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序章
黒羊の刻、中庭にて 『年代記 赤き衣の王と金色の道』
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遺跡の変かはすぐにナギにも感じ取れていた。遺跡全体が生き物の様に動き始めたような錯覚になる。無秩序な黄色い明かりも今は効率よく動いているようなそんな感覚がした。
(急がないと‥‥)
ナギの周りには人の気配がしない。広いだけの遺跡の中であった。
明るくなったこともあり、中がはっきりと確認できるのであるが、やはり相当に痛んでいる。壁のあらゆるところが崩れていた。
ナギは遺跡の中央に向かって走っていたが、下に向かう部分を探せないでいた。膝に手を置き荒い息を整えながらレリーフを睨んだ。それはサーラ達が見た黒い砂を炉に集めているレリーフであった。
(‥‥これ鋳型か?いや違うな。なんだろ)
ナギが身体を起こそうとすると、隣の間から人の声らしきものが聞こえてくる。咄嗟に身構え身をかがめた。明るくなったとはいえ瓦礫の影があちらこちらにあり隠れる場所は少なくない。
しばらくすると十数人の兵士を引きつれたモーロが、汗と唾をまき散らしながら入ってくる。ナギは瓦礫に這いつくばり聞き耳を立てた。
「グラムがこの壁の先に入ったのだな?」
「は! グラム博士もですが諜報部もファルキア殿も姿が見えません」
「破壊出来そうか?」
モーロの言葉に兵士たちが動く。小型の破壊槌を数人で抱えレリーフに突進する。崩れかけた煉瓦の一部がはじけ飛ぶとその下から一枚岩の黒鉄が現れた。さらに何度も破壊槌を当てるが黒鉄の壁は傷一つついていない。兵士たちは首を横に振った。
「入れぬな。船からカタパルトを打ち込んで建物ごと崩してみるか」
モーロの声に反応するように室内に声が響いてくる。
「そのようなことをしなくても大丈夫ですよ将軍」
「グラム! どこにおる!? 姿を現せ」
何もない広間の空間に白い石を前にしたグラムとサーラの姿が浮き上がってくる。その姿に兵士たちの間に驚きの声が広がった。
「そんなところにおったか! どうした黄玉は見つけたのか?」
グラムはモーロを見下ろしている。心底軽蔑した目をしていた。この期に及んでこの出世欲だけが肥大した小さい男は自分が何をしたのかを理解していない。
「見下げ果てた猿だな、モーロ。お前の前にいるのは、中つ国を統べる真実の王であるぞ」
モーロはグラムの言葉の意味を理解できなかった。その間抜けな顔がグラムの勘気を誘う。グラムは生理的にモーロのことを受け入れ難かったこともある。
「やはり知能の足らない猿には言って聞かせてもわからぬか‥‥」
グラムの手の中にある黄玉が、白い石をなぞる。古代語が浮き上がると広間の壁がなくなったようになり、外の風景が現れた。しかしそれは少し高い位置から見ているようである。続いて背の高い防波堤が低い音を立てながらゆっくりと閉じていくのが見て取れる。
「よく見ておれ猿ども! これが古代文明の力だ!」
グラムが黄玉を動かす。その刹那大地が激しく揺れ動いた。モーロや兵士たちの視界が激しく上下に揺れる。立っていられないほどの揺れにその場にいた全員が床に手を付いた。
外の光景はもっと異様であった。
それまで緩やかに波打っていた水面が一気に下がっていく。低い音を立てて海水が沖のほうへ引き込まれていくのが、だれの目にも見て取れた。一瞬の静寂が遺跡やその周辺の海に満ちていく。
低いうなり声のような大地の音がこだまする。沖合から水の壁が遺跡と、その周辺の陸地に向かって襲い掛かってきた。しかし遺跡とその前にある船着き場には高い防波堤が立ちはだかり、水の壁がそれにあたって砕け散る。
その他の海岸線はほとんどが水の侵入を防ぎきれず木々がなぎ倒され流されていくのが分かる。遺跡周辺は液状化現象と津波で、ほとんどが泥にまみれた沼に変わり果ててしまった。
それまで美しかった海岸線が一瞬にしてこの世の物とは思えないほど不毛な大地にかわっていく様を見せられ、兵士も横にいたサーラも息を飲んでいた。
「ユフラス諸部族に語り継がれる海神の櫂だ。ゴウン以南を湿地に変えた神の御業だよ」
モーロが力なく笑いだす。
「す、素晴らしい‥‥。 素晴らしいよ。グラム君!」
振り返りグラムのホログラムに向きなおる。両手を広げ愛想笑いを浮かべている。
「これだけのことを成し遂げたならきっとスカージは君を太守として認めるだろう。いやわしの力できっと認めさせてやる」
グラムはモーロの言葉を鼻で笑った。
グラムの右手がかすかに動く。次の瞬間モーロの額にどこからともなく赤い光が差し込み、続いて熱線が眉間に吸い込まれた。モーロの眉間に黒い穴が開く。モーロは目を白目にして後ろに倒れた。激しく痙攣するがすでに息はしていない。
モーロの死をみて、その場にいた兵士が全員冷たい汗をかいていた。グラムはその様子を見て薄気味悪い笑みを浮かべている。
「さあ。お前らもわかっただろう? この猿のようになりたくないなら私の‥‥」
サーラは一人恍惚として喋るグラムの隙を伺い。いきなり体当たりをした。
もんどりうって倒れるグラムから黄玉を奪い取ると、水の中を走って螺旋階段の下に向かう。手を強かに打ったグラムは顔をしかめて立ち上がる。それまで移っていた画面がすべて消えて元の煉瓦の壁に戻った。
「何をする!」
グラムは水音を立ててサーラに近づいてくる。
「いい子だから。石を返しなさい」
サーラが左右を見渡す。上に行く螺旋階段しか見えていなかった。後ずさり丁度階段の下あたりに差し掛かる。
壁に背中をつけグラムから逃げるように手を壁に張り付かせる。
サーラが壁に黄玉を何気なく当てたそのとき、壁が開き通路が生まれた。
一瞬気を取られたが、迷うことなくサーラはその通路を駆け出した。グラムは焦ったように後を追いかける。通路が消えるその前にグラムは飛び込むようにして通路へ滑り込んだ。飛び込んだ勢いで倒れてしまう。すぐにはサーラを追いかけることができずグラムはゆっくり立ち上がると、埃を叩きながら、サーラの後を追いかけた。
津波に襲われた海岸線を遺跡の高台に移り眺めている大きな兵士がいる。大惨事を目の当たりにしたわりには妙に落ち着いているその兵士はゲンツであった。五人ほど兵がゲンツの周りにいる。
ゲンツはモーロ子飼いの兵ではない。ローハンの守備兵でありゲンツ自身は百兵長といい約百人の部隊を率いている。その百人はゲンツの氏族から選ばれた若者たちであった。
百兵長は部隊の中で一番過酷な仕事を受け持つ実践指揮の階級である。ゲンツの器量もあったが、それ以上にスカージの宗族の末端に連なり百人の兵と、その家族を養う必要がこの男の両肩にかかっていた。
そういう意味ではこの遠征への賛歌をゲンツは渡りに船だと思っていたが、こうして沼地と化した海岸線を眺めていると、むしろ貧乏くじを引かされたと考えていた。ゲンツの眺める海原でさっきまで閉まっていた防波堤がまた開いていくのが見えている。
「驚きましたな」
「遺跡には水は来なかったな」
「ええ。しかも沖合のあの防波堤が動きました」
ゲンツは兵士に聞こえるように舌打ちをした。
「隊長。どういたしやす?」
「いつでも逃げる準備だけはしとけ。歩いて帰ることになるかもしれん」
「悪い冗談でしょ隊長。ここ金獅子半島の付け根ですぜ」
「いいじゃねぇか。まだ誰も大森林を走破したやついないからな。ローハンに帰ったら英雄扱いだ」
「ちげぇねぇ」
兵士たちの間から笑いが生まれる。この状況でこの男たちは全く悲観していなかった。
その高台からわずかに下の部分、遺跡の入り口から一人また一人と兵士たちが走り出してくるのが見えた。
だんだんと人数が増えていく。ゲンツはこの状況を何度か見ていた。かなり切羽詰まった兵士たちの混乱。それは場所は違っていたが、負け戦の時の混乱のそれであった。
「まずいな」
「そうですな。ありゃ本気で逃げ出してますぜ」
「全員どうしてる?」
「部隊のやつらは全員陸にあげてやす。斥候いかせてるのがいますが、だいたい高台で待機させてますぜ」
「すぐ呼び戻せ。出来るだけ速く。ほかの部隊はあてにするなよ」
横にいた中年の兵士が黙って頷くと、甲高い音を立てて笛を吹いた。ゲンツの部隊であればこの笛と調子で集合の命令だとすぐ気づくのである。部隊つまり氏族によってこの笛の音は異なるのである。
笛の根にぞろぞろとゲンツの部隊が集まってきた。他の部隊と異なり略奪をした形跡がないようであった。
その中に若い斥候が息を切らせて高台に上ってくる。ゲンツの前まで走ってきたが、肩で息をしている。喉が渇き、声が出せない
「どうした? 誰か水わたしてやれ」
若い斥候が手渡された水を一息に飲み干す。
「隊長大変です。西のあの崖と山との間に渓谷があるんですが、あそこに武器持ったやつらが集まってるんです」
ゲンツの顔が急激に険しくなった。それなりの軍歴があるとはいえ流石にこんな最果ての地にいる部族のことまでゲンツはわからない。しかしゲンツはその渓谷を一瞥するとすぐに考えをまとめた。
「あそこが沼地になっちまってる。すぐには来れないだろ。ここで待機だ。相手の数も知りたい」
アルゴンの周りに集まっていく兵士たちの混乱はますます拍車がかかってきていた。
周り全てが沼となった入り江と遺跡をゲンツと同じように見下ろしている男たちがいる。数は十人ほどであった、そのうちの二人がゲンツの隊のほうを見ていた。二人はすぐに高台から降りていく。
二人の男が下りていくと、渓谷から続く道から人の怒号が上がってくる。
ゲンツたちの位置からははっきりしなかったが、どうやら遺跡を取り囲んでいる男たちが、入り江へとなだれ込んで来たようであった。
その声と共にスカージの兵士たちの混乱がますます酷くなっていく。それと同時にまだ乗り込んでもいない兵士たちを振るい落としながらアルゴンがその巨体をゆっくりと旋回させ動き始めた。
遺跡を聖地として守ってきたミヤト人達とスカージ兵との戦が始まった。
混乱し無秩序に遺跡から逃げ出すスカージの兵は、自分たちの指揮官であったモーロの死体すらも無視していた。
狭い通路を我先にと逃げ出す。そこで身体と身体がぶつかり、恐怖に心臓を鷲掴みにされた兵士たちは、自分だけは助かろうと人の本性をあらわにしていた。
殴り、引きずる。体力の無い者は殴り倒され、そこへあとから踏みつけられていくのである。ナギのいたレリーフの広場には血まみれで息をしていない兵士が幾人も倒れていた。
地獄のような光景をナギは耳をふさぎ隠れてやり過ごしていた。静寂が戻るとようやくゆっくりと顔を出す。アドレナリンと血の匂いがあたりを満たしている。
ナギは疲れたように広場の中央に進んでいく。そこには頭を打ちぬかれたモーロだったものがあった。額には真っ黒な穴が開いているが、傷口は炭化して血も出ていない。ナギは身震いすると、よろよろと次の部屋へ移ろうと体を動かした。
ナギがモーロの死体から離れようとしたとき、左手から鈍く何かが崩れる音がした。
反射的にそちらのほうへ顔を向けると床の一部が盛り上がってくる。ぎょっとしてナギがそちらを注視していると、黄金色に輝くナイフの先端が現れ、続いて腕が床から生えて来た。石を荒っぽくどけながらカーンが床下から姿を現した。
「‥‥カーンさん」
「なんだよ。 随分奥まで来たと思ったのにそうでもなかったか」
「どうして? アズーサおばさんと逃げたんじゃ」
「こいつを返さなきゃならなかったからな」
埃まみれの顔を崩しながらカーンはナギに右手を突き出した。それまで以上に明るくそして完全に錆が消え去ったナギのナイフが握られている。
「でもどうやってここに‥‥」
カーンの足元に開いた穴はスカージ兵がいくらやっても破れなかった黒鉄の壁がすっぱりと綺麗にくりぬかれた跡があった。
「そいつで穴開けたんだ。外からせっまい通路這いずってきたら、頭の上が騒がしくなってきてな。
人がいるのはわかってたんだが、この黒い板みたいなのが邪魔してたんだ。だがそいつでこの板切って出てきてやった。そのナイフ何で出来てんだ?」
ナギはナイフを受け取った。
遺跡に来た時以上に光の量が増えている。色も美しい鋼と刃紋が浮き上がり、光沢すら出ていた。そして刀身にはびっしりと古代語が刻まれている。それがナギにははっきりと見えていた。
ナギがなんとなくその古代語を見つめている。
読めるはずはないのである。しかしナギの頭の中に音として何かが入り込んでくる感覚があった。
「‥‥タ、マユラ‥‥?」
ナギが声に出したその時、強烈にナギの頭が揺らされる感覚に襲われた。そして天地が逆転したような感覚の後にナギの頭に音楽が流れ始めてくる。
小さく声も聞こえているような気もするが、はっきりとしない。
「‥‥なんだこれ」
「どうした? 大丈夫か?」
ナギは頭を振る。頭の中に音楽が響き渡っているが、その音と調子が逆にナギの身体を軽くしていた。
「大丈夫! カーンさん行こう。あの壁の向こうにサーラは進んだってスカージの兵士達が話してた」
半ば壊された破壊槌が放置されたところに、剥き出しになった黒鉄の壁がある。ナギとカーンはそこに近づきわずかに形が変わった壁にナイフを突き立てた。ナイフは何の抵抗もなく黒鉄の壁に吸い込まれる。
ゆっくりとしかし大きくナギがナイフを動かすと、黒鉄の壁ごとレリーフの下の部分が切り抜かれていく。切り抜かれたところから下へと続く螺旋階段が姿を現した。
ナギとカーンは互いに頷きあう。ナギを先頭に二人は螺旋階段を下って行った。
二人が壁に開いた穴へ体をねじ込むのを瓦礫の陰から見つめるものがいる。じっと動かず影さえも遺跡の一部になっているように、それは二人がすることを見ていた。
やがて二人が螺旋階段へと進んでいくと、その影はゆっくりと動き出す。思ったよりも大きくないその影の主はファルキアであった。
ファルキアは周りを確認すると二人が入り込んだ壁の穴に、同じように身体をねじ込こんだ。
モーロはこの航海に子飼いであるローハンのオルギン出身者で編成した百人を核に五百の兵が参加している。
オルギンとスカージの兵、そしてローハン周辺の氏族から集められた兵が三百ありそのうち百がゲンツの部隊であった。後の二百がイェンライの兵士である。
兵士の間にはオルギン・スカージ、ローハン出身者。そしてイェンライの兵の間には待遇差別が存在していた。兵士には階級があり、その出自差別は階級を無視したものになっていたのであるが、そこはモーロの手腕がオルギン・スカージ家以外の兵をうまく抑え込んでいた。
しかしモーロがグラムに殺されたためその秩序を失いっている。アルゴンに乗り込む兵士はイェンライの兵を押しのけて、我先にとスカージ・オルギン兵が乗り込んでいった。そしてイェンライの兵が乗り込む前にアルゴンを動かし始めたのである。
離岸するアルゴンから何十人ものイェンライ兵が落ちるのをアズーサ達は津波から非難した遺跡近くの高台で見ていた。
「ひでぇ‥‥」
チシャの言葉にアズーサは黙ったままだった。混乱する船着き場をじっと見据えている。先ほどの津波といいこの遺跡に来てから理解を超えていることが起こり過ぎていた。
「あいつら大丈夫かね。速く逃げないとこっちも後がないよ!」
沖へと逃げていくアルゴン。そして座礁したラナ・レイアがある入り江で、ひと際激しい声が響く。
乱れて取り残されたイェンライの兵達の背後、山から続く入り江の高台から、数十人の男たちが整然と長い竹の槍を持ち、下って来ていた。それをみたイェンライの兵が叫び声をあげていた。
恐慌と混乱、怒声と叫び声が入り混じり、禁足地に足を踏み入れたイェンライの兵をミヤト人達は容赦なく襲っていく。
指揮官もいなくなった兵士たちはそれほど戦う様子も見せず武器を捨てていく。足を踏み入れれば破滅が起きると教えられ育ったミヤト人達は、実際に巨大な津波をその目で見た。そして津波に素朴な生活を奪われたものも少なくなかったのであろう。激しい怒りが彼らの動きには見て取れる。
激しい闘争もそれほどなくイェンライの兵は無駄な命を粗末にすることなくみな武器を捨てていた。見捨てられたことも彼らから戦う意思を奪っていた。
沖に逃げ出したアルゴンが向きを変える。距離はまだそれほど離れていない。遺跡に向きなおったアルゴンから巨大な石がカタパルトから発射されるのが見えた。海側の高台にいたアズーサ達のすぐ下へ石が落下してくる。
「船長! ここも危ない!」
ビビデが叫ぶ。アズーサは焦りもせずに指示をだす。
「いいかい! 無駄に動くんじゃない。兵士たちも私らが逃げたことすら気づいていないんだ。逃げ出す機会を逃すんじゃないよ」
そう伝えると海の向こうに目を細める。
そこにはアルゴンに近づく全体が真っ黒な帆船が数隻姿を現した。トールがアズーサの横に立っている。
「かぁちゃん‥‥あれ」
「‥‥畜生、こんな時に」
「海の民かよ‥‥どうすんだよ。こんな時に」
カタパルトから二発目が遺跡めがけて発射された。
遺跡の壁が崩れるがその内側から銀色の壁がのぞいている。中にはまったく影響がなさそうであった。
カタパルトを動かしたアルゴンが緩慢に旋回する。巨体の尻にへばりつくように黒い船が二隻ついていく。
アルゴンから糸くずのように兵士が落下していくのが見える。やがて一隻がアルゴンの横っ腹にラムを当て、しばらく動かなかったが、アルゴンの甲板とマストに火の手が上がるのが見えた。
アルゴンの半分ほどのしかない黒船は、アルゴンのマストが燃えると同時に離れていく。黒船はアルゴンから距離を保ちながら旋回していたが、やがてアルゴンは錐揉みしながら巨大な船体を暴れさせる。
制御が出来なくなっているのであろう。左右に振れながら傾いていく。甲板の上は目に見えるほどの炎があがり、横倒しに海の中へと倒れていく。
アズーサ達はあっけにとられていたがすぐに入り江のほうへ向き直る。
ラナ・レイアのまわりには兵士達がいなくなっている。武器を捨てたイェンライの兵は遺跡の開けた通路の広場で、ミヤト人達に囲まれていたのである。ラナ・レイアの中にはボートが残っている。今なら海の民の操る黒船にも気づかれず海に出られそうであった。
「お前ら行くよ」
多少無謀なアズーサの言葉に海賊たちは遺跡を降りて行った。
ナギとカーンは螺旋階段の底に降りていく。まばゆい光を放っている大石が二人の前にあった。海水を吸い上げ遺跡の原動力となっている。
「これが黄玉の親玉か」
ナギの頭の中の音楽が激しくなっている。ナギの身体はそのリズムに影響されているのか軽くなっていた。ナギの手の中にあるナイフが高い音を放っている。
「石に応えてる‥‥」
ナイフの黄色い輝きはますます強くなり、古代文字がはっきりと読めるほどになっていた。
磁石が吸い付くようにナギはナイフを持ち大石へと近づいていく。足元が濡れ水しぶきを上げながらナギは大石の前に立った。
「おい、ナギ大丈夫か?」
「大丈夫‥‥」
大石の前にナイフを掲げる。
ナイフがナギの手から離れると空中に漂う。眩い黄金色の粒が溢れ出し、大石へと導かれた。ゆっくりと旋回しながらナイフは大石へ吸い込まれそして一体化した。
刹那・・・。大石から光の粒が放たれていく。
「‥‥すげぇ」
カーンは魅入られたように大石の光の粒を見つめていた。彼はこれほど美しい物を見たことが無かった。ひと際速く大石が回転し光の粒を部屋いっぱいにふりまく。その光の粒が集まり一つの形に固まっていく。
光の粒が固まりナギの手元へゆっくりと降りてくる。ナギがその粒の固まりを握ると光がはじけ飛んだ。
光に包まれていたナギの手に一振りの刀が握られていた。鋼色に輝き古代文字が刻まれたその刀は薄く虹色の輝きを纏っていた。柄の部分の鋼で出来ているようであったが、絹で出来た紐が巻かれている。
その柄の底に小さな突起があり、穴があいてその部分だけ常に黄金色の光の粒を纏っている。ナギは古代語を見つめる。今ははっきりとその文字がナギには読めた。刀身に刻まれた言葉を口に出す。
「タマユラ・アーノ。大地の神エメッシュに捧げ、その名をこの一振りに名づける」
ナギがカーンに振り向くその顔は迷いがなかった。
「書いてあることが読めるのか?」
「この剣の名前と作った人の名前が刻まれてる。それにこの壁画もどうやってこの剣が作られたかってこと、黒鉄を鍛える方法が描かれてる」
「なんというか‥‥この石を作ったやつらが怖くなってきたよ」
腐って錆だらけだったナイフに刻み付けた剣の記憶。ナギの記憶の中に隠されていた文字の読み方。古代人の何を求めてこのようなことをしたのかがカーンには理解できなかった。
明らかに古代人は人を選び痕跡を残している。そのことだけがヒシヒシと伝わってくる。
水の中を激しい音を立ててカーンのいる場所に戻る。しかし大石が置かれた部屋から次の間へ進む入口が見当たらなかった。ナギが迷いなく螺旋階段の下の壁に向かっていく。
「わかるのか?」
ナギは黙って頷くと、柄の光を帯びている部分を壁にかざす。煉瓦つくりの壁が消え通路が姿を現した。ナギが振り向く。
「カーンさん行‥‥」
ナギの言葉を遮るように黒い影がカーンの首筋に腕を回し羽交い絞めにした。
思いのほか細いその腕と反対の手には青銅のナイフを持っている。影は後を付けていたファルキアであった。
「その剣を私に渡すんだ!」
カーンの目の前にナイフの先端が迫っている。しかしカーンは女の腕で身動きを封じられるほど軟弱ではなかった。ナイフの手を瞬時に掴むと、それほど力を込めずにナイフを顔から離していく。ファルキアの胸のふくらみを楽しむほどの余裕があった。
この先何が起きるかナギについていけないことが、好奇心の強いこの海賊の心残りであったがすぐに頭を切り替えている。
「ナギ、早くいけ。このねぇさんは俺が何とかするから、お前はお嬢さんを助けてやるんだ」
ファルキアはカーンがほんの少し力を込めただけでナイフを落としてしまう。羽交い絞めにしているもう片方の手でもう一本のナイフを引き抜こうと力を抜く。その瞬間カーンは腕を取ったまま体を入れ替えた。手を離し距離を取る。
あまりの手際にファルキアは不利を悟った。握られて指の後がついた手首をさする。
カーンは目の前の女が思いのほか美しかったこともあり口笛を吹いた。ナギは二人を尻目に素早く通路の奥へと入っていった。ファルキアはその後ろ姿を追いかけようとしたが、カーンが立ちふさがる。
「いかせねぇよ」
「どけ! 海賊風情が」
「言うねぇ」
ナギが通路に入るとすぐに元の煉瓦の壁に戻り、通路の入り口は見えなくなった。ファルキアが苛立ちを隠せないように怖い顔でカーンを睨みつける。
「あの剣か? それともお嬢さんの石か? どっちにしろあんたにゃ邪な考えしかなさそうだな」
「海賊に説教されるいわれはないわ。古代人の知恵は私達に管理されなければならないの。頭の悪いあなたでもわかるでしょ? さあ。そこをどきなさい!」
「ひでぇ物言いだな。綺麗な顔してるくせに中身はカニバルグール(食人族)でも食えないくらい腐ってやがる」
冷静に言い返され、さらに海賊のような下賤の者に自尊心を刺激されたことだったのか。それとも自分に課された使命の重圧に耐えきれなくなったのか、ファルキアは感情的になっていた。
美しい顔に怒りの表情を貼り付け、感情に任されるままカーンに向かってナイフを突き出す。しかし緩慢な動きをカーンは冷静に受け流し、ナイフを腕ごと掴むと体を入れ替え、ファルキアを大石のある水場に放りこんだ。
それほど深くもない水場に激しく水しぶきが上がった。
サーラは広く入り組んだ通路を逃げまどった。
後ろからはグラムの特徴的な声と靴音がついてきている。通路の奥は入り組んだ迷宮になっていた。グラムの呼ぶ声は部屋に響き、あらゆる方向から聞こえてくるような気になってしまう。
「観念するんだ。石を返したまえ」
声と共に靴音が大きくなっている。だんだん近づいているのがサーラにもわかった。大人の足だグラムのほうがサーラよりも速い。
サーラは焦り戸惑いながら迷宮を逃げ続けた。迷宮は煉瓦が崩れてしまっている場所もある。大石の間や遺跡の地上部分とはことなり薄暗く光が僅かにしかなかった。
「いい子だから。戻ってくるんだ」
グラムの気持ち悪い調子の奥にサーラを呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
「ナギ―!」
ナギの呼ぶ声はサーラにとって希望の音になる。声の限りにナギの名を叫ぶ。だんだんとサーラの名を呼ぶ声が大きく近くになってくる。しかしナギの声と同時にグラムの靴音も速くなり大きくなってくる。
サーラのすぐ横で聞きなれたあの優しい気声が聞こえる。
「サーラ!」
「ナギ!」
サーラが顔を左右に振る。ナギの顔が煉瓦の陰から見えている。
「無事か!?」
咄嗟にサーラはその崩れた煉瓦の間に手を伸ばし、黄玉をナギに渡そうとする。ナギも腕を伸ばし受け取ろうとするが、ほんの少し距離が足らない。サーラは目一杯腕を伸ばした。身体が伸びているため声が苦しくなる。
「石を! 石を」
サーラが指先で黄玉をナギのほうへ押しやる。ナギの手に黄玉が渡った。
走るグラムの靴音がナギの耳にも届いた。サーラを引き離し、黄玉を奪い返そうと腕を壁の穴に勢いよく入れる。しかし一瞬早くナギが黄玉を手繰り寄せた。
「くそ! 小僧取引だ」
「ナギ―! 石を持って早く逃げて!」
サーラの声を打ち消すように鈍い音が聞こえる。グラムがサーラの脇腹を蹴った音であった。
「やめろ! 石を海に捨てるぞ」
グラムは追い詰められた表情を無理に隠し、サーラを抱え上げてナイフを突きつける。
「小僧大事に持ってろ!」
そう告げるとグラムはサーラを先頭に歩かせた。ナギは一度落とした石を拾い上げる。
石を拾ったまさにその瞬間、拳大であった黄玉が小さくなり剣の柄に開いた穴に自然とはまる。黄玉からさらに光の粒が溢れた。
ナギの頭の音律が歌声を持って響き渡る。
はっきりと美しい声がナギの頭の中で奏でられている。ナギの身体は軽くそして力強く動き始める。腹の底から勇気が湧き上がってきた。
ナギは剣を構え、崩れた煉瓦を切り裂いた。作りたてのパンにナイフを入れたときのように音もなく煉瓦の壁がくりぬかれる。小さい穴であったが何とかナギは体をねじ込み通路に身を投げ出した。
すでにグラムもサーラもそこにはいない。ナギはすぐに立ち上がると二人を追いかけ、仄暗い迷宮を走り出した。
ゲンツは入り江の混乱を冷静に見極めていた。遠くに黒い船が現れアルゴンが沈められたのもまんじりともせず見つめている。やがて入り江にミヤト人が集まっているのを確認すると、小さく指示を出した。
「あそこだ。入り江の入り口、今ならあそこを走り抜ければ切り抜けれる」
「切り抜けた後はどうするんです?」
「海岸沿いを行けば何とかなるだろ。海岸線に港はいくつかあったからな」
「それしか方法がなさそうですな」
「決まりだ。無駄死にするなよ」
ゲンツの声に男たちは頷く。静かにそして素早く百人の兵は移動し始めた。高台から降りると崩壊し液状化現象をおこした足場は沼のようになっている。
「くっそ。思ったよりもひでぇな」
「走れねぇぞこれ」
入り江の入り口を通り抜けると、数人のミヤト人がゲンツたちを見つけ何か叫ぶ。兵はその声を無視してひたすら沼を走る。入り江の入り口に出来た渓谷に差し掛かると、そこにはまだ二十人ほどのミヤト人が待ち構えていた。
「駄目だ!」
「いや! このまま切り抜けるぞ。抜けきれれなかったやつらはほっとけ。自分は自分で何とかしろ」
ゲンツはそういいながら自ら殿になっている。先頭がミヤト人と剣を合わせる音がしている。
流石に全員を相手にすることは出来ないようで、ミヤト人の間をすり抜け兵たちは海に向かって走りだした。戦うことよりも逃げることがこのさい重要なのであった。
ゲンツの周りには最後まで付き合う気になったらしい酔狂な兵士が十名ほど残っていた。
「なかなか手ごわいですぜ。隊長!」
「軽口叩けるなら早く逃げろ!」
入り江で捕虜を捕まえ一息ついていたミヤト人も、背中側で響く喧騒にようやく気付きゲンツたちの後を追いかけ、追いついてきた。挟み撃ちに会う前にゲンツは海側へ抜けているが、何とか兵士が逃げる時間を稼ぐためミヤト人とやりあう。
竹竿とこん棒を振り回すミヤト人を数人相手にしながらじりじりと引いていく。しかし手にした獲物の貧相さのわりにミヤト人は中々に戦いなれていた。
不利だと悟ると無理をしないのである。遠巻きに囲み込みながら、残ったゲンツたちを追い込んでいく。幾人かミヤト人を切りつけ倒しているが、状況はますます悪化していく。
ゲンツは何とか渓谷の細くなった立地を確保しながらシールドウォールを指示した。逃げることを放棄したのである。樫の木でつくられた盾が十枚並び狭い道をふさぐ壁となった。
「すまねぇな。付き合わせちまって」
「しょうがねぇですぜ隊長」
残った全員が笑っていた。シールドウォールを前にしてミヤト人達の動きが止まる。
しかし次の瞬間細い盾の隙間から細長いものが侵入してきてゲンツの横にいた兵士の右手を貫いた。ぎょっとしてゲンツが右手に刺さったものを見る。
少し長い矢であった。続けて盾に衝撃がくる。弓矢が突き立つ音が渇いた音を立てる。
一人だけ手練れがいるようで、何本か隙間を抜けてくるものがあった。そのたびに壁役が倒される。
「あの小さいやつだ。一番デカい弓持ってるやつ!」
叫んだ兵士の肩口に矢が突き刺さる。急所までは狙えていないようで、致命傷にはならないのであるが、そのミヤト人の放つ矢は確実に盾の壁を崩している。
いよいよ壁役の兵士がいなくなっていた。そこへ新たな衝撃が加わる。ひと際大きなミヤト人が、石を投げ込んだのである。
とうとうシールドウォールが崩れた。
ゲンツたちは覚悟を決めて青銅の剣を抜き放った。汗と血の匂いをまとわりつかせた十人の兵士が身構える。しかしミヤト人は誰一人としてその兵士に向かってこなかった。かれらはこの危険で勇気ある兵士たちに敬意を示したのである。
ミヤト人の後ろから少し背の高い剽悍な顔つきをした男が進みでてくる。ナジムであった。手にはほかのミヤト人と違う青銅の剣が握られている。
ゲンツは覚悟を決めて一歩前にでる。二人の男は低く長い気合いの声を張り上げ剣を振るった。
(急がないと‥‥)
ナギの周りには人の気配がしない。広いだけの遺跡の中であった。
明るくなったこともあり、中がはっきりと確認できるのであるが、やはり相当に痛んでいる。壁のあらゆるところが崩れていた。
ナギは遺跡の中央に向かって走っていたが、下に向かう部分を探せないでいた。膝に手を置き荒い息を整えながらレリーフを睨んだ。それはサーラ達が見た黒い砂を炉に集めているレリーフであった。
(‥‥これ鋳型か?いや違うな。なんだろ)
ナギが身体を起こそうとすると、隣の間から人の声らしきものが聞こえてくる。咄嗟に身構え身をかがめた。明るくなったとはいえ瓦礫の影があちらこちらにあり隠れる場所は少なくない。
しばらくすると十数人の兵士を引きつれたモーロが、汗と唾をまき散らしながら入ってくる。ナギは瓦礫に這いつくばり聞き耳を立てた。
「グラムがこの壁の先に入ったのだな?」
「は! グラム博士もですが諜報部もファルキア殿も姿が見えません」
「破壊出来そうか?」
モーロの言葉に兵士たちが動く。小型の破壊槌を数人で抱えレリーフに突進する。崩れかけた煉瓦の一部がはじけ飛ぶとその下から一枚岩の黒鉄が現れた。さらに何度も破壊槌を当てるが黒鉄の壁は傷一つついていない。兵士たちは首を横に振った。
「入れぬな。船からカタパルトを打ち込んで建物ごと崩してみるか」
モーロの声に反応するように室内に声が響いてくる。
「そのようなことをしなくても大丈夫ですよ将軍」
「グラム! どこにおる!? 姿を現せ」
何もない広間の空間に白い石を前にしたグラムとサーラの姿が浮き上がってくる。その姿に兵士たちの間に驚きの声が広がった。
「そんなところにおったか! どうした黄玉は見つけたのか?」
グラムはモーロを見下ろしている。心底軽蔑した目をしていた。この期に及んでこの出世欲だけが肥大した小さい男は自分が何をしたのかを理解していない。
「見下げ果てた猿だな、モーロ。お前の前にいるのは、中つ国を統べる真実の王であるぞ」
モーロはグラムの言葉の意味を理解できなかった。その間抜けな顔がグラムの勘気を誘う。グラムは生理的にモーロのことを受け入れ難かったこともある。
「やはり知能の足らない猿には言って聞かせてもわからぬか‥‥」
グラムの手の中にある黄玉が、白い石をなぞる。古代語が浮き上がると広間の壁がなくなったようになり、外の風景が現れた。しかしそれは少し高い位置から見ているようである。続いて背の高い防波堤が低い音を立てながらゆっくりと閉じていくのが見て取れる。
「よく見ておれ猿ども! これが古代文明の力だ!」
グラムが黄玉を動かす。その刹那大地が激しく揺れ動いた。モーロや兵士たちの視界が激しく上下に揺れる。立っていられないほどの揺れにその場にいた全員が床に手を付いた。
外の光景はもっと異様であった。
それまで緩やかに波打っていた水面が一気に下がっていく。低い音を立てて海水が沖のほうへ引き込まれていくのが、だれの目にも見て取れた。一瞬の静寂が遺跡やその周辺の海に満ちていく。
低いうなり声のような大地の音がこだまする。沖合から水の壁が遺跡と、その周辺の陸地に向かって襲い掛かってきた。しかし遺跡とその前にある船着き場には高い防波堤が立ちはだかり、水の壁がそれにあたって砕け散る。
その他の海岸線はほとんどが水の侵入を防ぎきれず木々がなぎ倒され流されていくのが分かる。遺跡周辺は液状化現象と津波で、ほとんどが泥にまみれた沼に変わり果ててしまった。
それまで美しかった海岸線が一瞬にしてこの世の物とは思えないほど不毛な大地にかわっていく様を見せられ、兵士も横にいたサーラも息を飲んでいた。
「ユフラス諸部族に語り継がれる海神の櫂だ。ゴウン以南を湿地に変えた神の御業だよ」
モーロが力なく笑いだす。
「す、素晴らしい‥‥。 素晴らしいよ。グラム君!」
振り返りグラムのホログラムに向きなおる。両手を広げ愛想笑いを浮かべている。
「これだけのことを成し遂げたならきっとスカージは君を太守として認めるだろう。いやわしの力できっと認めさせてやる」
グラムはモーロの言葉を鼻で笑った。
グラムの右手がかすかに動く。次の瞬間モーロの額にどこからともなく赤い光が差し込み、続いて熱線が眉間に吸い込まれた。モーロの眉間に黒い穴が開く。モーロは目を白目にして後ろに倒れた。激しく痙攣するがすでに息はしていない。
モーロの死をみて、その場にいた兵士が全員冷たい汗をかいていた。グラムはその様子を見て薄気味悪い笑みを浮かべている。
「さあ。お前らもわかっただろう? この猿のようになりたくないなら私の‥‥」
サーラは一人恍惚として喋るグラムの隙を伺い。いきなり体当たりをした。
もんどりうって倒れるグラムから黄玉を奪い取ると、水の中を走って螺旋階段の下に向かう。手を強かに打ったグラムは顔をしかめて立ち上がる。それまで移っていた画面がすべて消えて元の煉瓦の壁に戻った。
「何をする!」
グラムは水音を立ててサーラに近づいてくる。
「いい子だから。石を返しなさい」
サーラが左右を見渡す。上に行く螺旋階段しか見えていなかった。後ずさり丁度階段の下あたりに差し掛かる。
壁に背中をつけグラムから逃げるように手を壁に張り付かせる。
サーラが壁に黄玉を何気なく当てたそのとき、壁が開き通路が生まれた。
一瞬気を取られたが、迷うことなくサーラはその通路を駆け出した。グラムは焦ったように後を追いかける。通路が消えるその前にグラムは飛び込むようにして通路へ滑り込んだ。飛び込んだ勢いで倒れてしまう。すぐにはサーラを追いかけることができずグラムはゆっくり立ち上がると、埃を叩きながら、サーラの後を追いかけた。
津波に襲われた海岸線を遺跡の高台に移り眺めている大きな兵士がいる。大惨事を目の当たりにしたわりには妙に落ち着いているその兵士はゲンツであった。五人ほど兵がゲンツの周りにいる。
ゲンツはモーロ子飼いの兵ではない。ローハンの守備兵でありゲンツ自身は百兵長といい約百人の部隊を率いている。その百人はゲンツの氏族から選ばれた若者たちであった。
百兵長は部隊の中で一番過酷な仕事を受け持つ実践指揮の階級である。ゲンツの器量もあったが、それ以上にスカージの宗族の末端に連なり百人の兵と、その家族を養う必要がこの男の両肩にかかっていた。
そういう意味ではこの遠征への賛歌をゲンツは渡りに船だと思っていたが、こうして沼地と化した海岸線を眺めていると、むしろ貧乏くじを引かされたと考えていた。ゲンツの眺める海原でさっきまで閉まっていた防波堤がまた開いていくのが見えている。
「驚きましたな」
「遺跡には水は来なかったな」
「ええ。しかも沖合のあの防波堤が動きました」
ゲンツは兵士に聞こえるように舌打ちをした。
「隊長。どういたしやす?」
「いつでも逃げる準備だけはしとけ。歩いて帰ることになるかもしれん」
「悪い冗談でしょ隊長。ここ金獅子半島の付け根ですぜ」
「いいじゃねぇか。まだ誰も大森林を走破したやついないからな。ローハンに帰ったら英雄扱いだ」
「ちげぇねぇ」
兵士たちの間から笑いが生まれる。この状況でこの男たちは全く悲観していなかった。
その高台からわずかに下の部分、遺跡の入り口から一人また一人と兵士たちが走り出してくるのが見えた。
だんだんと人数が増えていく。ゲンツはこの状況を何度か見ていた。かなり切羽詰まった兵士たちの混乱。それは場所は違っていたが、負け戦の時の混乱のそれであった。
「まずいな」
「そうですな。ありゃ本気で逃げ出してますぜ」
「全員どうしてる?」
「部隊のやつらは全員陸にあげてやす。斥候いかせてるのがいますが、だいたい高台で待機させてますぜ」
「すぐ呼び戻せ。出来るだけ速く。ほかの部隊はあてにするなよ」
横にいた中年の兵士が黙って頷くと、甲高い音を立てて笛を吹いた。ゲンツの部隊であればこの笛と調子で集合の命令だとすぐ気づくのである。部隊つまり氏族によってこの笛の音は異なるのである。
笛の根にぞろぞろとゲンツの部隊が集まってきた。他の部隊と異なり略奪をした形跡がないようであった。
その中に若い斥候が息を切らせて高台に上ってくる。ゲンツの前まで走ってきたが、肩で息をしている。喉が渇き、声が出せない
「どうした? 誰か水わたしてやれ」
若い斥候が手渡された水を一息に飲み干す。
「隊長大変です。西のあの崖と山との間に渓谷があるんですが、あそこに武器持ったやつらが集まってるんです」
ゲンツの顔が急激に険しくなった。それなりの軍歴があるとはいえ流石にこんな最果ての地にいる部族のことまでゲンツはわからない。しかしゲンツはその渓谷を一瞥するとすぐに考えをまとめた。
「あそこが沼地になっちまってる。すぐには来れないだろ。ここで待機だ。相手の数も知りたい」
アルゴンの周りに集まっていく兵士たちの混乱はますます拍車がかかってきていた。
周り全てが沼となった入り江と遺跡をゲンツと同じように見下ろしている男たちがいる。数は十人ほどであった、そのうちの二人がゲンツの隊のほうを見ていた。二人はすぐに高台から降りていく。
二人の男が下りていくと、渓谷から続く道から人の怒号が上がってくる。
ゲンツたちの位置からははっきりしなかったが、どうやら遺跡を取り囲んでいる男たちが、入り江へとなだれ込んで来たようであった。
その声と共にスカージの兵士たちの混乱がますます酷くなっていく。それと同時にまだ乗り込んでもいない兵士たちを振るい落としながらアルゴンがその巨体をゆっくりと旋回させ動き始めた。
遺跡を聖地として守ってきたミヤト人達とスカージ兵との戦が始まった。
混乱し無秩序に遺跡から逃げ出すスカージの兵は、自分たちの指揮官であったモーロの死体すらも無視していた。
狭い通路を我先にと逃げ出す。そこで身体と身体がぶつかり、恐怖に心臓を鷲掴みにされた兵士たちは、自分だけは助かろうと人の本性をあらわにしていた。
殴り、引きずる。体力の無い者は殴り倒され、そこへあとから踏みつけられていくのである。ナギのいたレリーフの広場には血まみれで息をしていない兵士が幾人も倒れていた。
地獄のような光景をナギは耳をふさぎ隠れてやり過ごしていた。静寂が戻るとようやくゆっくりと顔を出す。アドレナリンと血の匂いがあたりを満たしている。
ナギは疲れたように広場の中央に進んでいく。そこには頭を打ちぬかれたモーロだったものがあった。額には真っ黒な穴が開いているが、傷口は炭化して血も出ていない。ナギは身震いすると、よろよろと次の部屋へ移ろうと体を動かした。
ナギがモーロの死体から離れようとしたとき、左手から鈍く何かが崩れる音がした。
反射的にそちらのほうへ顔を向けると床の一部が盛り上がってくる。ぎょっとしてナギがそちらを注視していると、黄金色に輝くナイフの先端が現れ、続いて腕が床から生えて来た。石を荒っぽくどけながらカーンが床下から姿を現した。
「‥‥カーンさん」
「なんだよ。 随分奥まで来たと思ったのにそうでもなかったか」
「どうして? アズーサおばさんと逃げたんじゃ」
「こいつを返さなきゃならなかったからな」
埃まみれの顔を崩しながらカーンはナギに右手を突き出した。それまで以上に明るくそして完全に錆が消え去ったナギのナイフが握られている。
「でもどうやってここに‥‥」
カーンの足元に開いた穴はスカージ兵がいくらやっても破れなかった黒鉄の壁がすっぱりと綺麗にくりぬかれた跡があった。
「そいつで穴開けたんだ。外からせっまい通路這いずってきたら、頭の上が騒がしくなってきてな。
人がいるのはわかってたんだが、この黒い板みたいなのが邪魔してたんだ。だがそいつでこの板切って出てきてやった。そのナイフ何で出来てんだ?」
ナギはナイフを受け取った。
遺跡に来た時以上に光の量が増えている。色も美しい鋼と刃紋が浮き上がり、光沢すら出ていた。そして刀身にはびっしりと古代語が刻まれている。それがナギにははっきりと見えていた。
ナギがなんとなくその古代語を見つめている。
読めるはずはないのである。しかしナギの頭の中に音として何かが入り込んでくる感覚があった。
「‥‥タ、マユラ‥‥?」
ナギが声に出したその時、強烈にナギの頭が揺らされる感覚に襲われた。そして天地が逆転したような感覚の後にナギの頭に音楽が流れ始めてくる。
小さく声も聞こえているような気もするが、はっきりとしない。
「‥‥なんだこれ」
「どうした? 大丈夫か?」
ナギは頭を振る。頭の中に音楽が響き渡っているが、その音と調子が逆にナギの身体を軽くしていた。
「大丈夫! カーンさん行こう。あの壁の向こうにサーラは進んだってスカージの兵士達が話してた」
半ば壊された破壊槌が放置されたところに、剥き出しになった黒鉄の壁がある。ナギとカーンはそこに近づきわずかに形が変わった壁にナイフを突き立てた。ナイフは何の抵抗もなく黒鉄の壁に吸い込まれる。
ゆっくりとしかし大きくナギがナイフを動かすと、黒鉄の壁ごとレリーフの下の部分が切り抜かれていく。切り抜かれたところから下へと続く螺旋階段が姿を現した。
ナギとカーンは互いに頷きあう。ナギを先頭に二人は螺旋階段を下って行った。
二人が壁に開いた穴へ体をねじ込むのを瓦礫の陰から見つめるものがいる。じっと動かず影さえも遺跡の一部になっているように、それは二人がすることを見ていた。
やがて二人が螺旋階段へと進んでいくと、その影はゆっくりと動き出す。思ったよりも大きくないその影の主はファルキアであった。
ファルキアは周りを確認すると二人が入り込んだ壁の穴に、同じように身体をねじ込こんだ。
モーロはこの航海に子飼いであるローハンのオルギン出身者で編成した百人を核に五百の兵が参加している。
オルギンとスカージの兵、そしてローハン周辺の氏族から集められた兵が三百ありそのうち百がゲンツの部隊であった。後の二百がイェンライの兵士である。
兵士の間にはオルギン・スカージ、ローハン出身者。そしてイェンライの兵の間には待遇差別が存在していた。兵士には階級があり、その出自差別は階級を無視したものになっていたのであるが、そこはモーロの手腕がオルギン・スカージ家以外の兵をうまく抑え込んでいた。
しかしモーロがグラムに殺されたためその秩序を失いっている。アルゴンに乗り込む兵士はイェンライの兵を押しのけて、我先にとスカージ・オルギン兵が乗り込んでいった。そしてイェンライの兵が乗り込む前にアルゴンを動かし始めたのである。
離岸するアルゴンから何十人ものイェンライ兵が落ちるのをアズーサ達は津波から非難した遺跡近くの高台で見ていた。
「ひでぇ‥‥」
チシャの言葉にアズーサは黙ったままだった。混乱する船着き場をじっと見据えている。先ほどの津波といいこの遺跡に来てから理解を超えていることが起こり過ぎていた。
「あいつら大丈夫かね。速く逃げないとこっちも後がないよ!」
沖へと逃げていくアルゴン。そして座礁したラナ・レイアがある入り江で、ひと際激しい声が響く。
乱れて取り残されたイェンライの兵達の背後、山から続く入り江の高台から、数十人の男たちが整然と長い竹の槍を持ち、下って来ていた。それをみたイェンライの兵が叫び声をあげていた。
恐慌と混乱、怒声と叫び声が入り混じり、禁足地に足を踏み入れたイェンライの兵をミヤト人達は容赦なく襲っていく。
指揮官もいなくなった兵士たちはそれほど戦う様子も見せず武器を捨てていく。足を踏み入れれば破滅が起きると教えられ育ったミヤト人達は、実際に巨大な津波をその目で見た。そして津波に素朴な生活を奪われたものも少なくなかったのであろう。激しい怒りが彼らの動きには見て取れる。
激しい闘争もそれほどなくイェンライの兵は無駄な命を粗末にすることなくみな武器を捨てていた。見捨てられたことも彼らから戦う意思を奪っていた。
沖に逃げ出したアルゴンが向きを変える。距離はまだそれほど離れていない。遺跡に向きなおったアルゴンから巨大な石がカタパルトから発射されるのが見えた。海側の高台にいたアズーサ達のすぐ下へ石が落下してくる。
「船長! ここも危ない!」
ビビデが叫ぶ。アズーサは焦りもせずに指示をだす。
「いいかい! 無駄に動くんじゃない。兵士たちも私らが逃げたことすら気づいていないんだ。逃げ出す機会を逃すんじゃないよ」
そう伝えると海の向こうに目を細める。
そこにはアルゴンに近づく全体が真っ黒な帆船が数隻姿を現した。トールがアズーサの横に立っている。
「かぁちゃん‥‥あれ」
「‥‥畜生、こんな時に」
「海の民かよ‥‥どうすんだよ。こんな時に」
カタパルトから二発目が遺跡めがけて発射された。
遺跡の壁が崩れるがその内側から銀色の壁がのぞいている。中にはまったく影響がなさそうであった。
カタパルトを動かしたアルゴンが緩慢に旋回する。巨体の尻にへばりつくように黒い船が二隻ついていく。
アルゴンから糸くずのように兵士が落下していくのが見える。やがて一隻がアルゴンの横っ腹にラムを当て、しばらく動かなかったが、アルゴンの甲板とマストに火の手が上がるのが見えた。
アルゴンの半分ほどのしかない黒船は、アルゴンのマストが燃えると同時に離れていく。黒船はアルゴンから距離を保ちながら旋回していたが、やがてアルゴンは錐揉みしながら巨大な船体を暴れさせる。
制御が出来なくなっているのであろう。左右に振れながら傾いていく。甲板の上は目に見えるほどの炎があがり、横倒しに海の中へと倒れていく。
アズーサ達はあっけにとられていたがすぐに入り江のほうへ向き直る。
ラナ・レイアのまわりには兵士達がいなくなっている。武器を捨てたイェンライの兵は遺跡の開けた通路の広場で、ミヤト人達に囲まれていたのである。ラナ・レイアの中にはボートが残っている。今なら海の民の操る黒船にも気づかれず海に出られそうであった。
「お前ら行くよ」
多少無謀なアズーサの言葉に海賊たちは遺跡を降りて行った。
ナギとカーンは螺旋階段の底に降りていく。まばゆい光を放っている大石が二人の前にあった。海水を吸い上げ遺跡の原動力となっている。
「これが黄玉の親玉か」
ナギの頭の中の音楽が激しくなっている。ナギの身体はそのリズムに影響されているのか軽くなっていた。ナギの手の中にあるナイフが高い音を放っている。
「石に応えてる‥‥」
ナイフの黄色い輝きはますます強くなり、古代文字がはっきりと読めるほどになっていた。
磁石が吸い付くようにナギはナイフを持ち大石へと近づいていく。足元が濡れ水しぶきを上げながらナギは大石の前に立った。
「おい、ナギ大丈夫か?」
「大丈夫‥‥」
大石の前にナイフを掲げる。
ナイフがナギの手から離れると空中に漂う。眩い黄金色の粒が溢れ出し、大石へと導かれた。ゆっくりと旋回しながらナイフは大石へ吸い込まれそして一体化した。
刹那・・・。大石から光の粒が放たれていく。
「‥‥すげぇ」
カーンは魅入られたように大石の光の粒を見つめていた。彼はこれほど美しい物を見たことが無かった。ひと際速く大石が回転し光の粒を部屋いっぱいにふりまく。その光の粒が集まり一つの形に固まっていく。
光の粒が固まりナギの手元へゆっくりと降りてくる。ナギがその粒の固まりを握ると光がはじけ飛んだ。
光に包まれていたナギの手に一振りの刀が握られていた。鋼色に輝き古代文字が刻まれたその刀は薄く虹色の輝きを纏っていた。柄の部分の鋼で出来ているようであったが、絹で出来た紐が巻かれている。
その柄の底に小さな突起があり、穴があいてその部分だけ常に黄金色の光の粒を纏っている。ナギは古代語を見つめる。今ははっきりとその文字がナギには読めた。刀身に刻まれた言葉を口に出す。
「タマユラ・アーノ。大地の神エメッシュに捧げ、その名をこの一振りに名づける」
ナギがカーンに振り向くその顔は迷いがなかった。
「書いてあることが読めるのか?」
「この剣の名前と作った人の名前が刻まれてる。それにこの壁画もどうやってこの剣が作られたかってこと、黒鉄を鍛える方法が描かれてる」
「なんというか‥‥この石を作ったやつらが怖くなってきたよ」
腐って錆だらけだったナイフに刻み付けた剣の記憶。ナギの記憶の中に隠されていた文字の読み方。古代人の何を求めてこのようなことをしたのかがカーンには理解できなかった。
明らかに古代人は人を選び痕跡を残している。そのことだけがヒシヒシと伝わってくる。
水の中を激しい音を立ててカーンのいる場所に戻る。しかし大石が置かれた部屋から次の間へ進む入口が見当たらなかった。ナギが迷いなく螺旋階段の下の壁に向かっていく。
「わかるのか?」
ナギは黙って頷くと、柄の光を帯びている部分を壁にかざす。煉瓦つくりの壁が消え通路が姿を現した。ナギが振り向く。
「カーンさん行‥‥」
ナギの言葉を遮るように黒い影がカーンの首筋に腕を回し羽交い絞めにした。
思いのほか細いその腕と反対の手には青銅のナイフを持っている。影は後を付けていたファルキアであった。
「その剣を私に渡すんだ!」
カーンの目の前にナイフの先端が迫っている。しかしカーンは女の腕で身動きを封じられるほど軟弱ではなかった。ナイフの手を瞬時に掴むと、それほど力を込めずにナイフを顔から離していく。ファルキアの胸のふくらみを楽しむほどの余裕があった。
この先何が起きるかナギについていけないことが、好奇心の強いこの海賊の心残りであったがすぐに頭を切り替えている。
「ナギ、早くいけ。このねぇさんは俺が何とかするから、お前はお嬢さんを助けてやるんだ」
ファルキアはカーンがほんの少し力を込めただけでナイフを落としてしまう。羽交い絞めにしているもう片方の手でもう一本のナイフを引き抜こうと力を抜く。その瞬間カーンは腕を取ったまま体を入れ替えた。手を離し距離を取る。
あまりの手際にファルキアは不利を悟った。握られて指の後がついた手首をさする。
カーンは目の前の女が思いのほか美しかったこともあり口笛を吹いた。ナギは二人を尻目に素早く通路の奥へと入っていった。ファルキアはその後ろ姿を追いかけようとしたが、カーンが立ちふさがる。
「いかせねぇよ」
「どけ! 海賊風情が」
「言うねぇ」
ナギが通路に入るとすぐに元の煉瓦の壁に戻り、通路の入り口は見えなくなった。ファルキアが苛立ちを隠せないように怖い顔でカーンを睨みつける。
「あの剣か? それともお嬢さんの石か? どっちにしろあんたにゃ邪な考えしかなさそうだな」
「海賊に説教されるいわれはないわ。古代人の知恵は私達に管理されなければならないの。頭の悪いあなたでもわかるでしょ? さあ。そこをどきなさい!」
「ひでぇ物言いだな。綺麗な顔してるくせに中身はカニバルグール(食人族)でも食えないくらい腐ってやがる」
冷静に言い返され、さらに海賊のような下賤の者に自尊心を刺激されたことだったのか。それとも自分に課された使命の重圧に耐えきれなくなったのか、ファルキアは感情的になっていた。
美しい顔に怒りの表情を貼り付け、感情に任されるままカーンに向かってナイフを突き出す。しかし緩慢な動きをカーンは冷静に受け流し、ナイフを腕ごと掴むと体を入れ替え、ファルキアを大石のある水場に放りこんだ。
それほど深くもない水場に激しく水しぶきが上がった。
サーラは広く入り組んだ通路を逃げまどった。
後ろからはグラムの特徴的な声と靴音がついてきている。通路の奥は入り組んだ迷宮になっていた。グラムの呼ぶ声は部屋に響き、あらゆる方向から聞こえてくるような気になってしまう。
「観念するんだ。石を返したまえ」
声と共に靴音が大きくなっている。だんだん近づいているのがサーラにもわかった。大人の足だグラムのほうがサーラよりも速い。
サーラは焦り戸惑いながら迷宮を逃げ続けた。迷宮は煉瓦が崩れてしまっている場所もある。大石の間や遺跡の地上部分とはことなり薄暗く光が僅かにしかなかった。
「いい子だから。戻ってくるんだ」
グラムの気持ち悪い調子の奥にサーラを呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
「ナギ―!」
ナギの呼ぶ声はサーラにとって希望の音になる。声の限りにナギの名を叫ぶ。だんだんとサーラの名を呼ぶ声が大きく近くになってくる。しかしナギの声と同時にグラムの靴音も速くなり大きくなってくる。
サーラのすぐ横で聞きなれたあの優しい気声が聞こえる。
「サーラ!」
「ナギ!」
サーラが顔を左右に振る。ナギの顔が煉瓦の陰から見えている。
「無事か!?」
咄嗟にサーラはその崩れた煉瓦の間に手を伸ばし、黄玉をナギに渡そうとする。ナギも腕を伸ばし受け取ろうとするが、ほんの少し距離が足らない。サーラは目一杯腕を伸ばした。身体が伸びているため声が苦しくなる。
「石を! 石を」
サーラが指先で黄玉をナギのほうへ押しやる。ナギの手に黄玉が渡った。
走るグラムの靴音がナギの耳にも届いた。サーラを引き離し、黄玉を奪い返そうと腕を壁の穴に勢いよく入れる。しかし一瞬早くナギが黄玉を手繰り寄せた。
「くそ! 小僧取引だ」
「ナギ―! 石を持って早く逃げて!」
サーラの声を打ち消すように鈍い音が聞こえる。グラムがサーラの脇腹を蹴った音であった。
「やめろ! 石を海に捨てるぞ」
グラムは追い詰められた表情を無理に隠し、サーラを抱え上げてナイフを突きつける。
「小僧大事に持ってろ!」
そう告げるとグラムはサーラを先頭に歩かせた。ナギは一度落とした石を拾い上げる。
石を拾ったまさにその瞬間、拳大であった黄玉が小さくなり剣の柄に開いた穴に自然とはまる。黄玉からさらに光の粒が溢れた。
ナギの頭の音律が歌声を持って響き渡る。
はっきりと美しい声がナギの頭の中で奏でられている。ナギの身体は軽くそして力強く動き始める。腹の底から勇気が湧き上がってきた。
ナギは剣を構え、崩れた煉瓦を切り裂いた。作りたてのパンにナイフを入れたときのように音もなく煉瓦の壁がくりぬかれる。小さい穴であったが何とかナギは体をねじ込み通路に身を投げ出した。
すでにグラムもサーラもそこにはいない。ナギはすぐに立ち上がると二人を追いかけ、仄暗い迷宮を走り出した。
ゲンツは入り江の混乱を冷静に見極めていた。遠くに黒い船が現れアルゴンが沈められたのもまんじりともせず見つめている。やがて入り江にミヤト人が集まっているのを確認すると、小さく指示を出した。
「あそこだ。入り江の入り口、今ならあそこを走り抜ければ切り抜けれる」
「切り抜けた後はどうするんです?」
「海岸沿いを行けば何とかなるだろ。海岸線に港はいくつかあったからな」
「それしか方法がなさそうですな」
「決まりだ。無駄死にするなよ」
ゲンツの声に男たちは頷く。静かにそして素早く百人の兵は移動し始めた。高台から降りると崩壊し液状化現象をおこした足場は沼のようになっている。
「くっそ。思ったよりもひでぇな」
「走れねぇぞこれ」
入り江の入り口を通り抜けると、数人のミヤト人がゲンツたちを見つけ何か叫ぶ。兵はその声を無視してひたすら沼を走る。入り江の入り口に出来た渓谷に差し掛かると、そこにはまだ二十人ほどのミヤト人が待ち構えていた。
「駄目だ!」
「いや! このまま切り抜けるぞ。抜けきれれなかったやつらはほっとけ。自分は自分で何とかしろ」
ゲンツはそういいながら自ら殿になっている。先頭がミヤト人と剣を合わせる音がしている。
流石に全員を相手にすることは出来ないようで、ミヤト人の間をすり抜け兵たちは海に向かって走りだした。戦うことよりも逃げることがこのさい重要なのであった。
ゲンツの周りには最後まで付き合う気になったらしい酔狂な兵士が十名ほど残っていた。
「なかなか手ごわいですぜ。隊長!」
「軽口叩けるなら早く逃げろ!」
入り江で捕虜を捕まえ一息ついていたミヤト人も、背中側で響く喧騒にようやく気付きゲンツたちの後を追いかけ、追いついてきた。挟み撃ちに会う前にゲンツは海側へ抜けているが、何とか兵士が逃げる時間を稼ぐためミヤト人とやりあう。
竹竿とこん棒を振り回すミヤト人を数人相手にしながらじりじりと引いていく。しかし手にした獲物の貧相さのわりにミヤト人は中々に戦いなれていた。
不利だと悟ると無理をしないのである。遠巻きに囲み込みながら、残ったゲンツたちを追い込んでいく。幾人かミヤト人を切りつけ倒しているが、状況はますます悪化していく。
ゲンツは何とか渓谷の細くなった立地を確保しながらシールドウォールを指示した。逃げることを放棄したのである。樫の木でつくられた盾が十枚並び狭い道をふさぐ壁となった。
「すまねぇな。付き合わせちまって」
「しょうがねぇですぜ隊長」
残った全員が笑っていた。シールドウォールを前にしてミヤト人達の動きが止まる。
しかし次の瞬間細い盾の隙間から細長いものが侵入してきてゲンツの横にいた兵士の右手を貫いた。ぎょっとしてゲンツが右手に刺さったものを見る。
少し長い矢であった。続けて盾に衝撃がくる。弓矢が突き立つ音が渇いた音を立てる。
一人だけ手練れがいるようで、何本か隙間を抜けてくるものがあった。そのたびに壁役が倒される。
「あの小さいやつだ。一番デカい弓持ってるやつ!」
叫んだ兵士の肩口に矢が突き刺さる。急所までは狙えていないようで、致命傷にはならないのであるが、そのミヤト人の放つ矢は確実に盾の壁を崩している。
いよいよ壁役の兵士がいなくなっていた。そこへ新たな衝撃が加わる。ひと際大きなミヤト人が、石を投げ込んだのである。
とうとうシールドウォールが崩れた。
ゲンツたちは覚悟を決めて青銅の剣を抜き放った。汗と血の匂いをまとわりつかせた十人の兵士が身構える。しかしミヤト人は誰一人としてその兵士に向かってこなかった。かれらはこの危険で勇気ある兵士たちに敬意を示したのである。
ミヤト人の後ろから少し背の高い剽悍な顔つきをした男が進みでてくる。ナジムであった。手にはほかのミヤト人と違う青銅の剣が握られている。
ゲンツは覚悟を決めて一歩前にでる。二人の男は低く長い気合いの声を張り上げ剣を振るった。
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