空腹に、文字を。

騒然

騒然
「はっ、はぁっ……！」
　……夜道に、誰かの声が静かにこだまする。女だ。名も知らぬ女の声。その女の足からは、いや、足だけではない。手も、顔も、いたるところに血がにじんでいる。枝と小石の転がる地面を素足で駆け抜け続けた女の足は、今やそのきれいさを失い、血と泥に塗れている。今にも剥がれ落ちるのではと思うようなそのつま先は、とても直視するには居た堪れない。
「誰か、たすけ、て」
　喉が痛くて声も出ない。さっきからはとうとう足も震えて、うまく走れなくなってきた。もう限界は近い。あるいはとっくに超えている。それもそのはず。彼女はもう、自分がどれほど逃げ続けたのかすら覚えていないほど走り続けていた。ただ、確かに空を照らしていた光が消え失せたこと。それだけ確かだった。
「……あ」
　瞬間、回転するように彼女の視界が揺れる。いけない、と思ったときにはもう手遅れだった。彼女の体は地面に強く打ち付けられ、全身が強い痛みに襲われる。運よく頭は打たなかったらしく、意識こそはっきりしているものの、足がぴくりとも動かない。疲労か、それとも骨折か。動かそうとすると冷や汗が噴き出るほどの激痛。おそらく折れたなと彼女は察した。
　動けないのではもうどうしようもない。目もろくに働かず、周囲になにがあるかもわからない。ああ、もうだめだ。きっとあれが自分をまだ追っている。この生はここで幕を閉じるのだ。
「ジュネスさま」
　絶え絶えの息でつぶやく。彼女は倒れ伏したまま、ひとつ涙を流した。自分はあの人の役に立てていただろうか。必要とされる人間であれただろうか。
　遠くのほうで鳥の羽ばたく音がして、彼女はか細く、ひとつ息を吸った。

　【空腹に、文字を。】