観月異能奇譚

千歳叶

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第五章 朧月

帰り道、再びの対峙

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 街灯の少ない道を歩く。抱えたもやつきの正体を考えながらも、きっとわたしが足を踏み入れることはないのだろうと察していた。
 わたしに綾の苦しみはわからない。そして、綾本人もわたしに踏み入ってほしくはないのだろう。

「……どうにもできない、か」
「大きな独り言だな」

 聞こえるはずのない声が聞こえた。ヒュッと息を呑み、声のした方向へ顔を向ける。
 そこに立っていたのは――かつて〈九十九月〉に侵入してきたあの男だった。もう一人の自分がガンガンと警鐘を鳴らす。

「ッ、あんた、どうしてここに……」

 どもりながら問いかけると、男は感情の読み取れない顔で「散歩だ」と答えた。真偽はともあれふざけた回答である。

「俺のことはどうでもいい。お前、七海に会ったんだろう」
「七海?」

 馴染みのない名前に首を傾げ、そして思い出す。確かあの研究員は「不知火七海」という名前だったはずだ。こいつも不知火と面識があったのか。
 男は目を瞬かせるわたしを凝視してくる。右目しか露わになっていないというのに鬱陶しい視線だ。羽虫を追い払うように手を振ってみるが、当然そんなもので消えるわけがない。

「そこには誰もいないぞ」
「あんたの視線が鬱陶しかっただけ。人がいないのは見ればわかる」
「ならいい」

 何が「ならいい」だ、わたしは何一つよくないのだが。そう反論することも億劫になり、ため息だけで応えた。

「食事は済ませたか」
「……急に何。あんたには関係ない」
「研究所について知りたいんだろう、食事がてら情報をやる」

 適当に聞き流そうとしていたが、その一言で動きを止める。
 この男は不知火と関わりがあるらしいし、研究員側の情報も得られるのはメリットだろう。数秒の思案で決断した。

「わかった。あんたの奢りだよね?」
「構わない。好きに食ってくれ」

 嫌がらせのつもりで放った言葉は華麗に受け入れられてしまう。男はさっと近くの飲食店に足を踏み入れた。チェーン展開している定食屋らしい。

「ご飯……おかわり自由……!」
「そんなことで感動するな」

 冷たくあしらうこの男に、わたしの感動は理解できないだろう。行きつけの店は「ご飯おかわり自由」を謳っているはずなのに、わたしがおかわりすると嫌そうな顔で見てくるのだ。解せない。
 何はともあれまずは注文しなければ。わたしはアジフライ定食を注文した。男が頼んだのは野菜炒め定食、ご飯少なめ。

「ふざけてる? そんな量で足りるわけないでしょ」
「足りる。これが一般的な『一人前の分量』だ」

 本題には入らないまま、わたしたちはお互いの食事量に文句をつけ合う。そんなやり取りにも飽きてきた頃、ようやく男が「それで」と口火を切った。

「何が知りたい? 内容によるが答えてやろう」
「全部……って言いたいところだけど。まずは不知火とかいう研究員の目的を教えて」

 不知火が綾に言及した理由ももちろん知りたいが、正面の男と交流がある理由も知りたい。……そして、その上でこいつがわたしに情報を与えようとする動機も。
 かたり。箸を置く音がやけに大きく聞こえた。一挙手一投足を見逃すまいと男を凝視していると、男はゆっくりと口を開く。

「七海は――研究所から逃げ出そうとしている」
「は……?」

 耳を疑った。研究員が職場から「逃げ出す」という状況が想像できなかったのだ。
 普通に雇われているだけなら、辞表やら何やらを叩きつけてやれば辞められるだろうに。わざわざ逃げなければならない理由があるのか。
 息を詰めて続けられるであろう言葉を待つ。しかし、男は説明を終えたとでも言いたげに食事を再開した。

「ちょっと、一言で説明終わらせないでよ」
「何がだ。説明しただろう」
「どうして逃げ出したがってるのかとか、他にもあるでしょ。理由によっては敵じゃなくなるかもしれないんだから」

 わたしの反論を嘆息一つで受け止め、男は改めて口を開く。そして「他言無用だが」と前置きした。

「あいつ自身も研究対象だ。常に監視され、自由に息をすることさえままならない」
「そんな……」

 言葉を失う。悪逆非道な研究を繰り返していると思っていたあの女が、実は綾と同じ「研究対象」だった、なんて。
 口の開閉を繰り返すわたしを見つめ、男がかすかな声を漏らす。吐き出したであろう言葉は周囲の雑音にかき消され、わたしの耳には届かなかった。

「お前は、あいつが誰かの名前を呼んだのを聞いたか?」
「……聞いてない。わたしのことも他の人のことも、変な呼び方してた」
「だろうな。これは俺の推測だが、そのときの呼び方も固有名詞ではなかっただろう」

 そこまで予想できるほど親しいのか。内心で戸惑いながら頷く。男は表情を動かすことなく続ける。

「七海は番号で管理されてきた。そのせいか、不知火七海自分の名前を『自分の呼称』と認識できていない。他人の名前も、覚えやすい名称に変換しないと記憶できないようだ」
「……それで? あんたはわたしに何を期待してるの?」

 淡々と続く話を遮る。わたしの質問に答えるだけなら、不知火が他人の名前を呼ばない理由を説明する必要はないはずだ。
 結論を急かすわたしに、男は大きなため息をついて「端的に言うなら」と切り出す。

「あの研究所を叩き潰してほしい。お前にも利があるし、お前なら可能なはずだ」
「わたしなら……って、何を根拠に――」
「最終的な決断はお前に任せる。これ以上俺は関知しないから、好きなようにやってくれ」

 じゃあな。男は自分の言いたいことだけをわたしに押し付け、伝票を手にして去っていってしまった。

「……何だったの、あいつ……」

 呆然としながらも、わたしは茶碗を持って立ち上がる。会話が不完全燃焼に終わった以上、せめて気の済むまで食べてやろう。

「あ、あの、お客様……」

 突如、店員に声をかけられる。顔を向けると、申し訳なさそうな口ぶりで「先ほどご飯のおかわりがなくなってしまい……」と告げられた。
 帰るしかないか。わたしは渋々店を後にした。
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