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第九話『不利、不自由』
しおりを挟む頭上から垂れる縄の真下は、穴底の中心に近く、鈍く日が差している。
影になっている壁際から、ほんの数歩の距離しかない。
這って進む俺の動きでも、上半身を倒すだけで、手先は到着寸前まで行ける。
尺取り虫みたいな移動法で、尻丸出しの全裸の男がやるとマヌケでしかないが、でも、現状で最も距離が稼げるやりかただった。
俺がバタンと身体を地面にのばすと同時に、第六の戦士が穴底に着地した。
ドスンと泥をはねさせながら、大きな足が他の何本もの足の向こう側に増える。
さっきまでこの男がぶら下がっていた、手を離せばなんとか着地できそうな高さには、もう第七の戦士がいるのだろう。
迷っている暇はないと、見える範囲の敵の表情を見上げて確認する。
第四と第五の戦士の表情が、ギョッとしていた。
そんなに、俺が大きく動いたのが意外だったか?
よしよし、よく見ろこの大きなナイフを。
おまえらの足もとに迫っている俺は、おまえらを殺せる力を持っているんだぞ。
俺の顔は苦痛で歪み、真っ赤になっていると思われる。
それは敵方にすれば、必殺の表情に見えただろう。
無力な死にかけだと思っていた存在が、急に鬼になる。
どれほど驚いただろうかと、さらに前進するため顔を俯せた俺は、ほくそ笑む。
優先順位を覆してよいのだろうか? と、パムだけを危険視し、そちらに意識を集中させていた戦士たちが、あきらかに逡巡している。
あれはもう戦士の顔じゃない。迷子の顔だ。
ただでさえ詠唱の遅い第四の戦士のオラシは、完全に止まってしまっていた。
よく、「お留守になっている」と揶揄される状態、そのままだった。
第五の戦士は、さすがに決断が早かった。
二択に見せかけた虚勢だと、一瞬で見抜いたようだった。
さすがだと、俺は胸裏で唸った。
どちらを優先して制圧するべきかは、考えるまでもない。
絶対にパムなのだ。
事程左様に、人間とは意外性に弱い。
感情とは、意表をつかれた時に動く。
なにが起きても冷静に肩の力を抜いて判断できる者は、天才か、相当な修羅場を潜ってきたツワモノだ。
喧嘩度胸とは、勇気とは別物なのだ。
これは才能か経験でしか得られない。
そうしようとして、誰もができることではない。
逆に、そういう決断ができる者を相手にするのは、敵にしてみれば厄介だ。
フェイントが通用しない相手には、無傷では決して勝てない。
第四の戦士のこの、判断がつかないという反応こそが、普通の反応なのだ。
俺たちの狙いは、まさにそれだった。
俺かパムか、敵方が脅威だと感じたほうを、囮にする。
理想としては、俺を脅威だと感じさせたい。
第五の戦士に陽動は通用しなかったが、表情からも驚かせることに成功したのは確実だった。その一瞬を奪えたのは大きい。その驚きは、先手後手を入れかえる。
第五の戦士は急いで令句を唱えるが、その表情には悔恨が滲んでいた。
パムはもう、オラシを唱え終えているのだから。
パムの命じた「対象は右方ザーバス」とは、第四の戦士のガラス玉をさす。
太く鋭い透明な棘が、高速で伸びていく。
楽器の音色のような複数の高音の交じる破砕音。
第四の戦士のザーバスが割れた。
パムの槍は硬度を増しており、一撃で敵のガラス玉を貫いた。
その音と、ザーバスを壊したという事実も、俺たちの次の一手への布石だった。
敵方の目と耳がその音と現象に奪われたと仮定して、俺は一気に両手を動かし、二漕ぎぶんを這い進む。
ずるり、ずるりと、敵の足もとへと近寄る。
戦闘は、止まったようで継続していた。
二人の達者のオラシが、ほぼ同時に詠唱を終える。
先に発動したのは、第五の戦士のザーバスだった。
パムは硬質の盾を見せられていたために、彼の武器破壊は狙えなかった。
それでも、敵の攻め手は減らしておきたい。
そこで、意識を奪う意味もこめて、第四の戦士の武器を破壊した。
第五の戦士があとほんの数瞬だけ、驚いてくれていれば問題はなかった。
パムのザーバスには、攻撃の手を戻す一瞬の間が必要だからだ。
第四の戦士の身体を武器とともに貫かなかったのは、それが理由だった。
そこを節約してでも、次の一手への間を稼ぎたい。
だがその間は、与えてもらえなかった。
第五の戦士の《戦士の槍》が、パムへと鋭く伸びる。
パムはその驚異にも怯まず、慌てなかった。
いつもの速度、いつもの簡潔さで、最後まで令句を唱え終える。
ドスンと、パムの鳩尾をガラスの槍が突き刺し、深く深く貫いて、尖端が背中の皮膚を突き破った。
血飛沫を噴出させ、パムがくの字に身体を折る。
俺は最後の一漕ぎぶん、手を動かして敵陣の中心まで進む。
鳩尾を貫かれたまま、パムは「命令実行」と唱えた。
第五の戦士はすでに、防壁への変形をザーバスに命じている。
こいつが邪魔だ。
この戦場で俺たちを不利にしているのは、人数差でもケガでもない。こいつの、第五の戦士の腕前だ。
俺は右手のナイフを順手に持ちかえて、斜め上に突き上げた。
邪魔者の股間に、太く大きく鋭い刃物が突き刺さる。
ザーバスを砕かれ、放心していた第四の戦士が、ようやく反応する。
慌てて手に持ったガラスの欠片を振り捨て、俺に駆け寄る。
第六の戦士は仲間の立ち位置が邪魔をして、なにが起きているのか見えていないようだった。
俺は止まらずに、ナイフを持った手を動かした。
前立腺から入って腎臓まで達している刃先を手首の捻りでグルリと抉り、体内で躍らせる。
「か、かふしゅ」
第五の戦士が最期に発したのは、言葉ではなく吐息だった。
死角から確実に急所を深く抉られ、膝からくずおれた。
即死だと、俺は第五の戦士の状態を判じた。
第五の戦士が倒れたことで、第六の戦士の視界がひらけた。
俺と第六の戦士の視線がぶつかる。
地面を這う俺に飛びかかった第四の戦士は、混乱のあまり、自分の腰の革帯にも一本ぶら下げてある戦闘用のナイフを抜くのも忘れて、がむしゃらにしがみついてきた。
両手で俺の右手を掴み、地面に押さえつける。
第五の戦士の体内にナイフをのこして、俺の右手は自由を奪われた。
第四の戦士は俺の右手を右手で押さえつけたまま、左手を離して、俺の後頭部に肘を当て、グリグリと体重をのせた。
俺の顔面は上から押され、泥のなかに埋もれた。
後方から、パムが吐血して噎せ、地面に膝をつく音と振動が響いてきた。
──つづく。
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