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第十三話『賭博場』
しおりを挟むローラがアパートの部屋を去ってしばらくの間、コリィは頭が回らなかった。
そこに彼女がいたという、自分の視覚記憶が信用できない。
昨日からどうも日常の調子が狂ったままで、理不尽で暴力的な目にもあったが、どの記憶も現実ではないかのようで、自分の正常性を疑いたくなる。
本物の超人が今そこにいたという記憶は、夢想の果てに自分が壊れてしまった、あるいは少し壊れ始めているという証拠ではないのかという疑念を抑制するには、コリィは、まともそうな暮らしや考えかたから距離を置きすぎていた。
目ヤニでぼやけた視界をしばたたかせては、ローラのいたソファを桃源郷を見るような間抜けづらで眺める。
瞼を閉じるたびに、今のように孤独で、非現実的な暮らしを続けていった末の、憐れな独居老人になった己の姿が細切れに眼裏に浮かぶ。
家族もなく、友人のひとりもいない、偏屈で譫言ばかりを口にする、皺くちゃで身体の不自由な老爺。近隣のまっとうな暮らしを営む健常者たちにとってはただの厄介者、いや、統失に近い病人にしか見えておらず、遠巻きにして、陰口とともに失笑を買うその様は、ただの想像とはいえ、直視するには辛すぎた。
コリィは痙攣のように頭を振り、軽度の脳震盪の目眩で、瞼の裏にこびりついた映像を掻き消そうとした。この妄想は危険だと。今すぐに45ACP弾を装填した銃口を銜えてトリガーを引き絞り、錯乱を表現したシュール系アートのように物が散乱したこの部屋を、自分の血液の色で整然と統一したいという衝動に襲われたくなるから、やめろと。
慌てているかのように着衣を乱暴に脱ぎ、正面に屹立する一人掛けソファに山と積まれた汚れ物の頂へと投げ捨てる。
黄ばんだ染みだらけのワイシャツ、黒なので変色は見られないが、シワの目立つスラックス、あちこちが擦り切れ、糞尿を餌に大腸菌の温床となり果てた悪趣味な柄のトランクスが、コンクリの湿気で冷えた衣服の山頂に仄かな温もりを与える。
自棄っぱちのような態度で脱ぎ続けて全裸になると、白い尻肉を揺らして裸足でペタペタと居間を出て行く。
自分で自分の尻は見えないが、今もうこの尻肉が垂れて萎んでいるなら、先程の妄想のなかのゴミ屑のような自分の姿は遠い未来ではなく、間もなく現実になるということだ。
歩きながら掌で尻に触れ、感触を確かめてみる。
ぴとっと張り付くようで、まだ瑞々しい気がした。
筋肉の衰えも感じない。
悪夢を振り払うかのようにバスルームの扉を引き開け、掃除などしたことのない黴だらけの便器の横を通り抜けて、シャワールームへと足を運ぶ。
狭いシャワールームは、あちこちが石鹸カスだらけだった。
カマドウマやゴキブリやナメクジの死骸と垢と抜け毛が排水口に詰まり、流れを悪くしているため、甘い腐臭がシャワーヘッドの下に蟠っていた。
水垢で灰白色に固まったコックを捻り、水になったり熱湯になったりを繰り返すポンコツシャワーで頭から足先までをざっと濡らしてから、使い古されて乾燥し、ひび割れた固形石鹸で、濡れた皮膚に泡を乱暴に塗って掌で擦る。
熱湯が傷に当たり、チクリと痛むたびに口汚く毒づく。
「くそったれが!」
「腐れチンポコ野郎が!」
「小便飲みのケツ孔掘りが!」
「母親のコーマン汚しが!」
舌打ちのついでに、次々と罰当たりな汚い言葉が迸る。
シャワー室の壁に蒸気の水滴とともに付着する、それを吐き出す者の品のなさを一言で伝えようと工夫しているかのような、呪詛の毒気。
やがてその反響音は、痛みの麻痺とともに鼻歌へと変じていった。
機嫌よく汚れを洗い流し、ついでに刃毀れの酷い錆びたT字で、のびっぱなしの無精髭を剃る。
湯を止めてシャワー室を出ると、つかってはタオル掛けに戻して自然乾燥させ、またそれを洗いもせずにつかうということを無数に繰り返している、不潔に耐える修行か実験でもしているかのような、雑巾みたいな臭いのするバスタオルで全身の水気を拭う。
慣れた者でなければ、汚れた身体を洗ってまた汚したとしか思えないであろう、もとの色がわからないほど変色した雑菌だらけのバスタオルを再び、青錆の浮いたタオル掛けへと戻す。当然、次のシャワーでもまたこれをつかう予定だった。
湯気のたつ全裸で廊下に出て居間へと戻り、居間を入って右奥の書斎に客間から隠すように置いてある洗濯籠から、洗ってあるワイシャツを選んで取り出し、袖を通す。
パンツやスラックスも、シワシワのものを籠から探しては掌で軽く叩き、それがアイロン代わりだとでも言わんばかりの満足そうな表情で、鼻歌を垂れ流しながら次々と身につけていく。
教会の古着配布でホームレスどもと奪い合って入手した衣類は、客用のソファに重ねられているものと籠にのこっているもので全部だった。着るものがなくなるとコインランドリーへと赴き、洗い分けなどせずに、全部を纏めて大型の洗濯機へと放り込む。それを丸ごと乾燥機へと移し、乾いたらまたこの籠へとクシャクシャのまま押し込むのだった。
コリィは、背広やタイは持っていない。
記者時代の上司にもらったブランド物のトレンチコートを、スーツ代わりにしていた。
気温が低くなればセーターや肌着などをワイシャツの上下に重ねて、体温を逃さないことだけを考える。
身だしなみや流行などは二の次どころか、気にしたこともなかった。
コインランドリーには、もう二ヶ月以上も行っていない。
そろそろ洗濯の時期だと念頭に置く。
少なくともトランクスは今のが最後の一枚で、もう籠のなかに在庫はなかった。
書斎から居間の二人掛けソファへと戻り──同じ部屋の奥のL字に折れた一角を書斎と呼んでいるだけだが──背凭れにのせてあったトレンチコートと中折れ帽を身につけると、テーブルの上に置いてあるタバコとマッチをコートの内ポケットに突っ込んだ。
かつんと、なにかが指先に当たる。
内ポケットには、潤滑油臭いコルトが入れっぱなしになっていた。
弾が一発も入っていないので、造りのしっかりした上質なコートはその重みを、着た瞬間には気付かせなかった。
コリィはまた顔を顰めて舌打ちをひとつ鳴らし、硬い拳銃を内ポケットから取り出すと、ベッド代わりにつかっているためコリィの体型に凹んだ二人掛けソファの上に、その役立たずの空拳銃を放り投げた。
こんなものを持ち歩くのは御免だと、その動きには迷いがなかった。
M1911は二度、三度、ソファーのスプリングで跳ねた後、おとなしく座面に横たわった。
銃の着地を横目で確認しながら居間を出て、廊下を玄関へと向かう。
裸足のまま古い革靴を突っかけながら靴入れ棚の上に置いてある鍵の束を握り、玄関の鉄扉を開けて室外へと出る。閉めた扉をしっかりと施錠し、ノブを回しては何度も引いて戸締まりを確認する。
盗られて困るような貴重品があるわけではないが、アパートのある地区の治安を考え、帰宅したときに侵入盗と鉢合わせるのは御免だと、コリィはいつも念入りに施錠を確認する。銃を撃つのは嫌だが、撃たれるのはもっと嫌だからだ。
タバコを銜え、螺旋階段を三階から一気に駆け降りる。
一階のエントランスには、片側の壁一面に住人用のポストが設置されていた。
自室の部屋番を表示するポストへと直進して解錠し、なかを覗き込む。
ぽつんとひとつ、黒い封筒が投函されていた。取り出して開封する。
差出人名がなく──黒いので直接書くのは難しいだろうが──、切手も貼られていなかった。
郵便局をとおさずに、誰かが直接これを投函したということだ。
封筒には厚みがあり、傾けると、なにかがなかでガサリと動いた。
長方形の、掌サイズの物体の感触は、硬いが、重くはなかった。
封筒の短辺を破いて開封し、なんとなく顔を封筒から離して中身を確認する。
きちんと折り畳まれたコピー用紙が一枚と、小型の携帯電話が一台入っていた。
コピー用紙を広げてみる。パソコンからプリントアウトした文字が目に入る。
『ピット・ファイトの王に、望みをかなえると伝えろ』
その一言が印字された紙の右下には手書きで『ケン』と、サインがあった。
指示書だ。これが最初の依頼ってわけか。
次に封筒から、携帯電話を取り出してみる。
小さな液晶画面の、Eメールすら普及していない時代のものだった。
「なんだこりゃ、つかえんのか?」
銜えタバコを揺らしながら独りごち、ためつすがめつしてみる。
メーカー名も、型番もなかった。
どう見ても、表の商売で使用されていた道具とは思えない。
これは一体、どの通信会社と契約をしている電話なのか。
麻薬カルテルが処刑用につかう手造り銃のような不気味さが、その不格好さから醸し出されていた。
コピー用紙に印字された〈賭け試合の王〉とは、半年前に死んだグザヴィエに、コリィが一年前、対ゴー・キラー用ヒーローとの顔繋ぎを依頼された際、真っ先に候補として思い浮かんだヒーローのことだと察しがついた。
最上の候補ではあったが、いくつかの理由により現実的ではないと諦めたのだ。
ピット・ファイトの王とは女。
喧嘩の神と呼ばれるヒーロー〈ミス・ヴァージン〉のことである。
あれの願いは、誰にも叶えられないだろうが。
コリィはその嘘を吐く自分を想像し、苦い顔でまた舌打ちをした。
たしかにその台詞が事実なら、彼女は仕事を請けてくれるだろう。
だがそれが嘘だった場合、殺されるのはケンではなくコリィなのだ。
ふざけんなよ、顔繋ぎのやりかたまで指示されるとは聞いてねぇぞ。
指示に従えばミス・ヴァージンに殺され、従わなければ、ケンに殺されるということなのか。
コリィはこのために、嘘一回ぶんの、使い捨ての生命として雇われたのか。
長生きをして老いていくのも恐ろしいが、「今ちょっと行って死んでこい」と、誰かに指示をされるのもまた恐ろしい。
ミス・ヴァージンとは勿論、本名ではないが、名のとおりの〈処女〉だった。
男嫌いとか貞操観念で未通女なのではない。
生まれついての化物であること。ただそれだけが貞操の理由だった。
噂によると、かつてミス・ヴァージンに請われて、ベッドをともにした男がいたらしい。
女の扱いに長けた、指ひとつで誰でも昇天させると豪語する、セックスの天才と噂された男だった。
その男はいつもどおりに耳もとで甘い言葉を囁き、耳たぶから下腹までを舐めるように撫でた後、嬌声をもらすヴァージンの秘部に、そっと指を入れた。
次の瞬間、男の指は女陰の圧力に食いちぎられた。
ヴァージンの筋肉は全身もれなく強力で、膣の筋肉も、鰐の咬合力より強い。
指を失った男は悲鳴をあげて全裸のままホテルから逃げ出し、女は一人、薄暗いベッドにのこされた。
女は己の運命を呪い、獣のような声で泣いたという。
ミス・ヴァージンは現在、毎夜、強者を求めて賭け試合に臨んでいる。
自分を倒せるほどの男なら、自分を抱けるに違いないと信じているのだ。
愛を求めて彼女が辿り着いたのは、ノールールの裏格闘の世界だった。
裏格闘におけるノールールとは、誇張表現ではない。
殺人までを許容するという意味だった。
ミス・ヴァージンは格闘家ではない。
興味がないとか必要がないという以前に、格闘技を習うことができないのだ。
訓練者や模擬訓練の相手をもれなく殺してしまうので、習いたくても習えない。
強者がひしめくはずの格闘の世界ですら、彼女は孤独なままだった。
表の格闘技大会には参加する資格すらないが、裏試合には法の制限がないため、所属ジムやライセンスは必要なく、好都合だった。
ヴァージンの喧嘩は、子供のそれと同じ。
掴み、殴り、噛みつき、ひっかき、つばを吐く。
殴るのもボクシングのようにジャブやストレートなど、合理的な技術ではなく、ただ振り上げて振り下ろす、子供と同じやりかただった。
パンチだろうとなんだろうと彼女がそれをすれば、人は簡単に死ぬ。
全力の攻撃をよく格闘技界では「熊の一撃」と呼ぶが、彼女の攻撃はおしなべて熊よりも殺人的だった。
裏格闘の世界には華麗さなど必要なく、どんな陰惨な結末も認められる。
賛美されるのはただ、〈強い〉という事実のみだった。
ミス・ヴァージンは試合では、ほとんど手を出さないという。
軽く腹を打てば肋骨は砕け、口腔や肛門から臓物が吐き出されるし、軽く掴んだだけで、相手の身体の部位はケチャップの容器のように潰れ、破れた傷口から肉や骨が絞り出される。
どんなに加減しても対戦相手が壊れてしまうのだけが、裏試合に参加した当初の彼女の悩みだった。
怖がって対戦してもらえないのでは、興行が成り立たない。
だから彼女は、手を出すのをやめた。
相手に好きなだけ攻めさせる。
どこでも好きなところを、好きなように殴らせ、蹴らせる。
それでも彼女を殴る相手の拳は砕け、彼女を蹴る相手の足の骨は折れて、折れた骨は皮膚を突き破った。
女であるミス・ヴァージンの皮膚は、脱力すれば指が埋もれるほどに柔い。が、筋肉に少しでも力を込めた途端に、その表皮は弾性の強い鋼鉄のように変質する。飛行機のギアサスペンションのように強力なその反発力と硬さは、相手にとっては危険極まりない反撃となってしまう。
だから、なにもしない。ただ、立って、待つ。
呼吸のタイミングを間違えただけで、相手に致命傷を与えてしまう。
だから試合中は、呼吸すらも加減してやる。
反撃されないとなれば、王に挑戦する者は引きも切らなかった。
毎日、毎夜、彼女は何人とでもやる。
その日の挑戦者がいなくなるまで、殺し合いの喧嘩をし続ける。
結果、戦績は十五万戦全勝、引き分けなしというトンデモナイものとなった。
現在ではルールが改正され、対戦相手にのみ武器の使用が認められている。
だが実際には、武器を使用する者など皆無だった。
中途半端にミス・ヴァージンをやる気にさせれば、死の確率があがるだけだからである。
挑戦者たちが生命の危険をおかす理由はひとえに、賞金の額が莫大だからだ。
三世代先まで遊んで暮らせるほどの賞金が、ヴァージンを倒せば得られる。
倒せなくても、ダウンさせれば一生遊んで暮らせる。
ケガを負わせただけでも、高級車が新車で買えるくらいの賞金は支払われる。
参加費さえ払えば、あとはなにをしてもいい。
攻撃が成功すれば大金がその場で、現金で支払われる。
となればリスクよりもリターンが高いと計算するのが、博徒というものだった。
なかには組織的にヴァージンを研究し、挑む者もいた。
強いといっても所詮は女だろうと酔った勢いで挑む、ものを知らない無脳野郎も多い。
裏社会には伝説の喧嘩師と噂される男たちが各地におり、地元では喧嘩の神とは俺のことだと豪語して試合に臨む。
高額賞金の懸かった試合の噂を耳にして、闘う相手のことを調べもせずに得意の喧嘩で稼ごうと、遠路をワザワザ飛行機を乗り継いで来る者までいる。
だが常連のファンたちは知っていた。
誰がなにをしようとも、喧嘩でヴァージンに勝てる者などいない。
いれば彼女はもう、ヴァージンではないはずだからだ。
常連たちは語る。
ガタイだけはでかくて強そうに見える自信満々の男たちが、数え切れないくらい彼女の前に立ったが、結果はいつも同じ。勝敗の賭けが成立するほどに期待できる対戦相手は、この世にいないと。
ミス・ヴァージンのプロフィールは、すでに本人の口から多くが語られており、書籍やネット、口伝などで情報が出回っていた。
裏格闘の世界に来る前は、見世物小屋にいたのだという。
本名は〈ディンキー・ホロヴィッツ〉。
記憶にある限り親は不明で、孤児として物心を得た。
施設にいた当時から、仲間たちにはディンキーと呼ばれていた。
それが本名なのかニックネームなのかは、本人にもわからない。
状況から考えて、名無しでは不便だから、ディンキー本人か仲間の誰かが勝手に名付けたのだろうと推察される。
コリィと同じ〈ただの呼び名〉である。が、彼女の場合は自ら選んでそうなったわけではない。
その異常な筋力を自認したのは、変態野郎の施設長に性的な悪戯をされたときのことだった。
恐怖で押し退けると、その大人は呆気なく死んだ。
馬に蹴られたように胸骨が凹み、頸骨はぶらんぶらんにへし折れた。
ディンキーは初めての殺人に恐怖し、誰かに見つかる前に施設から逃走した。
当時まだ、三歳だった。
殺人が罪だということも知らない年齢である。
このとき、どれほどの期間、まだ日常的な言語力すらままならない彼女が、鼠のように世間から隠れて遁走してしていたのかは、本人の記憶が定かでなく、証拠となるような記録もないので不明である。
なにやら賑やかで楽しそうな場所があるとサーカス団の設営した簡易住宅地区に迷い込み、団長に拾われた。
飲まず食わずで衰弱していたディンキーは、団員たちに親切に介抱された。
施設から逃げて以来初めての温かい扱いに、張り詰めていた気持ちの糸が切れ、ようやく泣いた。
優しい団員たちと数日間暮らすうち、彼女が怪力であることを知られてしまう。追い出されるかと慌てたが、団長はその力をギフトと呼んで、面白がってくれた。ディンキーが福祉保健局などに通報されず、旅の一座の仲間として迎え入れられたのは、その生得の怪力のおかげだった。
彼女はサーカスの〈見世物小屋〉で、働くこととなった。
見世物というと世間的には差別的なイメージがあるようだが、ディンキーはその日々を今でも、大切な家族との思い出だと語る。
石を割ったり鉄を曲げたりする幼児は、客にも好評だった。
売上に貢献した彼女を、団員たちは神の恵みだと褒め讃えた。
誰もディンキーを化物扱いなどせず、有能な団員だと口を揃えた。
誰よりも優しかった団長の名は、〈ジョー・エメット・ホロヴィッツ〉。
ディンキーを娘として育て、ホロヴィッツの姓を与えてくれた。
だが、幸せな期間は短かった。
ジョーが数年後にガンで亡くなると、興行がうまく回らなくなり、客入りが悪くなったサーカス団は、ほどなく解散してしまった。
仲間たちと別れて独立したディンキーは、ジョーと懇意だった都市部の常連客の伝手で、酒場で働くことになった。
まだ子供なので、雑用をさせられた。
力仕事が得意な彼女は、同じ裏方の老従業員に重宝がられた。
その職場で数年働いたディンキーは、ついに初恋を味わうこととなる。
彼女は派手な美人ではないが、愛嬌のある可愛らしい顔をしている。
丸顔の皮膚の下に強靭な顎の筋肉や骨格が隠されているのだが、一見そうは見えない。
好きになった相手の男も、まだ十代の前半だった。
男も似たような境遇で、地元の酒問屋で下働きをしていた。
空瓶を回収にきた男とディンキーは、仕事の合間に裏口で会って、少しの時間、二人で楽しく話して過ごした。
ある夜、いつものように語らう二人に絡んできた酔っ払いがいた。
そのときのディンキーは知らなかったが、その男はマフィアの構成員だった。
ディンキーは、掴まれた腕を軽く振り払っただけ。
それで男の腕は、人形のように肩からすぽんと抜けた。
大量の血液が撒き散らされる凄惨な現場。
泣き叫ぶイカツイ男と、その返り血に染まるディンキー。
初恋の男はディンキーを「化物」と呼び、逃げ去った。
殺人をおかしたディンキーを法の手から救ったのは、絡んできたチンピラ男の、ディンキーに腕をちぎられて悶え死んだ男の上役だった。
その男はディンキーの働く酒場にふらりと現れて店主と相談し、事件を揉み消す代償として、ディンキーを組の預かりにしたいと申し出た。
それを提案したのが無名のチンピラであれば、店主は渋ったかもしれない。
だがその話を持ってきたのは地元を仕切るハル家の当主〈ハル・ルソ〉であり、酔った勢いで組の者が島内の素人衆に因縁をつけたのは言語道断であり、全面的にこちらが悪いと謝罪したうえで、「ぜひ責任をとらせてほしい。彼女を当家で引き取りたい。悪いようにはしない。家名に誓って彼女には相応しい暮らしを与える」と熱心に説得されては、日頃からハルに世話になっている店主には断れなかった。
ハルはディンキーを、己の仕切る賭博場に迎えた。
放心で傷心のディンキーを宥め、簡単なスパーリングをやらせてみた。
大人のボクサー崩れ対、年端もいかない少女。
ロートルとはいえ、大人のほうは困惑した。
やれと強く命令され、寸止めのつもりでジャブをつつく。
ディンキーは軽く踏み込んできた相手の胸を、ポンと掌で押し返した。
そのひと押しで胸骨と肺と心臓が潰れ、ボクサー崩れの男は即死した。
驚いたハルは、ディンキーに金の稼ぎかたを提案する。
ディンキーにとって、自身の呪いを「才能」だと喜んでくれたのは、父代わりのジョー以来だった。
ディンキーはハルの提案にのり、玄人の喧嘩師になった。
ハルは傷心のディンキーに、「君より強い男なら君を受け止められるだろう」と語った。
それは単なる慰めに過ぎなかったが、真実だった。
初恋の甘い日々を、ディンキーは取り戻したかった。
失った家族を、自分でつくりたいという夢もある。
金に困らない暮らしも、有難かった。
喧嘩は、すぐに怖くなくなった。
ディンキーにとっては、普通の人間など小虫よりも非力で脆い。
いつか、そう感じさせない男が、自分と一緒に家族をつくる。
自分が愛しても逃げず、怖れない、強い男がきっと現れる。
ディンキーは大人になった今もそれを信じて、健気に喧嘩を続けている。
ルソ家は、都市部マフィア七大家の一つで、ボウ家に次ぐ二番目に大きな一家である。
ディンキーには今、それほど大きな守護の囲いがある。
サーカス団よりも、酒場よりも、頑強な城に護られている。
ハル家の屋敷にディンキーの部屋を用意すると言われたが、それは断った。
その代わり、賭博場の上階に自分の居住区を造ってほしいと依頼した。
ハルは快諾し、ディンキーの望むとおりの暮らしを与えた。
ディンキーの生活空間を保持しつつ、賭博場の事務所兼ディンキーの護衛たちの待機所となる部屋が、賭博場に増築された。
共存共栄。
ディンキーを迎えた賭博場は、大人気になった。
彼女が強すぎるため賭けは成立しないが、挑戦者が何分もつかは賭けられる。
死ぬか、生き残るかも賭けられる。
王者ディンキーに、かすり傷を与えられるかも賭けられる。
賭ける賭けないは二の次で、なにより彼女の絶対的な強さに、裏社会の男たちは痺れ、惚れ込んだ。
賭博場の常連たちは揶揄でなく──参戦当初はその意味もあったのだろうが──畏怖と敬愛の念をこめて彼女を〈ミス・ヴァージン〉と呼ぶ。
入場料、賭け金、ディンキーに挑戦するための試合参加料、飲食物代など。
賭場の客入りは上々で、ルソ家の収益は跳ね上がった。
ルソ家はヴァージンを絶対に手放したくない。
その評価額が、ファイトマネーに表されていた。
ディンキーの心はまだ空っぽだったが、金だけは腐るほどに持っていた。
もう今のディンキーは、飢餓も凍死も怖れない。
将来への金銭的な不安もない。
自身の価値を自覚してもいる。
求めるものは、自分より強い男だけ。
だからミス・ヴァージンを、金で雇うことは難しい。
仕事の交渉をする前にマフィアにも筋をとおす必要があり、伝手のないコリィは一年前、それであきらめざるを得なかったのだった。
ヴァージンの存在は当然、所属組織の違うグザヴィエも知っていたはずであり、マフィア筋のヒーローがつかえるのであれば、コリィを訪ねたりはしなかったはずである。
あのミス・ヴァージンが出張ったとなれば、その喧嘩の話は、七大家筆頭であるボウ家の当主〈イグ・マー〉にも伝わってしまうだろう。
そもそも、それを避けるためにヒーローを雇おうと考えたグザヴィエにも、彼の依頼を請けたコリィにも、ミス・ヴァージンは候補として相応しくなかったのだ。
イグ・マーの存在を知ったディンキーが、その強さを確かめようと、挑戦を申し出たことがあった。
ファンたちは盛り上がったが、この試合は成立しなかった。
イグ・マーは試合を生業としておらず、挑戦される理由がないのだ。
ただその件に関して、情報屋筋には奇妙な噂が巡った。
「イグ・マー・ボウは路上では戦わない」という噂である。
その理由も、噂の言わんとしている意味もよくわからない。
「喧嘩はしない」なら、まだ理解できる。
「ムダな喧嘩はしない」も、理解可能である。
「路上で喧嘩をしない」とは、どういう意味なのか。
試合のような喧嘩は意味がないとするのはわかるが、ストリートファイトさえもしないとなると、彼の職業柄、無抵抗主義でないことを前提とするならば、意味がわからない。
この噂の裏側には、人前に出てこない、ほとんど誰もその姿を見たことがない、引きこもりのような生活を送るイグ・マーへの揶揄が含まれているのではないかという説を耳にし、コリィも消去法で、そういうことなのだろうと判じていた。
イグ・マーの所在は、情報屋ギルドにも噂がない。
ボウ家の敷地内のどこかにいるとは思われるが、どんな家でどんな暮らしをしているのかは全く掴めない。
近年、広大なボウ家の敷地近辺で半グレの悪党が殺されるという事件が頻発しており、現場にはヒーローの目撃談がのこされていた。
それが、イグ・マーではないかという推測めいた〈噂〉もある。
謎の多い男であり、これは趣味で調べるには危険すぎるネタだった。
コリィは独り、街の外れまでタクシーで向かった。
そこは人気のない、紡績工場の跡地だった。
七大家が生まれた禁酒法時代につかわれていた、レンガ造りの古い建造物。
ルソ家の鉄火場である。
腕時計をする習慣のないコリィには正確な時刻は不明だが、太陽の位置からまだ夕刻前だとは判じられた。
つまりまだ、賭場は開帳していないということ。
一見、ひとの気配はなくても、無許可で敷地内に入るのは危険だった。
連邦警察やマスコミ、荒らしに来たよその組の者だと判断されれば、間違いなく殺される。
入口以外から垣根を越えて侵入すれば、地雷の餌食になってしまうだろう。
コリィはタクシーを降りてすぐに携帯電話を取り出したが、逡巡が落ち着かず、ボタンが押せなかった。
コリィの通話先には情報屋ギルドの関係者が多いので、なにが仕込まれているかわからない携帯でかけるのはリスクが高い。
周辺を見渡して、公衆電話を探す。
すると携帯電話が突然、着信音を鳴らした。
まるでコリィが、この場所にいることを知っているかのようなタイミング。
ポケットに戻した携帯をまた取りだし、液晶画面を確認する。
なにも表示されていなかった。
舌打ちして通話ボタンを押し、受話口を耳に当てる。
『やあ〈ただのコリィ〉』ケンの快活な声。
「あんたか」コリィは辺りに見張りがいないかと見回す。
『さっそく、仕事にかかったようだね』
「ええ、まあ」
位置探索装置が組み込まれていることが、暗に知らされた。
脅しか? この野郎。
『〈チョウチョ〉が、君のところに行ったね?』
「はぁ、よくご存知で」
『なにをしに?』
「そりゃ、あんたと同じで」
『同じとは?』
とぼけやがって。
「ヒーローをね、捜してほしいと。依頼内容は言えねぇんで、ここまでで勘弁してくださいよ」
『……ほう』
「あんたのが先口なんで、ちゃんと先にやってますよ」
『ああ、そのようだね』
俺の行動を把握していると伝えたいのか?
『なぁ、コリィよ』
「はい?」
『フフ……さっきから声が揺れてるよ。君は、こっちの正体に気付いたね?』
情報が玄人並みに早えな、もうばれたのかよ。
「いや、それは……」口ごもる。
言えないよ畜生。気付いたのは俺じゃなく、ローラだ。
『まぁいいさ。不可抗力なんだろう?』
「はぁ」
情報源は? どこで調べていやがる。
『チョウチョを寄越すとは、むこうも行動が早く大胆だね』
むこう?
「それなんですがね?」
『なんだ?』
「チョウチョは、あんたの手駒じゃないんですか?」
『んん?』
「いや、すみません、出過ぎた質問でした」
『かまわんよ。もう君に隠しごとはないんだ』
「あんたはたしか、手駒は二人と言ってたはずです」
『ああ、そう、言ったかね』
「その二人のうちの一人が、チョウチョじゃないんですか?」
『うちのはまだ、海外にいるよ』
〈ソードマン〉か。
「二人とも?」
『さぁね、私にはそこは断言できん』
「……なるほど」
『君には近いうち、海を渡ってもらうよ?』
「東洋へ?」
『ああ、さすが話が早いね』
「それがいつになるのかは──?」
『わからんね』
ローラの言ったことと辻褄はあうな。
「それを伝えるための電話連絡ですか?」
『フフ……君も、先が見えたほうが、仕事がしやすいだろう?』
「ええ、まぁね」
『ポストの依頼書は見たのだろう?』
「ええ」
『君の手腕を信じてるよ、コリィ』
電話がきれた。
なにがシュワンだ。
混乱した頭を整理する。
ローラとミヤムラ家はこの件の仕掛人だが、厳密には組んでいないようだ。
ロールシャッハ家やフォー・スペースは、ミヤムラの上部組織だが、指揮系統は上意下達じゃない。
同じ意志を、それぞれで判断して行動しているように見える。
本家とも言えるロールシャッハのヒーローを、ケンは敵対する可能性のある駒としてしか認識していないようだ。
ということは、現時点では、ケンの言う「うち」とは、ミヤムラ家のみのことをさすのだろうな。
各組織がヒーローの生命を紙屑のように捉えているとして、ローラの実姉である〈エル〉は、ローラの味方ではないのか?
なぜ妹を、死ぬ可能性の高い争いに巻き込む?
政府は、中央情報局の切り札であるチョウチョを失ってもいいのか?
この話が進むと、ミヤムラ家とロールシャッハ家が争うことにはならないのか?
コリィは携帯電話をコートのポケットに戻した。
少し離れたところに公衆電話を見つけ、そちらへ足を動かす。
この携帯は、つかわなくて正解だった。
こんなものでギルドの誰かと連絡をとれば、コリィは信用を失っただろう。
さて、ミス・ヴァージンとどうやってコンタクトをとるか。
賭博場には、一見では入れそうもない。
実際に足を運んでみて、空気の匂いを嗅ぎ、危険だと判断した。
となるとギルドの誰かに、ルソ家の人間を紹介してもらうしかない。
一歩ずつだ。いつものように。
なにもかもすべて、洗いざらい調べてやる。
それは仕事の役にも立つことだが、コリィの矜持でもあった。
なにも知らされないまま、手足のようにはつかわれない。
この稼業は、自由なだけが利点なのだから。
俺のやりかたで、依頼を完遂してやる。
それがヒーローたちにとってどういうことになるのかは、まだあまり深く考えておらず、考えたくもなかった。
──つづく。
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