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おもかげをさがして
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親友が死んだ。不慮の事故だった。影から出てきた飲酒運転の車にはねられ、即死だったそうだ。
大好きな親友だった。小学校二年生のときから友だちで、それはきっとこの先もずっと変わらなくて、なにがあっても、ジジイになっても一緒なんだって、そう思っていた。
でも違った。愛楽はあっけなく死んだ。俺を置いて死んだ。葬式は身内だけで行われた静かな葬式だった。愛楽の父親も母親も泣いていて、俺の親も泣いていた。俺は泣けなかった。悲しかったのに、辛かったのに、泣くことは、なかった。
*
「ほな昌平、お母さん仕事行ってくるなー」
「おー、行ってらっしゃい」
「行ってきます! あとあんた、ちゃんと日光は浴びるんやで」
「わかっとるわかっとる」
俺は昌平。高校二年生だ。とはいえ、今は三ヶ月は学校に行っておらず、外に出ることもほぼない。母親はそんな俺をいたく心配し、毎日「日光だけは浴びるように」と言って仕事に行く。
なぜこんなことになってしまったか、と言われれば、理由はひとつしかない。親友の愛楽が、死んだからだ。愛楽が死んでから三ヶ月経ったのに、未だに引きこもっているの? なんて、陰ではからかわれているかもしれない。けれど俺はそのショックから抜け出せず、毎日この家の中で飯を食べ、日光を浴び、寝る。それだけの生活を繰り返している。
愛楽が死んでから五キロは痩せただろう。テレビも見なくなった。誰かの事故死や、飲酒運転のニュースを見ると、気持ち悪くなって吐きそうになるからだ。
「愛楽……」
手の甲をそっと撫でた。遮光カーテンで締め切られた部屋は暗くどんよりと闇の底に沈んでいて、誰もそれを救ってくれることはない。俺はずっとこうだ。三ヶ月間ずっと、俺の心は遮光カーテンに遮られていて、いかなる光も受け付けることはない。ただ愛楽が死んだという事実だけを胸に抱えて生きている。愛楽のことを一分一秒だって忘れたくなくて、ずっと、こうして死にながら生きている。
自分の部屋に戻り、ベッドに座り込んで、顔を伏せる。すこし顔をあげると、姿見に映る自分と目が合った。
「……うわ、くま、すご」
昔愛楽がよく「イケメン要素」と褒めてくれた口元のほくろを撫でる。昔はもう少しきれいだった自分の黒髪も、今はボサボサだ。セットをしなくなったから当たり前だが。姿見に映る自分の目は、どんよりとしたくまが囲っている。ろくに眠れていないのが一発でわかる自分の顔に、思わずため息が出る。
「……どないしたらええねん」
母親に言われたことを思い出して、しぶしぶカーテンを開ける。ここ三ヶ月、外の空気を吸うことはめっきりなくなった。あるとすれば、縁側に出るか、この窓を開けたときくらいだ。本当はカーテンだって開けたくないが、これくらいはしなさいという母親との約束なのだ。
「う、あっつー……」
窓を開けると、直射日光が途端に飛び込んでくる。季節は夏。もう七月だ。その辺の学生たちはそろそろ夏休みだろう。俺は年がら年中夏休みなんだが。
そんな冗談を心の中で軽く叩いて、はは、と笑った。昔、小学生のころ、よく愛楽が俺の家に遊びに来た時も、愛楽は決まってこの窓を開けて、「今日は飛べる」なんて言って、窓から落ちようとして俺が泣きながら止めたことが何度もあった。
俺はずっとこうだ。なにをしていても、なにを食べていても、夢の中ですら、愛楽のことを思い出す。胃と心がムカムカしてきたのを感じて、カーテンを全て閉める。みんみんみんと蝉が鳴いている。うるさくて、耳を塞いだ。
「愛楽……あい、ら……」
ずるりと床に崩れ落ちる。会いたい。愛楽に会いたい。愛楽と一緒にいた時の記憶が、永遠に俺を苦しめる。もう二度と会えないのに。
「会いたい……」
会いたい。愛楽に会いたい。俺は愛楽が好きなんだ。ずっと好きなんだ。友人として、家族として、……男として。
愛楽とそういう関係になりたいと思った。愛楽をずっと好きだった。けれど、この気持ちを言葉にすることはできなかった。言葉にしたらきっと、愛楽を困らせるから。男が男を好きになるなんて、気持ち悪いと思う人もいるだろう。愛楽だってそう思っていたかもしれない。だから言いたくなかった。けれど、ずっと本当は、この気持ちを伝えたかった。
「愛楽……会いたいよ、愛楽」
愛楽が死んでから俺は、泣くことがなくなった。どれだけ悲しくても、涙が出なくなった。涙が枯れるとはよく言うが、俺は本当にそうなってしまったのかもしれない。笑うこともずいぶん減った。俺はきっと、俺が知らないうちに、すべての感情に蓋をしたのだろう。愛楽がいない俺が、笑っていいはずがないと、心のどこかで思い込んでいるのだ。
「……腹、減ったな」
身体が辛くても、心が辛くても、なにがあっても腹は減るのが人間だ。俺は知っている。母親はいつも仕事が朝早いのに俺の朝飯を作ってくれている。本当は食事も億劫だが、母親のそんな気持ちを無碍にするわけはいかないと思う。ただでさえ学校に行けない俺を女手一つで育てさせて、迷惑をかけているのだ。毎日の人間らしい生活と洗い物くらいはしておかないと、母親泣かせにもほどがあるだろう。
「……お、チキンカツ」
机の上には「レンチンしてな」のメモ書きと、チキンカツが置いてあった。コンロの鍋には、味噌汁も入っているらしい。
チキンカツをレンチンして、ひと口かじる。
「ん……うん、うまい」
俺はそそくさとチキンカツと味噌汁を食べ終えると、さっさと洗い物を済ませて、自分の部屋に戻ろうとした。あとでコーヒーでも取りにこよう、そう思って踵を返したその瞬間、不可解な音が聞こえてきた。
「ん?」
それはずるり、だとかべちゃり、みたいな、よくわからない音。一瞬、気のせいだと思った。ついに引きこもりすぎて幻聴が聴こえるようになったのだと。だが違う。音は近づいてきて、確実に俺の家へ迫ってきている。
「なん、なんや、この音…」
ついにその音はどんどん近づいて、家の庭の方から聞こえるようになった。俺は恐怖に塗れて、咄嗟に「愛楽」と口にしたが、愛楽はもういない。それを思い出して、また心がぎゅっとする。
俺は意を決して、掃除機の吸い込み口を握ると、カーテンを思いっきり開け放った。すると、そこには――。
「……う、う、うわぁっ!!!」
なんだかブヨブヨベタベタしていて、真っ黒な、スライムみたいな「なにか」がいた。
「なにか」は、目玉と思しきものが身体にいくつも生えていて、ときおりうごうごと蠢いている。俺は息を呑んだ。こんな生物な地球上にはいない。じゃあこれはなんだ? 人体実験の結果生まれたクリーチャーか? なんにせよ、放っておいたら俺が殺されるかもしれない。俺は窓ガラスを割れんばかりの勢いで開け放つと、その化け物めがけて、思いっきり掃除機を振り下ろさんとした。その時。
「あ、あ、あ、まって、待って待って! 声出るわ!」
「ッ……!? 喋った!?……てか、あれ、その声……」
「待って待って昌平! 待ってや! 俺のこと殺さんといてや~!」
「なん…ッ、愛楽、の、声……?」
背中がぞっとした。一瞬で血が冷え固まる感覚がして、ぐわんと視界が歪んだ。
なぜこの化け物から愛楽の声がする? カタカタと震える手で構えた掃除機は、行き場をなくしている。俺はそっと掃除機を下げると、肩で呼吸をした。
「昌平~!! 会えて嬉しいわあ!! おれ、愛楽や!! こんな姿になってもうだけど、愛楽なんよ!」
「はは……うそや。俺ついに幻覚まで……馬鹿やなあ……」
「幻覚ちゃうよ!! ほら、俺のこと触って。嘘ちゃうよ。おれ、愛楽やで。お前に会いたくて、ここまできたんよ」
「愛楽らしきもの」は、そのブヨブヨの体から、手のかたちをしたなにかを生やす。それを俺の方に伸ばして、俺の手にそれが触れた。
「……な?」
「嘘や……お前みたいなん、地球におるわけない。それに、お前が愛楽な、わけもない」
「……死んでからなあ、お前に会いたい! 会いたい! って、心配でたまらん! って……思っとった気がする。あんまり、記憶ないねんけどな。そしたらおれ、いつの間にか、こんなんなっててん」
「それ」は、笑っているんだかよくわからない目でははっと笑うと、俺に言った。
「会いたかった」
その瞬間、俺は膝から崩れ落ちた、その拍子に膝を強打し立ち上がれない痛みに苛まれたが、どうでもよかった。
その声色は、愛楽、本物にそっくりで、俺は、ああ、こいつは愛楽なんだと、一瞬で理解した。
「はは、は……あはは、あはは! そうか、そうか愛楽。俺も会いたかった、会いたかったでえ……」
「昌平……会えて嬉しいよ。おれも。なあ昌平、お前なんか痩せたんちゃう? ちゃんと飯食っとるやろな?くまもひどいで?」
「え? あー……お前がおらんようになってから、ろくに寝れやんなったからな。そのせいやわ」
「おいおい! お前おれが死んだのにどんだけショック受けとんねん。まあ、無理もないか。おれ、ほんまに会えて嬉しいわ。なあ、ぎゅってしてええ?」
愛楽の手がこちらに伸びる。ふるふると震える身体で、愛楽の身体に触れた。この化け物が本物の愛楽かはわからない。ただ、それでも、愛楽の声に、笑い声に、また出会えたのが嬉しくて、目の前の化け物を、愛楽を、信じたいと思った。
俺は愛楽をぎゅっと抱きしめると、愛楽、愛楽、と名前を呼んだ。愛楽も俺を抱きしめ返し、五分ほど、抱きしめ合うだけの時間を過ごした。愛楽の身体はベタベタしていて頬にくっついたが、それは気にならなかった。それより愛しくて、うれしくて、仕方がなかった。
「な、このあとどうするん?その身体じゃどこにも行けへんやろ」
「あー…うん。どないしよっかな」
「な、俺んち来ればええやん。まだ俺、愛楽と一緒にいたいよ」
「ええん?……じゃあ、お世話になろっかな」
「おう!」
愛楽はゆっくり縁側から這い上がると、家の中に入った。愛楽の身体はずいぶん小さくなってしまって、俺より大きかった愛楽のころから比べると、移動が大変になったようだった。
愛楽はよじのぼって椅子に身体を乗せる。俺は愛楽に水を差し出すと、愛楽はそれを器用に持って口らしきところに運んだ。
俺は愛楽とまた一緒にいられるのが嬉しくて、頬の緩みが止まらなかった。
「愛楽、あいら、会えて嬉しいなあ」
「何回言うねん! 壊れたロボか!」
「だって! ほんまに会えて嬉しいんやもん。あー、もうお前どこにも行かんとってくれ。ずっと俺のそばにおってくれ。な?」
「怖いこと言うな言うな! おれもそうしたいけど、お前がそんなんじゃおれ成仏できへんなあ」
「成仏!? お前、成仏するんか……?」
成仏、という言葉を聞いて、心の奥が一気にざわっとした。成仏。愛楽がまた消えたら、俺はまた一人になる。それだけは嫌だ。ずっとそばにいてほしい。そう思って愛楽の手を握ると、愛楽は「ばか」と笑った。
「たとえばの話やわ! おれがほんまに成仏できるんかもわからへんし。なんかあるまではお前のそばにおるよ」
「そ、そうか……」
ほっと一安心、といった気持ちで席に座り直すと、愛楽は「昌平、なにして遊ぶ?」と俺に聞いた。
「なにして?」
「ひさびさに会えたんや。こうやってお話しすんのも楽しいけど、なんかして遊びたいやろ? どないする?トランプ?」
「トランプて、修学旅行か。……ほな、えーっと、ゲームしようや、ゲーム! スマブロ!」
「ええな! スマブロか! ほな行こ!」
「おん!」
愛楽はブヨブヨ動きながら階段に向かって歩いていく。俺は愛楽の背中を見て、叫び出したい気持ちになった。また愛楽とこうやってゲームができる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
俺は気合いを入れるために頬を軽く叩くと、愛楽の後ろをついていった。
*
「……あー!! ひさびさにこんなゲームしたわ!」
「やっぱ昌平スマブロうまいなあ!! おれ一回も勝てへんかったわ」
「別に普通やろ。……って、おい! 大変や愛楽!」
「なんや!?」
「見ろ!! ゲームしすぎて……朝になってる」
「アホ言うな!! これから暮れるんじゃボケ!!」
ああ、この感じもひさびさだ。愛楽の鋭いツッコミ。俺はこれが大好きだった。楽しくて、嬉しくて、涙が出そうになった。そんなこと言っても、出ないんだけれど。
やっぱり好きだ。大好きだ。そう思った。震える手で愛楽に触れようとした瞬間、がちゃり、とドアの開く音が、ずっと向こうからした。
「あ……。おかん、帰ってきたみたいやな」
「え、まじ!? おれ隠れとくわ。会うわけにいかへんもんな」
「そ、そやな。頼むわ。ほな、またあとで」
「おう!」
ばたばたと下に降りる。すると、仕事帰りの母親が買い物袋を提げて靴を脱ごうとしていた。
「おかえり、おかん」
「ああ、うんありがと。……昌平、なんかええことあった?」
「え?」
「楽しそうやんか。安心したわ、あんたが楽しそうにしてて」
「そ、そうかな……」
まったく意識していなかった。確かに今日は一日、久しぶりに「楽しい」気持ちだった気がする。それもこれも、愛楽のおかげだ。絶対に母には、そのことを言えないけれど。
はは、と適当に笑って頬をかくと、母は「ほんまに」と口走って、ほろほろと涙を流し始めた。
「……え!? おかん、なに泣いとん!!」
「だって、だってあんた、ほんま……ずっと……」
「ああ、ちょ、おかん、泣かんといてや、な……」
声を押し殺して涙を流す母の背をそっとさすると、母は「よかったなあ」と、泣きながら笑った。
俺は「愛楽のおかげやで」なんて言えるはずもなく、ただ、母にここまで心配させていたことを、すこし申し訳なく思うのだった。
*
「……!」
はっと目が覚める。俺は起き抜けに黒髪をがしがしとかくと、辺りを見回した。そして気付く。愛楽が隣にいない。
「愛楽?」
昨日隣で一緒に寝たのに、朝起きたらいないのだ。一瞬で血の気がひく。まさか、消えてしまった?それともあれは、俺の幻覚だった?
「愛楽!」
「おー、昌平、おはよ」
「あ……」
愛楽は、身体を伸ばして窓から景色を見ていた。俺は愛楽がそこにいたことに安堵すると、愛楽が「消えたと思ったんか?」と意地悪げに笑った。
「うるさいわ!……腹、減ったな。顔洗ってくるから、そしたら飯食おや」
「おう!」
俺が顔を洗って帰ってくると、リビングでは愛楽が、身体をのびのびと伸ばしてストレッチらしきことをしていた。
「なにしとん」
「ストレッチや」
「いらんやろ! その身体で!」
「いるねんなあこれが。身体バッキバキやもん。まあ嘘やけど」
「嘘かい! 腹立つな!」
愛楽は思いっきり上に伸びると、それを最後にひとつため息をついた。
俺は愛楽の言うままに母の朝ごはんをあたためてテーブルに並べる。母の料理はおいしい。昔は愛楽と俺でよく母の作った料理を取り合いになって、そのたびに頭を叩かれたものだ。
「今日は……お、ナスの味噌汁も作っとるな。あとしらすの卵焼き」
「しらすの卵焼き!? 聞き逃せへんな。おれの大好物やないか」
「そーいやそやったなあ、お前これほんま好きやったよな」
「大好き大好き!」
身体を大きく振って嬉しさを表現した愛楽は、腕を伸ばして椅子の上に乗った。
「涼子さんの作るしらすの卵焼きがうますぎるからさあ、お袋にも作ってくれや~って、昔言うたんよ。ほいたら大失敗だったねんな。あれショックやったわ~」
「ははっ! そんなこと昔言うとったなあ。しらすの卵焼きお前全部食うていいよ、はい」
「え!! さすがに悪いて、半分こして食べよ」
あかんあかん、と言ったのを聞くと、俺は「そうか?」とだけ返して、ひとつしらすの卵焼きをつまみ食いした。
「てか、愛楽って腹減るんか?」
「お? あー……減らんなあ。眠くもならん。食べることも寝ることもできる、ってだけで、したい! っていう気持ちは……まー、ないかな」
「へ、へえ……。そうかあ。お前、ほんまに人間じゃなくなってしもたんやな。痛みとか、においとかは?」
「えー……痛みはわからんなあ。まだ感じたことないかも。でもにおいはするで! 今もご飯のいいにおいやわ。な、昌平、とりあえず飯食わん?冷めてしまうし」
「そ、そやな」
俺も慌てて椅子に座る。開け放たれた窓から吹き込むそよ風が髪を揺らして、ここちがよかった。
愛楽はブヨブヨの手を合わせていただきますの動作をすると、箸を持とうとした。だが、ブヨブヨの手では箸の操作が難しいらしく、何度もチャレンジしては、机の上からカランカランと乾いた音がした。
「……掴めへん」
「そんな泣きそうな顔すんな! ほれ、俺が食わせたる。口開け」
「ええんか!ありがとうな昌平!」
愛楽はどこにあるのかもわからない口をぱっくりと開けると、俺の差し出した料理に食らいつき、モゴモゴと咀嚼した。まるで怪物の捕食シーンだな。そう思う。
小学生のころはよく、箸の扱いが苦手だった愛楽に、俺が飯を食わせてやったものだ。中学生あたりでさすがにそれも卒業して、二度とやることはないと思っていたが、まさかまたそんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
「やっぱ涼子さんの作る飯はうまいわあ~。沁みる~ってやつやな」
「ははっ、なんやそれ」
「お前の作る飯も好きやったな、そういえば。お前、家庭科の評価いつも5やったもんなあ」
「あー、そういやそやったな」
めっきり学校に行っていないので忘れていたが、俺は家庭科の評価が昔からすこぶるよかった。幼いながらに、死んだ父に残された母のことを考え、よく母の家事手伝いをしていたのだ。そのうちになんだかわからないが家事が得意になり、そのおかげで中学時代の家庭科では、女子からキャーキャー言われていた。
「まあ、今度料理作ったるよ、食べたいもん言うてくれれば」
「おー、嬉しいなあ。俺お前の作る料理大好きなんよ」
「はは、過大評価やわ」
「毎朝お前の飯食えたら幸せなんになあ」
「……は」
お前それは、プロポーズだろ。
咄嗟にそう思う。そしてぶわっと汗が出る。耳が真っ赤になっているのを感じる。まずい、ここでうまく受け流せないと、俺が愛楽を好きなのがバレる。でも、どうやって流したらいいんだ。俺はもう心臓がバクバクで、ガタン!と席を立ち上がる。
「誰がお前のために毎朝飯なんか作るっちゅうねん!! アホ抜かせ!! あー、ごちそうさまでした!」
「おい! 昌平! まだ飯残っとるで!?」
俺はガタッと椅子を立ち上がり、ドタドタと縁側に出る。そうして空を見上げると、あっついわーとか、天気ええなーとか、適当な言葉を並べ立てた。
そのうちに愛楽も俺のあとについて縁側に出てくる。俺はさっきのことがまだ頭をぐるぐる回っていて、愛楽の顔が直視できなかった。
「今のちょいプロポーズっぽかったな。恥ずかしいこと言うてしもたわ」
「うるさいわ! 俺があえて言わんかったのに言うな!」
愛楽の身体をべしっと叩く。ボヨンと跳ね返されて、それにまた腹が立った。
愛楽は昔から、変な冗談みたいなことを言うことが多かった。距離感もバグっているし。俺はいつもそれに翻弄されて、困って、恥ずかしくなった。好きだと思った。
なんだか思い出すとどんどんイライラ恥ずかしくなってきて、クソ! と叫んで頭をがしがしとかく。リングピアスに指が引っかかって、耳たぶが少し痛んだ。
俺が悶々とした気持ちで愛楽の顔を見られないでいると、愛楽は、なにかに気づいたらしく、「あ」と声を出した。
「……なんや?」
「それ、その……まだ、痛むか?」
「は?……あ」
愛楽の方を見ると、愛楽はそのギョロギョロした目で、俺の手の甲を見つめていた。俺はふと手の甲を見ると、ああ、と思い至った。
「もう痛まへんよ。何年前の傷だと思っとんねん」
「……そうか」
*
「いやや、いやや!! やめろ! おい! 離せぇっ!!!」
ガタガタと机を蹴る。窓の外ではじわじわじわじわセミがずっと鳴いていた。俺は抵抗する。抵抗する。抵抗する。力を入れる。逃げようとする。けれどダメだ。ダメだった。
「じゃ、いくぞ」
「おい!! やめてくれ、やめろ、やめろぉ!!」
「せーの!」
じゅうううと皮膚の焼ける音。ゴムの焼けるようなにおい。心臓が飛び出そうなほどの痛み。自然と両目から滝のようにあふれる涙。
夕日が差し込み、校舎の中に生徒はいない。何度叫んでも絶対に助けは来ない。俺は痛みに耐えたまま、嘔吐しそうな気持ちをおさえていた。
俺がいわゆる「いじめ」のターゲットになったのは、中学二年生の時だ。いじめと言っても、なにも明確な理由があるわけじゃない。主犯格いわく「ただ嫌いだから」なんだそうだ。
きっかけは、県外からの転校生だ。その転校生は大柄で、気が強くて、力も強い。いかにもという風貌の男だった。俺のクラスに転校してきて、そいつは一瞬でクラスの大将になった。転校生がいきなり大将だなんてバカバカしい。俺もそう思った。だから、俺はそいつと関わらないようにしていた。そいつを持ち上げるグループの輪にも、入らなかった。
今思えば、それがいけなかったらしい。そいつは自分がクラスメイト全てを支配できなかったことに腹を立て、俺をいじめの標的にした。いじめと言っても、最初は些細な、靴を隠されたりだとか、黒板に悪口を書かれたりだとか、そんな程度だった。俺は別に気にしていなかったけど、毎日そんなことの繰り返しだと、さすがに呆れて、疲れる日が多くなってきて、俺はそのうち学校に行くことが減った。愛楽はそんな俺を強く気遣って、毎日家に訪ねてきてくれたり、ときには学校をサボって、遠くのテーマパークまで連れて行ってくれたこともあった。学校に俺の居場所はなかったけど、愛楽の隣が俺の居場所だった。
けど、あいつは俺が心を折らなかったことによほどムカついたらしい。あいつは腹の中で、ずっと俺にどう「わからせる」かを、考えていたんだ。
それがあの日だった。俺は、その日たまたま学校に行っていて、その日も愛楽と一緒に帰る約束をしていた。
「愛楽、今日俺んち寄ってくやろ?」
「おー、ええな! 涼子さんがええんやったら…」
下駄箱で靴を履き替えながら、俺と愛楽は談笑していた。今日の晩飯の献立はだとか、今日体育で転んで怪我したとか、そんな程度の。
つま先で地面を蹴る。運動靴に履き替え終えたところで、後ろから「おい」と呼びかけられた。
「ん?」
「……お前、三階の空き教室に来い」
声をかけてきたのは、いじめグループの一人だった。黒縁メガネで見るからにひ弱。俺と喧嘩したら多分俺が勝てる。それくらい弱っちい見た目だが、そいつも俺をいじめた人間の一人だった。おおかた、あの転校生に恐れをなして従っているだけだろうが。
「嫌、つったら?」
「……いいから来い!」
「チッ……。愛楽、悪いな。先帰っててくれ。俺ちょい行ってくるわ」
「おい待て! 昌平、行ったらあかん! なにされるかわからんのやぞ!」
愛楽は俺の手首を痛いくらいの力で掴んだ。愛楽の眉はぐしゃぐしゃにしかめられ、俺と帰ろう、と言っているようだった。
「頼む、行かんでくれ」
愛楽の表情に、一瞬足が迷う。本当は俺だって、行きたくなどない。俺が立ち止まっていると、メガネが口を開いた。
「こ、来ないと……、そいつのことも、ボコボコにするって……言っとったぞ!」
「は?おれはそんなもん……」
「……愛楽、やっぱ俺行ってくるわ!おかんには遅くなるって言うといてくれ、ほなな!」
「は? おい待て、昌平!! 行くな!!」
愛楽の手を振り解くと、俺は歩き出す。愛楽は最後まで、俺の姿が見えなくなるまで「行くな」と叫び続けていた。ごめん、愛楽、ごめん。でも、お前が傷つく方が嫌なんだ。あとで何度も謝って、殴られても受け入れよう。だから今だけ、許してくれ。そう思った。
俺がメガネの後ろについて歩いていくと、ほどなくして空き教室の前に着いた。
「は、入れ」
「……」
ガラッと教室の戸を開けると、そこにはあの転校生と、いじめグループの人間がニヤニヤ笑いながら待っていた。
俺はすくむ足を振り切って一歩踏み出すと、「なんの用や」と震える声で聞いた。
「おい、声が震えてるぜ? 怖いのか? まあ安心しろ、殺したりしねえさ」
「……早く帰りたいんやけど」
「まあいいから。焦んなって。そこの椅子に座れよ」
そう言って、あいつは近くの椅子を指差した。俺はガタつく椅子に腰をおろすと、用があるなら早くしろ、と言った。
いじめグループはなにも言わず俺を見つめて薄気味悪い笑みを浮かべている。俺は別に、こいつらの恨みを買うようなことはしていないんだが。と思ったが、中学生のいじめなんて、理由のないものがほとんどだろうと思い直し、諦めのため息をついた。
「……お前、昔身体弱かったんだって? 昔の同級生から聞いたぜ。お前、身体も細いもんなあ。……だからさあ、こんなふうに押さえつけられたら、お前、抵抗できねえよなあ!?」
「なに言っ……」
ガタン!!
その瞬間、傍観していた奴らが一斉に立ち上がり、俺の身体を椅子に押さえつけた。そして一人が、俺の腕を無理やり机の上に投げ出すと、ものすごい力で、俺の手を机に貼り付けた。
「おい! なにすんねん! やめろ、離せ!!」
「まあ静かにしろよ。すぐ終わるって」
「叫んでも愛しの愛楽ちゃんは来おへんで? お前に言われて今頃のこのこ帰っとるんやろな!」
「やめろ!!」
いじめっ子たちは、ははは! と楽しそうに笑うと、俺の身体をよりいっそう強い力で押さえつけた。抵抗するが、俺の細い身体では勝てるはずもなく、俺はうめき声をあげることしかできなかった。
すると、ゆっくりとあいつが立ち上がり、俺に言った。
「泣いて叫べよ」
そう言うとあいつは、制服のポケットからタバコの箱とライターを取り出し、不意にそれを咥え、火をつけた。
ゾッとした。タバコのにおいが教室に充満し、思わず咳き込む。そしてそれと同時に、これから俺の身になにが起こるか、俺の第六感が囁いた。
「じゃ、いくぞ」
「おい!! やめてくれ、やめろ、やめろぉ!!」
「せーの!」
皮膚の焼ける音。ゴムが焼けるにおい。セミの音。カラスの鳴き声。
時が止まった気がした。いや、止まっていたかもしれない。なにが起こったのか、わからなかった。
「……ぐ、あああぁッ!? やめ、ぐ、っ、やめろぉぉ!! 痛い!! 痛いぃぃ!!」
「はははっ!! 俺に従わないからこうなるんだよ…!!」
手の甲に押し付けられたのは、一本のタバコだった。痛い、熱い、痛い、熱い、痛い!! 俺はガタガタガタと机を蹴る。暴れる。声を上げる。けれど離してくれない。誰も俺を離さない。
全員が乾いた笑いをあげる。俺はただ大声をあげて叫ぶことしかできなかった。手のひらをむやみに動かせば、別の場所にタバコが押しつけられ、また強い痛みを伴った。
「やめろぉ……う、ぐ、やめ……」
叫びすぎて喉が痛い。咳が出る。痛みで意識が朦朧としてきた頃、あいつが俺の髪を掴み、頭をぐっと上げた。
「お前、綺麗な顔してるよなあ。羨ましいぜ。その顔にこんなモン押し付けられたら、どうなるんだろうなぁ!?」
「お、おい、泰ちゃん、それはさすがに……」
「せ、せや。顔は、い、いくらなんでも」
「ああ!?」
ビリビリと教室が震えるほどの怒号。あいつはその大声で周りを圧倒する。すると周りのやつらも「いや」だとか「なんでもない」だとか誤魔化して、はは、と口々に苦笑する。
あいつは舌打ちすると、俺の髪を掴む力をよりいっそう強くし、その光のない目で俺の目を見た。
「じゃあいくぜ~。せー……」
「やめろ!!!!!」
頬が熱い。タバコの熱がじかに伝わってくるみたいだ。ああ、もうだめだ。こんな顔を愛楽に見られたら、なんて言われるだろう。愛楽の言う通り、帰っておけばよかったかな。無視すれば、よかったんだろうな。涙が出た。
そのとき、教室のドアが勢いよく開け放たれた。ガララ!という音とともに、窓ガラスが割れるのではないかというほど大きな声で、誰かが叫んだ。
「昌平になにしとんねん!! ぶち殺すぞ!!」
「……あい……」
そこには、鬼みたいな顔をした愛楽が立っていた。
愛楽は怒り心頭といった表情でどんどん俺たちのほうに近づくと、そいつのタバコを持っていた手首を掴んだ。
「いっ…」
「なにしてた!! 昌平になにしてた!! 言え!!」
「るっせえ、なあ……! こいつが生意気だから、ちょっとオシオキしてただけだろうが!!」
「お仕置きぃ!? 人の顔にタバコ近づけて遊ぶんがお仕置きなんか!? せやったらお前に同じことしたったるわ!!」
愛楽は信じられないほどの大声で怒り続ける。あんな愛楽の声と表情は、見たことがなかった。愛楽はタバコを踏みつけて消すと、そのままあいつを突き飛ばし、どさっと床に倒れ込んだのを見て、がっと胸ぐらを掴んだ。
「昌平に手出してみろ!! お前のタマほんまにとったるからな!!」
「んでそんなにこいつのこと庇うんだよ!! お前らホモなわけ? きっめーんだけど!!」
「だったらなんや!! 親友のこと大事にしてなにが悪い!! この……クソ野郎が!!」
ばきっ、という鈍い音。
はっと目を見開いた。愛楽が、そいつを殴った。
「ひ、ひぃっ……!」
「あいつ、殴ったぞ!」
「あ、あいら」
愛楽は「クソが」、「殺す」だとか大声で叫びながら、馬乗りになって殴り続けていた。ばきっ、ばきっという、骨に拳が当たる音。あいつの顔からはもう鼻血が出て、皮膚も赤くなっていた。それでも愛楽は、殴る手を止めない。
俺はまずい、と思った。そのとき、俺を押さえつけていたほかの奴らが手を緩めた。それに気づいた俺はすかさず抜け出し、依然馬乗りの愛楽の肩を掴んだ。
「愛楽、愛楽、あかんて。もうええから、な? やめてや、愛楽。なあ、そいつ死んでまうよ」
「こんなやつ死んでもええ!止めるな昌平。今ぶち殺したるから……」
「ええんやって!! なあ、ほんまにやめてや!! お前が悪モンになってまうよ!! そんなんいやや!!」
ガクガクと愛楽の肩を揺さぶる。こんな愛楽をはじめて見た。そんな恐怖で涙が出そうになって、愛楽に「やめてくれ」と懇願した。親友が悪者になってしまうところなんて見たくなかった。
タバコを押し付けられた跡が痛んだが、そんなの関係なかった。俺は必死に、愛楽に「なあ」と呼びかけた。すると、愛楽は殴る手を止め、俺の方を見た。
「……わかった。ごめんな、昌平。帰ろうな」
「……うん……」
俺は愛楽の肩から手を離す。愛楽は立ち上がり、また鋭い目つきでいじめグループの奴らを見た。
「つぎ昌平にまた手出してみい、お前らもこうなるからな」
「ッ……! う、うるっさいわ!! おい、帰るで!!」
「お、おう……!」
バタバタと逃げ帰っていくそいつらを、愛楽は舌打ちをして見送った。床には気を失って、鼻血を流した大男が転がっている。愛楽は足でツンツンそれを蹴ると「ざまあ」と笑った。
「昌平、大丈夫か?すまん、おれ……来るの、遅かったよな。すまん……すまん。怪我してへんか? 大丈夫か?」
「あー……はは、怪我は、してもうたかな」
俺はそっと、愛楽に手の甲を見せる。手の甲には、赤い丸状に焼け爛れた皮膚が乗っており、見ているだけでグロテスクだった。俺はははは、と笑ったが、愛楽がいたく辛そうな顔をしているのを見て、胸の奥がチクンと痛んだ。
「……あれ?」
その瞬間、涙が出た。まるでバケツをひっくり返したみたいに、俺は大量の涙を流していた。制服の襟にボタボタと涙を垂らし、俺の頬はしとどに濡れる。何度も何度も、袖で涙を拭う。涙を拭い続ける。視界がにじんで、愛楽の顔がよく見えなかった。そのうちにどんどん俺はせぐり上げて、うまく声すら出なくなっていく。
「あれ、はは……ッ、あ、れ」
「昌平……」
鼻をすする。涙を拭う。何度それをしても、俺の顔はびちょびちょに濡れたままだ。涙が伝ったところが乾いて、パリパリと乾燥する。俺は愛楽に「ごめん、ごめん」と謝った。
「ごめん、俺、こんなつもりや、なくて」
「昌平、ほんま、ほんまごめん。おれのせいや、ぜんぶ。ごめん、昌平、ごめんなあ……」
「あ……あ、愛楽……」
「うん……うん」
「こわかっ、た、し、痛かっ、た……」
愛楽は、ただ、うん、と相槌を打つと、崩れ落ちた俺のことを抱きしめて、ただじっとそばにいてくれた。愛楽の金髪が頬をくすぐって、無性にかゆかったのを覚えている。俺は涙が止まらなくて恥ずかしくて、何度も愛楽に「いいから」と言ったが、愛楽は、どれだけ言っても抱きしめる力を緩めてくれなかった。
俺はその日、泣き疲れたのと怖かったのでヨロヨロの足を引きずって、愛楽に家まで送ってもらった。愛楽に家まで送ってもらうのは、小学三年生の頃、俺が変なおっさんにストーカーされた時以来のことだった。
*
「……まあ、思い返せばやばい事件だったわな。普通に顔にやられてたらと思うと、恐ろしいわ」
「ほんまやで! おれ未だに許してへんからな、あいつらのこと」
「ははっ。今は別に痛ないし、気にしてへんし、いつまでも怒らんでもええよ」
愛楽の頭をぺちぺちと叩く。愛楽はこちらを見ようとしない。愛楽はいつもよりとろとろに身体を溶かして、落ち込んでいるようだった。
「おれ、ほんまに情けないねん。ずっと思っとったよ。おれがあん時無理やりにでもお前のこと引っ張って帰ってたら、お前がそんな怪我する必要なかったやんって」
「ははっ! もうええって、結果的にお前が助けてくれたわけやし……。それに、あいつらはもうおらんやろ?」
「……まあ、それはそやけど」
そう、結果的にあいつらは俺たちの前からいなくなった。まあ、当然といえば当然だが。なんせあそこまでのいじめ、いや、暴力事件を起こしたのだから。
あのあと、実はこっそり影から見ていたらしい女生徒の通報によって、数人の教師と警察が事情聴取にやってきた。いじめグループの数人と主犯格の男は、全員二週間の出席停止処分が課され、主犯格とそれに加担した数人はあっさり転校。あるいは不登校になり、のこのこ学校にやってきた残りの一人も、あっという間に広まった噂により、卒業まで陰口を叩かれて過ごすことになった。
愛楽はというと、警察により過剰防衛と認定され、同じく二週間の出席停止処分を言い渡されそうになったが、俺の懇願により、三日の出席停止と反省文だけの処分になり、俺はほっと胸を撫で下ろした。
愛楽はといえば、「別によかったのに」なんて言ってのんきに笑っていたが、俺は正直、愛楽の処分が決定されるまで気が気ではなかった。俺のせいで愛楽までもが暴力的な人間だと思われてしまったら、俺は立ち直れない。だが愛楽は、むしろ「親友を守った男」としてクラスメイトからの信頼と好感を集めに集め、クラスの人気者となった。
俺はそんな愛楽を見て誇らしい気持ちだったが、同時に、他のクラスメイトと仲良くする愛楽を見て、なにかモヤモヤした気持ちが生まれ出したのも、その頃だった。
そうだ。俺が愛楽に、親友に「恋」したのも、そのときだった。最初は嘘だと思った。友愛と恋愛を勘違いしているのだと思って、布団の中で何度も自分に言い聞かせた。だが、顔を見ているだけでほっとして、もっとそばにいたいと思う。無邪気な笑顔にときめいて、ときおり手が触れるだけで、心臓が飛び出そうなほど胸が高鳴る。この感情に名前をつけるなら、俺は「恋」以外知らなかった。
「ほんま、痛々しいわあ。……おれが、消してやれたらな」
「ッ……!」
するっと、愛楽の手が俺の手の甲に触れる。俺の傷を慰めるように、優しく撫でられる。俺はびっくりして、声にならない悲鳴を上げた。
「びっくりしすぎやろ!」
「や、せやかて……」
はは、と笑ってごまかす。愛楽に触れるたびに俺の恋心が脈動した。俺は根性焼きの痕を撫でると、ふう、と息をついた。
正直言って、この傷は俺の救いでもあった。この傷を見るたびに、愛楽が俺を助けてくれたことを思い出す。あの日、俺を守ってくれたことを忘れないでいられる。愛楽が死んで空虚な毎日のなか、この傷は俺に、大好きだった愛楽の記憶を思い出させてくれた。
けれど、そんなことを言ってしまったら怒られるだろう。バカを言えと、もっと身体を大事にしろと、愛楽は怒るだろう。だから言葉を飲み込んだ。誰にも言わない秘密だった。俺はなんだかたまらない気持ちになって、愛楽に笑いかけた。愛楽はなんだかよくわかっていないようすだったが、俺の笑顔を見て、にっこりと笑い返した。
「昌平、どないした?」
「……いや。愛楽、アイス食うか?」
「食う!」
わかった、と返してすっと立ち上がる。冷凍庫を開けてアイスを取り出そうとした。瞬間、インターホンが鳴った。
「誰や?」
「あー……。誰やろな」
後頭部をがしがしとかく。突然の来客に、愛楽は「隠れとくか?」と言って、冷蔵庫の影に身を隠した。
俺は愛楽を一度振り返ると、玄関まで行って、チェーンと鍵を開けた。ドアを開ける手が重い。正直、誰が来たか俺にはわかっていた。俺は汗を拭いて、思い切ってドアを開ける。そこには、小柄な少女が立っていた。
「あ、あー……。こんちは、小山さん」
「こ、こんにちは……!あの、あのな、今日も来て、ごめん……」
「はは、いやー……。ええよ、別に。ありがとうな」
「……!う、うん!」
「小山さん」は、照れながら笑った。彼女は、毎週不定期で、ときおり俺の家に訪ねてくる、クラスメイトの女の子だ。少し赤みがかった前下がりボブに、ぱっちりした目元と赤らんだ頬。彼女はいわゆるクラスのマドンナ的存在で、彼女をかわいいと評して好意を持つ男子生徒も何人かいたくらいだ。
実際彼女の面立ちは整っていて、そのうえ性格に嫌味もなく、女子生徒からの人気も高い。このうえないくらいできた女性だろう。
そんな彼女がなぜ俺の家に、毎週訪ねてくるのか。俺だって最初は不思議に思っていた。だが、俺だってそこまで鈍いわけではない。そのうちに気付いた。彼女は俺に、好意があるのだと。
俺だって、恋をしているからわかる。今思えば、彼女は、俺が学校に通えていた頃から俺にアプローチしていたように思える。ときどき俺に話しかけては、映画や本など、俺の好みを聞こうとして、最後には真っ赤になって逃げ帰っていく。俺はそれを「不思議な子」くらいにしか思っていなかったが、それも、俺へのアプローチだったのだろう。
今だって、俺の目を見ようとはしないし、声は震えているし、ずっと耳が赤い。きっと見ていれば、誰だってわかるくらい、彼女は俺に「好意」を抱いている。
「あの……あの、今日のプリント、渡しに……来たんよ。あの、でも、そんだけやから! それだけ! あ、あ、でも、その、今日、その……しょ、昌平くん! の、好きだって言ってたお菓子……見つけたから、買ってしもて……。あ、あげる! から! 食べて!」
「え? あ、ああ……。おおきに。いつもありがとうな、小山さん」
「う、ううん……!」
小山さんは俺に、プリントの入ったクリアファイルと、俺が昔好きだと言ったお菓子の入った袋を押し付けた。彼女は、それっきり黙り込むと、なにかを言おうとしては口を開き、閉じ、を繰り返した。
俺は、早く愛楽と二人きりになりたくて、けれど彼女の厚意を無碍にするわけにもいかず、だが、正直言わせてもらえば、俺はこうして毎週彼女が訪ねてくることに、少なからず疲労感を感じていた。
愛楽のいないこの地球で、どんな人物も俺の世界には不要だった。だから正直言えば、こうして毎週彼女の相手をしなければならないことすら、俺は、苦痛だと思っていなかったといえば嘘になる。最低なことだとわかっているが、俺にとって、彼女を好きになることは今後一生、絶対にない。そう断言できるほど、俺は彼女に興味がなかった。
「あ、あの……!」
「ん?」
「ま、また、来てもええ……?」
「あ……」
彼女は震えている。普段はこんなこと聞かず、勝手に毎週来るのに、今日に限ってなぜこんなことを聞くのか。彼女なりに、なにかそろそろ、思うことがあるのか。
俺は一度後頭部に手を添えると、あー、と口を開き、そのあと、彼女に言った。
「……そんなさ、毎週来んでもええよ。小山さんだって、いろいろ用事あるやろ」
「あ……えと……」
「こんな不登校の家に毎週来てるって、みんな知っとるん? 変な陰口叩かれるかもしれへんで。小山さん、人気者なんやし」
「そ、そんなん関係あらへんよ……! 私が……来たくて、来てるだけやし。……その、あの……迷惑、やった?」
……迷惑だと言われれば、迷惑だったかもしれない。俺は誰とも話したくないのに、毎週のように押しかけてきて、お土産だとかプリントだとかを押しつけて帰っていく。どうせ俺はもう学校に行く気もないし、なにもいらないのに、彼女は俺にまだ、なにかを期待しているようだった。
それが俺には重く、嫌な気分だった。だから、いつか、いつかは、彼女に「もう来ないでいい」と伝えるつもりだった。それが今かもしれない。そう思った。
「あ、えっと……」
ガシャン!!
その瞬間、リビングの奥から大きな音がした。
俺と小山さんはビクッとして顔を上げる。声は聞こえないが、おそらく愛楽がなにかをやったのだろう。だが、小山さんには愛楽の姿は見えていない。まだごまかせる。
「……あー、なんか、落ちたみたいやな」
「だ、大丈夫!? わ、私、掃除てつだ……」
「ええ、ええ! 大丈夫や! 俺掃除するから、小山さんは帰ってええよ!」
「そ、そう……? あ、あの、私また来るから! じゃ、じゃあ!」
そう言い残すと、小山さんはバタバタと帰っていく。俺は今日も「言えなかった」と思いながら、小走りでリビングへ向かった。
「愛楽!」
「あ、昌平! すまん、おれ……あの、コップ落として、割ってしもた……」
「あー……あはは、ええよええよ。派手にやったなあお前」
急いでリビングに戻ると、そこにはショックそうな顔をした半泣きの愛楽と、粉々に割れた透明なグラスがあった。話を聞くと、愛楽は水を飲みたくなり、手を伸ばして自分でグラスを取ろうとしたところ、うまく掴めずそのままグラスを落下させてしまったらしい。
俺が怒っていないか心配しているらしい愛楽は、しきりに「すまん」と口にする。俺は別に怒ってもなんともいなかったので、ええて、と返して、ちりとりを持ってくる。
俺がグラスを片付けていると、愛楽はそれをなにかしたそうに見つめ、そして自分の身体を見るうちに「あ」と口にした。
「どないした?」
「……ここ、見て」
「ん?」
愛楽が指差した部分を見る。そこは愛楽の身体らしきところの一部で、そこに、大きなガラス片がぶっすりと刺さっていた。
「刺さっとる」
「刺さっ……!?おい!愛楽、大丈夫か!?今抜いたるからな、痛かったな」
「いや、違うんよ。……全く痛くないし、気づきもせんかった」
「え……あ……」
そういえばこの前、こんな話をした気がする。痛みを感じるのか、とか。愛楽は、なにを考えているのかよくわからない目でガラス片を見つめる。俺は愛楽にかける言葉が見つからなくて、視線を彷徨わせる。
「……あい」
「……なあ、これ最強ちゃう?痛み感じへんとか」
「え?」
「いや普通に考えてみ?痛み感じへんのやで?怖いものなしやん!」
「あ……そ、そやな」
愛楽はニコニコと笑いながら、ガラス片を自分で引き抜いて剣のように振りかざして遊んでいる。痛みを感じないのなら、こんなふうに敵とバトルするのだって夢ではない、と言いたいらしい。
RPGの主人公になりきっている愛楽を見て、俺はすこしほっとする。自分が本当に人間ではなくなってしまったことを自覚して、愛楽がショックを受けてしまうのではないかと思ったから。
俺は遊んでいる愛楽を見ながら、新しいグラスに水を注ぐ。どんなときだってネガティブにならず、強いままでいる愛楽は、素敵だった。……ときおり、不安にもなるけれど。
「愛楽、水」
「あ、ありがとう! 助かったわ~。ほんまごめんなあ」
「ええて。俺もコーラ飲みたいわ」
俺はもうひとつグラスを手に取り、今度はコーラを注ぐ。俺と愛楽はいつも通り縁側に腰かける。さっき小山さんと話したときに感じたストレスが、愛楽の隣ではすっと消えていくようだった。
「なあ、さっき来たの誰なん? 女の子やよな」
「聞こえてたん。お前も知っとるやろ、小山さんや」
「え、小山さん? 小山さんて、あの?」
「せや。大人気の小山さん」
愛楽は、はあ~!と感嘆の相槌を漏らした。小山さんは、本当にクラスいち、いや、学年いちのマドンナで、誰しもの憧れの的だった。そんな小山さんが俺の家に訪ねてきていると知れば、こんな反応になるのも無理はなかった。
「毎週来とる。俺の家に。プリント渡しに」
「へえ~……。あの子性格もええ子やったもんなあ。でも毎週来るなんて、お前のこと好きなんちゃう?」
「……まあ、せやろな。多分、そうやと思う」
「ほお! あんなかわいい子と付き合えるなんて願ったり叶ったりやん! お前から告白したれや」
「はあ? 嫌や! 別に俺は小山さんのこと好きちゃうし」
俺が好きなのは……と言いかけて、はっと口をつぐむ。小山さんから告白されたらなんて、そんな話したくなかった。愛楽は、小山さんに好きだと言われたら、付き合うんだろうか。きっと付き合うだろうな。そう思うと、余計に胸が苦しくなった。
「…なに見とんねん」
「ふ、別に」
愛楽は笑う。木々の揺れる音に重なって、髪が揺れた。そんなはずないのに、隣にたたずむ愛楽の影は、昔の愛楽に見えた。
愛楽は水を飲む。そしてグラスを置くと、俺の顔をじろじろと見回した。
「…なんやねん」
「いや、お前やっぱ綺麗な顔しとるよなあ。昔っからモテ男くんやったもんな」
「いや…んなことないて。てかお前やってモテたやろ。ファンクラブあったやんけ」
「わはは、そういやそやったなあ。いや、でもお前もあったやん、ファンクラブ。部活中とかキャー!って言われとったよな」
「あー……あったな。ようわからんけどな、女の子たちのそういうのって」
「でもお前、やっぱモテるよなあ。昔っからモテ男くんやったもんな。昌平のファンクラブあったの忘れてへんで?」
「はっ、アホ抜かせ。あんなん別に嬉しくもなんともなかったわ。てかファンクラブあったのならお前かて同じやったやろ」
「ははっ、あったなあそういや。部活中とか、いろーんな女の子が見にきてくれたんよな。悪い気はせんかったけど、ちょっと疲れたなあ」
そういえば、そうだった。俺と愛楽には、中学高校と、ファンクラブがあった。昔から自覚はなかったが、どうやら俺と愛楽は、「モテる」部類の男に入るらしかった。身長181センチの愛楽と、177センチの俺。加えて、愛楽は顔がいい。周りからしてみれば、俺もイケメンらしいが、個人的に思ったことはない。
だが、高身長でイケメンの愛楽には、ファンクラブができるのも当然のことだった。しかも、愛楽に聞いたことがあるが、俺と愛楽の「コンビ推し」の女子生徒もいたらしい。女子のよく使う「推し」というのは、俺にはよくわからない概念だったが、昔から俺と愛楽はよくモテた。自分で言うのは恥ずかしいが、認めないといけないくらいには、俺と愛楽は人気者だったと思う。
人気者だった。そう思ったところで、胸の奥が痛くなった。人気者だった愛楽は、愛楽を取り巻く女の子たちの中に、好きな子がいたんだろうか。その子と、付き合いたかったり、したんだろうか。それなのに、俺がずっとそばにいたから、俺の面倒を見させたから、愛楽はその子と結ばれなかったりしたのか。
心臓がドキドキした。聞こうとして、けれど、聞けなかった。聞いたら、俺は泣いてしまう気がしたから。大好きな愛楽のことを独り占めしていたい気持ちが、まだ俺の中にあって、俺はこんなに汚い人間だと思わなかった。ごめん、愛楽、ごめんと、心の中で謝って、愛楽の顔が見られなかった。
「……愛楽、そろそろおかん帰ってくるわ。部屋、戻ろ」
「お? おお、せやんな」
愛楽はブヨブヨと動きながら階段へ向かっていく。俺はそんな愛楽を見て、無性に泣きたくなった。
遠くのほうで、ひぐらしが鳴いている。かなかな、かなかな、一日の終わりを告げている。
「愛楽、好きや」
届かない思いを、今だけは口にさせてくれ。そう願った。
*
「愛楽、サイダー買うてきた。一緒に飲も」
「おー! やった! サイダー大好きや!」
今日で愛楽が俺の前に現れて二週間経った。俺は愛楽とよく飲んだサイダーを買いに、数ヶ月ぶりに外出した。外は虫の一匹や二匹なら普通に死にそうなほどの蒸し暑さで、引きこもりの俺にはあまりに辛い環境だった。だが、愛楽の喜ぶ顔を思えば、サイダーの重みも嬉しい重みだった。
俺と愛楽は縁側に座り、サイダーの蓋を開ける。愛楽はうまく開けられないので、俺が開けてやった。
「……はーっ! うまい! やっぱ暑い日にはサイダーに限るなあ!」
「せやんなあ。お前、昔からサイダー大好きやったよな。縁日でも絶対買うてたやんか」
「サイダーってうまない? おれめちゃくちゃ好きやねんな。なんか中に入っとるビー玉? もキレイやし」
そう言って愛楽は、サイダーの瓶を太陽に透かした。ガラス瓶に日光がちかちか反射して、俺は目を細める。
「……眩しいなあ」
「せやな。反射して眩しいわ」
「……眩しいわ、ほんま」
「ははっ、何回言うねん」
愛楽はからから笑うと、ぐいっとサイダーを飲んだ。
俺も真似して飲む。炭酸が喉につっかえて、咳が出た。愛楽はずっと眩しかった。愛楽の金髪に反射する陽光がずっと眩しくて、俺はそれが大好きだった。好きで、愛しかった。今の愛楽は違う姿だが、それでも愛楽であることに変わりはない。ただ、もうあの愛楽は戻ってこない。そう思うと、少し胸が締め付けられた。
「これ、おれビー玉とるの苦手なんよ」
「そうか? こんなん割ればええだけやろ」
「割るのが嫌やねん! 怪我したらどないすんねん」
「ビビリか。ほら貸し、俺が割って……」
そう言って愛楽のほうににじり寄ると、愛楽も俺に少し近づく。俺が愛楽のサイダーの瓶に手を伸ばしたとき、ふと、俺と愛楽の手が触れた。
愛楽の手はベトベトブヨブヨしていて、冷たかった。その瞬間、俺は、愛楽はもうあの頃の愛楽ではないんだと理解した。あのあたたかくて俺より大きくて、深爪に悩んでいた愛楽の手はもうない。手首に時計型に日焼けのした、あの愛楽はもういない。
そう気づいて、俺は名状し難い感情に苛まれた。今の愛楽を愛していないわけじゃない。それは違う、絶対に違う。今目の前にいる愛楽だって間違いなく愛楽で、ブヨブヨでも、冷たくても、大好きだ。
俺が最初に好きになったのは、あの愛楽だった。俺より背が高くて、英語が苦手で、その割に国語は得意で、バイトに勤しんでいた愛楽。その愛楽はもういない。あの愛楽にはもう会えない。
チクンと胸が痛む。またあの愛楽に会いたくて、でも今の愛楽もずっとそばにいてほしい。俺の感情は不安定だ。わがままだ。それでも俺は、どんな愛楽でも愛そう。胸の奥に、そんな感情が生まれた。
「……昌平?」
「……あ」
「……昌平、あんな、ずっと聞こうと思っててんけどな、あんな」
「……うん」
「今のおれのこと……どう思っとる?」
愛楽の手が俺の手を握る。冷たくて身体が震えたが、すぐに俺の体温がつたって、あたたかくなる。
今のおれ、とは、つまり。
「こんな……バケモンみたいな身体になってしもて、おれ、ほんまはお前が怖がってるんちゃうかって、ずっと思っとって。おれとほんまは、もう、一緒に……いたくないんやないかって」
「……んなことない!!」
言うが早いか、愛楽のことをぎゅっと抱きしめる。肩で呼吸をして、はあ、はあ、という俺の呼吸音が、セミの鳴き声のはざまに消えていく。
愛楽はすこし震えていた。怖かったんだ、愛楽は。ずっと、こんな身体で蘇ってしまって、俺が本当は怖がっているんじゃないかって、不安だったんだ。そんな気持ちに気づいてやれなかったことが申し訳なくて、唇を噛み締める。
愛楽の、どこが頭だかわからないような身体を強く抱きしめて、俺は「大丈夫やから」とうわごとのように繰り返した。
「……ありがとう、昌平。安心した」
「うん……」
「……はは、昌平お前、手でかなったなあ。昔はあんなに小さかったのに」
「いつの話しとんねん。お前には敵わんかったけど、俺かて大人の男やねんぞ。手だって昔の二倍くらいでかなっとる」
「二倍は盛りすぎやろ!」
あはは、と愛楽が笑う。愛楽の目には涙が溜まっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。俺はそんな愛楽の涙を拭って、愛楽ににっこり微笑みかける。
「愛楽、大好きやで」
「……うん、おれも、大好きや。昌平」
*
「愛楽、飛ばしすぎやて!」
「おー?聞こえへんわあ!風が気持ちええなあ、昌平!」
「飛ばし!すぎや!怖い!」
……夢を見た。
愛楽と自転車で二人乗りしたときの夢。昔中学生だったころ、よくこうして二人で遊びに行った。
俺は愛楽の耳元で「速度を落とせ」と叫ぶ。愛楽は聞く耳を持たずに、びゅんびゅん飛ばしていく。俺は振り落とされないように必死に愛楽の背中にしがみついた。
愛楽の金髪から、ほのかにシャンプーのにおいがする。ぴったりと密着した俺と愛楽の距離は、誰にも引き離せないんじゃないかと思うほど、近かった。
心臓がドキドキと迅る。河原のほうで、小学生が野球をしている。愛楽の金髪が、ちらちらと日光に光った。
愛楽の背にすり寄ろうとした。だが、気付けば愛楽は俺を置いて、一人で走っていっていた。俺は愛楽の背中に手を伸ばす。
「愛楽、行かんで、愛楽」
愛楽はどんどん一人で行ってしまう。愛楽は振り返らない。さっきまで触れ合っていたはずの体温が、もういない。俺は、行くな、と何度も叫ぶ。愛楽に手を伸ばす。そして愛楽の身体は、さっきまでなかったはずの闇の中へ吸い込まれていく。そして、俺は――。
「昌平、昌平! 起きて~!」
「あッ……!……ああ、愛楽……おは、よう」
ゆさゆさと身体をゆすられ、薄ぼんやりとした視界がぐらぐら揺れる。俺は愛楽に起こされているのだと理解して、目を開ける。寝ぼけ眼で愛楽の頭を撫で、ゆっくりと布団から起き上がった。
愛楽に笑いかけると、愛楽も俺を見て笑う。愛楽は俺の手をブヨブヨした手でぺちぺち叩くと、なあ! と興奮気味に俺に話しかけた。
「今日花火大会の日やて! おれさっき涼子さんが『花火大会かー』て言うてんの聞いてしもてな! 花火! 花火やで!」
「え? 花火?……ああ、そやったなあそういえば。お前好きやったもんなあ」
「そやそや! なあお前花火見にいく? 見にいく? おれも連れてってや~」
そう言って愛楽は頭を俺にぐりぐりと押し付けた。昔も今も、愛楽は花火が好きだった。夏は絶対に俺の家の庭で花火がしたいと言って、ひとりで大袋の花火を買ってきて勝手にはしゃいで帰っていく。花火大会も大好きで、毎年俺は、はしゃぐ愛楽に手を引かれ、二人で花火を見たものだ。
「……ばか言え、お前、その身体でどやって花火大会行くねん。バレたら大騒ぎやぞ。それともなんや? 人型になれるんか?」
「うーん……。うーん、うーん! 無理やなあ……」
「ははっ、伸びとるだけやないか」
愛楽はぐいーっと上に伸びて、なんとか人型を作ろうとしたが、見た目はおろか、形すら一切人間に近づくことはなかった。俺が愛楽に「諦めろ」と言うと、愛楽は「花火」と悲しそうに口にして、ぐすぐすと涙を流し始めた。
「ちょ、おい、おい! なに泣いとんねんお前ほんま。わかった、わかったから。俺んちの庭で花火見よ。こっからなら見えるやろ。な? それでええな?」
「……ゔん……」
「ほら、泣くなって。今度手持ち花火もしよや。お前ネズミ花火好きやったよな? いっぱい買ったるから、泣くな、愛楽」
愛楽は数回ぐすぐすとぐずると、涙声で「うん」と返事をして、にっこり笑った。
「ありがとうな、昌平」
「ええて」
「……ほんま、ありがとうな」
愛楽はどこを見ているともつかない目線で、俺にそう言った。俺はなんだかそんな愛楽の挙動が不思議で、すこし首をかしげたが、それだけ花火が見たかったのだろうということにして、用意された朝食を食べに、愛楽と下に降りた。
夕方。俺は愛楽を部屋から追い出し、ひとり「あること」に勤しんでいた。
「これ……ッ、やっぱ、案外難しいんよな。俺不器用なんかな……?」
「なあ昌平~。もう入ってええ?」
「まだや! まだ!……よし、ええで!」
入るで、と言った愛楽は、がちゃりとドアを開けた。そして、その直後、その目をきらきらと輝かせて言った。
「……よう似合っとる。お前、やっぱ浴衣似合うよなあ」
「せやろ? お前と花火行くときはいつもこの格好やったからな。かたちだけでもと思って」
「めっちゃええと思う! おれも浴衣着たいな~」
そう、俺は浴衣を着ていた。本当はいつも通りの部屋着のだらしない格好でもよかったのだが、花火大会に行けない愛楽に、少しでも気分を味わってほしくて、タンスの奥から引っ張り出してきたのだ。
さすがに愛楽に浴衣を着せることはできないが、それでも愛楽は「花火大会らしさ」を感じることができたようで、にこにこと笑っていた。
「ほな、そろそろ始まるな。行こか」
「おう! 楽しみやな~!」
俺は愛楽と一緒に、縁側に腰掛ける。愛楽が死んだあとは、滅多にこの縁側に腰掛けることもなくなった俺だったが、愛楽が現れてからは、毎日のようにここに座り、愛楽と日が暮れるまで一緒に過ごすことが恒例になった。
俺はこれからも続く愛楽とのそんな生活を想像して、思わず顔が綻んだ。
「外、賑わっとんな。まあ当たり前か。このへんの人間はみんな花火大会行くもんな」
「せやんなあ。おれもこの身体じゃなかったらなー。わたがし食べたりくじ引いたりしたかったなあ」
「まあそう言うなって。俺と一緒に花火見れるだけでええやろ? なんつってな」
「……せやな。お前と一緒に花火見れるだけで、じゅうぶんやわ」
「……は、あはは。そ、そうか、せやな」
胸がどきっとした。前にもこんなことがあった気がする。愛楽は相変わらず、俺の冗談にへんなことを返してくる。俺が真っ赤になっていそうな耳を手で隠すと、愛楽は「照れとる」と笑った。
「照れてへんわ! アホ!」
「照れとるやないか!」
「うるさい! ……てかさ、ずっとお前に聞きたかったことあってんけど」
「おん?なに?」
愛楽は首を傾けるような仕草をしてこちらを見る。実際に愛楽に首はないので、あくまで「風」な仕草だが。
「……お前、死んでからはじめて俺と会うたとき、なんであんなテンション高かったん」
「どういうこと?」
「いや、あんとき俺に殺されかけたやん。しかも、お前変な身体になっとるし。もっと取り乱しても…よかったんちゃうん」
「あー……まあな」
愛楽は目を伏せて考える。人間だったころの愛楽のこの表情が、俺は好きだったな、と漠然と思う。
愛楽は「うーん」と唸ると、ゆっくり口を開いた。
「確かに、変な姿になってしもてビビったよ。けど、それ以上にお前に会わなって思って、他のなんも見ないで、急いできたんよ。お前に、会いたかったから」
「……そう、か。ありがとな、愛楽。俺に……会いにきて、くれて」
「おん。お前のこと、心配やったしな。……そろそろ始まるやろ。見逃すで」
愛楽は空を見上げる。俺も真似して空を見上げた。愛楽は俺に、一番に会いたいと思って、俺のところへ来てくれたんだ。それだけ聞ければ、俺はじゅうぶんだった。
むずがゆい気持ちを心の中で抱きしめる。そのとき、横に置いていた携帯がぶるっと震えた。
「……連絡来たわ」
「誰から?」
「……小山さん」
「小山さん?」
メッセージアプリに連絡を入れてきたのは、あの小山さんだった。俺は花火が始まりやしないかと空をちらちら見上げて、それから小山さんのメッセージに目を落とす。
『一緒に花火を見ませんか』
それが小山さんからのメッセージだった。俺は、はあ? という気持ちになって、後頭部をがしがしとかいた。
彼女が俺のことを好きなのは知っているが、まさか俺がこの誘いを引き受けるとは思っていないだろうし、まして今の俺の隣には愛楽がいるのだ。俺ははあ、とため息をつくと、メッセージを打ち込んだ。
「なんて?」
「……一緒に花火見いへんかやて」
「え、行かへんの?」
「アホか! 行くわけあらへんやろ。お前と花火見たいねん、俺は」
「そ、そうなん?」
愛楽は「行ったらええやん」と言いたげな目で俺を見ている。まあ愛楽の気持ちもわかる。こんな引きこもりの俺を唯一好いている人間に優しくしなくてどうすると、彼女のひとりでも作ったらどうだと思っているのだろう。だが俺が好きなのはどうしようもなく隣にいるこの男だ。俺は「すまん、無理や」とだけ打ち込むと、その少々冷たげとも言えるメッセージを送信した。
「もったいないなあ……」
「ええわええわ。それよりほんまにそろそろ花火始まるで。見よ」
「そ、そやなあ」
俺は携帯の画面を下にして置くと、空を見上げた。愛楽もゆっくり空を見上げ、今か今かと待ち侘びている。
次の瞬間、一筋の光が、揺らぎながら空へ昇った。
「……あ」
どん!
心臓が強く揺れる。そんな衝撃が、俺の胸へ届いた。赤色の花火が、空へ咲いた。
「きた!」
きれいだ。そう思った。愛楽が死んでからひさしく思うことのなかった感情。
つぎつぎに空が照らされていく。猫、ハート、星。さまざまな形で、空に咲いていく。俺は感動して、気がつけば笑っていた。愛楽のほうを見る。愛楽も笑って、それでいて寂しそうな顔で、花火を見上げていた。
「きれいや……。きれいやなあ、昌平」
「……ああ、そうやな。花火って、こんなに、きれいやったんやなあ……」
俺と愛楽の距離が、ゆっくり近づく。手が触れて、俺が引っ込めようとすると、愛楽は俺の手をぎゅっと握った。
「……あい」
「……昌平、あんな。おれのひみつ、聞いてくれる?」
「え……?うん」
手を握る力が、いっそう強くなる。俺はなにか嫌な予感がして、なあ、と愛楽に呼びかける。
そして気がつく。愛楽の身体が、なんだかいつもより、溶けている気がする。
「あんな、おれ、おれな、お前のことな」
「ちょ、あい」
「黙って。おれ、お前のこと」
好きや。
愛楽が、そう口にした。
「……え」
「もう、ひみつにできへんよ。ここで言わんかったら、おれ後悔する。おれお前のこと大好きやった。友達としてとかじゃなくて、これは、恋や」
愛楽が、大粒の涙を目に湛えている。俺はびっくりして、頭の処理が追いつかない。愛楽が言っていることが本当なのかどうか、俺にはわからなかった。
「それ……お前、本気なん?」
「本気や。おれはずっと」
「なん……」
俺も、と言いたくて、愛楽の手を俺も握った。ときおり愛楽のその身体が、花火の色に照らされる。そうして見た愛楽の身体は、間違いなく、どろどろに溶け始めていた。
俺は「俺も好き」なんて言う前に、それがどうしようもなく気になって、愛楽に問いかける。
「なあ、愛楽、お前なんかへんや。お前の身体、どろどろやぞ。愛楽、お前のその気持ちは嬉しいよ。けど、なあ、俺に隠しとること……ない?」
「……すまんな。おれ、もう限界なんよ」
「……限界て、なに」
俺の身体がガクガクと震える。愛楽の手を強く握った。嫌な予感が俺の身体を駆けめぐって、まさか、と思った。
「……俺の身体がこんなんなってしもたのは、罰なんかな。それとも、神さんのくれた最後のチャンスなんかな」
「……なに言うとん」
「あんな、おれの懺悔、聞いてくれる?」
「……あい、ら」
愛楽は、ぽろりとひとつ涙を流して、震える身体で俺に話し始めた。
「おれ、ずうっとお前のこと好きやった。中学生のときには、もうお前のこと、友達として見れんくなっとったよ。お前がおれのこと友達やって言うてくれるたびに、胸が痛くてしゃあなかった」
「……うん」
「……そんときはまだ、俺の恋愛感情なんて、かわいいもんやったかもしれん。決定的に変わったんは、あの日や」
愛楽は滔々と語る。そうして愛楽は口にした。俺が中学生のときの、あのいじめ事件の日のことを。
「……あの日、お前を抱きしめたやろ。あんとき、ほんまにおれは怒っとった。あのいじめっ子ら全員殺したるって、ほんまに思っとった。そのあと、お前学校来なくなったよな。おれほんまにそれが心配やってん。けどな、けど」
「うん……」
そう言いながら、愛楽の身体は少しずつ溶けていく。俺は声が震えて、うまく相槌ができなかった。もう花火なんて、どうでもよくなっていた。
「……お前のこと、これで独り占めできるって、思ってしもて……」
ぎゅっと、愛楽は俺の手を握る。愛楽の目からは、何度も涙がこぼれていた。
「人気者のお前のこと、これで独り占めできるって、思った。おれといるときだけ笑ってくれるの、嬉しかった。お前のそばにおれるのはおれだけやって思った。一生こうやって、おれだけに笑いかけてくれればいいって、おれ、本気で……思ってた」
「なんや……それ」
「……怒った?」
「……怒るわけ、ないやろ!」
愛楽の身体がびくっと跳ねる。俺はいつになく、大きな声をあげた。なにが懺悔だ。なにが罰だ。そんなこと俺だって何度も思った。お前が俺の家に毎日のように遊びにきて、ときどき学校をサボってまで俺の様子を見にきてくれるたび、俺は嬉しいと思った。愛楽の生活を俺が侵食していくのが、喜ばしかった。
俺はそんな最低な俺のことをずっと許せなくて、何度も心の中でごめんと謝っていた。それを口にしようとしても、うまく言葉が紡げない。俺は愛楽のことを抱きしめて、何度も愛楽にあほ、と言った。
「……俺もお前のこと、大好きや……。俺も、お前と同じ気持ちやねん……。お前が……お前が、学校で、俺と付き合っとるって噂が立ったとき、俺……嬉しかった。俺かて、お前と同じくらい、お前に最低な感情抱いとんねん……。だから、お前の懺悔なんて、懺悔と、ちゃう、よ……」
「……昌平」
向こうのほうで、ぱぁんと花火が弾ける音がした。俺と愛楽はずっと抱きしめ合う。俺が愛楽を離すと、愛楽は、泣きながら「嬉しい」と言った。
「あんな、昌平。これも、ひみつやったんやけどな」
「……うん」
「おれな、お前がおれのこと好きやったの、気付いとったよ」
「……へ」
愛楽は、ごめんな、と言った。俺は愛楽が言っている意味がよくわからなくて、頭の中で何度も反芻する。
俺がようやく理解したころ、俺の眉間は、しわしわに歪められていた。
「……なんで、言うてくれへんかったん。気づいて、たんなら」
「すまん……。お前、昔からモテたから、きっとすぐにおれ以外の子、好きになると思っとって……。けど、失敗したなあ。ちゃんとお前に好きやって伝えとったら、もっとはやく、触れ合えてたのに」
「そう、やよ。お前、ほんまばか……。俺はずっと、お前のことしか見てへんのに」
「うん……。ごめん、おれ、いつも一足遅いわ」
ははは、と愛楽は作り笑いを浮かべる。そんなことはないのに。愛楽はいつだって、俺のピンチに駆けつけてくれた、俺だけのヒーローだったのに。
床についた手が、力を込める。ぎぎ、と、爪で木をひっかく音がした。
愛楽は手を伸ばすと、俺の汗で張りついた前髪をゆっくりどかして、にっこり微笑んだ。
「昌平、好きやで」
「……なあ、隠さんで言うて。お前、消えたりせえへんよな?」
「……すまん。おれ、今日起きたときからなんとなくわかっとってんな。もうおれ、消えてまう。意識もなんとなく、ハッキリせんねん。たぶん、もうおれ……死ぬ、な」
「……死ぬ?」
愛楽が、死ぬ。
愛楽が死ぬ?
「……あかん」
「……んなこと言われてもなあ、おれももうあかんねん。もう、うまく力も入らん……。身体もどんどん、溶けてってる気がする。たぶん、お前から見てもそうやろ?」
愛楽は力なく笑った。ふるふると震える手を掲げると、な?と言って、俺を見た。愛楽の身体はどんどん形を保てなくなり、一部は完全な液体になっていた。
俺は愛楽が言った「死ぬ」という言葉の意味を理解したくなくて、思考が真っ白になった。
また死ぬのか、愛楽は。せっかくまた出逢えたのに、また俺の前から消えるのか。しかも、今日、今、消えるのか。そんなの嫌だ、と思った。俺はどうしたらいいかわからなくなって、ただずっと「あかん」「消えるな」なんて、繰り返す。
「いやや、愛楽。お前、俺のこと守ってくれるって昔言うたやないか。約束破るんか? 俺と一緒におってや、俺、お前がおらんかったら、どうやって息したらいいか、わからんよ……」
「……すまんなあ。俺もお前がおらんなったら、きっと、世界で一番不幸や。それをわかっとるのに、またお前を置いていこうとするなんて、おれはダメな男やなあ……」
「愛楽……」
握った愛楽の手は、もう手とは言えないほど液体になっていて、握った手からポタポタと水らしきものがこぼれ落ちた。
俺は必死で愛楽の液体をかき集めて、身体の形を保とうとする。けれど愛楽はふうふうと辛そうに呼吸をして、ときおり目を閉じていた。
「お前、どうやったら消えなくて済む? 俺が治したる。どないしたらええ? なあ!?」
「……無理やよ、昌平。おれはそもそも、この世界に存在したらあかんのや。もう、死んどるんやから。だから、これが正しいことなんよ。心配せんで、昌平。……また、逢えるときが来る、から」
「いやや……いやや!!」
また逢えるときが来るなんて、嘘だ。俺はそんなの信じない。今ここで愛楽の手を離してしまったら、きっと二度と会えない。俺は何度も嫌だと叫んだ。気づけば、俺の目からは、大量の涙が溢れていた。
「昌平、お前……泣いとんか……?」
「……え?」
自分の目に手をあてて、初めて気づく。自分が泣いていたことに。
俺は何度も涙を拭うが、その涙は止まる気配を一切見せない。それどころかどんどんと勢いを増し、俺の視界をあっという間に奪った。
「あれ……あれ。あは、おかしいな、俺、もう……ずっと……」
「昌平……泣くなって。ごめんなあ、お前のこと、また置いてってまう。それが嫌やから戻ってきたはずやのに」
「……愛楽、行かんでよ。いやや、俺、お前と……ッ、また、離れた、ない。ずっと俺のそばにおってよ、愛楽ぁ……」
泣きながら愛楽に叫ぶ。愛楽の手を頬へやろうとするが、その手はどんどんとずるずるの液体になって手から滑り落ちる。愛楽はにっこり笑って、おねがい、と俺に言った。
「最後にまたぎゅってして。悪い子のおれを……許して、昌平」
「愛楽、は……悪い子なんかと、ちゃうよ。ばか、ずっと俺を、守ってくれてたやんか。大好きや、愛楽、だから、お願いや、消えんといてよぉ……」
もう完全に溶けかけている愛楽の身体を、抱きしめているかもわからないけれど、ぎゅっと抱きしめる。愛楽の身体は俺の手の隙間から滑って、縁側や地面に落下していく。俺は涙をびしょびしょに流しながら、必死に愛楽の身体を抱きしめ続けた。愛楽も同じく泣きながら、もう力の入らないであろう腕で、俺の背中に手を回した。
「ああ……もうだめや。おれ、消えるんやなあ。ほんまに消えるんや。一回死んだのに、また死ぬのはいややなあ……。昌平、でも、悲しまんといて。おれ、またお前に逢いにくるよ。ぜったい、ぜったいや。だから……それまで、幸せでおって」
「無理や……無理やよ、そんなの。俺、お前のおらへん世界に興味なんてないよ。なあ、俺のこと連れてってよ」
「バカ言うな、昌平。泣かんで、永遠のお別れとちゃうよ。また逢いにくる。だから、笑って、笑って見送ってや、昌平。おねがい」
愛楽は力なくそう言って、俺の手に身体を寄せた。俺は「無理や」と言いたかったけれど、ここで愛楽のお願いを聞いてあげなければ、俺は愛楽の気持ちを裏切ることになると、そう思った。
辛そうに目を閉じたり開けたりする愛楽を見ながら、俺ははくはくと口を動かす。俺はなにも言えないほど悲しくて、けれど、ひきつる顔を無理やり笑顔に変えて、愛楽の目をじっと見つめた。
「昌平……」
「……大好きや、愛楽。またな」
「……ああ、ありがとう……。おれも、好きや」
そう笑って、愛楽の身体は、次の瞬間水のようになって消えてしまった。あとかたもなく消えてしまった愛楽の「身体だったもの」を、俺は両手でかき集めた。浴衣や顔が濡れるのなんてどうでもよくて、ただひたすら、かき集め続けた。
「いやや、愛楽、い、いやや」
涙が止まらない。また俺に笑いかけて、俺を抱きしめて、その声で名前を呼んで。
どんどん俺はせぐりあげて、いやや、と何度も口にする。消えないで、行かないで、俺のそばに、ずっといてほしかった。愛楽がいない世界で、俺はどう生きていけばいいんだ。
ぱん、ぱん、と何度も花火が打ち上がる。俺の手が、俺の手から滑る液体が花火の色に染まる。
最後の花火に、俺の叫び声はかき消されていった。
「いややああぁぁぁ…………」
*
「昌平、お母さん仕事行くなー」
「……ああ、うん。いってらっしゃい」
「……うん。ちゃんとご飯食べなあかんよ。あと日光も……」
「わかっとるよ。はよ行かな遅刻すんで」
母は「うん」と言うと、忙しなく家を出ていった。俺はようやく一人になれた安堵感で、リビングの床に寝っ転がる。
愛楽が消えてから、一週間が経った。俺はあの日から、また感情の起伏を感じなくなり、泣くこともなくなった。
「幸せでいてくれ」なんて、あの日愛楽は言った。とびきり優しい目で、俺にそう言った。俺は、愛楽の意志を踏みにじりたくなくて、なんども「幸せでいる」努力をした。早起きしたり、自分で料理をしたり、ゲームをしたり、外出もした。それでも、俺の心はいつも愛楽に囚われていて、いつ何時も愛楽の記憶から離されることはなかった。
床に寝転がって、静かに呼吸だけをする。リビングの姿見に見えた自分の顔を見つめた。
「ひどい顔やなあ」
自分を嘲笑する。前にもこんなことがあった気がして、ぼりぼりと頭をかく。
次の瞬間、ぴんぽん、と玄関のチャイムが鳴る。俺は一瞬で「ああ」と察して、重たい足取りでドアを開けた。
「しょ、昌平くん……。こんにちは。あの、これ、今週のプリント……」
「ああ、どうも……」
俺の家を訪ねたのは、またも小山さんだった。俺はもう精神的に限界で、一刻も早く一人になりたかった。
「あの、昌平くん。みんな、心配してるんよ……。そろそろ、学校……」
「……あのさあ。悪いんやけど、もう来ないでもらえるか? 俺、もう学校とか行く気あらへんし、小山さんの気持ちにも応えられへんから。それじゃ」
ばたん! と強くドアを閉める。すこし時間を置いてからばたばたと去っていく足音を聞いて、そこで初めて俺は「言いすぎたかな」と思い返す。ただ、これが俺の本音のすべてだ。それをいつまでも偽り続けるのは、小山さんにも、俺にもよくない。不誠実だ。
「……愛楽、逢いたいなあ」
リビングの棚の上に置かれた愛楽の写真が目に入る。いつまでもこんなものを飾っているわけにはいかない。わかっていながら、俺はずっとこんな紙切れに縋っていた。
俺はぽっかりと心に開いた穴のような感覚を大声を出してかき消す。こうしないとおかしくなりそうだった。
「……あ、もう紅茶切れそうやん」
冷蔵庫をがぱっと開けると、母が常飲している紅茶のペットボトルが空になりかけていた。母は仕事から帰ってきて、これを飲むのが仕事後の楽しみと言っているほどこの紅茶が好きだった。
「一杯分……ないな。……買うてきたるか……」
母はきっと、帰ってきてこれがなかったら悲しむだろう。たぶん、もう切れかけていることも忘れているだろうし。本当は億劫だが、仕方ないと思い、俺は適当な服に着替える。
鍵と財布と携帯だけデニムのポケットに突っ込んで、俺は玄関の外に出る。クソみたいな暑さに、一瞬でめまいがして、思わず足が家を向く。だが親孝行ひとつできない息子でいるわけにはいかない。俺の良心がそう言った。
「……しゃーない、行くか」
俺は近所のスーパーまで早足で行くと、紅茶の大きなペッドボトルを手にとって、適当に惣菜コーナーを物色だけしてレジに進む。
財布を開くと、小銭に五円と二円しか入っていなかったので一瞬血の気が引いたが、千円が奇跡的に入っていたので難を逃れた。
「ありがとうございましたー」
店員の声を背に、俺はスーパーを出る。すると下校中の小学生が列を成していて、ああ、もうそんな時間か。と思う。空を見上げればまだ真っ昼間という具合で、天高く雲が悠々と泳いでいる。
俺は帰ったらなにをしようか、歩きながら考える。紅茶を冷やして、飯を食べて、することもないのでゲームでもするか。
「ふぁ……」
あくびをして、小学生たちのそばを歩く。
昔、俺と愛楽もこんな風に一緒に下校したな。そんなことを思って、すこし胸の奥があたたかくなった。
早く帰ろうと思って、すこし早足になる。そして地面に雲がかかった瞬間、後ろから声がした。
「昌平」
「……え?」
後ろを振り返る。列を成して歩く小学生の真ん中に、ひとり佇む少年がいた。
そいつを見た瞬間、俺は大きく目を見開く。鼻の奥がつんと痛くなって、つぎつぎに涙が出た。
「だから言ったやん。おれ、ぜったい、また逢いにくる、って」
目を細めて笑う「そいつ」に、俺も泣きながら笑い返す。
空の雲が晴れて、まぶしい陽光が差し込む。ああ、やっぱりまぶしい。まぶしいな。そう、思った。
大好きな親友だった。小学校二年生のときから友だちで、それはきっとこの先もずっと変わらなくて、なにがあっても、ジジイになっても一緒なんだって、そう思っていた。
でも違った。愛楽はあっけなく死んだ。俺を置いて死んだ。葬式は身内だけで行われた静かな葬式だった。愛楽の父親も母親も泣いていて、俺の親も泣いていた。俺は泣けなかった。悲しかったのに、辛かったのに、泣くことは、なかった。
*
「ほな昌平、お母さん仕事行ってくるなー」
「おー、行ってらっしゃい」
「行ってきます! あとあんた、ちゃんと日光は浴びるんやで」
「わかっとるわかっとる」
俺は昌平。高校二年生だ。とはいえ、今は三ヶ月は学校に行っておらず、外に出ることもほぼない。母親はそんな俺をいたく心配し、毎日「日光だけは浴びるように」と言って仕事に行く。
なぜこんなことになってしまったか、と言われれば、理由はひとつしかない。親友の愛楽が、死んだからだ。愛楽が死んでから三ヶ月経ったのに、未だに引きこもっているの? なんて、陰ではからかわれているかもしれない。けれど俺はそのショックから抜け出せず、毎日この家の中で飯を食べ、日光を浴び、寝る。それだけの生活を繰り返している。
愛楽が死んでから五キロは痩せただろう。テレビも見なくなった。誰かの事故死や、飲酒運転のニュースを見ると、気持ち悪くなって吐きそうになるからだ。
「愛楽……」
手の甲をそっと撫でた。遮光カーテンで締め切られた部屋は暗くどんよりと闇の底に沈んでいて、誰もそれを救ってくれることはない。俺はずっとこうだ。三ヶ月間ずっと、俺の心は遮光カーテンに遮られていて、いかなる光も受け付けることはない。ただ愛楽が死んだという事実だけを胸に抱えて生きている。愛楽のことを一分一秒だって忘れたくなくて、ずっと、こうして死にながら生きている。
自分の部屋に戻り、ベッドに座り込んで、顔を伏せる。すこし顔をあげると、姿見に映る自分と目が合った。
「……うわ、くま、すご」
昔愛楽がよく「イケメン要素」と褒めてくれた口元のほくろを撫でる。昔はもう少しきれいだった自分の黒髪も、今はボサボサだ。セットをしなくなったから当たり前だが。姿見に映る自分の目は、どんよりとしたくまが囲っている。ろくに眠れていないのが一発でわかる自分の顔に、思わずため息が出る。
「……どないしたらええねん」
母親に言われたことを思い出して、しぶしぶカーテンを開ける。ここ三ヶ月、外の空気を吸うことはめっきりなくなった。あるとすれば、縁側に出るか、この窓を開けたときくらいだ。本当はカーテンだって開けたくないが、これくらいはしなさいという母親との約束なのだ。
「う、あっつー……」
窓を開けると、直射日光が途端に飛び込んでくる。季節は夏。もう七月だ。その辺の学生たちはそろそろ夏休みだろう。俺は年がら年中夏休みなんだが。
そんな冗談を心の中で軽く叩いて、はは、と笑った。昔、小学生のころ、よく愛楽が俺の家に遊びに来た時も、愛楽は決まってこの窓を開けて、「今日は飛べる」なんて言って、窓から落ちようとして俺が泣きながら止めたことが何度もあった。
俺はずっとこうだ。なにをしていても、なにを食べていても、夢の中ですら、愛楽のことを思い出す。胃と心がムカムカしてきたのを感じて、カーテンを全て閉める。みんみんみんと蝉が鳴いている。うるさくて、耳を塞いだ。
「愛楽……あい、ら……」
ずるりと床に崩れ落ちる。会いたい。愛楽に会いたい。愛楽と一緒にいた時の記憶が、永遠に俺を苦しめる。もう二度と会えないのに。
「会いたい……」
会いたい。愛楽に会いたい。俺は愛楽が好きなんだ。ずっと好きなんだ。友人として、家族として、……男として。
愛楽とそういう関係になりたいと思った。愛楽をずっと好きだった。けれど、この気持ちを言葉にすることはできなかった。言葉にしたらきっと、愛楽を困らせるから。男が男を好きになるなんて、気持ち悪いと思う人もいるだろう。愛楽だってそう思っていたかもしれない。だから言いたくなかった。けれど、ずっと本当は、この気持ちを伝えたかった。
「愛楽……会いたいよ、愛楽」
愛楽が死んでから俺は、泣くことがなくなった。どれだけ悲しくても、涙が出なくなった。涙が枯れるとはよく言うが、俺は本当にそうなってしまったのかもしれない。笑うこともずいぶん減った。俺はきっと、俺が知らないうちに、すべての感情に蓋をしたのだろう。愛楽がいない俺が、笑っていいはずがないと、心のどこかで思い込んでいるのだ。
「……腹、減ったな」
身体が辛くても、心が辛くても、なにがあっても腹は減るのが人間だ。俺は知っている。母親はいつも仕事が朝早いのに俺の朝飯を作ってくれている。本当は食事も億劫だが、母親のそんな気持ちを無碍にするわけはいかないと思う。ただでさえ学校に行けない俺を女手一つで育てさせて、迷惑をかけているのだ。毎日の人間らしい生活と洗い物くらいはしておかないと、母親泣かせにもほどがあるだろう。
「……お、チキンカツ」
机の上には「レンチンしてな」のメモ書きと、チキンカツが置いてあった。コンロの鍋には、味噌汁も入っているらしい。
チキンカツをレンチンして、ひと口かじる。
「ん……うん、うまい」
俺はそそくさとチキンカツと味噌汁を食べ終えると、さっさと洗い物を済ませて、自分の部屋に戻ろうとした。あとでコーヒーでも取りにこよう、そう思って踵を返したその瞬間、不可解な音が聞こえてきた。
「ん?」
それはずるり、だとかべちゃり、みたいな、よくわからない音。一瞬、気のせいだと思った。ついに引きこもりすぎて幻聴が聴こえるようになったのだと。だが違う。音は近づいてきて、確実に俺の家へ迫ってきている。
「なん、なんや、この音…」
ついにその音はどんどん近づいて、家の庭の方から聞こえるようになった。俺は恐怖に塗れて、咄嗟に「愛楽」と口にしたが、愛楽はもういない。それを思い出して、また心がぎゅっとする。
俺は意を決して、掃除機の吸い込み口を握ると、カーテンを思いっきり開け放った。すると、そこには――。
「……う、う、うわぁっ!!!」
なんだかブヨブヨベタベタしていて、真っ黒な、スライムみたいな「なにか」がいた。
「なにか」は、目玉と思しきものが身体にいくつも生えていて、ときおりうごうごと蠢いている。俺は息を呑んだ。こんな生物な地球上にはいない。じゃあこれはなんだ? 人体実験の結果生まれたクリーチャーか? なんにせよ、放っておいたら俺が殺されるかもしれない。俺は窓ガラスを割れんばかりの勢いで開け放つと、その化け物めがけて、思いっきり掃除機を振り下ろさんとした。その時。
「あ、あ、あ、まって、待って待って! 声出るわ!」
「ッ……!? 喋った!?……てか、あれ、その声……」
「待って待って昌平! 待ってや! 俺のこと殺さんといてや~!」
「なん…ッ、愛楽、の、声……?」
背中がぞっとした。一瞬で血が冷え固まる感覚がして、ぐわんと視界が歪んだ。
なぜこの化け物から愛楽の声がする? カタカタと震える手で構えた掃除機は、行き場をなくしている。俺はそっと掃除機を下げると、肩で呼吸をした。
「昌平~!! 会えて嬉しいわあ!! おれ、愛楽や!! こんな姿になってもうだけど、愛楽なんよ!」
「はは……うそや。俺ついに幻覚まで……馬鹿やなあ……」
「幻覚ちゃうよ!! ほら、俺のこと触って。嘘ちゃうよ。おれ、愛楽やで。お前に会いたくて、ここまできたんよ」
「愛楽らしきもの」は、そのブヨブヨの体から、手のかたちをしたなにかを生やす。それを俺の方に伸ばして、俺の手にそれが触れた。
「……な?」
「嘘や……お前みたいなん、地球におるわけない。それに、お前が愛楽な、わけもない」
「……死んでからなあ、お前に会いたい! 会いたい! って、心配でたまらん! って……思っとった気がする。あんまり、記憶ないねんけどな。そしたらおれ、いつの間にか、こんなんなっててん」
「それ」は、笑っているんだかよくわからない目でははっと笑うと、俺に言った。
「会いたかった」
その瞬間、俺は膝から崩れ落ちた、その拍子に膝を強打し立ち上がれない痛みに苛まれたが、どうでもよかった。
その声色は、愛楽、本物にそっくりで、俺は、ああ、こいつは愛楽なんだと、一瞬で理解した。
「はは、は……あはは、あはは! そうか、そうか愛楽。俺も会いたかった、会いたかったでえ……」
「昌平……会えて嬉しいよ。おれも。なあ昌平、お前なんか痩せたんちゃう? ちゃんと飯食っとるやろな?くまもひどいで?」
「え? あー……お前がおらんようになってから、ろくに寝れやんなったからな。そのせいやわ」
「おいおい! お前おれが死んだのにどんだけショック受けとんねん。まあ、無理もないか。おれ、ほんまに会えて嬉しいわ。なあ、ぎゅってしてええ?」
愛楽の手がこちらに伸びる。ふるふると震える身体で、愛楽の身体に触れた。この化け物が本物の愛楽かはわからない。ただ、それでも、愛楽の声に、笑い声に、また出会えたのが嬉しくて、目の前の化け物を、愛楽を、信じたいと思った。
俺は愛楽をぎゅっと抱きしめると、愛楽、愛楽、と名前を呼んだ。愛楽も俺を抱きしめ返し、五分ほど、抱きしめ合うだけの時間を過ごした。愛楽の身体はベタベタしていて頬にくっついたが、それは気にならなかった。それより愛しくて、うれしくて、仕方がなかった。
「な、このあとどうするん?その身体じゃどこにも行けへんやろ」
「あー…うん。どないしよっかな」
「な、俺んち来ればええやん。まだ俺、愛楽と一緒にいたいよ」
「ええん?……じゃあ、お世話になろっかな」
「おう!」
愛楽はゆっくり縁側から這い上がると、家の中に入った。愛楽の身体はずいぶん小さくなってしまって、俺より大きかった愛楽のころから比べると、移動が大変になったようだった。
愛楽はよじのぼって椅子に身体を乗せる。俺は愛楽に水を差し出すと、愛楽はそれを器用に持って口らしきところに運んだ。
俺は愛楽とまた一緒にいられるのが嬉しくて、頬の緩みが止まらなかった。
「愛楽、あいら、会えて嬉しいなあ」
「何回言うねん! 壊れたロボか!」
「だって! ほんまに会えて嬉しいんやもん。あー、もうお前どこにも行かんとってくれ。ずっと俺のそばにおってくれ。な?」
「怖いこと言うな言うな! おれもそうしたいけど、お前がそんなんじゃおれ成仏できへんなあ」
「成仏!? お前、成仏するんか……?」
成仏、という言葉を聞いて、心の奥が一気にざわっとした。成仏。愛楽がまた消えたら、俺はまた一人になる。それだけは嫌だ。ずっとそばにいてほしい。そう思って愛楽の手を握ると、愛楽は「ばか」と笑った。
「たとえばの話やわ! おれがほんまに成仏できるんかもわからへんし。なんかあるまではお前のそばにおるよ」
「そ、そうか……」
ほっと一安心、といった気持ちで席に座り直すと、愛楽は「昌平、なにして遊ぶ?」と俺に聞いた。
「なにして?」
「ひさびさに会えたんや。こうやってお話しすんのも楽しいけど、なんかして遊びたいやろ? どないする?トランプ?」
「トランプて、修学旅行か。……ほな、えーっと、ゲームしようや、ゲーム! スマブロ!」
「ええな! スマブロか! ほな行こ!」
「おん!」
愛楽はブヨブヨ動きながら階段に向かって歩いていく。俺は愛楽の背中を見て、叫び出したい気持ちになった。また愛楽とこうやってゲームができる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
俺は気合いを入れるために頬を軽く叩くと、愛楽の後ろをついていった。
*
「……あー!! ひさびさにこんなゲームしたわ!」
「やっぱ昌平スマブロうまいなあ!! おれ一回も勝てへんかったわ」
「別に普通やろ。……って、おい! 大変や愛楽!」
「なんや!?」
「見ろ!! ゲームしすぎて……朝になってる」
「アホ言うな!! これから暮れるんじゃボケ!!」
ああ、この感じもひさびさだ。愛楽の鋭いツッコミ。俺はこれが大好きだった。楽しくて、嬉しくて、涙が出そうになった。そんなこと言っても、出ないんだけれど。
やっぱり好きだ。大好きだ。そう思った。震える手で愛楽に触れようとした瞬間、がちゃり、とドアの開く音が、ずっと向こうからした。
「あ……。おかん、帰ってきたみたいやな」
「え、まじ!? おれ隠れとくわ。会うわけにいかへんもんな」
「そ、そやな。頼むわ。ほな、またあとで」
「おう!」
ばたばたと下に降りる。すると、仕事帰りの母親が買い物袋を提げて靴を脱ごうとしていた。
「おかえり、おかん」
「ああ、うんありがと。……昌平、なんかええことあった?」
「え?」
「楽しそうやんか。安心したわ、あんたが楽しそうにしてて」
「そ、そうかな……」
まったく意識していなかった。確かに今日は一日、久しぶりに「楽しい」気持ちだった気がする。それもこれも、愛楽のおかげだ。絶対に母には、そのことを言えないけれど。
はは、と適当に笑って頬をかくと、母は「ほんまに」と口走って、ほろほろと涙を流し始めた。
「……え!? おかん、なに泣いとん!!」
「だって、だってあんた、ほんま……ずっと……」
「ああ、ちょ、おかん、泣かんといてや、な……」
声を押し殺して涙を流す母の背をそっとさすると、母は「よかったなあ」と、泣きながら笑った。
俺は「愛楽のおかげやで」なんて言えるはずもなく、ただ、母にここまで心配させていたことを、すこし申し訳なく思うのだった。
*
「……!」
はっと目が覚める。俺は起き抜けに黒髪をがしがしとかくと、辺りを見回した。そして気付く。愛楽が隣にいない。
「愛楽?」
昨日隣で一緒に寝たのに、朝起きたらいないのだ。一瞬で血の気がひく。まさか、消えてしまった?それともあれは、俺の幻覚だった?
「愛楽!」
「おー、昌平、おはよ」
「あ……」
愛楽は、身体を伸ばして窓から景色を見ていた。俺は愛楽がそこにいたことに安堵すると、愛楽が「消えたと思ったんか?」と意地悪げに笑った。
「うるさいわ!……腹、減ったな。顔洗ってくるから、そしたら飯食おや」
「おう!」
俺が顔を洗って帰ってくると、リビングでは愛楽が、身体をのびのびと伸ばしてストレッチらしきことをしていた。
「なにしとん」
「ストレッチや」
「いらんやろ! その身体で!」
「いるねんなあこれが。身体バッキバキやもん。まあ嘘やけど」
「嘘かい! 腹立つな!」
愛楽は思いっきり上に伸びると、それを最後にひとつため息をついた。
俺は愛楽の言うままに母の朝ごはんをあたためてテーブルに並べる。母の料理はおいしい。昔は愛楽と俺でよく母の作った料理を取り合いになって、そのたびに頭を叩かれたものだ。
「今日は……お、ナスの味噌汁も作っとるな。あとしらすの卵焼き」
「しらすの卵焼き!? 聞き逃せへんな。おれの大好物やないか」
「そーいやそやったなあ、お前これほんま好きやったよな」
「大好き大好き!」
身体を大きく振って嬉しさを表現した愛楽は、腕を伸ばして椅子の上に乗った。
「涼子さんの作るしらすの卵焼きがうますぎるからさあ、お袋にも作ってくれや~って、昔言うたんよ。ほいたら大失敗だったねんな。あれショックやったわ~」
「ははっ! そんなこと昔言うとったなあ。しらすの卵焼きお前全部食うていいよ、はい」
「え!! さすがに悪いて、半分こして食べよ」
あかんあかん、と言ったのを聞くと、俺は「そうか?」とだけ返して、ひとつしらすの卵焼きをつまみ食いした。
「てか、愛楽って腹減るんか?」
「お? あー……減らんなあ。眠くもならん。食べることも寝ることもできる、ってだけで、したい! っていう気持ちは……まー、ないかな」
「へ、へえ……。そうかあ。お前、ほんまに人間じゃなくなってしもたんやな。痛みとか、においとかは?」
「えー……痛みはわからんなあ。まだ感じたことないかも。でもにおいはするで! 今もご飯のいいにおいやわ。な、昌平、とりあえず飯食わん?冷めてしまうし」
「そ、そやな」
俺も慌てて椅子に座る。開け放たれた窓から吹き込むそよ風が髪を揺らして、ここちがよかった。
愛楽はブヨブヨの手を合わせていただきますの動作をすると、箸を持とうとした。だが、ブヨブヨの手では箸の操作が難しいらしく、何度もチャレンジしては、机の上からカランカランと乾いた音がした。
「……掴めへん」
「そんな泣きそうな顔すんな! ほれ、俺が食わせたる。口開け」
「ええんか!ありがとうな昌平!」
愛楽はどこにあるのかもわからない口をぱっくりと開けると、俺の差し出した料理に食らいつき、モゴモゴと咀嚼した。まるで怪物の捕食シーンだな。そう思う。
小学生のころはよく、箸の扱いが苦手だった愛楽に、俺が飯を食わせてやったものだ。中学生あたりでさすがにそれも卒業して、二度とやることはないと思っていたが、まさかまたそんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
「やっぱ涼子さんの作る飯はうまいわあ~。沁みる~ってやつやな」
「ははっ、なんやそれ」
「お前の作る飯も好きやったな、そういえば。お前、家庭科の評価いつも5やったもんなあ」
「あー、そういやそやったな」
めっきり学校に行っていないので忘れていたが、俺は家庭科の評価が昔からすこぶるよかった。幼いながらに、死んだ父に残された母のことを考え、よく母の家事手伝いをしていたのだ。そのうちになんだかわからないが家事が得意になり、そのおかげで中学時代の家庭科では、女子からキャーキャー言われていた。
「まあ、今度料理作ったるよ、食べたいもん言うてくれれば」
「おー、嬉しいなあ。俺お前の作る料理大好きなんよ」
「はは、過大評価やわ」
「毎朝お前の飯食えたら幸せなんになあ」
「……は」
お前それは、プロポーズだろ。
咄嗟にそう思う。そしてぶわっと汗が出る。耳が真っ赤になっているのを感じる。まずい、ここでうまく受け流せないと、俺が愛楽を好きなのがバレる。でも、どうやって流したらいいんだ。俺はもう心臓がバクバクで、ガタン!と席を立ち上がる。
「誰がお前のために毎朝飯なんか作るっちゅうねん!! アホ抜かせ!! あー、ごちそうさまでした!」
「おい! 昌平! まだ飯残っとるで!?」
俺はガタッと椅子を立ち上がり、ドタドタと縁側に出る。そうして空を見上げると、あっついわーとか、天気ええなーとか、適当な言葉を並べ立てた。
そのうちに愛楽も俺のあとについて縁側に出てくる。俺はさっきのことがまだ頭をぐるぐる回っていて、愛楽の顔が直視できなかった。
「今のちょいプロポーズっぽかったな。恥ずかしいこと言うてしもたわ」
「うるさいわ! 俺があえて言わんかったのに言うな!」
愛楽の身体をべしっと叩く。ボヨンと跳ね返されて、それにまた腹が立った。
愛楽は昔から、変な冗談みたいなことを言うことが多かった。距離感もバグっているし。俺はいつもそれに翻弄されて、困って、恥ずかしくなった。好きだと思った。
なんだか思い出すとどんどんイライラ恥ずかしくなってきて、クソ! と叫んで頭をがしがしとかく。リングピアスに指が引っかかって、耳たぶが少し痛んだ。
俺が悶々とした気持ちで愛楽の顔を見られないでいると、愛楽は、なにかに気づいたらしく、「あ」と声を出した。
「……なんや?」
「それ、その……まだ、痛むか?」
「は?……あ」
愛楽の方を見ると、愛楽はそのギョロギョロした目で、俺の手の甲を見つめていた。俺はふと手の甲を見ると、ああ、と思い至った。
「もう痛まへんよ。何年前の傷だと思っとんねん」
「……そうか」
*
「いやや、いやや!! やめろ! おい! 離せぇっ!!!」
ガタガタと机を蹴る。窓の外ではじわじわじわじわセミがずっと鳴いていた。俺は抵抗する。抵抗する。抵抗する。力を入れる。逃げようとする。けれどダメだ。ダメだった。
「じゃ、いくぞ」
「おい!! やめてくれ、やめろ、やめろぉ!!」
「せーの!」
じゅうううと皮膚の焼ける音。ゴムの焼けるようなにおい。心臓が飛び出そうなほどの痛み。自然と両目から滝のようにあふれる涙。
夕日が差し込み、校舎の中に生徒はいない。何度叫んでも絶対に助けは来ない。俺は痛みに耐えたまま、嘔吐しそうな気持ちをおさえていた。
俺がいわゆる「いじめ」のターゲットになったのは、中学二年生の時だ。いじめと言っても、なにも明確な理由があるわけじゃない。主犯格いわく「ただ嫌いだから」なんだそうだ。
きっかけは、県外からの転校生だ。その転校生は大柄で、気が強くて、力も強い。いかにもという風貌の男だった。俺のクラスに転校してきて、そいつは一瞬でクラスの大将になった。転校生がいきなり大将だなんてバカバカしい。俺もそう思った。だから、俺はそいつと関わらないようにしていた。そいつを持ち上げるグループの輪にも、入らなかった。
今思えば、それがいけなかったらしい。そいつは自分がクラスメイト全てを支配できなかったことに腹を立て、俺をいじめの標的にした。いじめと言っても、最初は些細な、靴を隠されたりだとか、黒板に悪口を書かれたりだとか、そんな程度だった。俺は別に気にしていなかったけど、毎日そんなことの繰り返しだと、さすがに呆れて、疲れる日が多くなってきて、俺はそのうち学校に行くことが減った。愛楽はそんな俺を強く気遣って、毎日家に訪ねてきてくれたり、ときには学校をサボって、遠くのテーマパークまで連れて行ってくれたこともあった。学校に俺の居場所はなかったけど、愛楽の隣が俺の居場所だった。
けど、あいつは俺が心を折らなかったことによほどムカついたらしい。あいつは腹の中で、ずっと俺にどう「わからせる」かを、考えていたんだ。
それがあの日だった。俺は、その日たまたま学校に行っていて、その日も愛楽と一緒に帰る約束をしていた。
「愛楽、今日俺んち寄ってくやろ?」
「おー、ええな! 涼子さんがええんやったら…」
下駄箱で靴を履き替えながら、俺と愛楽は談笑していた。今日の晩飯の献立はだとか、今日体育で転んで怪我したとか、そんな程度の。
つま先で地面を蹴る。運動靴に履き替え終えたところで、後ろから「おい」と呼びかけられた。
「ん?」
「……お前、三階の空き教室に来い」
声をかけてきたのは、いじめグループの一人だった。黒縁メガネで見るからにひ弱。俺と喧嘩したら多分俺が勝てる。それくらい弱っちい見た目だが、そいつも俺をいじめた人間の一人だった。おおかた、あの転校生に恐れをなして従っているだけだろうが。
「嫌、つったら?」
「……いいから来い!」
「チッ……。愛楽、悪いな。先帰っててくれ。俺ちょい行ってくるわ」
「おい待て! 昌平、行ったらあかん! なにされるかわからんのやぞ!」
愛楽は俺の手首を痛いくらいの力で掴んだ。愛楽の眉はぐしゃぐしゃにしかめられ、俺と帰ろう、と言っているようだった。
「頼む、行かんでくれ」
愛楽の表情に、一瞬足が迷う。本当は俺だって、行きたくなどない。俺が立ち止まっていると、メガネが口を開いた。
「こ、来ないと……、そいつのことも、ボコボコにするって……言っとったぞ!」
「は?おれはそんなもん……」
「……愛楽、やっぱ俺行ってくるわ!おかんには遅くなるって言うといてくれ、ほなな!」
「は? おい待て、昌平!! 行くな!!」
愛楽の手を振り解くと、俺は歩き出す。愛楽は最後まで、俺の姿が見えなくなるまで「行くな」と叫び続けていた。ごめん、愛楽、ごめん。でも、お前が傷つく方が嫌なんだ。あとで何度も謝って、殴られても受け入れよう。だから今だけ、許してくれ。そう思った。
俺がメガネの後ろについて歩いていくと、ほどなくして空き教室の前に着いた。
「は、入れ」
「……」
ガラッと教室の戸を開けると、そこにはあの転校生と、いじめグループの人間がニヤニヤ笑いながら待っていた。
俺はすくむ足を振り切って一歩踏み出すと、「なんの用や」と震える声で聞いた。
「おい、声が震えてるぜ? 怖いのか? まあ安心しろ、殺したりしねえさ」
「……早く帰りたいんやけど」
「まあいいから。焦んなって。そこの椅子に座れよ」
そう言って、あいつは近くの椅子を指差した。俺はガタつく椅子に腰をおろすと、用があるなら早くしろ、と言った。
いじめグループはなにも言わず俺を見つめて薄気味悪い笑みを浮かべている。俺は別に、こいつらの恨みを買うようなことはしていないんだが。と思ったが、中学生のいじめなんて、理由のないものがほとんどだろうと思い直し、諦めのため息をついた。
「……お前、昔身体弱かったんだって? 昔の同級生から聞いたぜ。お前、身体も細いもんなあ。……だからさあ、こんなふうに押さえつけられたら、お前、抵抗できねえよなあ!?」
「なに言っ……」
ガタン!!
その瞬間、傍観していた奴らが一斉に立ち上がり、俺の身体を椅子に押さえつけた。そして一人が、俺の腕を無理やり机の上に投げ出すと、ものすごい力で、俺の手を机に貼り付けた。
「おい! なにすんねん! やめろ、離せ!!」
「まあ静かにしろよ。すぐ終わるって」
「叫んでも愛しの愛楽ちゃんは来おへんで? お前に言われて今頃のこのこ帰っとるんやろな!」
「やめろ!!」
いじめっ子たちは、ははは! と楽しそうに笑うと、俺の身体をよりいっそう強い力で押さえつけた。抵抗するが、俺の細い身体では勝てるはずもなく、俺はうめき声をあげることしかできなかった。
すると、ゆっくりとあいつが立ち上がり、俺に言った。
「泣いて叫べよ」
そう言うとあいつは、制服のポケットからタバコの箱とライターを取り出し、不意にそれを咥え、火をつけた。
ゾッとした。タバコのにおいが教室に充満し、思わず咳き込む。そしてそれと同時に、これから俺の身になにが起こるか、俺の第六感が囁いた。
「じゃ、いくぞ」
「おい!! やめてくれ、やめろ、やめろぉ!!」
「せーの!」
皮膚の焼ける音。ゴムが焼けるにおい。セミの音。カラスの鳴き声。
時が止まった気がした。いや、止まっていたかもしれない。なにが起こったのか、わからなかった。
「……ぐ、あああぁッ!? やめ、ぐ、っ、やめろぉぉ!! 痛い!! 痛いぃぃ!!」
「はははっ!! 俺に従わないからこうなるんだよ…!!」
手の甲に押し付けられたのは、一本のタバコだった。痛い、熱い、痛い、熱い、痛い!! 俺はガタガタガタと机を蹴る。暴れる。声を上げる。けれど離してくれない。誰も俺を離さない。
全員が乾いた笑いをあげる。俺はただ大声をあげて叫ぶことしかできなかった。手のひらをむやみに動かせば、別の場所にタバコが押しつけられ、また強い痛みを伴った。
「やめろぉ……う、ぐ、やめ……」
叫びすぎて喉が痛い。咳が出る。痛みで意識が朦朧としてきた頃、あいつが俺の髪を掴み、頭をぐっと上げた。
「お前、綺麗な顔してるよなあ。羨ましいぜ。その顔にこんなモン押し付けられたら、どうなるんだろうなぁ!?」
「お、おい、泰ちゃん、それはさすがに……」
「せ、せや。顔は、い、いくらなんでも」
「ああ!?」
ビリビリと教室が震えるほどの怒号。あいつはその大声で周りを圧倒する。すると周りのやつらも「いや」だとか「なんでもない」だとか誤魔化して、はは、と口々に苦笑する。
あいつは舌打ちすると、俺の髪を掴む力をよりいっそう強くし、その光のない目で俺の目を見た。
「じゃあいくぜ~。せー……」
「やめろ!!!!!」
頬が熱い。タバコの熱がじかに伝わってくるみたいだ。ああ、もうだめだ。こんな顔を愛楽に見られたら、なんて言われるだろう。愛楽の言う通り、帰っておけばよかったかな。無視すれば、よかったんだろうな。涙が出た。
そのとき、教室のドアが勢いよく開け放たれた。ガララ!という音とともに、窓ガラスが割れるのではないかというほど大きな声で、誰かが叫んだ。
「昌平になにしとんねん!! ぶち殺すぞ!!」
「……あい……」
そこには、鬼みたいな顔をした愛楽が立っていた。
愛楽は怒り心頭といった表情でどんどん俺たちのほうに近づくと、そいつのタバコを持っていた手首を掴んだ。
「いっ…」
「なにしてた!! 昌平になにしてた!! 言え!!」
「るっせえ、なあ……! こいつが生意気だから、ちょっとオシオキしてただけだろうが!!」
「お仕置きぃ!? 人の顔にタバコ近づけて遊ぶんがお仕置きなんか!? せやったらお前に同じことしたったるわ!!」
愛楽は信じられないほどの大声で怒り続ける。あんな愛楽の声と表情は、見たことがなかった。愛楽はタバコを踏みつけて消すと、そのままあいつを突き飛ばし、どさっと床に倒れ込んだのを見て、がっと胸ぐらを掴んだ。
「昌平に手出してみろ!! お前のタマほんまにとったるからな!!」
「んでそんなにこいつのこと庇うんだよ!! お前らホモなわけ? きっめーんだけど!!」
「だったらなんや!! 親友のこと大事にしてなにが悪い!! この……クソ野郎が!!」
ばきっ、という鈍い音。
はっと目を見開いた。愛楽が、そいつを殴った。
「ひ、ひぃっ……!」
「あいつ、殴ったぞ!」
「あ、あいら」
愛楽は「クソが」、「殺す」だとか大声で叫びながら、馬乗りになって殴り続けていた。ばきっ、ばきっという、骨に拳が当たる音。あいつの顔からはもう鼻血が出て、皮膚も赤くなっていた。それでも愛楽は、殴る手を止めない。
俺はまずい、と思った。そのとき、俺を押さえつけていたほかの奴らが手を緩めた。それに気づいた俺はすかさず抜け出し、依然馬乗りの愛楽の肩を掴んだ。
「愛楽、愛楽、あかんて。もうええから、な? やめてや、愛楽。なあ、そいつ死んでまうよ」
「こんなやつ死んでもええ!止めるな昌平。今ぶち殺したるから……」
「ええんやって!! なあ、ほんまにやめてや!! お前が悪モンになってまうよ!! そんなんいやや!!」
ガクガクと愛楽の肩を揺さぶる。こんな愛楽をはじめて見た。そんな恐怖で涙が出そうになって、愛楽に「やめてくれ」と懇願した。親友が悪者になってしまうところなんて見たくなかった。
タバコを押し付けられた跡が痛んだが、そんなの関係なかった。俺は必死に、愛楽に「なあ」と呼びかけた。すると、愛楽は殴る手を止め、俺の方を見た。
「……わかった。ごめんな、昌平。帰ろうな」
「……うん……」
俺は愛楽の肩から手を離す。愛楽は立ち上がり、また鋭い目つきでいじめグループの奴らを見た。
「つぎ昌平にまた手出してみい、お前らもこうなるからな」
「ッ……! う、うるっさいわ!! おい、帰るで!!」
「お、おう……!」
バタバタと逃げ帰っていくそいつらを、愛楽は舌打ちをして見送った。床には気を失って、鼻血を流した大男が転がっている。愛楽は足でツンツンそれを蹴ると「ざまあ」と笑った。
「昌平、大丈夫か?すまん、おれ……来るの、遅かったよな。すまん……すまん。怪我してへんか? 大丈夫か?」
「あー……はは、怪我は、してもうたかな」
俺はそっと、愛楽に手の甲を見せる。手の甲には、赤い丸状に焼け爛れた皮膚が乗っており、見ているだけでグロテスクだった。俺はははは、と笑ったが、愛楽がいたく辛そうな顔をしているのを見て、胸の奥がチクンと痛んだ。
「……あれ?」
その瞬間、涙が出た。まるでバケツをひっくり返したみたいに、俺は大量の涙を流していた。制服の襟にボタボタと涙を垂らし、俺の頬はしとどに濡れる。何度も何度も、袖で涙を拭う。涙を拭い続ける。視界がにじんで、愛楽の顔がよく見えなかった。そのうちにどんどん俺はせぐり上げて、うまく声すら出なくなっていく。
「あれ、はは……ッ、あ、れ」
「昌平……」
鼻をすする。涙を拭う。何度それをしても、俺の顔はびちょびちょに濡れたままだ。涙が伝ったところが乾いて、パリパリと乾燥する。俺は愛楽に「ごめん、ごめん」と謝った。
「ごめん、俺、こんなつもりや、なくて」
「昌平、ほんま、ほんまごめん。おれのせいや、ぜんぶ。ごめん、昌平、ごめんなあ……」
「あ……あ、愛楽……」
「うん……うん」
「こわかっ、た、し、痛かっ、た……」
愛楽は、ただ、うん、と相槌を打つと、崩れ落ちた俺のことを抱きしめて、ただじっとそばにいてくれた。愛楽の金髪が頬をくすぐって、無性にかゆかったのを覚えている。俺は涙が止まらなくて恥ずかしくて、何度も愛楽に「いいから」と言ったが、愛楽は、どれだけ言っても抱きしめる力を緩めてくれなかった。
俺はその日、泣き疲れたのと怖かったのでヨロヨロの足を引きずって、愛楽に家まで送ってもらった。愛楽に家まで送ってもらうのは、小学三年生の頃、俺が変なおっさんにストーカーされた時以来のことだった。
*
「……まあ、思い返せばやばい事件だったわな。普通に顔にやられてたらと思うと、恐ろしいわ」
「ほんまやで! おれ未だに許してへんからな、あいつらのこと」
「ははっ。今は別に痛ないし、気にしてへんし、いつまでも怒らんでもええよ」
愛楽の頭をぺちぺちと叩く。愛楽はこちらを見ようとしない。愛楽はいつもよりとろとろに身体を溶かして、落ち込んでいるようだった。
「おれ、ほんまに情けないねん。ずっと思っとったよ。おれがあん時無理やりにでもお前のこと引っ張って帰ってたら、お前がそんな怪我する必要なかったやんって」
「ははっ! もうええって、結果的にお前が助けてくれたわけやし……。それに、あいつらはもうおらんやろ?」
「……まあ、それはそやけど」
そう、結果的にあいつらは俺たちの前からいなくなった。まあ、当然といえば当然だが。なんせあそこまでのいじめ、いや、暴力事件を起こしたのだから。
あのあと、実はこっそり影から見ていたらしい女生徒の通報によって、数人の教師と警察が事情聴取にやってきた。いじめグループの数人と主犯格の男は、全員二週間の出席停止処分が課され、主犯格とそれに加担した数人はあっさり転校。あるいは不登校になり、のこのこ学校にやってきた残りの一人も、あっという間に広まった噂により、卒業まで陰口を叩かれて過ごすことになった。
愛楽はというと、警察により過剰防衛と認定され、同じく二週間の出席停止処分を言い渡されそうになったが、俺の懇願により、三日の出席停止と反省文だけの処分になり、俺はほっと胸を撫で下ろした。
愛楽はといえば、「別によかったのに」なんて言ってのんきに笑っていたが、俺は正直、愛楽の処分が決定されるまで気が気ではなかった。俺のせいで愛楽までもが暴力的な人間だと思われてしまったら、俺は立ち直れない。だが愛楽は、むしろ「親友を守った男」としてクラスメイトからの信頼と好感を集めに集め、クラスの人気者となった。
俺はそんな愛楽を見て誇らしい気持ちだったが、同時に、他のクラスメイトと仲良くする愛楽を見て、なにかモヤモヤした気持ちが生まれ出したのも、その頃だった。
そうだ。俺が愛楽に、親友に「恋」したのも、そのときだった。最初は嘘だと思った。友愛と恋愛を勘違いしているのだと思って、布団の中で何度も自分に言い聞かせた。だが、顔を見ているだけでほっとして、もっとそばにいたいと思う。無邪気な笑顔にときめいて、ときおり手が触れるだけで、心臓が飛び出そうなほど胸が高鳴る。この感情に名前をつけるなら、俺は「恋」以外知らなかった。
「ほんま、痛々しいわあ。……おれが、消してやれたらな」
「ッ……!」
するっと、愛楽の手が俺の手の甲に触れる。俺の傷を慰めるように、優しく撫でられる。俺はびっくりして、声にならない悲鳴を上げた。
「びっくりしすぎやろ!」
「や、せやかて……」
はは、と笑ってごまかす。愛楽に触れるたびに俺の恋心が脈動した。俺は根性焼きの痕を撫でると、ふう、と息をついた。
正直言って、この傷は俺の救いでもあった。この傷を見るたびに、愛楽が俺を助けてくれたことを思い出す。あの日、俺を守ってくれたことを忘れないでいられる。愛楽が死んで空虚な毎日のなか、この傷は俺に、大好きだった愛楽の記憶を思い出させてくれた。
けれど、そんなことを言ってしまったら怒られるだろう。バカを言えと、もっと身体を大事にしろと、愛楽は怒るだろう。だから言葉を飲み込んだ。誰にも言わない秘密だった。俺はなんだかたまらない気持ちになって、愛楽に笑いかけた。愛楽はなんだかよくわかっていないようすだったが、俺の笑顔を見て、にっこりと笑い返した。
「昌平、どないした?」
「……いや。愛楽、アイス食うか?」
「食う!」
わかった、と返してすっと立ち上がる。冷凍庫を開けてアイスを取り出そうとした。瞬間、インターホンが鳴った。
「誰や?」
「あー……。誰やろな」
後頭部をがしがしとかく。突然の来客に、愛楽は「隠れとくか?」と言って、冷蔵庫の影に身を隠した。
俺は愛楽を一度振り返ると、玄関まで行って、チェーンと鍵を開けた。ドアを開ける手が重い。正直、誰が来たか俺にはわかっていた。俺は汗を拭いて、思い切ってドアを開ける。そこには、小柄な少女が立っていた。
「あ、あー……。こんちは、小山さん」
「こ、こんにちは……!あの、あのな、今日も来て、ごめん……」
「はは、いやー……。ええよ、別に。ありがとうな」
「……!う、うん!」
「小山さん」は、照れながら笑った。彼女は、毎週不定期で、ときおり俺の家に訪ねてくる、クラスメイトの女の子だ。少し赤みがかった前下がりボブに、ぱっちりした目元と赤らんだ頬。彼女はいわゆるクラスのマドンナ的存在で、彼女をかわいいと評して好意を持つ男子生徒も何人かいたくらいだ。
実際彼女の面立ちは整っていて、そのうえ性格に嫌味もなく、女子生徒からの人気も高い。このうえないくらいできた女性だろう。
そんな彼女がなぜ俺の家に、毎週訪ねてくるのか。俺だって最初は不思議に思っていた。だが、俺だってそこまで鈍いわけではない。そのうちに気付いた。彼女は俺に、好意があるのだと。
俺だって、恋をしているからわかる。今思えば、彼女は、俺が学校に通えていた頃から俺にアプローチしていたように思える。ときどき俺に話しかけては、映画や本など、俺の好みを聞こうとして、最後には真っ赤になって逃げ帰っていく。俺はそれを「不思議な子」くらいにしか思っていなかったが、それも、俺へのアプローチだったのだろう。
今だって、俺の目を見ようとはしないし、声は震えているし、ずっと耳が赤い。きっと見ていれば、誰だってわかるくらい、彼女は俺に「好意」を抱いている。
「あの……あの、今日のプリント、渡しに……来たんよ。あの、でも、そんだけやから! それだけ! あ、あ、でも、その、今日、その……しょ、昌平くん! の、好きだって言ってたお菓子……見つけたから、買ってしもて……。あ、あげる! から! 食べて!」
「え? あ、ああ……。おおきに。いつもありがとうな、小山さん」
「う、ううん……!」
小山さんは俺に、プリントの入ったクリアファイルと、俺が昔好きだと言ったお菓子の入った袋を押し付けた。彼女は、それっきり黙り込むと、なにかを言おうとしては口を開き、閉じ、を繰り返した。
俺は、早く愛楽と二人きりになりたくて、けれど彼女の厚意を無碍にするわけにもいかず、だが、正直言わせてもらえば、俺はこうして毎週彼女が訪ねてくることに、少なからず疲労感を感じていた。
愛楽のいないこの地球で、どんな人物も俺の世界には不要だった。だから正直言えば、こうして毎週彼女の相手をしなければならないことすら、俺は、苦痛だと思っていなかったといえば嘘になる。最低なことだとわかっているが、俺にとって、彼女を好きになることは今後一生、絶対にない。そう断言できるほど、俺は彼女に興味がなかった。
「あ、あの……!」
「ん?」
「ま、また、来てもええ……?」
「あ……」
彼女は震えている。普段はこんなこと聞かず、勝手に毎週来るのに、今日に限ってなぜこんなことを聞くのか。彼女なりに、なにかそろそろ、思うことがあるのか。
俺は一度後頭部に手を添えると、あー、と口を開き、そのあと、彼女に言った。
「……そんなさ、毎週来んでもええよ。小山さんだって、いろいろ用事あるやろ」
「あ……えと……」
「こんな不登校の家に毎週来てるって、みんな知っとるん? 変な陰口叩かれるかもしれへんで。小山さん、人気者なんやし」
「そ、そんなん関係あらへんよ……! 私が……来たくて、来てるだけやし。……その、あの……迷惑、やった?」
……迷惑だと言われれば、迷惑だったかもしれない。俺は誰とも話したくないのに、毎週のように押しかけてきて、お土産だとかプリントだとかを押しつけて帰っていく。どうせ俺はもう学校に行く気もないし、なにもいらないのに、彼女は俺にまだ、なにかを期待しているようだった。
それが俺には重く、嫌な気分だった。だから、いつか、いつかは、彼女に「もう来ないでいい」と伝えるつもりだった。それが今かもしれない。そう思った。
「あ、えっと……」
ガシャン!!
その瞬間、リビングの奥から大きな音がした。
俺と小山さんはビクッとして顔を上げる。声は聞こえないが、おそらく愛楽がなにかをやったのだろう。だが、小山さんには愛楽の姿は見えていない。まだごまかせる。
「……あー、なんか、落ちたみたいやな」
「だ、大丈夫!? わ、私、掃除てつだ……」
「ええ、ええ! 大丈夫や! 俺掃除するから、小山さんは帰ってええよ!」
「そ、そう……? あ、あの、私また来るから! じゃ、じゃあ!」
そう言い残すと、小山さんはバタバタと帰っていく。俺は今日も「言えなかった」と思いながら、小走りでリビングへ向かった。
「愛楽!」
「あ、昌平! すまん、おれ……あの、コップ落として、割ってしもた……」
「あー……あはは、ええよええよ。派手にやったなあお前」
急いでリビングに戻ると、そこにはショックそうな顔をした半泣きの愛楽と、粉々に割れた透明なグラスがあった。話を聞くと、愛楽は水を飲みたくなり、手を伸ばして自分でグラスを取ろうとしたところ、うまく掴めずそのままグラスを落下させてしまったらしい。
俺が怒っていないか心配しているらしい愛楽は、しきりに「すまん」と口にする。俺は別に怒ってもなんともいなかったので、ええて、と返して、ちりとりを持ってくる。
俺がグラスを片付けていると、愛楽はそれをなにかしたそうに見つめ、そして自分の身体を見るうちに「あ」と口にした。
「どないした?」
「……ここ、見て」
「ん?」
愛楽が指差した部分を見る。そこは愛楽の身体らしきところの一部で、そこに、大きなガラス片がぶっすりと刺さっていた。
「刺さっとる」
「刺さっ……!?おい!愛楽、大丈夫か!?今抜いたるからな、痛かったな」
「いや、違うんよ。……全く痛くないし、気づきもせんかった」
「え……あ……」
そういえばこの前、こんな話をした気がする。痛みを感じるのか、とか。愛楽は、なにを考えているのかよくわからない目でガラス片を見つめる。俺は愛楽にかける言葉が見つからなくて、視線を彷徨わせる。
「……あい」
「……なあ、これ最強ちゃう?痛み感じへんとか」
「え?」
「いや普通に考えてみ?痛み感じへんのやで?怖いものなしやん!」
「あ……そ、そやな」
愛楽はニコニコと笑いながら、ガラス片を自分で引き抜いて剣のように振りかざして遊んでいる。痛みを感じないのなら、こんなふうに敵とバトルするのだって夢ではない、と言いたいらしい。
RPGの主人公になりきっている愛楽を見て、俺はすこしほっとする。自分が本当に人間ではなくなってしまったことを自覚して、愛楽がショックを受けてしまうのではないかと思ったから。
俺は遊んでいる愛楽を見ながら、新しいグラスに水を注ぐ。どんなときだってネガティブにならず、強いままでいる愛楽は、素敵だった。……ときおり、不安にもなるけれど。
「愛楽、水」
「あ、ありがとう! 助かったわ~。ほんまごめんなあ」
「ええて。俺もコーラ飲みたいわ」
俺はもうひとつグラスを手に取り、今度はコーラを注ぐ。俺と愛楽はいつも通り縁側に腰かける。さっき小山さんと話したときに感じたストレスが、愛楽の隣ではすっと消えていくようだった。
「なあ、さっき来たの誰なん? 女の子やよな」
「聞こえてたん。お前も知っとるやろ、小山さんや」
「え、小山さん? 小山さんて、あの?」
「せや。大人気の小山さん」
愛楽は、はあ~!と感嘆の相槌を漏らした。小山さんは、本当にクラスいち、いや、学年いちのマドンナで、誰しもの憧れの的だった。そんな小山さんが俺の家に訪ねてきていると知れば、こんな反応になるのも無理はなかった。
「毎週来とる。俺の家に。プリント渡しに」
「へえ~……。あの子性格もええ子やったもんなあ。でも毎週来るなんて、お前のこと好きなんちゃう?」
「……まあ、せやろな。多分、そうやと思う」
「ほお! あんなかわいい子と付き合えるなんて願ったり叶ったりやん! お前から告白したれや」
「はあ? 嫌や! 別に俺は小山さんのこと好きちゃうし」
俺が好きなのは……と言いかけて、はっと口をつぐむ。小山さんから告白されたらなんて、そんな話したくなかった。愛楽は、小山さんに好きだと言われたら、付き合うんだろうか。きっと付き合うだろうな。そう思うと、余計に胸が苦しくなった。
「…なに見とんねん」
「ふ、別に」
愛楽は笑う。木々の揺れる音に重なって、髪が揺れた。そんなはずないのに、隣にたたずむ愛楽の影は、昔の愛楽に見えた。
愛楽は水を飲む。そしてグラスを置くと、俺の顔をじろじろと見回した。
「…なんやねん」
「いや、お前やっぱ綺麗な顔しとるよなあ。昔っからモテ男くんやったもんな」
「いや…んなことないて。てかお前やってモテたやろ。ファンクラブあったやんけ」
「わはは、そういやそやったなあ。いや、でもお前もあったやん、ファンクラブ。部活中とかキャー!って言われとったよな」
「あー……あったな。ようわからんけどな、女の子たちのそういうのって」
「でもお前、やっぱモテるよなあ。昔っからモテ男くんやったもんな。昌平のファンクラブあったの忘れてへんで?」
「はっ、アホ抜かせ。あんなん別に嬉しくもなんともなかったわ。てかファンクラブあったのならお前かて同じやったやろ」
「ははっ、あったなあそういや。部活中とか、いろーんな女の子が見にきてくれたんよな。悪い気はせんかったけど、ちょっと疲れたなあ」
そういえば、そうだった。俺と愛楽には、中学高校と、ファンクラブがあった。昔から自覚はなかったが、どうやら俺と愛楽は、「モテる」部類の男に入るらしかった。身長181センチの愛楽と、177センチの俺。加えて、愛楽は顔がいい。周りからしてみれば、俺もイケメンらしいが、個人的に思ったことはない。
だが、高身長でイケメンの愛楽には、ファンクラブができるのも当然のことだった。しかも、愛楽に聞いたことがあるが、俺と愛楽の「コンビ推し」の女子生徒もいたらしい。女子のよく使う「推し」というのは、俺にはよくわからない概念だったが、昔から俺と愛楽はよくモテた。自分で言うのは恥ずかしいが、認めないといけないくらいには、俺と愛楽は人気者だったと思う。
人気者だった。そう思ったところで、胸の奥が痛くなった。人気者だった愛楽は、愛楽を取り巻く女の子たちの中に、好きな子がいたんだろうか。その子と、付き合いたかったり、したんだろうか。それなのに、俺がずっとそばにいたから、俺の面倒を見させたから、愛楽はその子と結ばれなかったりしたのか。
心臓がドキドキした。聞こうとして、けれど、聞けなかった。聞いたら、俺は泣いてしまう気がしたから。大好きな愛楽のことを独り占めしていたい気持ちが、まだ俺の中にあって、俺はこんなに汚い人間だと思わなかった。ごめん、愛楽、ごめんと、心の中で謝って、愛楽の顔が見られなかった。
「……愛楽、そろそろおかん帰ってくるわ。部屋、戻ろ」
「お? おお、せやんな」
愛楽はブヨブヨと動きながら階段へ向かっていく。俺はそんな愛楽を見て、無性に泣きたくなった。
遠くのほうで、ひぐらしが鳴いている。かなかな、かなかな、一日の終わりを告げている。
「愛楽、好きや」
届かない思いを、今だけは口にさせてくれ。そう願った。
*
「愛楽、サイダー買うてきた。一緒に飲も」
「おー! やった! サイダー大好きや!」
今日で愛楽が俺の前に現れて二週間経った。俺は愛楽とよく飲んだサイダーを買いに、数ヶ月ぶりに外出した。外は虫の一匹や二匹なら普通に死にそうなほどの蒸し暑さで、引きこもりの俺にはあまりに辛い環境だった。だが、愛楽の喜ぶ顔を思えば、サイダーの重みも嬉しい重みだった。
俺と愛楽は縁側に座り、サイダーの蓋を開ける。愛楽はうまく開けられないので、俺が開けてやった。
「……はーっ! うまい! やっぱ暑い日にはサイダーに限るなあ!」
「せやんなあ。お前、昔からサイダー大好きやったよな。縁日でも絶対買うてたやんか」
「サイダーってうまない? おれめちゃくちゃ好きやねんな。なんか中に入っとるビー玉? もキレイやし」
そう言って愛楽は、サイダーの瓶を太陽に透かした。ガラス瓶に日光がちかちか反射して、俺は目を細める。
「……眩しいなあ」
「せやな。反射して眩しいわ」
「……眩しいわ、ほんま」
「ははっ、何回言うねん」
愛楽はからから笑うと、ぐいっとサイダーを飲んだ。
俺も真似して飲む。炭酸が喉につっかえて、咳が出た。愛楽はずっと眩しかった。愛楽の金髪に反射する陽光がずっと眩しくて、俺はそれが大好きだった。好きで、愛しかった。今の愛楽は違う姿だが、それでも愛楽であることに変わりはない。ただ、もうあの愛楽は戻ってこない。そう思うと、少し胸が締め付けられた。
「これ、おれビー玉とるの苦手なんよ」
「そうか? こんなん割ればええだけやろ」
「割るのが嫌やねん! 怪我したらどないすんねん」
「ビビリか。ほら貸し、俺が割って……」
そう言って愛楽のほうににじり寄ると、愛楽も俺に少し近づく。俺が愛楽のサイダーの瓶に手を伸ばしたとき、ふと、俺と愛楽の手が触れた。
愛楽の手はベトベトブヨブヨしていて、冷たかった。その瞬間、俺は、愛楽はもうあの頃の愛楽ではないんだと理解した。あのあたたかくて俺より大きくて、深爪に悩んでいた愛楽の手はもうない。手首に時計型に日焼けのした、あの愛楽はもういない。
そう気づいて、俺は名状し難い感情に苛まれた。今の愛楽を愛していないわけじゃない。それは違う、絶対に違う。今目の前にいる愛楽だって間違いなく愛楽で、ブヨブヨでも、冷たくても、大好きだ。
俺が最初に好きになったのは、あの愛楽だった。俺より背が高くて、英語が苦手で、その割に国語は得意で、バイトに勤しんでいた愛楽。その愛楽はもういない。あの愛楽にはもう会えない。
チクンと胸が痛む。またあの愛楽に会いたくて、でも今の愛楽もずっとそばにいてほしい。俺の感情は不安定だ。わがままだ。それでも俺は、どんな愛楽でも愛そう。胸の奥に、そんな感情が生まれた。
「……昌平?」
「……あ」
「……昌平、あんな、ずっと聞こうと思っててんけどな、あんな」
「……うん」
「今のおれのこと……どう思っとる?」
愛楽の手が俺の手を握る。冷たくて身体が震えたが、すぐに俺の体温がつたって、あたたかくなる。
今のおれ、とは、つまり。
「こんな……バケモンみたいな身体になってしもて、おれ、ほんまはお前が怖がってるんちゃうかって、ずっと思っとって。おれとほんまは、もう、一緒に……いたくないんやないかって」
「……んなことない!!」
言うが早いか、愛楽のことをぎゅっと抱きしめる。肩で呼吸をして、はあ、はあ、という俺の呼吸音が、セミの鳴き声のはざまに消えていく。
愛楽はすこし震えていた。怖かったんだ、愛楽は。ずっと、こんな身体で蘇ってしまって、俺が本当は怖がっているんじゃないかって、不安だったんだ。そんな気持ちに気づいてやれなかったことが申し訳なくて、唇を噛み締める。
愛楽の、どこが頭だかわからないような身体を強く抱きしめて、俺は「大丈夫やから」とうわごとのように繰り返した。
「……ありがとう、昌平。安心した」
「うん……」
「……はは、昌平お前、手でかなったなあ。昔はあんなに小さかったのに」
「いつの話しとんねん。お前には敵わんかったけど、俺かて大人の男やねんぞ。手だって昔の二倍くらいでかなっとる」
「二倍は盛りすぎやろ!」
あはは、と愛楽が笑う。愛楽の目には涙が溜まっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。俺はそんな愛楽の涙を拭って、愛楽ににっこり微笑みかける。
「愛楽、大好きやで」
「……うん、おれも、大好きや。昌平」
*
「愛楽、飛ばしすぎやて!」
「おー?聞こえへんわあ!風が気持ちええなあ、昌平!」
「飛ばし!すぎや!怖い!」
……夢を見た。
愛楽と自転車で二人乗りしたときの夢。昔中学生だったころ、よくこうして二人で遊びに行った。
俺は愛楽の耳元で「速度を落とせ」と叫ぶ。愛楽は聞く耳を持たずに、びゅんびゅん飛ばしていく。俺は振り落とされないように必死に愛楽の背中にしがみついた。
愛楽の金髪から、ほのかにシャンプーのにおいがする。ぴったりと密着した俺と愛楽の距離は、誰にも引き離せないんじゃないかと思うほど、近かった。
心臓がドキドキと迅る。河原のほうで、小学生が野球をしている。愛楽の金髪が、ちらちらと日光に光った。
愛楽の背にすり寄ろうとした。だが、気付けば愛楽は俺を置いて、一人で走っていっていた。俺は愛楽の背中に手を伸ばす。
「愛楽、行かんで、愛楽」
愛楽はどんどん一人で行ってしまう。愛楽は振り返らない。さっきまで触れ合っていたはずの体温が、もういない。俺は、行くな、と何度も叫ぶ。愛楽に手を伸ばす。そして愛楽の身体は、さっきまでなかったはずの闇の中へ吸い込まれていく。そして、俺は――。
「昌平、昌平! 起きて~!」
「あッ……!……ああ、愛楽……おは、よう」
ゆさゆさと身体をゆすられ、薄ぼんやりとした視界がぐらぐら揺れる。俺は愛楽に起こされているのだと理解して、目を開ける。寝ぼけ眼で愛楽の頭を撫で、ゆっくりと布団から起き上がった。
愛楽に笑いかけると、愛楽も俺を見て笑う。愛楽は俺の手をブヨブヨした手でぺちぺち叩くと、なあ! と興奮気味に俺に話しかけた。
「今日花火大会の日やて! おれさっき涼子さんが『花火大会かー』て言うてんの聞いてしもてな! 花火! 花火やで!」
「え? 花火?……ああ、そやったなあそういえば。お前好きやったもんなあ」
「そやそや! なあお前花火見にいく? 見にいく? おれも連れてってや~」
そう言って愛楽は頭を俺にぐりぐりと押し付けた。昔も今も、愛楽は花火が好きだった。夏は絶対に俺の家の庭で花火がしたいと言って、ひとりで大袋の花火を買ってきて勝手にはしゃいで帰っていく。花火大会も大好きで、毎年俺は、はしゃぐ愛楽に手を引かれ、二人で花火を見たものだ。
「……ばか言え、お前、その身体でどやって花火大会行くねん。バレたら大騒ぎやぞ。それともなんや? 人型になれるんか?」
「うーん……。うーん、うーん! 無理やなあ……」
「ははっ、伸びとるだけやないか」
愛楽はぐいーっと上に伸びて、なんとか人型を作ろうとしたが、見た目はおろか、形すら一切人間に近づくことはなかった。俺が愛楽に「諦めろ」と言うと、愛楽は「花火」と悲しそうに口にして、ぐすぐすと涙を流し始めた。
「ちょ、おい、おい! なに泣いとんねんお前ほんま。わかった、わかったから。俺んちの庭で花火見よ。こっからなら見えるやろ。な? それでええな?」
「……ゔん……」
「ほら、泣くなって。今度手持ち花火もしよや。お前ネズミ花火好きやったよな? いっぱい買ったるから、泣くな、愛楽」
愛楽は数回ぐすぐすとぐずると、涙声で「うん」と返事をして、にっこり笑った。
「ありがとうな、昌平」
「ええて」
「……ほんま、ありがとうな」
愛楽はどこを見ているともつかない目線で、俺にそう言った。俺はなんだかそんな愛楽の挙動が不思議で、すこし首をかしげたが、それだけ花火が見たかったのだろうということにして、用意された朝食を食べに、愛楽と下に降りた。
夕方。俺は愛楽を部屋から追い出し、ひとり「あること」に勤しんでいた。
「これ……ッ、やっぱ、案外難しいんよな。俺不器用なんかな……?」
「なあ昌平~。もう入ってええ?」
「まだや! まだ!……よし、ええで!」
入るで、と言った愛楽は、がちゃりとドアを開けた。そして、その直後、その目をきらきらと輝かせて言った。
「……よう似合っとる。お前、やっぱ浴衣似合うよなあ」
「せやろ? お前と花火行くときはいつもこの格好やったからな。かたちだけでもと思って」
「めっちゃええと思う! おれも浴衣着たいな~」
そう、俺は浴衣を着ていた。本当はいつも通りの部屋着のだらしない格好でもよかったのだが、花火大会に行けない愛楽に、少しでも気分を味わってほしくて、タンスの奥から引っ張り出してきたのだ。
さすがに愛楽に浴衣を着せることはできないが、それでも愛楽は「花火大会らしさ」を感じることができたようで、にこにこと笑っていた。
「ほな、そろそろ始まるな。行こか」
「おう! 楽しみやな~!」
俺は愛楽と一緒に、縁側に腰掛ける。愛楽が死んだあとは、滅多にこの縁側に腰掛けることもなくなった俺だったが、愛楽が現れてからは、毎日のようにここに座り、愛楽と日が暮れるまで一緒に過ごすことが恒例になった。
俺はこれからも続く愛楽とのそんな生活を想像して、思わず顔が綻んだ。
「外、賑わっとんな。まあ当たり前か。このへんの人間はみんな花火大会行くもんな」
「せやんなあ。おれもこの身体じゃなかったらなー。わたがし食べたりくじ引いたりしたかったなあ」
「まあそう言うなって。俺と一緒に花火見れるだけでええやろ? なんつってな」
「……せやな。お前と一緒に花火見れるだけで、じゅうぶんやわ」
「……は、あはは。そ、そうか、せやな」
胸がどきっとした。前にもこんなことがあった気がする。愛楽は相変わらず、俺の冗談にへんなことを返してくる。俺が真っ赤になっていそうな耳を手で隠すと、愛楽は「照れとる」と笑った。
「照れてへんわ! アホ!」
「照れとるやないか!」
「うるさい! ……てかさ、ずっとお前に聞きたかったことあってんけど」
「おん?なに?」
愛楽は首を傾けるような仕草をしてこちらを見る。実際に愛楽に首はないので、あくまで「風」な仕草だが。
「……お前、死んでからはじめて俺と会うたとき、なんであんなテンション高かったん」
「どういうこと?」
「いや、あんとき俺に殺されかけたやん。しかも、お前変な身体になっとるし。もっと取り乱しても…よかったんちゃうん」
「あー……まあな」
愛楽は目を伏せて考える。人間だったころの愛楽のこの表情が、俺は好きだったな、と漠然と思う。
愛楽は「うーん」と唸ると、ゆっくり口を開いた。
「確かに、変な姿になってしもてビビったよ。けど、それ以上にお前に会わなって思って、他のなんも見ないで、急いできたんよ。お前に、会いたかったから」
「……そう、か。ありがとな、愛楽。俺に……会いにきて、くれて」
「おん。お前のこと、心配やったしな。……そろそろ始まるやろ。見逃すで」
愛楽は空を見上げる。俺も真似して空を見上げた。愛楽は俺に、一番に会いたいと思って、俺のところへ来てくれたんだ。それだけ聞ければ、俺はじゅうぶんだった。
むずがゆい気持ちを心の中で抱きしめる。そのとき、横に置いていた携帯がぶるっと震えた。
「……連絡来たわ」
「誰から?」
「……小山さん」
「小山さん?」
メッセージアプリに連絡を入れてきたのは、あの小山さんだった。俺は花火が始まりやしないかと空をちらちら見上げて、それから小山さんのメッセージに目を落とす。
『一緒に花火を見ませんか』
それが小山さんからのメッセージだった。俺は、はあ? という気持ちになって、後頭部をがしがしとかいた。
彼女が俺のことを好きなのは知っているが、まさか俺がこの誘いを引き受けるとは思っていないだろうし、まして今の俺の隣には愛楽がいるのだ。俺ははあ、とため息をつくと、メッセージを打ち込んだ。
「なんて?」
「……一緒に花火見いへんかやて」
「え、行かへんの?」
「アホか! 行くわけあらへんやろ。お前と花火見たいねん、俺は」
「そ、そうなん?」
愛楽は「行ったらええやん」と言いたげな目で俺を見ている。まあ愛楽の気持ちもわかる。こんな引きこもりの俺を唯一好いている人間に優しくしなくてどうすると、彼女のひとりでも作ったらどうだと思っているのだろう。だが俺が好きなのはどうしようもなく隣にいるこの男だ。俺は「すまん、無理や」とだけ打ち込むと、その少々冷たげとも言えるメッセージを送信した。
「もったいないなあ……」
「ええわええわ。それよりほんまにそろそろ花火始まるで。見よ」
「そ、そやなあ」
俺は携帯の画面を下にして置くと、空を見上げた。愛楽もゆっくり空を見上げ、今か今かと待ち侘びている。
次の瞬間、一筋の光が、揺らぎながら空へ昇った。
「……あ」
どん!
心臓が強く揺れる。そんな衝撃が、俺の胸へ届いた。赤色の花火が、空へ咲いた。
「きた!」
きれいだ。そう思った。愛楽が死んでからひさしく思うことのなかった感情。
つぎつぎに空が照らされていく。猫、ハート、星。さまざまな形で、空に咲いていく。俺は感動して、気がつけば笑っていた。愛楽のほうを見る。愛楽も笑って、それでいて寂しそうな顔で、花火を見上げていた。
「きれいや……。きれいやなあ、昌平」
「……ああ、そうやな。花火って、こんなに、きれいやったんやなあ……」
俺と愛楽の距離が、ゆっくり近づく。手が触れて、俺が引っ込めようとすると、愛楽は俺の手をぎゅっと握った。
「……あい」
「……昌平、あんな。おれのひみつ、聞いてくれる?」
「え……?うん」
手を握る力が、いっそう強くなる。俺はなにか嫌な予感がして、なあ、と愛楽に呼びかける。
そして気がつく。愛楽の身体が、なんだかいつもより、溶けている気がする。
「あんな、おれ、おれな、お前のことな」
「ちょ、あい」
「黙って。おれ、お前のこと」
好きや。
愛楽が、そう口にした。
「……え」
「もう、ひみつにできへんよ。ここで言わんかったら、おれ後悔する。おれお前のこと大好きやった。友達としてとかじゃなくて、これは、恋や」
愛楽が、大粒の涙を目に湛えている。俺はびっくりして、頭の処理が追いつかない。愛楽が言っていることが本当なのかどうか、俺にはわからなかった。
「それ……お前、本気なん?」
「本気や。おれはずっと」
「なん……」
俺も、と言いたくて、愛楽の手を俺も握った。ときおり愛楽のその身体が、花火の色に照らされる。そうして見た愛楽の身体は、間違いなく、どろどろに溶け始めていた。
俺は「俺も好き」なんて言う前に、それがどうしようもなく気になって、愛楽に問いかける。
「なあ、愛楽、お前なんかへんや。お前の身体、どろどろやぞ。愛楽、お前のその気持ちは嬉しいよ。けど、なあ、俺に隠しとること……ない?」
「……すまんな。おれ、もう限界なんよ」
「……限界て、なに」
俺の身体がガクガクと震える。愛楽の手を強く握った。嫌な予感が俺の身体を駆けめぐって、まさか、と思った。
「……俺の身体がこんなんなってしもたのは、罰なんかな。それとも、神さんのくれた最後のチャンスなんかな」
「……なに言うとん」
「あんな、おれの懺悔、聞いてくれる?」
「……あい、ら」
愛楽は、ぽろりとひとつ涙を流して、震える身体で俺に話し始めた。
「おれ、ずうっとお前のこと好きやった。中学生のときには、もうお前のこと、友達として見れんくなっとったよ。お前がおれのこと友達やって言うてくれるたびに、胸が痛くてしゃあなかった」
「……うん」
「……そんときはまだ、俺の恋愛感情なんて、かわいいもんやったかもしれん。決定的に変わったんは、あの日や」
愛楽は滔々と語る。そうして愛楽は口にした。俺が中学生のときの、あのいじめ事件の日のことを。
「……あの日、お前を抱きしめたやろ。あんとき、ほんまにおれは怒っとった。あのいじめっ子ら全員殺したるって、ほんまに思っとった。そのあと、お前学校来なくなったよな。おれほんまにそれが心配やってん。けどな、けど」
「うん……」
そう言いながら、愛楽の身体は少しずつ溶けていく。俺は声が震えて、うまく相槌ができなかった。もう花火なんて、どうでもよくなっていた。
「……お前のこと、これで独り占めできるって、思ってしもて……」
ぎゅっと、愛楽は俺の手を握る。愛楽の目からは、何度も涙がこぼれていた。
「人気者のお前のこと、これで独り占めできるって、思った。おれといるときだけ笑ってくれるの、嬉しかった。お前のそばにおれるのはおれだけやって思った。一生こうやって、おれだけに笑いかけてくれればいいって、おれ、本気で……思ってた」
「なんや……それ」
「……怒った?」
「……怒るわけ、ないやろ!」
愛楽の身体がびくっと跳ねる。俺はいつになく、大きな声をあげた。なにが懺悔だ。なにが罰だ。そんなこと俺だって何度も思った。お前が俺の家に毎日のように遊びにきて、ときどき学校をサボってまで俺の様子を見にきてくれるたび、俺は嬉しいと思った。愛楽の生活を俺が侵食していくのが、喜ばしかった。
俺はそんな最低な俺のことをずっと許せなくて、何度も心の中でごめんと謝っていた。それを口にしようとしても、うまく言葉が紡げない。俺は愛楽のことを抱きしめて、何度も愛楽にあほ、と言った。
「……俺もお前のこと、大好きや……。俺も、お前と同じ気持ちやねん……。お前が……お前が、学校で、俺と付き合っとるって噂が立ったとき、俺……嬉しかった。俺かて、お前と同じくらい、お前に最低な感情抱いとんねん……。だから、お前の懺悔なんて、懺悔と、ちゃう、よ……」
「……昌平」
向こうのほうで、ぱぁんと花火が弾ける音がした。俺と愛楽はずっと抱きしめ合う。俺が愛楽を離すと、愛楽は、泣きながら「嬉しい」と言った。
「あんな、昌平。これも、ひみつやったんやけどな」
「……うん」
「おれな、お前がおれのこと好きやったの、気付いとったよ」
「……へ」
愛楽は、ごめんな、と言った。俺は愛楽が言っている意味がよくわからなくて、頭の中で何度も反芻する。
俺がようやく理解したころ、俺の眉間は、しわしわに歪められていた。
「……なんで、言うてくれへんかったん。気づいて、たんなら」
「すまん……。お前、昔からモテたから、きっとすぐにおれ以外の子、好きになると思っとって……。けど、失敗したなあ。ちゃんとお前に好きやって伝えとったら、もっとはやく、触れ合えてたのに」
「そう、やよ。お前、ほんまばか……。俺はずっと、お前のことしか見てへんのに」
「うん……。ごめん、おれ、いつも一足遅いわ」
ははは、と愛楽は作り笑いを浮かべる。そんなことはないのに。愛楽はいつだって、俺のピンチに駆けつけてくれた、俺だけのヒーローだったのに。
床についた手が、力を込める。ぎぎ、と、爪で木をひっかく音がした。
愛楽は手を伸ばすと、俺の汗で張りついた前髪をゆっくりどかして、にっこり微笑んだ。
「昌平、好きやで」
「……なあ、隠さんで言うて。お前、消えたりせえへんよな?」
「……すまん。おれ、今日起きたときからなんとなくわかっとってんな。もうおれ、消えてまう。意識もなんとなく、ハッキリせんねん。たぶん、もうおれ……死ぬ、な」
「……死ぬ?」
愛楽が、死ぬ。
愛楽が死ぬ?
「……あかん」
「……んなこと言われてもなあ、おれももうあかんねん。もう、うまく力も入らん……。身体もどんどん、溶けてってる気がする。たぶん、お前から見てもそうやろ?」
愛楽は力なく笑った。ふるふると震える手を掲げると、な?と言って、俺を見た。愛楽の身体はどんどん形を保てなくなり、一部は完全な液体になっていた。
俺は愛楽が言った「死ぬ」という言葉の意味を理解したくなくて、思考が真っ白になった。
また死ぬのか、愛楽は。せっかくまた出逢えたのに、また俺の前から消えるのか。しかも、今日、今、消えるのか。そんなの嫌だ、と思った。俺はどうしたらいいかわからなくなって、ただずっと「あかん」「消えるな」なんて、繰り返す。
「いやや、愛楽。お前、俺のこと守ってくれるって昔言うたやないか。約束破るんか? 俺と一緒におってや、俺、お前がおらんかったら、どうやって息したらいいか、わからんよ……」
「……すまんなあ。俺もお前がおらんなったら、きっと、世界で一番不幸や。それをわかっとるのに、またお前を置いていこうとするなんて、おれはダメな男やなあ……」
「愛楽……」
握った愛楽の手は、もう手とは言えないほど液体になっていて、握った手からポタポタと水らしきものがこぼれ落ちた。
俺は必死で愛楽の液体をかき集めて、身体の形を保とうとする。けれど愛楽はふうふうと辛そうに呼吸をして、ときおり目を閉じていた。
「お前、どうやったら消えなくて済む? 俺が治したる。どないしたらええ? なあ!?」
「……無理やよ、昌平。おれはそもそも、この世界に存在したらあかんのや。もう、死んどるんやから。だから、これが正しいことなんよ。心配せんで、昌平。……また、逢えるときが来る、から」
「いやや……いやや!!」
また逢えるときが来るなんて、嘘だ。俺はそんなの信じない。今ここで愛楽の手を離してしまったら、きっと二度と会えない。俺は何度も嫌だと叫んだ。気づけば、俺の目からは、大量の涙が溢れていた。
「昌平、お前……泣いとんか……?」
「……え?」
自分の目に手をあてて、初めて気づく。自分が泣いていたことに。
俺は何度も涙を拭うが、その涙は止まる気配を一切見せない。それどころかどんどんと勢いを増し、俺の視界をあっという間に奪った。
「あれ……あれ。あは、おかしいな、俺、もう……ずっと……」
「昌平……泣くなって。ごめんなあ、お前のこと、また置いてってまう。それが嫌やから戻ってきたはずやのに」
「……愛楽、行かんでよ。いやや、俺、お前と……ッ、また、離れた、ない。ずっと俺のそばにおってよ、愛楽ぁ……」
泣きながら愛楽に叫ぶ。愛楽の手を頬へやろうとするが、その手はどんどんとずるずるの液体になって手から滑り落ちる。愛楽はにっこり笑って、おねがい、と俺に言った。
「最後にまたぎゅってして。悪い子のおれを……許して、昌平」
「愛楽、は……悪い子なんかと、ちゃうよ。ばか、ずっと俺を、守ってくれてたやんか。大好きや、愛楽、だから、お願いや、消えんといてよぉ……」
もう完全に溶けかけている愛楽の身体を、抱きしめているかもわからないけれど、ぎゅっと抱きしめる。愛楽の身体は俺の手の隙間から滑って、縁側や地面に落下していく。俺は涙をびしょびしょに流しながら、必死に愛楽の身体を抱きしめ続けた。愛楽も同じく泣きながら、もう力の入らないであろう腕で、俺の背中に手を回した。
「ああ……もうだめや。おれ、消えるんやなあ。ほんまに消えるんや。一回死んだのに、また死ぬのはいややなあ……。昌平、でも、悲しまんといて。おれ、またお前に逢いにくるよ。ぜったい、ぜったいや。だから……それまで、幸せでおって」
「無理や……無理やよ、そんなの。俺、お前のおらへん世界に興味なんてないよ。なあ、俺のこと連れてってよ」
「バカ言うな、昌平。泣かんで、永遠のお別れとちゃうよ。また逢いにくる。だから、笑って、笑って見送ってや、昌平。おねがい」
愛楽は力なくそう言って、俺の手に身体を寄せた。俺は「無理や」と言いたかったけれど、ここで愛楽のお願いを聞いてあげなければ、俺は愛楽の気持ちを裏切ることになると、そう思った。
辛そうに目を閉じたり開けたりする愛楽を見ながら、俺ははくはくと口を動かす。俺はなにも言えないほど悲しくて、けれど、ひきつる顔を無理やり笑顔に変えて、愛楽の目をじっと見つめた。
「昌平……」
「……大好きや、愛楽。またな」
「……ああ、ありがとう……。おれも、好きや」
そう笑って、愛楽の身体は、次の瞬間水のようになって消えてしまった。あとかたもなく消えてしまった愛楽の「身体だったもの」を、俺は両手でかき集めた。浴衣や顔が濡れるのなんてどうでもよくて、ただひたすら、かき集め続けた。
「いやや、愛楽、い、いやや」
涙が止まらない。また俺に笑いかけて、俺を抱きしめて、その声で名前を呼んで。
どんどん俺はせぐりあげて、いやや、と何度も口にする。消えないで、行かないで、俺のそばに、ずっといてほしかった。愛楽がいない世界で、俺はどう生きていけばいいんだ。
ぱん、ぱん、と何度も花火が打ち上がる。俺の手が、俺の手から滑る液体が花火の色に染まる。
最後の花火に、俺の叫び声はかき消されていった。
「いややああぁぁぁ…………」
*
「昌平、お母さん仕事行くなー」
「……ああ、うん。いってらっしゃい」
「……うん。ちゃんとご飯食べなあかんよ。あと日光も……」
「わかっとるよ。はよ行かな遅刻すんで」
母は「うん」と言うと、忙しなく家を出ていった。俺はようやく一人になれた安堵感で、リビングの床に寝っ転がる。
愛楽が消えてから、一週間が経った。俺はあの日から、また感情の起伏を感じなくなり、泣くこともなくなった。
「幸せでいてくれ」なんて、あの日愛楽は言った。とびきり優しい目で、俺にそう言った。俺は、愛楽の意志を踏みにじりたくなくて、なんども「幸せでいる」努力をした。早起きしたり、自分で料理をしたり、ゲームをしたり、外出もした。それでも、俺の心はいつも愛楽に囚われていて、いつ何時も愛楽の記憶から離されることはなかった。
床に寝転がって、静かに呼吸だけをする。リビングの姿見に見えた自分の顔を見つめた。
「ひどい顔やなあ」
自分を嘲笑する。前にもこんなことがあった気がして、ぼりぼりと頭をかく。
次の瞬間、ぴんぽん、と玄関のチャイムが鳴る。俺は一瞬で「ああ」と察して、重たい足取りでドアを開けた。
「しょ、昌平くん……。こんにちは。あの、これ、今週のプリント……」
「ああ、どうも……」
俺の家を訪ねたのは、またも小山さんだった。俺はもう精神的に限界で、一刻も早く一人になりたかった。
「あの、昌平くん。みんな、心配してるんよ……。そろそろ、学校……」
「……あのさあ。悪いんやけど、もう来ないでもらえるか? 俺、もう学校とか行く気あらへんし、小山さんの気持ちにも応えられへんから。それじゃ」
ばたん! と強くドアを閉める。すこし時間を置いてからばたばたと去っていく足音を聞いて、そこで初めて俺は「言いすぎたかな」と思い返す。ただ、これが俺の本音のすべてだ。それをいつまでも偽り続けるのは、小山さんにも、俺にもよくない。不誠実だ。
「……愛楽、逢いたいなあ」
リビングの棚の上に置かれた愛楽の写真が目に入る。いつまでもこんなものを飾っているわけにはいかない。わかっていながら、俺はずっとこんな紙切れに縋っていた。
俺はぽっかりと心に開いた穴のような感覚を大声を出してかき消す。こうしないとおかしくなりそうだった。
「……あ、もう紅茶切れそうやん」
冷蔵庫をがぱっと開けると、母が常飲している紅茶のペットボトルが空になりかけていた。母は仕事から帰ってきて、これを飲むのが仕事後の楽しみと言っているほどこの紅茶が好きだった。
「一杯分……ないな。……買うてきたるか……」
母はきっと、帰ってきてこれがなかったら悲しむだろう。たぶん、もう切れかけていることも忘れているだろうし。本当は億劫だが、仕方ないと思い、俺は適当な服に着替える。
鍵と財布と携帯だけデニムのポケットに突っ込んで、俺は玄関の外に出る。クソみたいな暑さに、一瞬でめまいがして、思わず足が家を向く。だが親孝行ひとつできない息子でいるわけにはいかない。俺の良心がそう言った。
「……しゃーない、行くか」
俺は近所のスーパーまで早足で行くと、紅茶の大きなペッドボトルを手にとって、適当に惣菜コーナーを物色だけしてレジに進む。
財布を開くと、小銭に五円と二円しか入っていなかったので一瞬血の気が引いたが、千円が奇跡的に入っていたので難を逃れた。
「ありがとうございましたー」
店員の声を背に、俺はスーパーを出る。すると下校中の小学生が列を成していて、ああ、もうそんな時間か。と思う。空を見上げればまだ真っ昼間という具合で、天高く雲が悠々と泳いでいる。
俺は帰ったらなにをしようか、歩きながら考える。紅茶を冷やして、飯を食べて、することもないのでゲームでもするか。
「ふぁ……」
あくびをして、小学生たちのそばを歩く。
昔、俺と愛楽もこんな風に一緒に下校したな。そんなことを思って、すこし胸の奥があたたかくなった。
早く帰ろうと思って、すこし早足になる。そして地面に雲がかかった瞬間、後ろから声がした。
「昌平」
「……え?」
後ろを振り返る。列を成して歩く小学生の真ん中に、ひとり佇む少年がいた。
そいつを見た瞬間、俺は大きく目を見開く。鼻の奥がつんと痛くなって、つぎつぎに涙が出た。
「だから言ったやん。おれ、ぜったい、また逢いにくる、って」
目を細めて笑う「そいつ」に、俺も泣きながら笑い返す。
空の雲が晴れて、まぶしい陽光が差し込む。ああ、やっぱりまぶしい。まぶしいな。そう、思った。
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