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第一話『一人目』
しおりを挟む街灯の明かりも届かない闇夜の墓地にひとけはなかった。
奥へ行くほど草木は高くなり、霧は濃くなってゆく。
足を引きずるような、だらしない靴音が墓石に寂しく木霊する。
湿った臭気が、なにかの気配のように纏い付く。
たまんねぇなオイ。
男はタバコを銜え、マッチを擦って火をつけた。
肺の奥の奥まで煙を吸い込み勢いよく吐き出すと、甘い煙が孤独と混ざり、服の繊維まで染み込んでくる死臭を誤魔化してくれるような気がした。
マッチを振って風に揺れる火を殺し、ぽいと足元に投げ捨てる。
夜露に濡れた雑草が火薬の余熱を受け止め、じゅっと音をたてる。
濡れた石畳の奏でる単調な靴音のリズムを乱す微音は、現実離れした風景を一瞬だけ緩和した。
長い年月、雨風と靴底に打たれるうちに滑らかになった石畳は滑りやすかった。
くわえタバコで煙を吐きながら、首を回してぐるりと見渡す。
景色は変わらない。背後の出口が冥闇に呑まれたくらいか。
「おかしいな」
男は独りごちて、石畳の歩道をさらに奥へと進む。
トレンチコートが夜露に濡れて、水玉を滑らせる。
足もとから徐々に奪われてゆく体温は、死者の誘いか。
男は中折れ帽を目深にかぶり、コートの襟を立てた。
尻ぺたの温度はもう、サーモグラフで見れば青より紺に近いだろう。
「ほんとにいんのかよ」
男が墓地の奥を苦い顔で睨みながら呟く。
人を捜している。ここに人がいればだが。
進むほど、歩道の石畳の隙間に生えた雑草が濃くなってゆくのが不安を駆り立てる。
無駄足ならまだいいと。
野性味を増した草は丈もあり、気を付けないと足をとられそうだった。
男は煙を吐き出しながら、タバコをイライラと投げ捨てる。
タバコは誰かの墓に当たり、赤い光を散らばしながら地に落ちた。
トレンチコートのポケットに、乱暴に両手を突っこむ。
血の巡りが悪い。濡れたコートのポケットに、手の悴みを緩和する力はない。
失われていく体温が、背筋を芯から震わせた。
墓地の奥地へいくほどに、草木が樹木へと不気味に変貌していく。
これじゃジャングルだと、手入れのなさに呆れてツバを吐く。
闇がどんどん深くなり、影との区別がつきにくくなる。
御伽噺の魔女の森に迷いこんでいるようだった。
ふと耳を打つ、自分以外の誰かの呼吸音。
男は「ミスター・ボウか?」と、音のほうに声をかけた。
墓標の林立している辺りから、誰かの荒い呼吸音と物音が聞こえてくる。
呼びかけへの返事はなかった。
男は石畳の歩道から外れて、荒れた墓群のなかへと入って行った。
土が雨を含み、泥濘んでいた。
音のするほうから漂う嫌な臭いが、記憶の扉をこじ開ける。
こりゃ、あの〈死体農場〉で嗅いだのと同じ臭いだ。
人の軀が赤黒く膨らんでいくのを観察する、死を育てるための実験場。
男の新聞記者時代の仕事のひとつだった。
新聞といっても、三流のゴシップ誌だ。
嘘臭いバカバカしい噂話を求めては、あちこちを駆け回っていた。
担当記事のために、某有名大学の法医人類学の研究室を取材した。
死んだ人間が、ありとあらゆる条件下で、どのように腐敗していくのかを比較、研究している施設があると聞き、〈実在する都市伝説〉として面白おかしく記事を書くためだった。
男の関わった仕事のなかでは、これでもまだ、まともな部類だった。
普段はUFOだのUMAだの、嘘っぱちの記事ばかりを書かされていた。
毎日がうんざりの連続だったが、向き不向きで言えば、向いていたのだろう。
知識も、人脈も、得るものは多かった。
おかげでフリーランスになった今でも、こんな仕事で飯を食えている。
くだらなさは変わらないが、貰える銭の桁が変わった。
簡単に言えば、人捜しが男の仕事だった。
男の名はコリィ。
ファーストもセカンドもない〈ただのコリィ〉が、男の通り名だった。
何者でもない、何者にもなれない。
いなくてもいい存在という意味である。
他の名で呼ばれることも、呼ばせることもなかった。
男はその通り名を、存外、気に入っていた。
自分には似合いの呼びかただと思っていた。
コリィは泥濘に足をとられながらも、慎重に音のするほうへと進んだ。
荒れ放題の疎らな墓石群の奥に、身の丈をこえる草木が壁のように立ち塞がっている。
コリィは生い茂る青臭い植物を掻き分けて、頭を突っ込んだ。
「うっ」「ううっ」
二つの呻き声が重なり、周囲の霧の流れを乱す。
声の一つは、コリィ自身のものだった。
死臭に加え、眼に映った異常極まりない光景に吐き気をもよおしたのだ。
墓石の前の地面が、掘り起こされていた。
女の名が刻まれた墓。
その墓標には今、使われたばかりと見える、泥のついたスコップが立て掛けられていた。
土中から引きずり出された棺桶の蓋が、こじ開けられていた。
十代後半から、二十代前半くらいであろうか。
若くして生命を失った、女の死体がブランブランと揺れていた。
金髪の、長い髪の女だった。
人形とも違う、屍人ならではの無表情。
血の気を失い、バクテリアのエサとなっている肉の色。
女は薄汚れた、ピンクのドレスを纏っていた。
ひだのついたスカートが捲り上げられている。
頭頂部まで禿げ上がった長い黒髪を靡かせる小山のような大男の丸い背が、女の屍体を両腕で包み込み、快感で震えていた。
屍姦だ。
大男の黒いズボンは膝までずり下げられており、縮れ毛に覆われた汚い尻が抽挿にあわせて弛んだ脂肪を震わせていた。
その絶頂の呻き声が、コリィの空嘔と重なったのだ。
「イグ・マー・ボウ」
コリィの声は、屍体を犯す変態の尻肉以上に震えていた。
過去には、猟奇殺人犯の取材をしたこともあった。
ストリートギャングどもや、ワンパーセンターを名乗る銃を持ったバイカーにも取材をした。
そのときにも恐怖心は覚えたが、今回のこれは、別物だった。
暴力馬鹿どもや快楽殺人者たちとは質の違う、圧倒的な異常性が、コリィを怯えさせていた。
これが、〈モンスター・グレイブ〉の正体かよ。
コリィは緊張して、ねばついた、個体のような唾を飲み下した。
道化の仮面を被り、真夜中に墓地やその周辺に近付く悪党どもを惨殺するという噂の、都市伝説的なダークヒーローだ。
彼の特殊能力〈死体操作〉には、この悪趣味な性癖が必要な下準備らしい。
彼の精液は〈ライブ・コントローラー〉と呼ばれる。
彼と関係をもった死体は、彼の僕となるのだ。
墓場の王〈モンスター・グレイブ〉。
コリィは鼻を打つ悪臭も忘れ、その大きな背中に見入っていた。
──つづく。
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