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序章
黒羊の刻、中庭にて 『年代記 赤き衣の王と金色の道』
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夕闇がアル・エインを覆いつくし波の音だけが静かに軍港に響いていた。兵士たちの声もまだらにしか聞こえない。
当番にあたっている歩哨の他は夕飯を取った後、自由にしているのであろう。ほとんどの兵士はイェンライと、その衛星町の出身者である。
都 市によって軍役には差がある時代で、ローハンであれば18から30までの間の3年間、イェンライであれば18から35までの間で2年と年数も年齢もまちまちであった。
宗族がほとんどの取り決めをしている時代なので統一性は全くない。それでも都市に危機が迫れば、ほとんどの成人男児は自ら武器を取り戦いに参加する。兵役はその訓練の意味も持っていた。
サーラが捉えられている西の塔にも兵舎の明りが貸すかに届いている。陽はすっかり沈み、篝火とともに兵士にも緩みが見られる時間帯でもあった。サーラは天蓋付きベッドの上で両膝を抱え、額をそこへ当てて考え込んでいた。
昼間グラムに問われたこと、ナギと離れたこと、何よりも黄玉が自分に何をもたらそうとしているのかという不安に小さな体は必死に耐えている。
足の親指の先に紅く彩られた歌集が無造作に置かれていた。サーラはユーリアの歌集を緩慢な動作で拾い膝の上で何気なく開いた。
中は竹簡でもカヤツリグサでもない。すべて絹の織物でページが作られている。文字もすべて刺繍であった。制作には恐ろしいほど時間がかかっていることであろう。中身の一枚一枚が錦の織物なのである。歌だけではなく絵なども織り込まれ絵本のようだった。
数頁開き中身をそれとなく読んでみる。どの歌もこの歌も何度も歌ってきた。小さいころから聞いて育ったものであった。
サーラはぼんやりとそれを黙読していた。読みながら竜顎の谷の生活を思い出していた。
竜顎の谷はローハン盆地の東の終わりにあたる。河の東に位置し南北に長くのびるアルザス山脈とケイト・モス山脈。その北の切れ目から始まるローハン盆地の、東側の入り口にあたるこの谷は、東側に広大な草原地帯が広がっていた。水利がわるく農耕に向いていないが牧畜が山脈の麓では盛んであった。
草原には剽悍で獰猛な移動民が跋扈している。そのためのんびり牧畜などしていたら財産ごと生命が奪われてしまうような地域でもある。
文明国として農耕や牧畜が比較的安全にできる場所は竜顎の谷の西側、ローハンの巨大な回廊砦の内側に限定されていた。冬は短かったが厳しく底冷えする。その短い冬の期間は牧畜もままならない。
その厳しい冬にサーラは良く暖炉の前でユーリアの歌を聞いて育った。歌を聞かせてくれたのは、祖母のソーマが多かったように思うが、母親のマシタでもあった。
彼女の子供の頃には常に歌が日常に満ちていた。父親のこともはっきりと覚えている。陽気で背の高い痩せ型の飄々とした人で、誰からも愛されていた。
そのときなぜか思い出したのは、ソーマが薄暗く寒い部屋で暖炉の前に腰かけ聞かせてくれたユーリアの話と歌だった。
「サーラ。ユーリア王妃の歌は長き尾を持つ蛇を称える歌なの。それはこの世のすべてを祝福する歌。嬉しいことも、楽しいことも。もちろん悲しいことも全部歌って初めてアル・ナーガは私達を見守ってくださる」
サーラは暖炉と父親の暖かい体温に、眠気を誘われながらもぼんやりとその話を聞いていた。
「いい? アル・ナーガはいつも微睡んでいらっしゃって、私たちのことを眺めているの」
「蛇の神いつも眠そうにしているの?」
「そう。だから少し気分よく目覚めてもらわないと歌が届かないの」
ソーマはそう言うと、サーラに歌を歌って聞かせた。
それは長い冬が終わり麦踏みを行うときに歌われる歌でもあった。ユーリアは何を思ってこの歌を残したのかそんなことを思いながら、少し低くよく響くその声で小さく口ずさんでいた。
「青き水面に沈みゆく 紅い夕日に誰想う
汝は一人で寂しかろう。
熱き血汐に触れもせず 汝は背中で道を説く
一人で歩むことも出来なくて
汝と共に歩み行こう 黄金に光るこの道を
汝と共に歩み行こう 紅く染まるその衣
乾いた大地の草を抜き 荒れたその手の温もりを
我はいつも感じている。
彩も解らぬ雪の中 薄紅色のその頬を
撫でてくれるわけもなく
汝と共に歩み行こう 冷たく凍るこの山を
汝と共に歩み行こう 生き抜くことの切なさを‥‥」
サーラの歌に重なるように、地の底から高い金属がぶつかる音が響き渡り、それはいよいよ歌声に合わせて調子をとっている。
歌っているサーラはそのことに気づきもしなかったが、港の兵はその不気味な音を聞いていた。サーラの胸元の黄玉ははっきりと震えカチカチと音を立てて、淡く鼈甲色の光をたたえている。
「ウケツ カムハ フシニケル
ウケツ カムヨ イヤサカヱ‥‥」
サーラは麦踏みの歌の最後にある。長き尾を持つ蛇を讃える言葉を歌に乗せた‥‥。
大地は共鳴し、サーラの黄玉は薄暗い鼈甲色のまま光を放つ。
地の底から聞こえる金属音は、複雑な音響を響かせ始めた。音と共に大地は小さく震え兵士たちの心を粟立たせる。
食膳を持った若い兵は、サーラのいる塔の真下にいて、かすかに聞こえる彼女の歌声を呆けたように聞き入っていたが、揺れる大地に足をとられ強かに転んだ。膳が放り出され食事が大地に落ちたその時であった。
それまで小さく揺れていた地面は、途端に激しく揺さぶられ建物は抗議の悲鳴をあげる。兵士たちは立つこともままならず、その場にしゃがみ何かにしがみ付いていないとならないほどであった。
そしてその振動がおさまると彼らの足元から黄金色の小さな光が沸き起こり、濃紺の空へ舞い上がっていく。
軍港にいたすべての兵が、その光景を目の当たりにした。あまりに現実離れした奇跡に彼らは途方にくれている。
大地から沸き起こったものは小さな黄玉の粒たちで、サーラのいる塔に向かって螺旋を描きながら強大な黄金色の柱のようになり部屋の中へ吸い込まれていった。
サーラは地震の後、胸元の光が急速に輝き、小さな共鳴音を発していることに気づいた。
光はいよいよ強くなっている。そして開け放たれたテラスへの扉から、小さな黄玉の粒が彼女の胸元に向かって集まってくる
「うぅ~なに‥‥なにこれ」
光が強すぎて目を開いていられなかった。
石を握ろうとしても力強くはじき返されてしまう。黄玉を吸い上げたサーラの石は少し大きくなったように見えた。光を纏っていたが、次の瞬間真っすぐ西南に向かって一本の強い光を放った。
異変に気付いたグラムが、慌てたように部屋へ転がり込んでくる。すでに息が上がり汗ばんだ髪が張り付いている。
「どうしていきなり‥‥何をしたんだ!?」
「わ、わからない。いきなり‥‥」
「なんだ! なにが石を目覚めさせた!」
グラムはサーラへ近づき胸元の石を触ろうとした。
指先が触れると力強く。まるで反発する磁力のような力が指先にかかりはじき返される。
「宝玉が目覚め。納めるべき場所へと案内する。まさに言い伝え通りじゃないか‥‥。しかしいったい何が‥‥」
グラムは一人思考を巡らせている。その空気を切り裂くようにけたたましい隊列の陣太鼓の音が響き渡る。
「なんだ!? 何が起きている」
部屋の前を足音が響いている。それも何人もの人の足音であった。扉が勢いよく開かれ、かなり焦った様子のファルキアが姿を見せた。
「グラム様! 柱の大猿が!」
「猿? あれがどうしたというのだ!」
「大猿が柱から抜け出し動き出しま‥‥」
ファルキアの声の後におぞましく巨大な叫び声が聞こえてくる。その中に兵士の号令が重なった。
アズーサはナギの肩に入った刺青を見つめていた。その顔は青くなっていたが、薄暗い部屋の中ではそのことに誰も気が付かない。
ナギが唯一持っている絹の服を帷子の上から着こむ。絹は繊維が強く耐久性がある。これから何が起きるかを考え、一番丈夫な服をナギは選んでいた。
ナギが服を着て顔を数回叩く。その音にかぶさるように部屋の奥。工房のほうからカーンの声が聞こえた。家主がいるのに物色していたらしい。
「坊主! お前こりゃいったいなんだ!?」
素っ頓狂ともいえる声色だった。
ナギが急いで工房へ歩くと、すでに海賊たちが棒のように立って何かを見つめていた。中心にはナギの父親が持って帰ったという黒鉄の塊がある。しかしその黒鉄はうっすらと黄金色に輝いていた。
海賊たちの輪の中にアズーサが割って入り深くため息をついているようであった。
「何てことだい‥‥かなわないねぇ。ナギやあんたどこでこれを手に入れた?」
「父さんだ。父さんが大内海の冒険に行ったときに見つけてきたんだ」
アズーサは黒鉄を手に取り塚の部分をじっと見つめている。何度か得心がいったように頷くと、黒鉄をナギのほうに突き出した。
「ナギ。こいつはあんたが持ってな」
アズーサの顔には諦めとも決意とも言えない物が混じっていた。ナギは力強く柄を握りしめると、工具を入れる愛用の鞄に押し込んだ。
海賊たちはナギの家を出て川へと降り、バースの方面へと船で下っていく。闇に溶け込んでおそらく川縁からは確認もできないであろう。
バースの街を横切る。少し高い丘の上に造られたこの小さな町の明りが、一つも灯っていない。
(どうして‥‥バースがこんなに静か何てありえない)
ナギは死んだように静まり返っている街を呆然と見上げていた。しかしすぐに現実に引き戻される。チシャが興奮していきなり叫んだため、掠れて少し高くなった声をだした。
「なんだよ! あれ。軍港が!」
ナギが軍港のほうへ振り向くと、バースからも視認できていた軍港の中央部分が崩れている。それだけではない軍港の城門には人だかりができている。
「戦の声だ! 戦神の名前を叫んでる」
ナギの耳にも遠く聞こえてきていた。
高く鋭い男たちの叫び声。突撃をするときに勇気を奮い起こすため戦の神『アラーイズ』の名を叫ぶのである。しかしそれは城門の人だかりからではなく城壁の中、軍港から上がっていた。
「見てみろ! あそこ!」
ナギは夜目がきいた。カーンが指さす方向を凝視する。小さくだが確かに中央の崩れた建物の上で、黄金色に輝く巨大な人影のようなものが見える。その影が叫ぶとわずかに大地が揺れるのを感じた。
「かぁちゃん‥‥なんだよあれ‥‥でっけぇ猿が」
アズーサの顔が険しくなる。
「カーン! あんたはナギと一緒に行きな! 宝石のお嬢さんを助けるんだ。 あとは私についてきな!」
カーンが少し不満そうな顔になる。こういう時に必ずものを頼まれるのは、この次男坊であった。それだけ母親から信頼を受けているのであろう。
貧乏くじを引かされたかなという表情をしていたが、ナギのほうに振り替えると顔を見合わせる。ナギは頷くと二人で一艘のボートに乗り込み城門に進めた。
アズーサたちは船から降りて城門へ、静に移動し始めた。
城門には200人ほどの男たちが群がって、巨大な丸太を城門に掛け声とともにぶち当てている。
全員イェンライ周辺に住む男達であった。小さな氏族から大きな氏族のものまで来られるものはみな来ている。丸太を持つ男たちの中にダンやアカジもいる。その中で指示を出す小柄な老人がいた。アズーサはその逞しい後ろ姿を睨み、大声で声をかけた。
「亡霊が! こんなところで何してやがる! 生きてんならさっさと出てきやがれってんだメルギン!」
名を呼ばれ振り返る老人は、少し驚いていた。老人はナギとサーラが森で出会った髭の老人であった。
軍港は混乱していた。松明が倒れ火の手が上がり、明々と夜空を照らしている。武装を解いていた兵たちは、慌てふためき練兵場まで出てきていた。
練兵場には今ありえない物が兵士たちの目の前にいる。
1マル―ド(約3メートル)ほどはあろうかという巨体に、前身は真っ黒な毛でおおわれ。目は炯々として赤く、腕は人の胴体ほどある。
黒い体毛の背中から頭にかけて逆立ち黄金色に輝いている。それは先ほどまで地下に眠っていが、石の中から抜け出し、練兵場に上がってきていた。
それが大声で鳴くと、大地が強かに揺れ、中央の建物と櫓が地滑りを起こして崩れる。それは胸に黄色の宝玉を埋め込まれた地下に置かれていた石柱の大猿であった。
大猿が出現して兵たちは一度恐慌に陥りそうになっていたが、その動きが緩慢で品定めをするように、練兵の同じ場所をぐるぐると回っていると、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
遠巻きに猿を囲んでいるが、全員恐怖で緊張していた。誰か一人が逃げ出したら、それで雪崩のように続きそうな気配があった。全員兵装を解いている。もちろんこの場にいない兵士たちは、すでに幕舎に戻り武具を着こんでいるに違いなかった。
取り巻く兵士たちが息を殺すなか、大猿が吠えた。腹の底に響き渡るような甲高い咆哮が正面の兵たちに浴びせかけられる。
正面の兵士たちは叫び声と生臭い息を浴びせられ、わずかに後退した。
咆哮をまともに浴びた兵士たちは、その場にしゃがみこんでしまう。しゃがみこんだ兵たちは苦しそうにもがいていた。そしていきなり大きな声で笑いだした。
あまりのことに取り巻く兵は、この恐ろしい光景に全員戦慄して身動きが取れない。
笑う兵士たちは立ち上がり踊るようにフラフラと兵士の輪の中を歩き回る。まるで空から見えない糸で操られているかのような手足の動き、しかし顔だけは焼かれた魚のような眼をし口角をあげ、ヘラヘラと声を出しながら狂ったように動いている。
一人の笑う兵が大猿にふいに近づいていく。どちらかというと、笑い歩いている先に大猿がいただけのような状況であったが、大猿はその兵士を軽く叩いた。
兵士は小枝のように右半身をつぶされ、取り巻く兵士の中へ放り込まれた。数人の兵士がまきこまれ、叩かれた兵士は右半身の骨が砕かれすでに息をしていない。それを抱きかかえたまま倒れた兵士が、恐慌の声をあげた。
その叫び声に大猿が呼応する。次の咆哮は天に向かって吠えられていた。そしてひと際大きく大地が揺れる。
兵士たちに恐怖が伝染していく。しかしその円の外側にいち早く武装した一団が現れた。モーロ直属の精鋭であった。
「武器を取れ! これは戦だ!」
「相手に飲まれるな! 正面に立たなければあの叫び声も利かん」
どの声も冷静に大猿を観察している。
「はよう武器を持ってこい! 素手じゃあんなもん相手にならんぞ」
後ろから濁声が響いた。モーロ将軍が後ろにいる。
「密集するな! 叫び声にやられるぞ! 遠巻きに投げ槍を使え!」
確かにモーロは戦闘に長けていた。相手の特徴をよく理解し、的確な指示を出している。精鋭たちは、各々角材を尖らせた投げ槍を構えている。
モーロの号令で一斉に槍を投げる。大猿はその槍を飛び上がることで躱した。
身長の三倍くらい飛んだであろうか、中央の練兵場から西の塔の方角へ、あっという間に移っていく。兵士たちはそのあとをすぐに追いかけた。大猿は振り返ると、大きな咆哮を上げる。こんどはかなり大きい叫び声であった。
地面が揺れる。兵士たちは立ち上がれずその場にしゃがんでしまう。
「くそ! いまいましい雄叫びだ!」
モーロが歯痒そうに地面を叩く。
地面に両手をついていた兵士たちであったが、それでも大楯を持った兵はその構えを解いていない。
西の塔から大回りして、グラムがサーラを連れ現場に駆け付ける。崩れた中央櫓を見下ろす城壁の上から練兵場の様子を二人の絹シャツと眺めている。
「すごいぞ! あれが石の柱から出てきたのか?」
グラムは興奮を抑えきれない様子であった。大猿がグラムたちのほうを振り向く。赤く鋭い目がグラムを見ているようであった。
「ひっ!」
引きつった声が闇に消える。しかし大猿はグラムを見ているわけではなかった。その後ろにいたサーラを見ていたのである。
サーラは恐怖で声が出せなくなる。後ずさり城壁沿いに後ろに下がっていく。グラムが振り向いた瞬間サーラは壁沿いに逃げ出した。
「あ! このまて!」
グラムの声。絹シャツたちの動き。それ以上に速い黒い影が一気に城壁の上まで登ってくる。
大猿はサーラをおいかけて城門を上っていた。絹シャツたちの目の前に黒い塊が通り過ぎていく。サーラとグラムたちの間に大猿は陣取った。
ゆっくりと大猿が振り向きグラムたちのほうを真っ赤な目で向きなおる。絹シャツたちはその恐ろしげな眼に怯んでいた。
間髪入れず咆哮がグラムたちのほうへ向かう。絹シャツたちは慌てて練兵場へ降りる石段に飛び込んだ。グラムたちの目の前を絹シャツたちが転げ落ちる。死にはしないだろうが強かに身体を打ち呻いている。
グラムはすぐに城壁に上がった。大猿はサーラのほうを向いていた。
サーラは恐怖で心を鷲掴みにされている。
これだけ近づいているのに獣臭すらしてこない。サーラは大猿に文字通り追い詰められていた。しかし大猿の表情はどこか寂し気で、サーラを見る灼熱の赤い目に怒りは無かった。
(表情がある‥‥)
サーラが恐る恐る大猿の顔を見つめている。大猿は懐かしむようにサーラとサーラの持つ宝玉を見つめていた。
「あなた‥‥意思が‥‥」
サーラの声に号令が被さる。
モーロの兵士が一斉に弓を放つ。数十本の矢が大猿の背に突き刺さった。わずかに顔をしかめたのがサーラにはわかった。すぐに大猿は振り向き、憤怒の表情を兵士たちに向けた。
城門の上には、兵士たちが密集体系を取っていた。大猿は兵士たちの壁に向かって吠えかかり、前のめりに突撃する。
前方の大盾の兵がその突進を止める。後方の長槍をもった兵士たちが大猿に向かって槍を突き立てた。膝と腕に深く青銅の槍が突き刺さる。
痛みを感じていないかのように、大猿は右手をふるった。大盾にこの世のものとは思えない衝撃が走り、左側の兵士が数名大盾ごと吹き飛ぶ。
盾の壁に穴が開いたところに大猿がねじり込んで、左右に腕を振るうと、流石の精鋭たちも後ろに下がらざる得なくなった。
「投げ槍!」
モーロの掛け声とともに数十本の投げ槍が大猿に向けられる。今度は流石に避けきれず、肩にあたった。刺さりはしなかったが体制を崩させる。ひるんだ大猿はしかしさらにひと際大きい咆哮を吐いた。
大地が揺れる‥‥。
次の瞬間城門の石階段が地震で崩れ落ち、兵士たちが幾人か巻き込まれた。おそらく落下して無事では済まないだろう。大猿は左右に腕を振るう。殴られた兵士が城壁に吹き飛び石が崩れ落ちた。
態勢を整えると、大猿は後ろに飛び下がる。サーラへ近づくが、そこへ兵士たちが群がってくる。
「足をねらえ! 投げ槍をもっと持ってこい!」
どこからともなく指示が出ている。モーロの声ではない。一斉に投げ槍と長槍が大猿に突き出される。膝の肉に槍が突き刺さる。
痛みに顔が歪む。大猿は崩れた城壁を掴み兵士たちに投げた。人の胴体くらいある石が大盾を吹き飛ばす。
「ダメ―!」
サーラが大猿に飛びつく、それを見た兵士たちが一瞬ひるむ。
「何をしておるか! 槍を投げろ!」
モーロの指示の声。サーラの叫び声。
そしてそれに続き兵士たちが突撃の合図として戦神の名を叫びながら大猿に突撃していく。
二十人以上の兵を城壁の下へ落とし、殴り殺している。しかし大猿の下半身はハリネズミのようになっていた。血がしたたり落ちて真っ赤な池を作っている。
「いけない! お前! 私なんかほっておいて逃げるの! 逃げなさい!」
一瞬、ほんの一瞬であった大猿は悲しそうにサーラを見つめたような気がした。
しかしすぐに兵士に向きなおると暗い空へ響くような。この夜一番の叫び声上げた。
サーラも兵士たちもその声に耳をふさぐ。そして大きく大地が揺れ、城壁が崩れる。そして大きく揺れた大地は液状化現象を起こし軍港そのものが傾いている。
「なんて奴だ‥‥港が河に沈むぞ」
城壁から落ちた衝撃で、サーラは気を失い宝玉が首から滑り落ちた。大猿は彼女を守るように兵士たちに向かっている。全身傷だらけで大きく肩が揺れている。
槍のせいで素早く動けないのであろう。あまりその場から動く気配がない。
「てこずらせおって」
モーロが汗にまみれた顔を震わせていた。崩れた城門から二つの影が躍り出る。
「サーラァ!」
ナギの声にサーラは薄く目を開けた。
当番にあたっている歩哨の他は夕飯を取った後、自由にしているのであろう。ほとんどの兵士はイェンライと、その衛星町の出身者である。
都 市によって軍役には差がある時代で、ローハンであれば18から30までの間の3年間、イェンライであれば18から35までの間で2年と年数も年齢もまちまちであった。
宗族がほとんどの取り決めをしている時代なので統一性は全くない。それでも都市に危機が迫れば、ほとんどの成人男児は自ら武器を取り戦いに参加する。兵役はその訓練の意味も持っていた。
サーラが捉えられている西の塔にも兵舎の明りが貸すかに届いている。陽はすっかり沈み、篝火とともに兵士にも緩みが見られる時間帯でもあった。サーラは天蓋付きベッドの上で両膝を抱え、額をそこへ当てて考え込んでいた。
昼間グラムに問われたこと、ナギと離れたこと、何よりも黄玉が自分に何をもたらそうとしているのかという不安に小さな体は必死に耐えている。
足の親指の先に紅く彩られた歌集が無造作に置かれていた。サーラはユーリアの歌集を緩慢な動作で拾い膝の上で何気なく開いた。
中は竹簡でもカヤツリグサでもない。すべて絹の織物でページが作られている。文字もすべて刺繍であった。制作には恐ろしいほど時間がかかっていることであろう。中身の一枚一枚が錦の織物なのである。歌だけではなく絵なども織り込まれ絵本のようだった。
数頁開き中身をそれとなく読んでみる。どの歌もこの歌も何度も歌ってきた。小さいころから聞いて育ったものであった。
サーラはぼんやりとそれを黙読していた。読みながら竜顎の谷の生活を思い出していた。
竜顎の谷はローハン盆地の東の終わりにあたる。河の東に位置し南北に長くのびるアルザス山脈とケイト・モス山脈。その北の切れ目から始まるローハン盆地の、東側の入り口にあたるこの谷は、東側に広大な草原地帯が広がっていた。水利がわるく農耕に向いていないが牧畜が山脈の麓では盛んであった。
草原には剽悍で獰猛な移動民が跋扈している。そのためのんびり牧畜などしていたら財産ごと生命が奪われてしまうような地域でもある。
文明国として農耕や牧畜が比較的安全にできる場所は竜顎の谷の西側、ローハンの巨大な回廊砦の内側に限定されていた。冬は短かったが厳しく底冷えする。その短い冬の期間は牧畜もままならない。
その厳しい冬にサーラは良く暖炉の前でユーリアの歌を聞いて育った。歌を聞かせてくれたのは、祖母のソーマが多かったように思うが、母親のマシタでもあった。
彼女の子供の頃には常に歌が日常に満ちていた。父親のこともはっきりと覚えている。陽気で背の高い痩せ型の飄々とした人で、誰からも愛されていた。
そのときなぜか思い出したのは、ソーマが薄暗く寒い部屋で暖炉の前に腰かけ聞かせてくれたユーリアの話と歌だった。
「サーラ。ユーリア王妃の歌は長き尾を持つ蛇を称える歌なの。それはこの世のすべてを祝福する歌。嬉しいことも、楽しいことも。もちろん悲しいことも全部歌って初めてアル・ナーガは私達を見守ってくださる」
サーラは暖炉と父親の暖かい体温に、眠気を誘われながらもぼんやりとその話を聞いていた。
「いい? アル・ナーガはいつも微睡んでいらっしゃって、私たちのことを眺めているの」
「蛇の神いつも眠そうにしているの?」
「そう。だから少し気分よく目覚めてもらわないと歌が届かないの」
ソーマはそう言うと、サーラに歌を歌って聞かせた。
それは長い冬が終わり麦踏みを行うときに歌われる歌でもあった。ユーリアは何を思ってこの歌を残したのかそんなことを思いながら、少し低くよく響くその声で小さく口ずさんでいた。
「青き水面に沈みゆく 紅い夕日に誰想う
汝は一人で寂しかろう。
熱き血汐に触れもせず 汝は背中で道を説く
一人で歩むことも出来なくて
汝と共に歩み行こう 黄金に光るこの道を
汝と共に歩み行こう 紅く染まるその衣
乾いた大地の草を抜き 荒れたその手の温もりを
我はいつも感じている。
彩も解らぬ雪の中 薄紅色のその頬を
撫でてくれるわけもなく
汝と共に歩み行こう 冷たく凍るこの山を
汝と共に歩み行こう 生き抜くことの切なさを‥‥」
サーラの歌に重なるように、地の底から高い金属がぶつかる音が響き渡り、それはいよいよ歌声に合わせて調子をとっている。
歌っているサーラはそのことに気づきもしなかったが、港の兵はその不気味な音を聞いていた。サーラの胸元の黄玉ははっきりと震えカチカチと音を立てて、淡く鼈甲色の光をたたえている。
「ウケツ カムハ フシニケル
ウケツ カムヨ イヤサカヱ‥‥」
サーラは麦踏みの歌の最後にある。長き尾を持つ蛇を讃える言葉を歌に乗せた‥‥。
大地は共鳴し、サーラの黄玉は薄暗い鼈甲色のまま光を放つ。
地の底から聞こえる金属音は、複雑な音響を響かせ始めた。音と共に大地は小さく震え兵士たちの心を粟立たせる。
食膳を持った若い兵は、サーラのいる塔の真下にいて、かすかに聞こえる彼女の歌声を呆けたように聞き入っていたが、揺れる大地に足をとられ強かに転んだ。膳が放り出され食事が大地に落ちたその時であった。
それまで小さく揺れていた地面は、途端に激しく揺さぶられ建物は抗議の悲鳴をあげる。兵士たちは立つこともままならず、その場にしゃがみ何かにしがみ付いていないとならないほどであった。
そしてその振動がおさまると彼らの足元から黄金色の小さな光が沸き起こり、濃紺の空へ舞い上がっていく。
軍港にいたすべての兵が、その光景を目の当たりにした。あまりに現実離れした奇跡に彼らは途方にくれている。
大地から沸き起こったものは小さな黄玉の粒たちで、サーラのいる塔に向かって螺旋を描きながら強大な黄金色の柱のようになり部屋の中へ吸い込まれていった。
サーラは地震の後、胸元の光が急速に輝き、小さな共鳴音を発していることに気づいた。
光はいよいよ強くなっている。そして開け放たれたテラスへの扉から、小さな黄玉の粒が彼女の胸元に向かって集まってくる
「うぅ~なに‥‥なにこれ」
光が強すぎて目を開いていられなかった。
石を握ろうとしても力強くはじき返されてしまう。黄玉を吸い上げたサーラの石は少し大きくなったように見えた。光を纏っていたが、次の瞬間真っすぐ西南に向かって一本の強い光を放った。
異変に気付いたグラムが、慌てたように部屋へ転がり込んでくる。すでに息が上がり汗ばんだ髪が張り付いている。
「どうしていきなり‥‥何をしたんだ!?」
「わ、わからない。いきなり‥‥」
「なんだ! なにが石を目覚めさせた!」
グラムはサーラへ近づき胸元の石を触ろうとした。
指先が触れると力強く。まるで反発する磁力のような力が指先にかかりはじき返される。
「宝玉が目覚め。納めるべき場所へと案内する。まさに言い伝え通りじゃないか‥‥。しかしいったい何が‥‥」
グラムは一人思考を巡らせている。その空気を切り裂くようにけたたましい隊列の陣太鼓の音が響き渡る。
「なんだ!? 何が起きている」
部屋の前を足音が響いている。それも何人もの人の足音であった。扉が勢いよく開かれ、かなり焦った様子のファルキアが姿を見せた。
「グラム様! 柱の大猿が!」
「猿? あれがどうしたというのだ!」
「大猿が柱から抜け出し動き出しま‥‥」
ファルキアの声の後におぞましく巨大な叫び声が聞こえてくる。その中に兵士の号令が重なった。
アズーサはナギの肩に入った刺青を見つめていた。その顔は青くなっていたが、薄暗い部屋の中ではそのことに誰も気が付かない。
ナギが唯一持っている絹の服を帷子の上から着こむ。絹は繊維が強く耐久性がある。これから何が起きるかを考え、一番丈夫な服をナギは選んでいた。
ナギが服を着て顔を数回叩く。その音にかぶさるように部屋の奥。工房のほうからカーンの声が聞こえた。家主がいるのに物色していたらしい。
「坊主! お前こりゃいったいなんだ!?」
素っ頓狂ともいえる声色だった。
ナギが急いで工房へ歩くと、すでに海賊たちが棒のように立って何かを見つめていた。中心にはナギの父親が持って帰ったという黒鉄の塊がある。しかしその黒鉄はうっすらと黄金色に輝いていた。
海賊たちの輪の中にアズーサが割って入り深くため息をついているようであった。
「何てことだい‥‥かなわないねぇ。ナギやあんたどこでこれを手に入れた?」
「父さんだ。父さんが大内海の冒険に行ったときに見つけてきたんだ」
アズーサは黒鉄を手に取り塚の部分をじっと見つめている。何度か得心がいったように頷くと、黒鉄をナギのほうに突き出した。
「ナギ。こいつはあんたが持ってな」
アズーサの顔には諦めとも決意とも言えない物が混じっていた。ナギは力強く柄を握りしめると、工具を入れる愛用の鞄に押し込んだ。
海賊たちはナギの家を出て川へと降り、バースの方面へと船で下っていく。闇に溶け込んでおそらく川縁からは確認もできないであろう。
バースの街を横切る。少し高い丘の上に造られたこの小さな町の明りが、一つも灯っていない。
(どうして‥‥バースがこんなに静か何てありえない)
ナギは死んだように静まり返っている街を呆然と見上げていた。しかしすぐに現実に引き戻される。チシャが興奮していきなり叫んだため、掠れて少し高くなった声をだした。
「なんだよ! あれ。軍港が!」
ナギが軍港のほうへ振り向くと、バースからも視認できていた軍港の中央部分が崩れている。それだけではない軍港の城門には人だかりができている。
「戦の声だ! 戦神の名前を叫んでる」
ナギの耳にも遠く聞こえてきていた。
高く鋭い男たちの叫び声。突撃をするときに勇気を奮い起こすため戦の神『アラーイズ』の名を叫ぶのである。しかしそれは城門の人だかりからではなく城壁の中、軍港から上がっていた。
「見てみろ! あそこ!」
ナギは夜目がきいた。カーンが指さす方向を凝視する。小さくだが確かに中央の崩れた建物の上で、黄金色に輝く巨大な人影のようなものが見える。その影が叫ぶとわずかに大地が揺れるのを感じた。
「かぁちゃん‥‥なんだよあれ‥‥でっけぇ猿が」
アズーサの顔が険しくなる。
「カーン! あんたはナギと一緒に行きな! 宝石のお嬢さんを助けるんだ。 あとは私についてきな!」
カーンが少し不満そうな顔になる。こういう時に必ずものを頼まれるのは、この次男坊であった。それだけ母親から信頼を受けているのであろう。
貧乏くじを引かされたかなという表情をしていたが、ナギのほうに振り替えると顔を見合わせる。ナギは頷くと二人で一艘のボートに乗り込み城門に進めた。
アズーサたちは船から降りて城門へ、静に移動し始めた。
城門には200人ほどの男たちが群がって、巨大な丸太を城門に掛け声とともにぶち当てている。
全員イェンライ周辺に住む男達であった。小さな氏族から大きな氏族のものまで来られるものはみな来ている。丸太を持つ男たちの中にダンやアカジもいる。その中で指示を出す小柄な老人がいた。アズーサはその逞しい後ろ姿を睨み、大声で声をかけた。
「亡霊が! こんなところで何してやがる! 生きてんならさっさと出てきやがれってんだメルギン!」
名を呼ばれ振り返る老人は、少し驚いていた。老人はナギとサーラが森で出会った髭の老人であった。
軍港は混乱していた。松明が倒れ火の手が上がり、明々と夜空を照らしている。武装を解いていた兵たちは、慌てふためき練兵場まで出てきていた。
練兵場には今ありえない物が兵士たちの目の前にいる。
1マル―ド(約3メートル)ほどはあろうかという巨体に、前身は真っ黒な毛でおおわれ。目は炯々として赤く、腕は人の胴体ほどある。
黒い体毛の背中から頭にかけて逆立ち黄金色に輝いている。それは先ほどまで地下に眠っていが、石の中から抜け出し、練兵場に上がってきていた。
それが大声で鳴くと、大地が強かに揺れ、中央の建物と櫓が地滑りを起こして崩れる。それは胸に黄色の宝玉を埋め込まれた地下に置かれていた石柱の大猿であった。
大猿が出現して兵たちは一度恐慌に陥りそうになっていたが、その動きが緩慢で品定めをするように、練兵の同じ場所をぐるぐると回っていると、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
遠巻きに猿を囲んでいるが、全員恐怖で緊張していた。誰か一人が逃げ出したら、それで雪崩のように続きそうな気配があった。全員兵装を解いている。もちろんこの場にいない兵士たちは、すでに幕舎に戻り武具を着こんでいるに違いなかった。
取り巻く兵士たちが息を殺すなか、大猿が吠えた。腹の底に響き渡るような甲高い咆哮が正面の兵たちに浴びせかけられる。
正面の兵士たちは叫び声と生臭い息を浴びせられ、わずかに後退した。
咆哮をまともに浴びた兵士たちは、その場にしゃがみこんでしまう。しゃがみこんだ兵たちは苦しそうにもがいていた。そしていきなり大きな声で笑いだした。
あまりのことに取り巻く兵は、この恐ろしい光景に全員戦慄して身動きが取れない。
笑う兵士たちは立ち上がり踊るようにフラフラと兵士の輪の中を歩き回る。まるで空から見えない糸で操られているかのような手足の動き、しかし顔だけは焼かれた魚のような眼をし口角をあげ、ヘラヘラと声を出しながら狂ったように動いている。
一人の笑う兵が大猿にふいに近づいていく。どちらかというと、笑い歩いている先に大猿がいただけのような状況であったが、大猿はその兵士を軽く叩いた。
兵士は小枝のように右半身をつぶされ、取り巻く兵士の中へ放り込まれた。数人の兵士がまきこまれ、叩かれた兵士は右半身の骨が砕かれすでに息をしていない。それを抱きかかえたまま倒れた兵士が、恐慌の声をあげた。
その叫び声に大猿が呼応する。次の咆哮は天に向かって吠えられていた。そしてひと際大きく大地が揺れる。
兵士たちに恐怖が伝染していく。しかしその円の外側にいち早く武装した一団が現れた。モーロ直属の精鋭であった。
「武器を取れ! これは戦だ!」
「相手に飲まれるな! 正面に立たなければあの叫び声も利かん」
どの声も冷静に大猿を観察している。
「はよう武器を持ってこい! 素手じゃあんなもん相手にならんぞ」
後ろから濁声が響いた。モーロ将軍が後ろにいる。
「密集するな! 叫び声にやられるぞ! 遠巻きに投げ槍を使え!」
確かにモーロは戦闘に長けていた。相手の特徴をよく理解し、的確な指示を出している。精鋭たちは、各々角材を尖らせた投げ槍を構えている。
モーロの号令で一斉に槍を投げる。大猿はその槍を飛び上がることで躱した。
身長の三倍くらい飛んだであろうか、中央の練兵場から西の塔の方角へ、あっという間に移っていく。兵士たちはそのあとをすぐに追いかけた。大猿は振り返ると、大きな咆哮を上げる。こんどはかなり大きい叫び声であった。
地面が揺れる。兵士たちは立ち上がれずその場にしゃがんでしまう。
「くそ! いまいましい雄叫びだ!」
モーロが歯痒そうに地面を叩く。
地面に両手をついていた兵士たちであったが、それでも大楯を持った兵はその構えを解いていない。
西の塔から大回りして、グラムがサーラを連れ現場に駆け付ける。崩れた中央櫓を見下ろす城壁の上から練兵場の様子を二人の絹シャツと眺めている。
「すごいぞ! あれが石の柱から出てきたのか?」
グラムは興奮を抑えきれない様子であった。大猿がグラムたちのほうを振り向く。赤く鋭い目がグラムを見ているようであった。
「ひっ!」
引きつった声が闇に消える。しかし大猿はグラムを見ているわけではなかった。その後ろにいたサーラを見ていたのである。
サーラは恐怖で声が出せなくなる。後ずさり城壁沿いに後ろに下がっていく。グラムが振り向いた瞬間サーラは壁沿いに逃げ出した。
「あ! このまて!」
グラムの声。絹シャツたちの動き。それ以上に速い黒い影が一気に城壁の上まで登ってくる。
大猿はサーラをおいかけて城門を上っていた。絹シャツたちの目の前に黒い塊が通り過ぎていく。サーラとグラムたちの間に大猿は陣取った。
ゆっくりと大猿が振り向きグラムたちのほうを真っ赤な目で向きなおる。絹シャツたちはその恐ろしげな眼に怯んでいた。
間髪入れず咆哮がグラムたちのほうへ向かう。絹シャツたちは慌てて練兵場へ降りる石段に飛び込んだ。グラムたちの目の前を絹シャツたちが転げ落ちる。死にはしないだろうが強かに身体を打ち呻いている。
グラムはすぐに城壁に上がった。大猿はサーラのほうを向いていた。
サーラは恐怖で心を鷲掴みにされている。
これだけ近づいているのに獣臭すらしてこない。サーラは大猿に文字通り追い詰められていた。しかし大猿の表情はどこか寂し気で、サーラを見る灼熱の赤い目に怒りは無かった。
(表情がある‥‥)
サーラが恐る恐る大猿の顔を見つめている。大猿は懐かしむようにサーラとサーラの持つ宝玉を見つめていた。
「あなた‥‥意思が‥‥」
サーラの声に号令が被さる。
モーロの兵士が一斉に弓を放つ。数十本の矢が大猿の背に突き刺さった。わずかに顔をしかめたのがサーラにはわかった。すぐに大猿は振り向き、憤怒の表情を兵士たちに向けた。
城門の上には、兵士たちが密集体系を取っていた。大猿は兵士たちの壁に向かって吠えかかり、前のめりに突撃する。
前方の大盾の兵がその突進を止める。後方の長槍をもった兵士たちが大猿に向かって槍を突き立てた。膝と腕に深く青銅の槍が突き刺さる。
痛みを感じていないかのように、大猿は右手をふるった。大盾にこの世のものとは思えない衝撃が走り、左側の兵士が数名大盾ごと吹き飛ぶ。
盾の壁に穴が開いたところに大猿がねじり込んで、左右に腕を振るうと、流石の精鋭たちも後ろに下がらざる得なくなった。
「投げ槍!」
モーロの掛け声とともに数十本の投げ槍が大猿に向けられる。今度は流石に避けきれず、肩にあたった。刺さりはしなかったが体制を崩させる。ひるんだ大猿はしかしさらにひと際大きい咆哮を吐いた。
大地が揺れる‥‥。
次の瞬間城門の石階段が地震で崩れ落ち、兵士たちが幾人か巻き込まれた。おそらく落下して無事では済まないだろう。大猿は左右に腕を振るう。殴られた兵士が城壁に吹き飛び石が崩れ落ちた。
態勢を整えると、大猿は後ろに飛び下がる。サーラへ近づくが、そこへ兵士たちが群がってくる。
「足をねらえ! 投げ槍をもっと持ってこい!」
どこからともなく指示が出ている。モーロの声ではない。一斉に投げ槍と長槍が大猿に突き出される。膝の肉に槍が突き刺さる。
痛みに顔が歪む。大猿は崩れた城壁を掴み兵士たちに投げた。人の胴体くらいある石が大盾を吹き飛ばす。
「ダメ―!」
サーラが大猿に飛びつく、それを見た兵士たちが一瞬ひるむ。
「何をしておるか! 槍を投げろ!」
モーロの指示の声。サーラの叫び声。
そしてそれに続き兵士たちが突撃の合図として戦神の名を叫びながら大猿に突撃していく。
二十人以上の兵を城壁の下へ落とし、殴り殺している。しかし大猿の下半身はハリネズミのようになっていた。血がしたたり落ちて真っ赤な池を作っている。
「いけない! お前! 私なんかほっておいて逃げるの! 逃げなさい!」
一瞬、ほんの一瞬であった大猿は悲しそうにサーラを見つめたような気がした。
しかしすぐに兵士に向きなおると暗い空へ響くような。この夜一番の叫び声上げた。
サーラも兵士たちもその声に耳をふさぐ。そして大きく大地が揺れ、城壁が崩れる。そして大きく揺れた大地は液状化現象を起こし軍港そのものが傾いている。
「なんて奴だ‥‥港が河に沈むぞ」
城壁から落ちた衝撃で、サーラは気を失い宝玉が首から滑り落ちた。大猿は彼女を守るように兵士たちに向かっている。全身傷だらけで大きく肩が揺れている。
槍のせいで素早く動けないのであろう。あまりその場から動く気配がない。
「てこずらせおって」
モーロが汗にまみれた顔を震わせていた。崩れた城門から二つの影が躍り出る。
「サーラァ!」
ナギの声にサーラは薄く目を開けた。
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