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第二話『依頼者』
しおりを挟む殴られたコリィの腹は、熱と吐き気で煮えていた。
拳の硬さも拉致の手際も、素人のものではなかった。
ダウンタウンの路地を歩いていた時に、突然、背後から数人がかりで襲撃され、乱暴に頭陀袋を被せられた。
「畜生、痛ぇなコノ野郎。誰だ手前ぇら!」
袋ごしのコリィのくぐもった声は強気のようだが、声の震えから、それが虚勢であることがわかる。
どう考えてもこれは、悪戯や冗談の類いや、ガキの火遊びなんかじゃない。
殺しも辞さないという、玄人ならではの機械的な怖さがあった。
だが事実、コリィは今、生きたままで運ばれている。
殺人や、殺しておいて金銭などを奪うのが目的ではなく、連れ去ることが目的である可能性は高かった。
両手はポリプロピレン樹脂製の結束バンドで後ろ手に、それもご丁寧に両手首と両手小指の二か所を括られていた。
丸腰の素人一人を拘束するには、やけに念入りなやり口だった。
「おい、一体なんなんだよ、こりゃよ?!」
誰も答えようとしないので、コリィがまた怒鳴る。
態度の大きさには、朝方まで飲んでいた酒が少なからず燃料を与えていた。
尻と背には、安っぽい車のシートの感触と、アスファルトの路面を走るタイヤの振動が伝わってくる。
やたらと上下左右に揺れるので、かなり荒っぽい運転をしていることがわかる。
車内に押し込められたときのスライドドアの開閉音で、作業員と機材を現場へと運ぶようなバンにのせられたこともわかっていた。
ただコリィには、こんななんでもない日の朝に突然、自分が拉致される理由に、思い当たる節はなかった。
新聞記者時代には、危ない連中にも取材をした。
記事にできそうもない重犯罪の話も、山ほど聞いてきた。
だが、記者を辞めてから、もう五年ほども経っている。
今さらコリィをさらったところで、どこかの誰かが得をしたり、どこかの誰かの不便や不安が解消するとは思えなかった。
浮世の義理と関わりがないからこそ、彼は〈ただのコリィ〉なのだ。
「俺を拉致っても、誰もゼニなんか出さねぇぞ」
嘘はついていない。
コリィの命には金銭的な価値などなく、彼のために身代金を払おうとする奇特な者など、少なくともコリィ本人には、一人も思い当たらない。
親類縁者もいない。
友人の一人もいない。
「残念だったな、人違いなのかもしれねぇが、今回はタダ働きになっ──」
強烈な肘鉄が、コリィの顔面に打ち込まれた。
左右の席でコリィを取り押さえていた二人のうちの一人が、警告もなく打った。
「っっッぢゃアッ!」
「なっちまったな」と言うつもりが、「ち」で悲鳴に変わった。
硬く、鋭く、えげつないその一撃は、袋の上から正確に鼻骨を潰した。
鼻血と鼻水と涙が、どばどばと垂れ流れる。
「ッてぇな畜生コラ! てめぇの母ちゃん豚に犯されろ糞が!」
懲りずに口汚く毒づくコリィ。
早口だったからか最後まで言えたが、また隣席から、今度は裏拳が飛んできて、顔面に叩きつけられた。
コリィの潰れた鼻柱を、岩のようなゴツイ塊が再び潰す。
袋をかぶった頭部が弾き飛ばされ、首が嫌な角度で、へし折れたように曲がる。
背もたれに、後頭部が激突して跳ね返る。
「かはッ、うぇ、ゲホッ、あああガガ……」
血液が気管に入って噎せた後に続く、泣き声のような呻き。
腰を曲げて俯いた頭陀袋に、じんわりと黒い血液の染みが広がっていく。
「黙ってろ」
隣席から、ガサガサとした男の声が、初めて口を利いた。
このバカ、危ない野郎だな。
小物なりに修羅場を経験しているコリィは、痛みに耐えながらそう判じた。
人殺しの声には、共通した旋律がある。
喧嘩好きの小悪党の声も似ているが、微妙に違うのだ。
記者時代に取材した、重犯罪者専用の刑務所の空気を思い出す。
塀のなかには、外界とは違う序列があった。
娑婆では誰もが恐れ敬う大物気取りのギャングも、なかに入れば小物扱いされ、一兵卒からやり直しという場面を、何度も見聞きした。
首を縮めて背を丸め、人影に怯え、物陰に隠れるようにして暮らす元ギャングの大物たちからは、塀の外で振り撒いていた迫力が完全に消失していた。
だが、問題はそこじゃない。
コリィがその取材から学んだのは、そんな因果応報的な在り来りな教訓などではなく、どんな世界にも序列から外れた例外はいるということだった。
序列とは、法のことである。
無法者にも、彼らなりの法があるのだ。
裏社会の法からも外れた頭のネジの緩んだサイコ野郎どもの噂を、コリィは塀のなかでも外でも聞いた。
伝説として名をのこすような大物とは違うが、誰もが恐れ、忌み嫌う者たち。
何人かは、噂の当人へのインタビューに成功したが、取材中ずっと震えが止まらなかった。
コリィが袋越しに聴いた隣に座る男の声は、その連中のものに近い。
こいつも〈狂人〉か。
コリィは口を噤んだ。
このての連中には、交渉は通用しない。
機嫌を損ねるか、逆に興味をもたれるか、そのどちらに転んでも殺される。
もう、できることはなかった。
その代わり腹のなかで、思い付く限りの侮蔑の言葉を並べてやった。
その、頭のなかだけの抵抗すらも、隣の男の身じろぎひとつでピタリと止まる。
聴こえないと理屈でわかっていても、察されてしまうことを恐れた。
世間の連中は皆、感情と流行に流されて生きている。
風潮が犯罪者に味方をすれば体制を裁こうとし、被害者に味方すれば犯罪者側の事情など全て、それがどんなに悲惨な事情であろうと「身勝手」の一言で済ませてしまう。
まるで自分が聖人か裁定者でもあるかのように、「到底理解しかねる事件だ」と嘯く人の、なんと多いことか。
やれ差別だ貧困だ、生命は平等だと、多数派の意見にのって人を裁こうとする。
だがそんなのは悲しい映画を観て自慰のように泣く間抜けな観客と大差のない、対岸の火事への偽善的な同情なのだ。
いざ自分が、犯人か被害者どちらかの状況になれば、偉そうに人を裁く連中も、あっけなく健常者の仮面を脱ぎ捨てることだろう。
そして人は、簡単にどこまでも堕ちてゆく。
人は皆、慣れるのだ。
人を罵ることにも。
人を殴ることにも。
人を切り刻み、血を浴びることにも。
人を殺し、解体して溶かして、ゴミのように棄てることにも。
これらの所業が残酷に聞こえるならば、その耳は、世の分業制に晦まされているだけの、夢想家の耳だ。
表の世界でも、残酷に慣れている専門家は、どこにでもいるではないか。
政治家や弁護士は嘘や偽善を平然と口にし、人を死や貧困へと追いやった揚句、数値だけを証拠に己の判断を正当化する。
格闘家や警官は人を痛めつけ、暴力を生業にしている。
外科医は人を切り刻み、肉や臓器の一部を摘出する。
葬儀屋は死体を燃やし、骨にして土に埋める。
全ては〈慣れ〉に過ぎないのだ。
人を救うためだったと大方から見えれば感謝され、そうでなければ疎まれる。
〈慣れ〉という観点からすれば残酷への耐性とは同列であり、そこには善悪という曖昧な違いしかない。
善悪は時に、多数決になるというのに。
鼻の奥から喉を伝い、口中までおりてきた血液を、唾液とともに「ぺっ!」と、乱暴に吐き捨てる。
それは袋の内側にべたりと付着し、粘り気をのこして染み込んだ。
コリィが呼吸をするたびに袋は膨らんだり萎んだりし、下唇にネチャネチャと、内側表面にのこった粘り気がくっついては離れ、ただでさえ袋の内側は臭く気分が悪いのに、不快感が弥増した。
思わず出そうになる舌打ちを堪える。
不意に、頭陀袋の綻びから射し込む光が激しく揺れ、同時に車内も、尻が跳ねるほどにガタガタと揺れた。
タイヤが砂利道を踏み締めている音が聞こえ、舗装路から外れたことがわかる。
「吐きそうだ」
コリィが小声でぼやく。
車酔いが、殴られた腹をグツグツと加熱する。
袋を被される前にコリィが暴れ、拳で鳩尾を当てられた。
苦しさで目が回り、全身から力が抜けた。
あのときの痛みが、胃の腑を掴んでグイグイと持ち上げてくる。
急ブレーキでタイヤが滑り、車内が傾く。
コリィはつんのめり、座席から転げ落ちそうになった。
後ろ手に拘束されているコリィの両肘を、左右に座る二人が掴んで支えた。
「ぐあぁっ!」
頭陀袋越しの苦悶の声。
身体が前方に動いている時に肘を後方に引かれ、肩の関節が捻れたのだ。
酒場で見たプロレス中継で解説者が叫んでいた、技の名前が頭に浮かぶ。
確かこの技というか状態を、解説者は「アームロック」と呼んでいた。
それがどんな痛みかなど、左右の二人にはどうでもいいのだろう。
コリィが自ら身体の位置を背もたれまで戻さないと、関節は極ったままだった。
急いで尻を座面後方へと滑らせて、背もたれまで戻す。
両肩の筋が、焼けるように痛んだ。
左右の二人を怒鳴りつけたいが、それもできない。
停車と同時にスライドドアの開く音がして、外気が車内に吹き込んできた。
「おりろ」
さっきのガサガサした男の声が命じ、掴んだコリィの肘を、今度は右方へと強く引く。
「痛ぇよ! 痛えって!」
また肩関節が悲鳴をあげ、拘束された小指にも激痛が走った。
「るっせえな、はやくしろオラ」
隣席からまた違う声がして、コリィの浮いた尻を蹴飛ばす。
押すように蹴られてバランスを失い、コリィは車外へと放り出された。
「ああ、あああっ!」
両腕を後ろ手に括られた状態で、頭から落下する恐怖への悲鳴。
死んだかと思ったが、途中で太い腕に抱き止められた。
そのまま、衣服の肩の部分を、肉ごと乱暴に鷲掴みにされる。
人間離れした握力に、力ずくで引っ張られる。
「うわ待て、痛えって!」
「いちいちうるせえなぁ、コイツ」
コリィの尻を蹴った男が車を降りながら、背後で文句を言った。
背後の声はまだ若く、口調に軽さを感じた。
コリィの肩肉を掴んでいるもう一人の男のような狂気は感じられないが、ヘタに怒らせると危険なのは、こういうバカだった。
チンピラほど、虚勢を張ろうとするからだ。
裏社会の取材中、コリィを脅してくるのは決まって、このてのバカだった。
粋がっているが、いざとなると簡単に密告するような、弱者にだけ強い豚ども。
実際に、自分を脅した若者が、次の取材では姿を消していたこともあり、理由を尋ねると「密告した」とのことだった。
最大の罪である裏切り。
沈黙の掟をやぶった密告者がどうなったのかを、コリィは知らないし、知りたいとも思わなかった。
海外へ飛ぼうと、刑務所に入ろうと、マフィアからは逃げられない。
博物館に、『刑務所で使用された殺傷器具』という展示があった。
尖った鉄の棒に布が巻いてあるだけの、一見するとゴミに見える器具が並ぶ。
大きさは様々だが、あれで一体、何人の生命が奪われたのか。
粛清を受けなくてもマフィアである限り、死の確率は寿命を迎えるその日まで、高いままである。
ストリートギャングの連中などは、もっと酷い。
二十歳を過ぎて生きているやつなんて、ほとんどいない。
コリィは肩肉を掴まれたまま、引き摺られるようにして連れていかれた。
ここがどこなのかは、わからない。
前方から、重い木の扉を開ける音がした。
少し歩くと背後でまた、扉が閉まる音が響く。
その音からも、空気の匂いからも、室内に入ったのだとわかった。
臭い頭陀袋と鼻腔を塞ぐ鼻血を抜けて、良い匂いがした。
木の匂い。果物の匂い。香料の匂い。
金持ちの屋敷か?
だとしても普通の金持ちは、人を招待するのにこんなやりかたはしない。
ノックの音。
扉が分厚く立派であることが、響きかたでわかる。
「入れ」
室内から、微かに返事が聴こえた。
覚えのない声。
誰だ?
「失礼します」
コリィの右側から、ザラザラした掠れ声が挨拶をする。
重そうな扉が開かれ、また歩かされる。
甘い匂いが強くなった。
アロマの匂いだ。キャンドルか?
不意に両側から、肩を強く引かれた。
ひっくり返るかと肝を冷やしたが、すぐに尻が、硬いものにのった。
木製の椅子に座らされたようだ。
頑丈そうな、勢いのままに腰掛けても、びくともしない椅子。
やはり、金持ちの部屋だな。
「それを、外してやれ」
すぐ目の前から、さっき扉の外で聞いた声が命じた。
コリィの顔から、頭陀袋が引き剥がされた。
「顔は、動かすなよ」
透かさず、また同じ声が命じる。
部下にではなく、コリィへの命令だった。
周りにいる誰の顔も見るなと言っているようだ。
ならなぜ、目隠し代わりの袋を外す?
疑問は口にせず、コリィは黙って頷いた。
コリィを拉致して連れてきた掠れ声の男とは種類が違うが、部屋のなかで待っていたこの男も間違いなく、〈狂人〉に属するタイプだった。
コリィの背中を冷汗が伝う。
「君が、〈ただのコリィ〉か?」
正面の男の低く威厳のある声。まともそうに聴こえる声。
強いライトの光が目を突き、コリィは眩しさで目を細めた。
目の前に立つ、コリィを拉致した男たちの主人らしき者の影が床にのびる。
「あんたは誰だ?」
思わず反問していた。
こんなことをされる覚えはない。
まずは理由を知りたかった。
「もう一度、私の質問をはぐらかしたら、指を切り落とす」
正面の男が、逆光の中で穏やかに言った。
その言葉と同時にコリィの背後に控えていた男が、コリィの右手の親指を握る。
バチンと、飛び出しナイフのバネ音が聞こえた。
親指の根もとに冷たい金属が押し付けられ、チクリと刃物の痛みを感じた。
「君はもう新聞記者ではないのだろう? だったら今後、ペンが握れなくなっても不便はないかね?」
笑みを含んだ、屋敷の主人の声。
そう、屋敷だ。
この一室を見ただけで、ここが大屋敷であることは想像ができた。
問題は、どうやって財をなしたのかだった。
その足もとを掘り返せば、どれほどの遺体が出てくるのか。
「わかった、やめてくれ!」
慌てて従う様は半分演技で、のこりの半分は相手に動かされていた。
ハッタリも交渉も通用しない相手。
やれと言われれば、命乞いでもなんでもする必要のある相手。
自分のおかれた状況に絶望し、今さらながら観念する。
親指に感じる冷たい痛みは、微塵も緩まない。
少しずつ切断しようとしているような、力の入れかただった。
なぜだと考え、まだ自分が相手の質問に答えていないことに思い至る。
「そうだ、いや、そうです、俺がコリィです!」
声を裏返しながら急いで答えた。
「よろしい」
勝ち誇るような満足げな声とともに、握られていた親指が解放された。
右手に、ぬるりとした感触。
緊張でかいた手汗と、親指のつけ根からの出血だった。
少し、切られた。
泣いて謝りたくなるほどに、恐ろしかった。
だが泣くことは、この場面では反抗を意味する。
せっかくのこった親指が、また危険に晒されてしまう。
「君は、人捜しが得意らしいな」
「え? あ、いや、はい!」
「どっちだ?」
「得意です!」
「そうか、だが君は、探偵とは違うな?」
「はい、俺は〈都市伝説〉の専門です!」
「ほう」
男が少し笑った。
馬鹿にしてという印象ではなかった。
興味を持ったという、肯定的な印象の声だった。
「〈都市伝説〉とは噂話のことだろう? 本当に捜し出せるのかね?」
「はい、まぁ、実在する奴なら……」
「そうか」
男が一歩、二歩と近付いてくる。
ぬっとなにかが、コリィの眼前に差し出される。
拳銃だった。
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心臓がビクリと跳ねる。
怯えた表情を、少しあげて止める。
これ以上目線をあげると、相手の顔を見てしまう。
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言われている意味が、わからなかった。
適当に答えそうになるのを、つんのめるように止める。
相手は構わず、「君は」と続けた。
「〈ヒーロー〉を、知っているかね?」
コリィは耳を疑った。
確かに、世界中に、ヒーローの都市伝説は存在する。
ヒーローと言えば聞こえはいいが、ほとんどの者は自警団や職業暗殺者であり、悪人だと勝手に決めた相手を狩り殺す異常者、快楽殺人者をさす場合も多い。
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賛否が拮抗し、伝説に尾鰭がつく。
コリィは呆れ顔を表に出さないよう、表情を殺した。
「ヒーローだよ、知らないかね?」
短気にも思えた光のなかの男が、拳銃を差し出したまま朗らかに問う。
「いや、まぁ、映画のヒーローなんかとは違う『自称』なら、何人か、噂くらいは聞いていますが」
「それだよ。ただしその噂のなかでも、本物は少ないだろうがね」
コリィは首を傾げるのを我慢しながら、また「はい」と応えた。
「捜せるかね?」
コリィは意を決して、質問を返してみることにした。
「具体的には、誰を捜すんです?」
一瞬の沈黙。
コリィの背に湧き出る冷や汗が量を増し、伝い落ちてパンツのゴムを濡らす。
ズキズキと痛む右手の親指を、強く握り込む。
正面の男は、「そうだな」と今回は質問に応じた。
「具体的な捜査対象については、あとで連絡しよう」
コリィがそっと、安堵の息をもらす。
小便がしたいと思った。このままではいつか漏れてしまう。
「ほら、これを持っていきたまえ」
顔の前に差し出された拳銃が、フラフラと動かされる。
「すみません、手が……」
コリィが苦笑して言うと、男は声を上げて笑った。
「そうだったな、すまん」と、コリィの一張羅のコートの内ポケットに拳銃を押し込む。
「弾は後で、君のアパートのポストに入れておくよ」
俺のアパートまで来る気か?
住所が知られている可能性は考えていたが、やはり驚いてしまう。
つい顔をあげて、強い光に目を細める。
「私の顔を見たら、目を潰す」
男の声音が威嚇を含み、コリィは目を瞑って再び顔を床に向けた。
俯くコリィの脳天に顔を寄せて、男が低い声で囁く。
「報酬と捜査費用も言い値で渡す。君がこちらを後悔させなければ、こちらも君が後悔するような目にはあわせない」
コリィは目を閉じたまま、何度も深く頷いた。
「では、しっかり頼むよ、〈ただのコリィ〉」
その言葉と同時に、コリィの両肩が背後から掴まれた。
椅子から引き起こされ、頭陀袋を被せられる。
「私のことは〈ケン〉と、呼んでくれ」
バタバタと連れ去られるコリィに向け、男が最後に名乗った。
部屋から連れ出され、扉が閉まる音を聞く。
屋敷の外まで連行され、バンの扉が開く音を聞き、乱暴に背を押されて車内へと押し込められる。
エンジン音。急発進。
スピードで、背中が座席に押し付けられる。
しばらく走ったところで、隣席から飛び出しナイフの操作音が聞こえた。
首根っこを掴まれ、上体をぐいと折りたたまれる。
コリィの手首が握られ、強く引かれる。
ナイフの刃が手首に当たる。
「おい、なんだよ!」
コリィが泣きそうな声で叫ぶ。
「うるせぇ、じっとしてろ! 手元が狂うだろが!」
ザラザラとした声が怒鳴りつける。
コリィはそれで、彼らが腕の拘束を解こうとしているのだと察した。
小指と手首のバンドが、ナイフで切断された。
自由にはなったが、肩が痛くてまだ腕は動かせなかった。
ゆっくりと、背中に回されていた両腕を前に戻す。
痛みで「うっ」と、声がもれた。
車が急停止し、さっそく手でバランスをとる。
スライドドアが開く音。
なんの警告もなく、投げ飛ばすように車外に放り出された。
袋を被されたままだったので、うまく着地ができずに転倒した。
硬いアスファルトの地面を、頭を抱えて転がった。
膝と踝と、手の甲を強く打った。
スライドドアが閉まる音を靡かせて、バンが猛スピードで走り去る。
タイヤを鳴らしながら、急ハンドルでどこかへ曲がっていく音が響く。
コリィは地べたに寝転がったまま、しばらく動けなかった。
静かだが、さっきの大屋敷とは空気の臭いが違った。
いつもの裏道の、下品な臭いだ。
ゆっくりと、頭陀袋を頭から外す。
やはり、見慣れたビル街の裏通りだった。
ゴミが散乱し、饐えた悪臭を空気に塗り付けている。
酒の瓶や缶が、そこらじゅうに転がっている。
ビルの隙間から、表通りを行き交う人影が見えた。
地面に掌をついて、立ち上がる。
コートについた砂埃を払うと、親指の付け根がチクリと痛んだ。
流れ出た血が掌を赤黒く汚し、固まっていた。
傷口からは、新しい血液がジクジクと滲み出ている。
砂を払ったコートの裾に、その血汚れがついていた。
薄茶色の生地についた赤黒い血は、パンとケチャップを想起させた。
連れ去られたときの自分が、朝食を摂ろうとしていたことを思い出す。
この裏道の先にある、行きつけの軽食屋にいく途中だった。
「朝っぱらから、なんなんだよ」
コリィはようやく思うように口から文句を吐き、舌打ちをした。
コートのポケットに両手を突っ込み、軽食屋へと足を動かす
タバコを取り出そうと内ポケットに手を入れると、硬いものが指先に触れた。
引っ張り出し、懐に隠すようにしてそれを見る。
コルトの1911の武骨な姿が黒光りしていた。
最近の銃と比べると部品が多く手入れも面倒だが、愛用している愛好家は多い。
「おいおいおい……」
コリィは銃を懐に戻し、銃の重みで潰れたタバコを取り出した。
途中で折れたタバコを千切って、先端を投げ捨てる。
短くなったタバコをくわえ、両掌で風を防ぎながら、マッチで火をつけた。
煙を深く吸い込むと、ようやく心が落ち着いた。
何者でもない〈ただのコリィ〉である自分。
その孤独が、身に沁みた。
こんな、なんでもない日の朝に突然殺されても、誰もそれを気にしないのだ。
すぐそこに、目指す軽食屋が見えた。
無様に命乞いをした後で食うメシは、さぞうまかろうと自嘲する。
食うことも命乞いも、生きようとする行為だからだ。
「けっ」
コリィは顔を歪め、また肺に煙を吸い込んだ。
口中の血の味が煙の味に紛れ、少し弱まった気がした。
別れ際に言われた、「ケンと呼んでくれ」というあの大屋敷の主人の低い声が、耳の奥に詰まった耳垢のように、こびりついて取れない。
あいつも〈ただのケン〉かと、皮肉な笑みをもらす。
ケンは、捜してほしい相手を「ヒーロー」だと言っていた。
くだらねぇなとまた舌打ちをし、頭を振る。
メシを食う間くらいは、この糞のような悪夢を忘れようと決めて、軽食屋の扉を開けた。
──つづく。
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