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第六十四話『彼岸』

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 深い森に千年をかけて高く高く育ち、日光を遮るように立ち並んだ木々が強風で一斉に揺らされ、葉擦れの恐ろしげな音を数万箇所から鳴らすような、場内の声と声が無数に重なった厚みのある音波が、無数の羽虫が飛び交うように控室の空気を不快で満たし、耳の穴から脳髄を侵食する。
 声と声、音と音、反響と反響が重なりすぎて、個々の言葉は聴こえてこない。
 情報ではない感情の圧力が、マックの心をやすりのようにザリザリと削る。
 アナウンスの声が、その波状に続く絶え間ないざわめきを分断する。
『次は決勝戦! これまでのお披露目試合で、皆の推しはもう決まったはずだ! いよいよ賭けを受け付ける窓口を開けるけど、用意はいいか?』
 1回戦と2回戦で客に感情移入と戦力分析をさせて、決勝で、どちらが勝つかを賭けるというルールのようだ。
『さあ張った張った! 今んとこは、6対4でフェラウ嬢が有利みたいだよ!』
 6対4。
 僅差だが、マックは不利だと予想されているようだった。
 ようやく得た貴重な情報は、恐怖心を増大させるものだった。
 やはりフェラウは、本格的な格闘技をつかうのだろうか?
 それともイメージどおりに、度を越して残忍な試合をするのか?
 これっぽっちの情報では、なにも予測できなかった。
 マックには、そんなに引き出しはない。
 マックの格闘技は、お父さんとの遊びのなかで自然と覚えた知識や技術であり、ただの護身術なのだ。
 身体が鍛えられているわけではないので格闘家のような応用力はなく、つかえるのは不意打ちに近い、〈専門家に知られたら終わりの技〉ばかりだ。
 闘うためではなく逃げるためにある技術だから、心も鍛えられていない。
 実際、喧嘩度胸がないために焦って攻撃してしまい、一度も打たれていないのにケガだらけという有様だ。
 どうしよう。
 このケガで、どこまでやれる?
 どこまで? という反問が自分のなかから返ってくる。
 この状態でやれることなんか、ほとんどないだろと自嘲する。
 今まで自分が相手に対してしてきたことが、そのまま返ってくるという恐怖が、背筋を這いのぼってくる。
 当然の報いと言われればそのとおりかもしれないが、それで覚悟が決まるというものではなく、手の震えはずっと止まらず、怯えを隠す余裕もなかった。


 賭け試合なので、ある程度フェアな条件でやらせたいのか、しばらく待ち時間があった。
 フェラウは今、治療をしているのか、それともただ休憩しているだけなのか。
 経たないでほしい時間は、過ぎるのが早かった。
 無策のまま、落ち着くことすらできないうちに、控室の扉が解錠された。
 正装の、若い案内役の男が、マックに頭を下げる。
「テレクサ様、試合のお時間でございます」
 言葉も声も上品なフリをしているので、また役に戻ったようだ。
 恐怖心は消えていない。
 なのに、試合となると心が静かになるのが不思議だった。
 父との取っ組み合い遊びが役に立って、圧勝したという経験を二度も繰り返したために、次もなんとかなるだろうと、身体が勝手に慢心しているのか。
 それとも2回戦の試合後の、自分を求め、褒め称えて騒いでいたあの大歓声が、心の奥の奥に潜む浅ましい欲を満たしたために、快楽の味を覚えた心は飢え渇き、また無意識に同じ快楽に浸ろうと、闘いを求めてしまっているのだろうか。
 待っている時間のほうが、よほど恐かった。
 試合に行くぞと他人に決められると、震えが止まる。
 マックは案内役に連れられて、観衆の待つ金網リングへと、背すじをのばして堂々と向かった。


 金網のなかにはまだ、誰もいなかった。
 同時入場ではなく、フェラウは後から来るようだ。
 マックは拍手と歓声に迎えられて、金網リングへと入った。
 その騒ぎが完全に落ち着く間際に、ドオオと、地鳴りのような歓声が起きた。
 フェラウが花道をやってくるのが見えた。
 よくテレビで観るような立派な会場とは違うので花道は狭く、マックが視認できたのは、フェラウの頭だけだった。
 観客の期待と興奮の激しさの理由は、わからなかった。
 フェラウが金網の扉から、リングへと入ってくる。
『さぁ皆様方! 賭けはお済みですかい? 間もなく窓口を締め切りまぁす!』
 興奮したアナウンスが煽り、会場がそれにのる。
 予想を口にするざわめき、期待と応援の叫び、そして窓口へと走ってチケットを買う、取引の胴間声。
『試合開始と同時に締め切りですが、どちらさんも、よござんすね?』
 ブザーの音が、カウントダウンのように小刻みに鳴る。
 5回目のブザーが、長く長く鳴った。
『はいそこまで! 賭けは締め切り、決勝戦スタート!』
 試合開始と同時に、金網のなかの二人は身構えた。
 マックは軽く半身に立ち、顔を覆うように構えて、重心を後ろ足にかける。
 相手の膝関節を右足で蹴って牽制しつつ、左足を軸にして飛ぶように前進する、いつもの柔術の戦法だ。
 威嚇のパンチなどは振らない。
 相手と離れている間は、手は顔を護ることだけにつかう。
 フェラウも半身構えだったが、マックの立ちかたとは違った。
 顔はこちらを向いているが、身体は真横を向いている。
 不自然なくらいの、極端な半身立ちだった。
 フェラウは入場時から、この立ちかただ。
 腕はだらりとさげたままで、顔を護るようには構えない。
 構えたといっても体勢に変化はなかったのだが、マックには相手が構えたように見えた。
 まとう空気が変わり、動いていなくても戦闘態勢にあるとわかるのは金網の向こうから見ても同じようで、だからフェラウは止まったままなのに、運営側から射殺の警告を受けることはなかった。
 獲物を狙うような緊張感が、離れていても伝わってくる。
 1回戦、2回戦の相手とは違い、肩に力も入っていない。
 なんだ、その構えは?
 脱力した自然体に近いのに、身体の片側を隠すような不自然な立ちかたをする。
 なんの格闘技だ?
 似たような姿を観たことがないかと、記憶の引き出しを開ける。
 わからない。
 あんな構えは、観たことがない。
 強いて言うなら、ボクサーが相手を挑発するようにノーガードになった姿と似ているが、フェラウはベタ足だった。
 少し猫背だが直立しており、顔を突き出して敵のパンチを誘う、足捌あしさばきが自慢でカウンターを得意とするボクサーよろしく、挑発しているようには見えない。
 深淵のように暗く濁ったフェラウの瞳を覗き、意図を探ろうとする。
 だが、マックがフェラウを観察しているとき、フェラウもまた、マックをじっと観察しているのだった。


 ──つづく。  
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