52 / 104
第四章 星月夜
風来坊、台風の目
しおりを挟む
「グラスが割れたのでしょうか? それにしては騒がしいような……」
「牡丹はここにいて。わたしが確かめてくる」
戸惑う牡丹を休憩スペースに残し、わたしは一人ホールへ戻る。そして――現場を目にするまでもなく、異常事態に気がついた。
先ほどまでそよ風がカーテンを揺らしていたのに、ごうごうと唸るような風の音がする。しかし、窓を見ても雨雲どころか白い雲すら見当たらない。誰がどう見ても晴天なのに、荒天でしかありえないような暴風の音がしているのだ。
キッチンにいた蒼は、店にいる客たちは無事だろうか。焦りながら向かった先には。
「こんにちは……って、店長さんじゃないのか。なーんだ」
つまんないの。退屈そうに吐き捨てる青年が宙に浮いていた。手元には風らしきものが塵を纏って渦を巻いている。こいつは招かれざる客だ、一目で理解できた。
「あんたが何の用でこの店に来たのかは知らない。でも営業の邪魔になるなら帰ってもらう」
「残念ながら、そうもいかないんだよ。俺だって来たくて来たわけじゃないんだし」
青年はわたしと視線を合わせることなく続ける。人のいない店内を見回すと、奴は改めて「店長さんはどこ?」と問いかけてきた。
「この状況で素直に答えるほど馬鹿だと思ってる?」
「まさか。今のは最終確認だよ」
小さく笑う目の前の青年。笑みの直後、わたしに向けられた目には――明確な敵意が込められていた。
「礼儀だし、一応名乗っておくね。俺は藤原恭介。術者協会に所属してる術者の一人だよ」
「丁寧にどうも。こっちが名乗る義理はないから、わたしは自己紹介なんてしないけど」
「いいよ、別に。君の情報なんて興味ないし」
どうせ二度と会わないし、ね。青年はそう言うと、こちらに手を伸ばしてくる。その手中には大きく渦を巻く風が。
「言い忘れてたけど、俺って特級風術士だから。その気になれば、君もこの店も、丸ごと切り刻めるんだ」
「ふーん。で? わざわざ念押ししてくるってことは、やる気がないってことでしょ」
「……へぇ、そういうこと言っちゃうんだ」
思ったままを告げると、青年の声色が一変する。……失敗した。こいつ、想像を遙かに上回る――下回る、かもしれないが――レベルで沸点が低い。
後悔しないでよね、そんな言葉と同時に窓ガラスが吹き飛ばされる。飛んできた破片が頬を掠め、ピリッと痛みが走った。
「ほらほら、君も暴れなよ。君が持ってるのが弱っちい術式か無意味な異能かは知らないけどさ、無抵抗なのってつまんないんだよ、ね!」
「……ッ」
狂気、なんてものではない。こいつは正気で、正気のままで、この場所を壊そうとしている。そんな蛮行を許せるわけがなかった。
しかし、どう対処していいかがわからない。迂闊に動けば被害を拡大させてしまうだろう。わたしにとっての最善策、それが見つからないのだ。
迷っている暇はない、それはわかっている。……でも、どうしたら――。
「――あなたの相手は私でしょう」
頭上から声がした。せせらぎのような、この場にふさわしくないほど穏やかでひんやりとした声が。
「やっと店長さんのお出ましか。本当、退屈だったんだからね?」
「なぜ客ですらないあなたをもてなす必要があるのです。私は、あなたを排除しに来ただけですよ」
せせらぎの声が、氷に変わる。いつの間にかわたしの前に立っていた昭人の手には、氷でできた剣のようなものが握られていた。
「今すぐにこの場を去りなさい。そして『特級水術士・篠条昭人は死んだ』と、そう伝えるように」
「へぇ? 死んだってことにしていいんだ」
「はい。私が協会に戻ることはありませんから」
薄氷の上を渡り歩くような、張り詰めた緊張感に支配された会話が続く。お互いが相手の出方を窺っているのか、核心を突く言葉は出てこない。中身のない探り合いはいつまで続くのだろう。そう思った瞬間、青年が笑みを見せた。
「それにしても不思議だなー、協会お抱えの術者になりたくないなんて。こんな店をやってるより――」
「死にますか、今ここで」
室温がぐっと下がり、空気が凍てつく。比喩としての意味もあるが、実際に温度計の示す数値も氷点に近づいていた。
昭人が怒っている。きっと「逆鱗に触れる」とはこういう場面で使うのだろう。そんなことを思わされた。
「ごめんごめん、冗談だって。まぁ戦ってくれるのは大歓迎だけど?」
「人を不愉快にさせないと気が済まないのですか」
氷の剣が、長く鋭く変化していく。周囲の冷気を吸収しているかのように成長するそれを構えながら、昭人は「ところで」と切り出した。
「こちらにいた店員や、客の方々はどちらへ?」
「……さぁ? 覚えてないな、そんなどうでもいいこと」
「そうですか。……ならば」
凍てつく切っ先が、青年の髪を薙ぐ。昭人は絶対零度の目をしたままわたしを呼んだ。
「休憩している店員に裏口から店の外へ出るように伝えてください。そして、しばらく店内に立ち入らないように」
彼を排除したら呼び戻します。その言葉を紡ぎ終えるや否や、昭人が青年に斬りかかった。
「牡丹はここにいて。わたしが確かめてくる」
戸惑う牡丹を休憩スペースに残し、わたしは一人ホールへ戻る。そして――現場を目にするまでもなく、異常事態に気がついた。
先ほどまでそよ風がカーテンを揺らしていたのに、ごうごうと唸るような風の音がする。しかし、窓を見ても雨雲どころか白い雲すら見当たらない。誰がどう見ても晴天なのに、荒天でしかありえないような暴風の音がしているのだ。
キッチンにいた蒼は、店にいる客たちは無事だろうか。焦りながら向かった先には。
「こんにちは……って、店長さんじゃないのか。なーんだ」
つまんないの。退屈そうに吐き捨てる青年が宙に浮いていた。手元には風らしきものが塵を纏って渦を巻いている。こいつは招かれざる客だ、一目で理解できた。
「あんたが何の用でこの店に来たのかは知らない。でも営業の邪魔になるなら帰ってもらう」
「残念ながら、そうもいかないんだよ。俺だって来たくて来たわけじゃないんだし」
青年はわたしと視線を合わせることなく続ける。人のいない店内を見回すと、奴は改めて「店長さんはどこ?」と問いかけてきた。
「この状況で素直に答えるほど馬鹿だと思ってる?」
「まさか。今のは最終確認だよ」
小さく笑う目の前の青年。笑みの直後、わたしに向けられた目には――明確な敵意が込められていた。
「礼儀だし、一応名乗っておくね。俺は藤原恭介。術者協会に所属してる術者の一人だよ」
「丁寧にどうも。こっちが名乗る義理はないから、わたしは自己紹介なんてしないけど」
「いいよ、別に。君の情報なんて興味ないし」
どうせ二度と会わないし、ね。青年はそう言うと、こちらに手を伸ばしてくる。その手中には大きく渦を巻く風が。
「言い忘れてたけど、俺って特級風術士だから。その気になれば、君もこの店も、丸ごと切り刻めるんだ」
「ふーん。で? わざわざ念押ししてくるってことは、やる気がないってことでしょ」
「……へぇ、そういうこと言っちゃうんだ」
思ったままを告げると、青年の声色が一変する。……失敗した。こいつ、想像を遙かに上回る――下回る、かもしれないが――レベルで沸点が低い。
後悔しないでよね、そんな言葉と同時に窓ガラスが吹き飛ばされる。飛んできた破片が頬を掠め、ピリッと痛みが走った。
「ほらほら、君も暴れなよ。君が持ってるのが弱っちい術式か無意味な異能かは知らないけどさ、無抵抗なのってつまんないんだよ、ね!」
「……ッ」
狂気、なんてものではない。こいつは正気で、正気のままで、この場所を壊そうとしている。そんな蛮行を許せるわけがなかった。
しかし、どう対処していいかがわからない。迂闊に動けば被害を拡大させてしまうだろう。わたしにとっての最善策、それが見つからないのだ。
迷っている暇はない、それはわかっている。……でも、どうしたら――。
「――あなたの相手は私でしょう」
頭上から声がした。せせらぎのような、この場にふさわしくないほど穏やかでひんやりとした声が。
「やっと店長さんのお出ましか。本当、退屈だったんだからね?」
「なぜ客ですらないあなたをもてなす必要があるのです。私は、あなたを排除しに来ただけですよ」
せせらぎの声が、氷に変わる。いつの間にかわたしの前に立っていた昭人の手には、氷でできた剣のようなものが握られていた。
「今すぐにこの場を去りなさい。そして『特級水術士・篠条昭人は死んだ』と、そう伝えるように」
「へぇ? 死んだってことにしていいんだ」
「はい。私が協会に戻ることはありませんから」
薄氷の上を渡り歩くような、張り詰めた緊張感に支配された会話が続く。お互いが相手の出方を窺っているのか、核心を突く言葉は出てこない。中身のない探り合いはいつまで続くのだろう。そう思った瞬間、青年が笑みを見せた。
「それにしても不思議だなー、協会お抱えの術者になりたくないなんて。こんな店をやってるより――」
「死にますか、今ここで」
室温がぐっと下がり、空気が凍てつく。比喩としての意味もあるが、実際に温度計の示す数値も氷点に近づいていた。
昭人が怒っている。きっと「逆鱗に触れる」とはこういう場面で使うのだろう。そんなことを思わされた。
「ごめんごめん、冗談だって。まぁ戦ってくれるのは大歓迎だけど?」
「人を不愉快にさせないと気が済まないのですか」
氷の剣が、長く鋭く変化していく。周囲の冷気を吸収しているかのように成長するそれを構えながら、昭人は「ところで」と切り出した。
「こちらにいた店員や、客の方々はどちらへ?」
「……さぁ? 覚えてないな、そんなどうでもいいこと」
「そうですか。……ならば」
凍てつく切っ先が、青年の髪を薙ぐ。昭人は絶対零度の目をしたままわたしを呼んだ。
「休憩している店員に裏口から店の外へ出るように伝えてください。そして、しばらく店内に立ち入らないように」
彼を排除したら呼び戻します。その言葉を紡ぎ終えるや否や、昭人が青年に斬りかかった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~
緑谷めい
恋愛
ドーラは金で買われたも同然の妻だった――
レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。
※ 全10話完結予定

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

愛されない花嫁はいなくなりました。
豆狸
恋愛
私には以前の記憶がありません。
侍女のジータと川遊びに行ったとき、はしゃぎ過ぎて船から落ちてしまい、水に流されているうちに岩で頭を打って記憶を失ってしまったのです。
……間抜け過ぎて自分が恥ずかしいです。

生まれ変わっても一緒にはならない
小鳥遊郁
恋愛
カイルとは幼なじみで夫婦になるのだと言われて育った。
十六歳の誕生日にカイルのアパートに訪ねると、カイルは別の女性といた。
カイルにとって私は婚約者ではなく、学費や生活費を援助してもらっている家の娘に過ぎなかった。カイルに無一文でアパートから追い出された私は、家に帰ることもできず寒いアパートの廊下に座り続けた結果、高熱で死んでしまった。
輪廻転生。
私は生まれ変わった。そして十歳の誕生日に、前の人生を思い出す。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた
しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。
すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。
早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。
この案に王太子の返事は?
王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる