様子の男の笑い声が彼女の耳を突いた。
鼓膜を揺らすその男の声がただただ不快で、女はゆっくりではあったが前へと進めていた足を止めて、霞む視界で前を見た。
もう日も変わり、住宅街であっても暗さが強い。
電灯の光は疎らではあるが、女の目はもう十分夜の暗さに慣らされてしまっているからか、道の真ん中に立っている男の表情まで捉えることができた。
夜に溶け込むような黒いパーカーを羽織っているその若い男は、女の惨状を目の当たりして大笑いしたいのを必死で堪えているのがわかり、更に不快感が増した。
「大暴れして少しはすっきりしたでしょう?」
男は楽しげな笑みを浮かべて女に問いかける。
それに答えるのも不愉快だったが、このまま一方的に男に捲し立てられるのがもっと不愉快で、女は渋々口を開く。
「……誰のせいだと思ってるのよ」
女は男を睨みつけてそう呟く。
声を出すとき、やはり喉が酷く痛み、いつもよりも掠れて濁った声が夜に散る。
それでも女の声は男の耳には届いていたようで、男は口の端を上げて女を見る。
「誰のせいって? そんなの、貴女自身でしょう?」
男は相変わらず笑みを浮かべたままそう言い放つ。
その瞬間、女は鈍い頭痛が鋭く激しいものになるのを自覚する。
頭全体を金槌で何度も殴られるような痛みに、女は頭を両手で抱えてその場によろよろと倒れこむ。
その様子を見ていながら、男は女を心配する素振りなんて微塵も見せずやはり微笑むを浮かべたまま。
女は頭を抱えて、地面をのたうち回る。
歯を食いしばりどうにかこの苦痛から逃げたいと藻掻くが、痛みは益々酷くなるだけだ。
「まるで獣のようだ。いや、貴女こそ正しく鵺だ」
男は女の苦しむ様を見ながら、うっとりした表情で囁くように呟く。
その言葉は女の耳に届いたけれど、意味を理解できる状態ではなかった。
男の言うとおり獣のような唸り声を上げながら地面に転がる女を余所に男は続ける。
「鵺といえばやっぱり『平家物語』ですかね。猿の顔と、狸の胴体、虎の手足に、蛇の尾っぽの姿で有名だ」
男はそう言うと、それまでただ突っ立っていただけの足を前へ出す。
およそ五メートルほどあった女との距離が少しずつ縮まる。
地面でのたうつ女の姿は、男にとって場を白けさせる宴会芸のように滑稽に見えた。
きっと彼女は、今自分が一体どういう状態なのか、爪の先ほども理解できていないだろう。
それが男にはただただ哀れで、そして鼻で笑いたくなるほど愉快だった。
「清涼殿に毎夜のように響く不気味な声に二条天皇が病んでしまう。 そこで弓の達人であった源頼政が清涼殿に巣食う不気味な化物を射る。 落ちた鵺を猪早太が取り押さえ止めをさした」
男はせせら笑いながら、その情景を考える。
矢を射られ地面に落ちた鵺は息も絶え絶えという様子だっただろう。
きっと地に伏して、空を仰ぐように、自分を殺そうとする英雄を見上げたのだろう。
それはまるで、今目の前にいるこの女のように。
男は、女を哀れんだ。
そして見る見る作り変わっていく女を愉快に思う。
「自分が自分でなくなる感覚はどうですか。意識が分かれて、善悪の区別の崩れて、化物になる感覚は誰もが味わえるものじゃあない。 貴女はとても恵まれている」
浅い呼吸を繰り返す彼女は、もうのたうち回ることもなく身体を地面に投げ出している。
でも意識は霧散しているのか、彼の言葉に耳を傾けている様子はない。
茫然自失そのものだった。
彼は横たわる彼女の顔を前に、ゆっくりと地面に片膝をつく。
そして慈愛に満ちた表情で、残酷に語りかける。
「貴女の前にもきっと『源頼政』と『猪早太』はやってくる。なんせ、貴女は鵺なのだから」
男がそう言った瞬間、女の意識は焼き切れる様に途絶えた。
これは女の物語。
鵺になった女の末路。
女の身体はまるで吹雪の中にいるかの様に震えていたが、それは寒さからではなかったし、それ以前に彼女は自身の身体が震えていることには気付いていなかった。
彼女は喉が焼けるような熱さに呼吸もままならない状態だった。
まるで喉に火で熱した石を押し込まれているように熱く痛んでいた。
さっき、彼女自身が驚くほどの大きな声を出したからだろうか。
今はひゅーひゅーと狭窄音が熱風のような呼吸と共に夜の帳に溶けていく。
ただただ熱い喉に対して、手足は恐ろしい冷え切り感覚もない。
女は、今、自身の手が開いているのか握り込んでいるのかもわからなかった。
足も手と同様に感覚なんてなかったが、それでも牛歩のような歩みではあったが、少しずつ前へ進める。
身体が重い、頭も痛い、意識が朦朧とする。
頭の中で、記憶の断片が意識へと転がってきては消えていく。
何か一つのことに意識を集中させたいが、今の彼女の状態ではそれもままならない。
そんなとき前方から、ヒヒッと何処か上擦った様子の男の笑い声が彼女の耳を突いた。
鼓膜を揺らすその男の声がただただ不快で、女はゆっくりではあったが前へと進めていた足を止めて、霞む視界で前を見た。
もう日も変わり、住宅街であっても暗さが強い。
電灯の光は疎らではあるが、女の目はもう十分夜の暗さに慣らされてしまっているからか、道の真ん中に立っている男の表情まで捉えることができた。
夜に溶け込むような黒いパーカーを羽織っているその若い男は、女の惨状を目の当たりして大笑いしたいのを必死で堪えているのがわかり、更に不快感が増した。
「大暴れして少しはすっきりしたでしょう?」
男は楽しげな笑みを浮かべて女に問いかける。
それに答えるのも不愉快だったが、このまま一方的に男に捲し立てられるのがもっと不愉快で、女は渋々口を開く。
「……誰のせいだと思ってるのよ」
女は男を睨みつけてそう呟く。
声を出すとき、やはり喉が酷く痛み、いつもよりも掠れて濁った声が夜に散る。
それでも女の声は男の耳には届いていたようで、男は口の端を上げて女を見る。
「誰のせいって? そんなの、貴女自身でしょう?」
男は相変わらず笑みを浮かべたままそう言い放つ。
その瞬間、女は鈍い頭痛が鋭く激しいものになるのを自覚する。
頭全体を金槌で何度も殴られるような痛みに、女は頭を両手で抱えてその場によろよろと倒れこむ。
その様子を見ていながら、男は女を心配する素振りなんて微塵も見せずやはり微笑むを浮かべたまま。
女は頭を抱えて、地面をのたうち回る。
歯を食いしばりどうにかこの苦痛から逃げたいと藻掻くが、痛みは益々酷くなるだけだ。
「まるで獣のようだ。いや、貴女こそ正しく鵺だ」
男は女の苦しむ様を見ながら、うっとりした表情で囁くように呟く。
その言葉は女の耳に届いたけれど、意味を理解できる状態ではなかった。
男の言うとおり獣のような唸り声を上げながら地面に転がる女を余所に男は続ける。
「鵺といえばやっぱり『平家物語』ですかね。猿の顔と、狸の胴体、虎の手足に、蛇の尾っぽの姿で有名だ」
男はそう言うと、それまでただ突っ立っていただけの足を前へ出す。
およそ五メートルほどあった女との距離が少しずつ縮まる。
地面でのたうつ女の姿は、男にとって場を白けさせる宴会芸のように滑稽に見えた。
きっと彼女は、今自分が一体どういう状態なのか、爪の先ほども理解できていないだろう。
それが男にはただただ哀れで、そして鼻で笑いたくなるほど愉快だった。
「清涼殿に毎夜のように響く不気味な声に二条天皇が病んでしまう。 そこで弓の達人であった源頼政が清涼殿に巣食う不気味な化物を射る。 落ちた鵺を猪早太が取り押さえ止めをさした」
男はせせら笑いながら、その情景を考える。
矢を射られ地面に落ちた鵺は息も絶え絶えという様子だっただろう。
きっと地に伏して、空を仰ぐように、自分を殺そうとする英雄を見上げたのだろう。
それはまるで、今目の前にいるこの女のように。
男は、女を哀れんだ。
そして見る見る作り変わっていく女を愉快に思う。
「自分が自分でなくなる感覚はどうですか。意識が分かれて、善悪の区別の崩れて、化物になる感覚は誰もが味わえるものじゃあない。 貴女はとても恵まれている」
浅い呼吸を繰り返す彼女は、もうのたうち回ることもなく身体を地面に投げ出している。
でも意識は霧散しているのか、彼の言葉に耳を傾けている様子はない。
茫然自失そのものだった。
彼は横たわる彼女の顔を前に、ゆっくりと地面に片膝をつく。
そして慈愛に満ちた表情で、残酷に語りかける。
「貴女の前にもきっと『源頼政』と『猪早太』はやってくる。なんせ、貴女は鵺なのだから」
男がそう言った瞬間、女の意識は焼き切れる様に途絶えた。
これは女の物語。
鵺になった女の末路。
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ここまで読んでいただきありがとうございます。
一応シリーズ一本目ですので、その内二本目を書き始められればと思っております。
一応シリーズ一本目ですので、その内二本目を書き始められればと思っております。
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