75 / 104
第五章 朧月
未解決、脅威は続く
しおりを挟む
「……何、あんた」
思わず声が漏れる。小さな呟きだったはずなのに、女は的確にキャッチしてきた。おや、そんなわざとらしい声と共に目が丸くなる。
「君は……あぁ、今は自己紹介してくれなくて構わないさ。この商談が終わったら話をしようじゃないか」
「別に話すことなんてないけど」
わたしの反論には耳を貸さず、女は「商談」とやらを始めた。……そういえば、こいつは異能研究所の研究員だと言っていたような気がする。〈九十九月〉の四大幹部である月子と会わせてはいけないのではないだろうか。
危惧するわたしに気づいているのかはわからないが、月子は困ったような笑みを浮かべた。そして正輝に何かを伝え、こちらへ目配せする。
彼女の意図はわからないが、正輝がこちらに近づいてきた。彼から話を聞けばいいのだろうか。
「瑠璃、音島さん。おばあ様が『外で待っていてほしい』と言っていたんだが」
「わかった」
「そうですね。わたしたちがここにいても邪魔なだけでしょうし……」
緩慢なしぐさで顔を見合わせ、わたしたちは退室する。残された恭介が裏切り者を見るような顔をしていた。
大扉が閉ざされる。重苦しい雰囲気と集団から解放され、わたしたちは誰からともなく深く息をついた。
「はぁ、緊張した……! いつ気絶するかわかりませんでしたよ!」
「言うなそれを。俺だって足が震えて大変だったんだから」
やいやいと言い合う瑠璃と正輝の横で、わたしはぐるぐると肩を回す。この短い時間でかなり凝り固まったような気がする。
組織の内輪もめにわたしを巻き込まないでほしい。誰に言うでもなく呟く。その声が聞こえたのか、二人はぴたりと口を閉ざしてしまった。当然、すぐさま沈黙が訪れる。
一分、三分、五分。それぞれの呼吸音さえも明瞭に聞き取れるような静けさの中、わたしたちは大扉が開け放たれるのを待つ。――そして、とうとう。
「や、っと終わった……!」
疲労困憊といった様子の恭介がよろよろと姿を現した。何なのあの人たち、と不満を垂れる声まで聞こえてくる。
「お疲れさまです。……そんなに大変だったんですか?」
「そりゃあもう、ね。あの研究員さんと柊さんが揉めに揉めて……」
ホントしんどい。恭介は文句を吐き出すとペットボトルの水を飲み干す。ふぅ、と息をつき、そういえば、と呟いた。
「その研究員さんが音島さんと話したがってたな」
「え、帰っていい?」
「今の話の流れでどうして『帰る』という選択肢が……」
正輝が困惑したような声を発する。しかし、先ほどの様子を思い出すと不信感しか出てこないのだから仕方ないだろう。げんなりしながら立ち上がろうとした、そのとき。
「君には悪いが、まだ帰らせるわけにはいかないんだ」
先ほどまでこの場にいなかった女の声が耳に届いた。まさか、と思いながらも顔をそちらへ向ける。
噂をすればなんとやら、そこに立っていたのは研究員である女。名前は、確か――。
「……不知火、七海」
「記憶に留めてもらえて光栄だ。……そこの君たち、一度離れていてくれないか? 私は彼女と秘密の話をするのでね」
女――不知火は勝手極まりない言動で瑠璃たち三人を遠くへ追いやり、わざとらしく咳払いをした。
「さて、さっそくだが本題に入らせてもらおうか」
「話すならさっさと話して。もう帰りたいんだけど」
面倒、という感情を隠さずに吐き捨てる。不知火の愉快そうな笑い声さえ腹立たしいが、怒りをぐっと堪えて続きの言葉を待つことにした。
「模倣ちゃんは思いのほか短気のようだね、失敬失敬」
「……何その『模倣ちゃん』って」
「あぁ、気にしないでくれ。私は人の名を記憶するのが苦手でね」
不知火は笑いながら手をひらひらと振る。まさかわたしのことなのだろうか。
文句の一つでもつけてやりたいが、今はそれどころではない。黙って続きを促した。
「とはいえ、そこまで深刻な話でもないんだ。ただ、研究所は君の一挙手一投足に注目している。言動には気をつけた方がいいとだけ忠告させてもらうよ」
「丁寧にどうも。……でも、それだけのために話しかけてきたとは思えないんだけど」
「ははは、鋭いな。君には伝言を頼みたくてね」
「……相手と内容による」
警戒を解くことなく返すと、不知火は「それはそうだろうな」と苦笑する。
数秒後、彼女は笑みを消した。真剣な面持ちで告げられたのは――「あの子は元気にしているかな」という一言だけ。
「あの子?」
思わず目を丸くして聞き返す。不知火は表情を変えずに「モルモットちゃんのことさ」と返してきた。
「わたしに動物の知り合いなんかいないけど」
「名前は……確か、八辻綾、だったはずだ。知り合いだろう?」
「綾……は知ってるけど、あんたと何の繋がりが――」
問いかけようとした言葉が途中で遮られる。不知火は一瞬悲しげな目をしたものの、すぐに元のわざとらしい笑みを浮かべた。君には関係のない縁があってね、などと宣いながら。
「元気ならいいのだが、あの子は身体が弱いからね。少し心配しているんだよ」
「……ふーん。まぁ、心配してるってことくらいなら伝えてもいいけど」
「感謝するよ。さて、じゃあ私は研究所へ戻るとしようか。またね、模倣ちゃん」
不知火はそう言うと、わたしの返事を待つことなく立ち去っていった。残されたのは、あっけにとられるわたしと……遠くで様子を窺っていた瑠璃たち三人だけ。おずおずと近づいてくる彼らに、わたしは肩をすくめることしかできなかった。
思わず声が漏れる。小さな呟きだったはずなのに、女は的確にキャッチしてきた。おや、そんなわざとらしい声と共に目が丸くなる。
「君は……あぁ、今は自己紹介してくれなくて構わないさ。この商談が終わったら話をしようじゃないか」
「別に話すことなんてないけど」
わたしの反論には耳を貸さず、女は「商談」とやらを始めた。……そういえば、こいつは異能研究所の研究員だと言っていたような気がする。〈九十九月〉の四大幹部である月子と会わせてはいけないのではないだろうか。
危惧するわたしに気づいているのかはわからないが、月子は困ったような笑みを浮かべた。そして正輝に何かを伝え、こちらへ目配せする。
彼女の意図はわからないが、正輝がこちらに近づいてきた。彼から話を聞けばいいのだろうか。
「瑠璃、音島さん。おばあ様が『外で待っていてほしい』と言っていたんだが」
「わかった」
「そうですね。わたしたちがここにいても邪魔なだけでしょうし……」
緩慢なしぐさで顔を見合わせ、わたしたちは退室する。残された恭介が裏切り者を見るような顔をしていた。
大扉が閉ざされる。重苦しい雰囲気と集団から解放され、わたしたちは誰からともなく深く息をついた。
「はぁ、緊張した……! いつ気絶するかわかりませんでしたよ!」
「言うなそれを。俺だって足が震えて大変だったんだから」
やいやいと言い合う瑠璃と正輝の横で、わたしはぐるぐると肩を回す。この短い時間でかなり凝り固まったような気がする。
組織の内輪もめにわたしを巻き込まないでほしい。誰に言うでもなく呟く。その声が聞こえたのか、二人はぴたりと口を閉ざしてしまった。当然、すぐさま沈黙が訪れる。
一分、三分、五分。それぞれの呼吸音さえも明瞭に聞き取れるような静けさの中、わたしたちは大扉が開け放たれるのを待つ。――そして、とうとう。
「や、っと終わった……!」
疲労困憊といった様子の恭介がよろよろと姿を現した。何なのあの人たち、と不満を垂れる声まで聞こえてくる。
「お疲れさまです。……そんなに大変だったんですか?」
「そりゃあもう、ね。あの研究員さんと柊さんが揉めに揉めて……」
ホントしんどい。恭介は文句を吐き出すとペットボトルの水を飲み干す。ふぅ、と息をつき、そういえば、と呟いた。
「その研究員さんが音島さんと話したがってたな」
「え、帰っていい?」
「今の話の流れでどうして『帰る』という選択肢が……」
正輝が困惑したような声を発する。しかし、先ほどの様子を思い出すと不信感しか出てこないのだから仕方ないだろう。げんなりしながら立ち上がろうとした、そのとき。
「君には悪いが、まだ帰らせるわけにはいかないんだ」
先ほどまでこの場にいなかった女の声が耳に届いた。まさか、と思いながらも顔をそちらへ向ける。
噂をすればなんとやら、そこに立っていたのは研究員である女。名前は、確か――。
「……不知火、七海」
「記憶に留めてもらえて光栄だ。……そこの君たち、一度離れていてくれないか? 私は彼女と秘密の話をするのでね」
女――不知火は勝手極まりない言動で瑠璃たち三人を遠くへ追いやり、わざとらしく咳払いをした。
「さて、さっそくだが本題に入らせてもらおうか」
「話すならさっさと話して。もう帰りたいんだけど」
面倒、という感情を隠さずに吐き捨てる。不知火の愉快そうな笑い声さえ腹立たしいが、怒りをぐっと堪えて続きの言葉を待つことにした。
「模倣ちゃんは思いのほか短気のようだね、失敬失敬」
「……何その『模倣ちゃん』って」
「あぁ、気にしないでくれ。私は人の名を記憶するのが苦手でね」
不知火は笑いながら手をひらひらと振る。まさかわたしのことなのだろうか。
文句の一つでもつけてやりたいが、今はそれどころではない。黙って続きを促した。
「とはいえ、そこまで深刻な話でもないんだ。ただ、研究所は君の一挙手一投足に注目している。言動には気をつけた方がいいとだけ忠告させてもらうよ」
「丁寧にどうも。……でも、それだけのために話しかけてきたとは思えないんだけど」
「ははは、鋭いな。君には伝言を頼みたくてね」
「……相手と内容による」
警戒を解くことなく返すと、不知火は「それはそうだろうな」と苦笑する。
数秒後、彼女は笑みを消した。真剣な面持ちで告げられたのは――「あの子は元気にしているかな」という一言だけ。
「あの子?」
思わず目を丸くして聞き返す。不知火は表情を変えずに「モルモットちゃんのことさ」と返してきた。
「わたしに動物の知り合いなんかいないけど」
「名前は……確か、八辻綾、だったはずだ。知り合いだろう?」
「綾……は知ってるけど、あんたと何の繋がりが――」
問いかけようとした言葉が途中で遮られる。不知火は一瞬悲しげな目をしたものの、すぐに元のわざとらしい笑みを浮かべた。君には関係のない縁があってね、などと宣いながら。
「元気ならいいのだが、あの子は身体が弱いからね。少し心配しているんだよ」
「……ふーん。まぁ、心配してるってことくらいなら伝えてもいいけど」
「感謝するよ。さて、じゃあ私は研究所へ戻るとしようか。またね、模倣ちゃん」
不知火はそう言うと、わたしの返事を待つことなく立ち去っていった。残されたのは、あっけにとられるわたしと……遠くで様子を窺っていた瑠璃たち三人だけ。おずおずと近づいてくる彼らに、わたしは肩をすくめることしかできなかった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~
緑谷めい
恋愛
ドーラは金で買われたも同然の妻だった――
レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。
※ 全10話完結予定

愛されない花嫁はいなくなりました。
豆狸
恋愛
私には以前の記憶がありません。
侍女のジータと川遊びに行ったとき、はしゃぎ過ぎて船から落ちてしまい、水に流されているうちに岩で頭を打って記憶を失ってしまったのです。
……間抜け過ぎて自分が恥ずかしいです。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

生まれ変わっても一緒にはならない
小鳥遊郁
恋愛
カイルとは幼なじみで夫婦になるのだと言われて育った。
十六歳の誕生日にカイルのアパートに訪ねると、カイルは別の女性といた。
カイルにとって私は婚約者ではなく、学費や生活費を援助してもらっている家の娘に過ぎなかった。カイルに無一文でアパートから追い出された私は、家に帰ることもできず寒いアパートの廊下に座り続けた結果、高熱で死んでしまった。
輪廻転生。
私は生まれ変わった。そして十歳の誕生日に、前の人生を思い出す。

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた
しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。
すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。
早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。
この案に王太子の返事は?
王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる