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第二夜
年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』
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薄暗い地下書庫は黴臭く薄寒い。秋にさしかかる時期で少し動くと汗ばむほどであるはずなのに地下書庫では薄手の上着が必要なほどであった。黄櫨の蝋燭を一つつけて細身で中背の青年が木簡を手にしている。外はまだ陽が高いのであるが、地下であるためその光も差し込んでこない。木簡を読み解くことに集中し過ぎて時間の感覚がなくなったのか昼食も取っていなかった。
青年の顔は少し大人になっていた。女性のような顔立ちであった部分も消えている。少し伸びて収まりの悪い亜麻色の髪の毛と緋色の瞳が少し疲れたように見える。タイロン・メルシゴナは17になっていた。
鈍い木材の軋む音がタイロンの耳に聞こえてきた。誰かが地下書庫へ降りてきている。振り向きもせずにタイロンは木簡の文字を追っていた。
「あんまり根を詰めると疲れちゃうよ」
背中にかかる声にタイロンは振り向き優し気な笑顔を向けた。階段を降りてきた少女、いやもはや少女という感じはなくなっている背はそれほど高くなくブラウンの髪をおろした彼女はカズンズ・コルピンの妹シエラであった。
「ありがとシエラ」
シエラは盆に昼食を乗せている。しかしその盆を机に置こうとしなかった。
「外にしましょ?書庫はどうも体に悪そう」
「そうだね。少しお日様にあたらないと俺まで黴生えてきそうだ」
二人は連れ立って地下から外へ出る。陽の光がタイロンの瞼に注がれ締め上げられるような痛みを感じた。
「まぶしいな」
書庫から出ても木簡を一つ手に持っている。二人が地下書庫から出るとそこはパリス上層にある神殿の一角であった。芝生が広がる庭と人口の池があり強大な女神の像が立っている。二人は木製のベンチに腰掛け遅い昼食を広げた
タイロンは片手で食事をとりながら木簡から目を離さない。それをシエラはつまらなそうに見ている。
「今日はどんなこと調べてんの?」
「ん~サンサ村の大サガとオルギンの戦い。あの沼地でパリスは200年くらい前にオルギンと戦ってるって知ってた?」
「知らな~い。興味ないもん」
「そうだわな」
「サンサ村の昔の村長さんが勝ったの?」
「大サガはシエラたちコルピン家の血筋だ。サガ・コルピン。コルピン家は大昔サンサ村をパリスから託されてたらしい」
「サンサ村の?あそこはザウストラ家が管理してるんでしょ?」
「今はそうだね。サガはコルピン家の分家になる。そして彼の子孫の一人がザウストラを名乗り始める。つまり俺のおじさんとシエラやカズンズは遠い親戚になるな。ただザウストラがコルピンの名前を捨てたときに少しいざこざがあったらしくて、ザウストラは綿栽培の権益をメルシゴナに渡して保護下に入ったらしい」
「氏族で喧嘩したの?」
「その辺はまだ詳しく調べてないんだ。というか書庫にはその辺の事情まで残されてない。メルシゴナとザウストラは婚姻関係で結びつきが強くなってるんだけど、結局それはコルピンとの繋がりを強くすることにもなってるってことみたい」
「だからうちのお父ちゃんと、メルシゴナのおじさんあんなに仲いいのか」
「200年も前の話だけどね」
二人はとりとめもないパリスの歴史を話している。タイロンは一度オルギンがサンサ村までその勢力を広げてその後に後退していたことのほうが興味深かった。現在でもサウル盆地の西側ハウル・ローの周辺小都市までしかローハンの勢力は広がっていない。スカージ・オルギンによってローハンを追われたサルビム人やサウル盆地に残った者たちが建国した諸都市は独立したまま自治を保っている。
タイロンが読み解いているのは歴史書それも戦史であった。物語性が強く詳細はわからないことが多い。200年前ほどに行われた戦争なのであるが実態がよくわからなかった。兵士の数もオルギンが20万でパリスが5千などとかかれているが、そんな戦力差で本当に勝ったのかどうかも疑わしかった。嘘や誇大に表現された記述が多くパリスの主観的な歴史認識が書かれているばかりである。
「ほとんど嘘なの?その本に書かれてることって」
「たぶんね。20万人なんていったらローハンのスカージ王家を戴いている諸都市が総動員しなきゃならない兵力だし、わざわざパリスをその兵数で攻略する意味がよくわからないじゃないか」
「200年も前だからよくわかんないなぁ」
「ただわざわざ歴史書に残すくらいだからなんらかの争いがスカージとあったのは間違いないんじゃないかな?200年前だとハウル・ローが自治権を確立したころでローハンと恒久的な戦争状態だったころと重なるんだ」
「それってどういうこと?意味があるの?」
「ハウル・ローはその後にローハンに負けるて同盟都市に組み込まれるんだけど、ハウル・ローのユリシア家は元々ユーリア王妃の部族の末裔が周辺のサルビム人を統合してできた都市なんだよ。スカージ・オルギンとは仇敵になる。そういう都市が間にあるのにパリスにまでオルギンが出張ってきているのもおかしいだろ?」
「それほど離れてなかったわよね?ハウル・ローとパリスって」
「可能性はなくはないんだ。人狩りとか略奪とか理由はいくらでも考えれる。戦争状態でオルギンやスカージがハウル・ローの土地を荒らしまわってて西の果てまできてしまってた。そこに小さいながらも人の多い村みたいなものがあったら…」
「そうね。襲っちゃいそう」
「きっと小さな戦いがあったのは間違いないんだよ。それが後世に大きく伝わったんだろうね」
沼地の戦いに描写はそれこそ詳しく書かれていない。その中で特徴的に書かれていることが、サガ・コルピンが現在のサンサがある高台に陣取り始めの二日を耐え抜いたこと、その時にスカージの名のある武将と一騎打ちをして勝ったこと、そして痺れを切らしたローハンの将軍マゼモ・オルギンが戦車とそれを引く馬を沼地に動かし陣地を張りそこをサガに襲われたことなどが記述として残されていた。
そのなかでタイロンは一つのことに気づいている。曖昧で大げさな記述が多い中でやたらとサガがローハンの軍の後ろに回り込んだという事を強調しているのであった。沼地を大きく迂回し歩兵とおそらく戦車によって包囲したのであろうそのことが読み取れるのである。
タイロンはかなりの戦史を読み漁っていた。それは彼の知識の一端でしかなかったが、その戦史のほとんどに包囲殲滅によるワンサイドゲームというパターンが残されているのであった。
二人の間にある昼食は残りが少なくなっている。秋の風が熱っぽく語ったタイロンの上気した頬にあたり心地よかった。シエラは聞かなけらばならないことがあった。しかしそのことが言えずにいる。タイロンに対してもであったが兄のカズンズにもいずれ関係してくるであろう兵役のことをシエラは心配していた。最低2年それがパリスの男子に対する義務である。カズンズもタイロンもまだ兵役にはついていない。普通であれば16から18の間で行ってしまうものが多い中二人はパリス指導部の思惑もあり行かせてもらえていなかったのである。シエラは意を決してタイロンに尋ねる。
「テルベは…テルベは兵役にいくの?」
タイロンはその言葉にはっきりと応える。
「もちろん、俺はパリス市民だからね」
その答えにシエラは少し寂しそうな顔になった。左手首から先がないタイロンが戦場で上手く立ち回れるか心配で仕方が無いのである。マッシュハガ家の跡継ぎはタイロンやカズンズよりも歳が上のはずなのにいまだに兵役に行かず威張り散らしている。世の中は不公平だとシエラは心の底から感じていた。
「来年の春にはいくつもりだよ」
「でも北の都市と戦争状態だったわよね」
「ジロンとの戦争?あれはもう終わるよ。交渉も終わってるってさ」
都市ジロンはサウル盆地の中央付近に作られたサルビム人都市である。盆地の中心部は荒野と草原地帯が広がり中央にはコウロン・アルザス・ハルゼオン山系から流れ込む川が幾つか流れ、そこから地下水系が作られている。地下水系はときおり荒野や草原に湧き出しオアシスを出現させるのであるがそのオアシスの近くに都市が形成される。地下水系によって生まれたオアシスは必ずしもその場所にいつまでもあるわけでなくそのうち枯れてしまう事が多かったが何か所かは100年以上保たれ人工的に水を引かれているもがもあった。水利の悪さが農業に適さないのがサウル盆地中央部の特色であるが、巨大オアシスは農業の問題も飲料の問題も同時に解決するのである。
サウル盆地の中央よりやや南、ハウル・ローの北に広がる荒野と草原の中央に数百年枯れることなく水が湧き出すオアシスにオアシスと同じ名前の都市としてジロンは作られた。盆地のほぼ中央にあたり古くから様々な異民族とサルビム人がジロンの水場を活用し共存と闘争を繰り返した場所でもある。
そのオアシスの街に城壁が作られサルビム人の大きな宗族ティト家がジロンの主となったのがおおよそ300年前と伝えらえる。しかし立地がサルビム人だけの都市であることを許さなかった。
ジロンはティト家が中心の都市国家ではあるが、周辺の移動民たちの集合地でもあったため統治が困難を極めてたのである常に戦をしているような状況が続き少しづつ異民族を受け入れていくうちにサルビム人と雑多な異民族の混血が進んだ都市へと変容していった。パリスやローハンのように都市民とその他の民が隔絶しておらず宗家すら異民族の血が混じりサウル盆地では異質なほど民族・種族間の垣根が低い都市なのである。
そのジロンとパリスはウル・アリーシャの東側で境界を接していた。元々パリスが占有していたのであるがそこへ後進のジロンが勢力を伸ばしたことにより問題が生まれた。草原地帯を抜けウル・アリーシャまで荒野がひろがりぶつかるその場所には低い山に囲まれた銅山が存在していたのである。100年以上パリスが東の果ての街として都市モサを築いて囚人労働を送り込んでいるようなところであったが、ジロンが所有権を求めたのであった。
幾度となく戦と交渉がおこなわれパリスの所有は揺るがないのであるが、何かにつけて小競り合いをジロンは起こすのである。しかし今回の揉め事は少し様相が変わっていた。ハウル・ローが滅ぼされた後、ジロンがローハンの保護下に入ったのである。
「どんどん時代が変わっていってる。いつまでもパリスがパリスで入れるかどうかもわからないよ。でもねシエラ。俺は思うんだ結局はパリスが今まで通りでいるためには、俺たちがパリスのために働くしかないんだ」
シエラはタイロンの言葉にわずかに悲しそうな顔を見せたような気がしたが、すぐに表情を隠すように微笑む。シエラが何かを伝えようとしたが、そこへ人影が手を振りながら近づいてきた。二人ともよく見知った女性。女性のわりには背が高く長い髪を後ろに束ねていた。
「タイロン!」
「姉さんどうしたの?」
ケイラは疲れた様子もなく神殿の坂を上がってきた。手には頑丈そうな牛革でできた小包と羊皮紙の手紙を携えている。
「探したわよ。まったく」
ケイラは少女っぽさがまったくなくなっていた。細身で忙しなくしている。いつもピリピリしていたがその表情が彼女の魅力になっていた。
ケイラは細く長い指で握った羊皮紙をタイロンに差し出した。真新しい羊皮紙には思いのほか美しい文字が書かれている。思わずタイロンは羊皮紙と牛革の小包を受け取る。
「おじさんから」
タイロンの顔が急に子供の顔になり晴れやかになった。トラーガルにあったのは3年も前になる。
「トラさんから?帰ってくるの?」
「自分で読みなさいよ!私は忙しいの。じゃあ確かに渡したから」
そういうとケイラは踵を返し二・三歩戻ろうとしてもう一度振り返った。
「シエラ。あなたもいつまでもタイロンにかまってないで家の手伝いしなさい。コルピンのおじさんだって人手が足りなくて困ってるでしょ?まったく・・・」
最後のほうの声は二人にも聞こえない。姉の言葉を聞いているのかいないのかわからなかったがタイロンはトラーガルからの手紙に目を落としていた。シエラは横から羊皮紙を覗き込む。書かれているのはパリス語であった。
「トラーガルおじさん?」
「うん」
タイロンの読む速さは異常であった。シエラが一行目を読む間にもう読み終えているようであった。
「帰ってくるわけではないみたい」
「そうなの?近くにいないの?」
「うん。今はジロンや昔のハウル・ローのあたりとローハンの間で商売してるらしい」
読み終えたタイロンの横顔は少し残念そうにしていた。
「帰ってこれないのね」
「うん。まぁしょうがないよね。実はトラさんに頼んでたことがあったんだけど、それも駄目だったみたいだ」
「それは?」
シエラがタイロンの膝の上にある小包を指さした。
「なんだろ?」
タイロンが小包についている細く手の込んだ装飾のついた留め金を外す。中にはあざやかな色合いになめされた皮製の表紙がついた絹製の刺繍本が出てくる。
「なにそれすごい綺麗」
「何て読むんだ?マールディア・シエラムって書いてあるな」
「え?本当?それって…」
「知ってんの?」
「マールじゃない!なんでテルベ知らないのよ!むしろそっちのほうがびっくりするわよ」
「誰?」
「誰って…」
シエラは心底呆れたようにタイロンの顔を見つめた。あんがいタイロンという青年はパリスの外のことに興味がないのを改めて認識させられている。質朴で悪く言えば田舎者なのである。
「マール知らないの?アルザスの妖精。ローハンだけじゃなくてサルビム盆地にまで名前が広まってる歌子のこと」
「そんなに有名なの?」
シエラは溜息をついた。マールディア・シエラムはパリスのような片田舎の少し大きな都市に住むシエラのような少女にもよく知られた存在なのである。歌い手は身分が高くどこか遠い存在なのであるが、シエラは正規の訓練を受けていないにもかかわらずローハン周辺では少女たちのアイコンになっている。特別な学者というよりも庶民に近い出自が彼女の本質であった。
ストロベリーブロンドの髪、最先端のファッション、立ち振る舞いにその言動。何よりも宝玉の歌い手達を戦争に使うことに反対して世に問うその生きざまが、スカージ嫌いの諸部族に受けが良かった。ファルカオンの学園関係者から学園入りの話が幾度となく打診されているらしいが、それを断り歌う事でローハンの民衆を虜にしている。
「まだ16歳なんだそのマールディアっていう歌子」
シエラはタイロンから刺繍を奪い取って開いている。シエラの瞳はそれと分かるくらいキラキラと光っているように見える。トラーガルがタイロンに送り付けたのはマールの譜面である。歌い手達は自分の 譜面を作り売り出すことをするのであるが、その中でも今一番手に入りにくいのがマールの譜面なのであった。
「トラーガルおじさんすごいもの送ってくれたわね」
嬉しそうにページをめくるシエラの横顔をタイロンは満足そうに見つめていた。
「それあげるよ」
「え!?」
「あげる。シエラが嬉しそうなだからあげる」
「いいの…?」
「喜んでくれる人に持ってもらったほうがいいよきっと」
ほがらかな笑顔を見せるタイロンの瞳から目を離しシエラは譜面を抱きしめた。
暑苦しい顔をして暑苦しい男たちが暑苦しい部屋で、皮脂油が噴き出た顔を突き合わせている。四人の男は全員が50代から40代後半であった。どの顔もいかつく一筋縄ではいかなさそうである。中央に陣とっているのがパリスの仕切りをしているダルダ一家のジェルダオ・ダルダである。顎が逞しく張った四角い顔は土気色の顔色をして眉間に皺が寄っている。目の下の隈が濃く体の調子が悪そうにみえるのは生活が荒れているのであろう。
「大親分の許可は下りたんだな?」
ジェルダオの言葉に細面で背の高男が応える。
「えぇダルダ親分、ローハンはこの際パリスの差配を親分に任せることに決めました」
ジェルダオはにんまりとする。
「本家はわしらにこの街を任せるってことでいいんだな?」
「そうだダルダの。しかし問題は残っとるな」
ジェルダオの喜色に冷や水を駆けるかのように左手にすわる頭が禿げあがった小太りの男が声をかけた。しかしその言葉にジェルダオは全く動揺も見せずむしろ楽しんでいるようであった。
「うちはかまわんよ。むしろ大歓迎なくらいだ」
「相変わらずですね。ええもちろんパリスの差配を親分に一任するからにはこの街の小汚いやつらの掃除もお願いしますよ」
それは正式に本家からパリスの差配を任さることを意味していた。今後ダルダ一家はグァンジ―一家の名代として振舞うことになる。ひいてはオルギンの後ろ盾を持つことも意味していた。パリス下層における権益争いでオルギンの名前を出すことの意味は大きい。争いごとにおいてパリスとローハンの宗族争いにまで発展する危険性が含まれるのであるが、ローハンはパリスとの争いも辞さないという意志表明なのである。
ジェルダオにそのことを伝えた細面の男は薄く笑った。男はオルバ・フナミという。グァンジ―一家を構成する組織でグァンジ―一家から独り立ちしたオルバが立てた一家であった。本家の中での役職もあり実質グァンジ―一家を取り仕切っているといえる。もう一人禿げ頭の男は同じくグァンジ―一家から独立してできたナガ一家のオイジョ・ナガである。オルバがグァンジーの組織を動かす頭ならばオイジョやジェルダオは組織の暴力のほうを担っていた。
「ほんでオルバ。この街を抑えるのはいいとして、宗家やらなんやらとのつてはどうするんだ?当てはあるのか?」
オイジョは至極当然の疑問を問いかけた。三人の中では一番この世界が長い。本家のグァンジー一家の立ち上げの時、つまりグァンジ―一家のインガリ・グァンジ―が血みどろの争いに勝ちローハンで一本立ちしたの時からの付き合いである。ジェルダンは彼の舎弟であったが、不思議と彼の周りには子分が集まりグァンジ―一家の中でも一番の武闘派となってた。オイジョは最古参で人望も厚い彼の一家も命知らずばかりなのである。
「ええそのことでお二人をお呼びしました。パリスからもローハンとの交易を考慮する旨を得ています」
「ほう。それはまた…」
オイジョの顔が少し険しさを含んだものになる。ウル・アリーシャ高地南の要所にあたるこのパリスがおいそれと交易権を変更するとは思えない。そもそもパリスにはわざわざ遠く離れたローハンと交易を結ぶ必要性がなかった。そこにはかなりきな臭く生臭い思惑があることをこの男は嗅ぎ取ったのだ。オルバはその空気感を感じ取る。
「そのうちあちらから顔を出すと思います。私もまだあちらのことを疑っておりますのでね」
「どこの家だ?」
「マッシュハガ家です。しかし彼らはこの街の差配のすべてを取り仕切ってませんがね」
「四つの家だったな?それが分割しとるんだろ?」
オイジョは流石にわかっているようであった。もちろんジェルダオもパリスの事情にはくわしい。
「そうです。いまは裏を取ってますが、マッシュハガ家から話を持ち掛けられてますね。パリス下層を一度大掃除したいという思いもあるようですが」
オイジョは腕を組み少し思案していた。悪い話ではないが真意がわからないそういった風である。
「オイジョの兄貴ここは流れに乗ったほうがよさそうだがな」
ジョルダオが促す。オイジョは争いごとを厭わないが情報が少なすぎるのが気に食わなかった。そしてもう一つ気にかかっていることがもある。それはジロンのブルジ一家の半端ものが本家に黙って奴隷売買に手を出していたことに端を発したことであった。グァンジ―一家と盃をかわしたこともありブルジ一家はローハンまで荷を運ぶようになった。そして彼らは同時にパリスの交易圏にまで進出している。元々ジロンとパリスは関係が悪いこともあり小さな村を襲っては人身売買をする者がブルジの身内のなかにいたのであった。
彼らはパリス周辺はおろかパリス市内まで入り込んで借金を抱えた若い売春婦などにまで手を出していた。オイジョは彼らの後ろ盾にもなっており、パリスの宗法を抜けさせていた。しかしある時その一家が丸ごと蒸発してしまったのである。そのうちの一人の死体がサンサ村の近く干上がり沼地になっている湖のほとりで見つかるのである。まるで見せしめのように。
その一件以来オイジョはかなり慎重になっていた。下層のやくざ者は怖くはないが得体のしれない何者かの視線をいつも感じているよなそんな気分にさせられてる。もちろんパリスの宗法を抜けさせていたことは二人には伝えていない。抜け駆け以外の何物でもなかったからである。
オイジョは一瞬であったが逡巡した。しかし彼の長らく経験した感働きがそうさせたのか言葉にだした。
「二人とも一寸聞け」
オイジョのもの言いに二人はかしこまった。年長者であり渡世の酸いも甘いも知り尽くしている男の毒がこもった声に二人ともあてられていた。
「ジョルダオの。この半年この街におったな?」
「そりゃそうだ。わしは二人に比べたら随分忙しかったでな」
「幽鬼という話を聞いたことは無かったか?」
ジョルダオの顔が険しくなった。
「オイジョの兄さんも聞いたのか?」
「お前もか」
「ああジロンのやつらがやられたっていうのは若いやつらから聞かされてる」
「人身売買に手を出してたやつらだ。手口は?」
ジョルダオは身を乗り出した。二人の間には何とも言えぬ緊張感があった。
「全員短刀だ。ただ中には用心棒にやとった殺しの専門もいたらしい」
「そいつの死体はみつかったのか?」
ジョルダオは首を左右に振る。ジロンのやくざ者は4人組だったようなのであるが死体は一人分しか見つかっておらずあとの三人は何処かへ消えてしまっていた。喧嘩も強く情報収取にも長けた男たちである。その彼らが痕跡すらつかめていなかった。
「相当な手練れと考えていいな」
オイジョの言葉にオルバが口を挟む。
「まさかゴミどもが雇ったんでしょうか?」
「可能性はあるな。やつらはパリスに義理立てて人攫いまではしておらんだろうし。新参者の商売を邪魔する方法としては効果的ではある」
「ではそちらのほうも私が調べてみましょう。なにパリスのバカ者どもですからすぐにわかりますよ」
オイジョとジョルダオは同時に頷いた。三人のやくざ者の会合は終わった。
青年の顔は少し大人になっていた。女性のような顔立ちであった部分も消えている。少し伸びて収まりの悪い亜麻色の髪の毛と緋色の瞳が少し疲れたように見える。タイロン・メルシゴナは17になっていた。
鈍い木材の軋む音がタイロンの耳に聞こえてきた。誰かが地下書庫へ降りてきている。振り向きもせずにタイロンは木簡の文字を追っていた。
「あんまり根を詰めると疲れちゃうよ」
背中にかかる声にタイロンは振り向き優し気な笑顔を向けた。階段を降りてきた少女、いやもはや少女という感じはなくなっている背はそれほど高くなくブラウンの髪をおろした彼女はカズンズ・コルピンの妹シエラであった。
「ありがとシエラ」
シエラは盆に昼食を乗せている。しかしその盆を机に置こうとしなかった。
「外にしましょ?書庫はどうも体に悪そう」
「そうだね。少しお日様にあたらないと俺まで黴生えてきそうだ」
二人は連れ立って地下から外へ出る。陽の光がタイロンの瞼に注がれ締め上げられるような痛みを感じた。
「まぶしいな」
書庫から出ても木簡を一つ手に持っている。二人が地下書庫から出るとそこはパリス上層にある神殿の一角であった。芝生が広がる庭と人口の池があり強大な女神の像が立っている。二人は木製のベンチに腰掛け遅い昼食を広げた
タイロンは片手で食事をとりながら木簡から目を離さない。それをシエラはつまらなそうに見ている。
「今日はどんなこと調べてんの?」
「ん~サンサ村の大サガとオルギンの戦い。あの沼地でパリスは200年くらい前にオルギンと戦ってるって知ってた?」
「知らな~い。興味ないもん」
「そうだわな」
「サンサ村の昔の村長さんが勝ったの?」
「大サガはシエラたちコルピン家の血筋だ。サガ・コルピン。コルピン家は大昔サンサ村をパリスから託されてたらしい」
「サンサ村の?あそこはザウストラ家が管理してるんでしょ?」
「今はそうだね。サガはコルピン家の分家になる。そして彼の子孫の一人がザウストラを名乗り始める。つまり俺のおじさんとシエラやカズンズは遠い親戚になるな。ただザウストラがコルピンの名前を捨てたときに少しいざこざがあったらしくて、ザウストラは綿栽培の権益をメルシゴナに渡して保護下に入ったらしい」
「氏族で喧嘩したの?」
「その辺はまだ詳しく調べてないんだ。というか書庫にはその辺の事情まで残されてない。メルシゴナとザウストラは婚姻関係で結びつきが強くなってるんだけど、結局それはコルピンとの繋がりを強くすることにもなってるってことみたい」
「だからうちのお父ちゃんと、メルシゴナのおじさんあんなに仲いいのか」
「200年も前の話だけどね」
二人はとりとめもないパリスの歴史を話している。タイロンは一度オルギンがサンサ村までその勢力を広げてその後に後退していたことのほうが興味深かった。現在でもサウル盆地の西側ハウル・ローの周辺小都市までしかローハンの勢力は広がっていない。スカージ・オルギンによってローハンを追われたサルビム人やサウル盆地に残った者たちが建国した諸都市は独立したまま自治を保っている。
タイロンが読み解いているのは歴史書それも戦史であった。物語性が強く詳細はわからないことが多い。200年前ほどに行われた戦争なのであるが実態がよくわからなかった。兵士の数もオルギンが20万でパリスが5千などとかかれているが、そんな戦力差で本当に勝ったのかどうかも疑わしかった。嘘や誇大に表現された記述が多くパリスの主観的な歴史認識が書かれているばかりである。
「ほとんど嘘なの?その本に書かれてることって」
「たぶんね。20万人なんていったらローハンのスカージ王家を戴いている諸都市が総動員しなきゃならない兵力だし、わざわざパリスをその兵数で攻略する意味がよくわからないじゃないか」
「200年も前だからよくわかんないなぁ」
「ただわざわざ歴史書に残すくらいだからなんらかの争いがスカージとあったのは間違いないんじゃないかな?200年前だとハウル・ローが自治権を確立したころでローハンと恒久的な戦争状態だったころと重なるんだ」
「それってどういうこと?意味があるの?」
「ハウル・ローはその後にローハンに負けるて同盟都市に組み込まれるんだけど、ハウル・ローのユリシア家は元々ユーリア王妃の部族の末裔が周辺のサルビム人を統合してできた都市なんだよ。スカージ・オルギンとは仇敵になる。そういう都市が間にあるのにパリスにまでオルギンが出張ってきているのもおかしいだろ?」
「それほど離れてなかったわよね?ハウル・ローとパリスって」
「可能性はなくはないんだ。人狩りとか略奪とか理由はいくらでも考えれる。戦争状態でオルギンやスカージがハウル・ローの土地を荒らしまわってて西の果てまできてしまってた。そこに小さいながらも人の多い村みたいなものがあったら…」
「そうね。襲っちゃいそう」
「きっと小さな戦いがあったのは間違いないんだよ。それが後世に大きく伝わったんだろうね」
沼地の戦いに描写はそれこそ詳しく書かれていない。その中で特徴的に書かれていることが、サガ・コルピンが現在のサンサがある高台に陣取り始めの二日を耐え抜いたこと、その時にスカージの名のある武将と一騎打ちをして勝ったこと、そして痺れを切らしたローハンの将軍マゼモ・オルギンが戦車とそれを引く馬を沼地に動かし陣地を張りそこをサガに襲われたことなどが記述として残されていた。
そのなかでタイロンは一つのことに気づいている。曖昧で大げさな記述が多い中でやたらとサガがローハンの軍の後ろに回り込んだという事を強調しているのであった。沼地を大きく迂回し歩兵とおそらく戦車によって包囲したのであろうそのことが読み取れるのである。
タイロンはかなりの戦史を読み漁っていた。それは彼の知識の一端でしかなかったが、その戦史のほとんどに包囲殲滅によるワンサイドゲームというパターンが残されているのであった。
二人の間にある昼食は残りが少なくなっている。秋の風が熱っぽく語ったタイロンの上気した頬にあたり心地よかった。シエラは聞かなけらばならないことがあった。しかしそのことが言えずにいる。タイロンに対してもであったが兄のカズンズにもいずれ関係してくるであろう兵役のことをシエラは心配していた。最低2年それがパリスの男子に対する義務である。カズンズもタイロンもまだ兵役にはついていない。普通であれば16から18の間で行ってしまうものが多い中二人はパリス指導部の思惑もあり行かせてもらえていなかったのである。シエラは意を決してタイロンに尋ねる。
「テルベは…テルベは兵役にいくの?」
タイロンはその言葉にはっきりと応える。
「もちろん、俺はパリス市民だからね」
その答えにシエラは少し寂しそうな顔になった。左手首から先がないタイロンが戦場で上手く立ち回れるか心配で仕方が無いのである。マッシュハガ家の跡継ぎはタイロンやカズンズよりも歳が上のはずなのにいまだに兵役に行かず威張り散らしている。世の中は不公平だとシエラは心の底から感じていた。
「来年の春にはいくつもりだよ」
「でも北の都市と戦争状態だったわよね」
「ジロンとの戦争?あれはもう終わるよ。交渉も終わってるってさ」
都市ジロンはサウル盆地の中央付近に作られたサルビム人都市である。盆地の中心部は荒野と草原地帯が広がり中央にはコウロン・アルザス・ハルゼオン山系から流れ込む川が幾つか流れ、そこから地下水系が作られている。地下水系はときおり荒野や草原に湧き出しオアシスを出現させるのであるがそのオアシスの近くに都市が形成される。地下水系によって生まれたオアシスは必ずしもその場所にいつまでもあるわけでなくそのうち枯れてしまう事が多かったが何か所かは100年以上保たれ人工的に水を引かれているもがもあった。水利の悪さが農業に適さないのがサウル盆地中央部の特色であるが、巨大オアシスは農業の問題も飲料の問題も同時に解決するのである。
サウル盆地の中央よりやや南、ハウル・ローの北に広がる荒野と草原の中央に数百年枯れることなく水が湧き出すオアシスにオアシスと同じ名前の都市としてジロンは作られた。盆地のほぼ中央にあたり古くから様々な異民族とサルビム人がジロンの水場を活用し共存と闘争を繰り返した場所でもある。
そのオアシスの街に城壁が作られサルビム人の大きな宗族ティト家がジロンの主となったのがおおよそ300年前と伝えらえる。しかし立地がサルビム人だけの都市であることを許さなかった。
ジロンはティト家が中心の都市国家ではあるが、周辺の移動民たちの集合地でもあったため統治が困難を極めてたのである常に戦をしているような状況が続き少しづつ異民族を受け入れていくうちにサルビム人と雑多な異民族の混血が進んだ都市へと変容していった。パリスやローハンのように都市民とその他の民が隔絶しておらず宗家すら異民族の血が混じりサウル盆地では異質なほど民族・種族間の垣根が低い都市なのである。
そのジロンとパリスはウル・アリーシャの東側で境界を接していた。元々パリスが占有していたのであるがそこへ後進のジロンが勢力を伸ばしたことにより問題が生まれた。草原地帯を抜けウル・アリーシャまで荒野がひろがりぶつかるその場所には低い山に囲まれた銅山が存在していたのである。100年以上パリスが東の果ての街として都市モサを築いて囚人労働を送り込んでいるようなところであったが、ジロンが所有権を求めたのであった。
幾度となく戦と交渉がおこなわれパリスの所有は揺るがないのであるが、何かにつけて小競り合いをジロンは起こすのである。しかし今回の揉め事は少し様相が変わっていた。ハウル・ローが滅ぼされた後、ジロンがローハンの保護下に入ったのである。
「どんどん時代が変わっていってる。いつまでもパリスがパリスで入れるかどうかもわからないよ。でもねシエラ。俺は思うんだ結局はパリスが今まで通りでいるためには、俺たちがパリスのために働くしかないんだ」
シエラはタイロンの言葉にわずかに悲しそうな顔を見せたような気がしたが、すぐに表情を隠すように微笑む。シエラが何かを伝えようとしたが、そこへ人影が手を振りながら近づいてきた。二人ともよく見知った女性。女性のわりには背が高く長い髪を後ろに束ねていた。
「タイロン!」
「姉さんどうしたの?」
ケイラは疲れた様子もなく神殿の坂を上がってきた。手には頑丈そうな牛革でできた小包と羊皮紙の手紙を携えている。
「探したわよ。まったく」
ケイラは少女っぽさがまったくなくなっていた。細身で忙しなくしている。いつもピリピリしていたがその表情が彼女の魅力になっていた。
ケイラは細く長い指で握った羊皮紙をタイロンに差し出した。真新しい羊皮紙には思いのほか美しい文字が書かれている。思わずタイロンは羊皮紙と牛革の小包を受け取る。
「おじさんから」
タイロンの顔が急に子供の顔になり晴れやかになった。トラーガルにあったのは3年も前になる。
「トラさんから?帰ってくるの?」
「自分で読みなさいよ!私は忙しいの。じゃあ確かに渡したから」
そういうとケイラは踵を返し二・三歩戻ろうとしてもう一度振り返った。
「シエラ。あなたもいつまでもタイロンにかまってないで家の手伝いしなさい。コルピンのおじさんだって人手が足りなくて困ってるでしょ?まったく・・・」
最後のほうの声は二人にも聞こえない。姉の言葉を聞いているのかいないのかわからなかったがタイロンはトラーガルからの手紙に目を落としていた。シエラは横から羊皮紙を覗き込む。書かれているのはパリス語であった。
「トラーガルおじさん?」
「うん」
タイロンの読む速さは異常であった。シエラが一行目を読む間にもう読み終えているようであった。
「帰ってくるわけではないみたい」
「そうなの?近くにいないの?」
「うん。今はジロンや昔のハウル・ローのあたりとローハンの間で商売してるらしい」
読み終えたタイロンの横顔は少し残念そうにしていた。
「帰ってこれないのね」
「うん。まぁしょうがないよね。実はトラさんに頼んでたことがあったんだけど、それも駄目だったみたいだ」
「それは?」
シエラがタイロンの膝の上にある小包を指さした。
「なんだろ?」
タイロンが小包についている細く手の込んだ装飾のついた留め金を外す。中にはあざやかな色合いになめされた皮製の表紙がついた絹製の刺繍本が出てくる。
「なにそれすごい綺麗」
「何て読むんだ?マールディア・シエラムって書いてあるな」
「え?本当?それって…」
「知ってんの?」
「マールじゃない!なんでテルベ知らないのよ!むしろそっちのほうがびっくりするわよ」
「誰?」
「誰って…」
シエラは心底呆れたようにタイロンの顔を見つめた。あんがいタイロンという青年はパリスの外のことに興味がないのを改めて認識させられている。質朴で悪く言えば田舎者なのである。
「マール知らないの?アルザスの妖精。ローハンだけじゃなくてサルビム盆地にまで名前が広まってる歌子のこと」
「そんなに有名なの?」
シエラは溜息をついた。マールディア・シエラムはパリスのような片田舎の少し大きな都市に住むシエラのような少女にもよく知られた存在なのである。歌い手は身分が高くどこか遠い存在なのであるが、シエラは正規の訓練を受けていないにもかかわらずローハン周辺では少女たちのアイコンになっている。特別な学者というよりも庶民に近い出自が彼女の本質であった。
ストロベリーブロンドの髪、最先端のファッション、立ち振る舞いにその言動。何よりも宝玉の歌い手達を戦争に使うことに反対して世に問うその生きざまが、スカージ嫌いの諸部族に受けが良かった。ファルカオンの学園関係者から学園入りの話が幾度となく打診されているらしいが、それを断り歌う事でローハンの民衆を虜にしている。
「まだ16歳なんだそのマールディアっていう歌子」
シエラはタイロンから刺繍を奪い取って開いている。シエラの瞳はそれと分かるくらいキラキラと光っているように見える。トラーガルがタイロンに送り付けたのはマールの譜面である。歌い手達は自分の 譜面を作り売り出すことをするのであるが、その中でも今一番手に入りにくいのがマールの譜面なのであった。
「トラーガルおじさんすごいもの送ってくれたわね」
嬉しそうにページをめくるシエラの横顔をタイロンは満足そうに見つめていた。
「それあげるよ」
「え!?」
「あげる。シエラが嬉しそうなだからあげる」
「いいの…?」
「喜んでくれる人に持ってもらったほうがいいよきっと」
ほがらかな笑顔を見せるタイロンの瞳から目を離しシエラは譜面を抱きしめた。
暑苦しい顔をして暑苦しい男たちが暑苦しい部屋で、皮脂油が噴き出た顔を突き合わせている。四人の男は全員が50代から40代後半であった。どの顔もいかつく一筋縄ではいかなさそうである。中央に陣とっているのがパリスの仕切りをしているダルダ一家のジェルダオ・ダルダである。顎が逞しく張った四角い顔は土気色の顔色をして眉間に皺が寄っている。目の下の隈が濃く体の調子が悪そうにみえるのは生活が荒れているのであろう。
「大親分の許可は下りたんだな?」
ジェルダオの言葉に細面で背の高男が応える。
「えぇダルダ親分、ローハンはこの際パリスの差配を親分に任せることに決めました」
ジェルダオはにんまりとする。
「本家はわしらにこの街を任せるってことでいいんだな?」
「そうだダルダの。しかし問題は残っとるな」
ジェルダオの喜色に冷や水を駆けるかのように左手にすわる頭が禿げあがった小太りの男が声をかけた。しかしその言葉にジェルダオは全く動揺も見せずむしろ楽しんでいるようであった。
「うちはかまわんよ。むしろ大歓迎なくらいだ」
「相変わらずですね。ええもちろんパリスの差配を親分に一任するからにはこの街の小汚いやつらの掃除もお願いしますよ」
それは正式に本家からパリスの差配を任さることを意味していた。今後ダルダ一家はグァンジ―一家の名代として振舞うことになる。ひいてはオルギンの後ろ盾を持つことも意味していた。パリス下層における権益争いでオルギンの名前を出すことの意味は大きい。争いごとにおいてパリスとローハンの宗族争いにまで発展する危険性が含まれるのであるが、ローハンはパリスとの争いも辞さないという意志表明なのである。
ジェルダオにそのことを伝えた細面の男は薄く笑った。男はオルバ・フナミという。グァンジ―一家を構成する組織でグァンジ―一家から独り立ちしたオルバが立てた一家であった。本家の中での役職もあり実質グァンジ―一家を取り仕切っているといえる。もう一人禿げ頭の男は同じくグァンジ―一家から独立してできたナガ一家のオイジョ・ナガである。オルバがグァンジーの組織を動かす頭ならばオイジョやジェルダオは組織の暴力のほうを担っていた。
「ほんでオルバ。この街を抑えるのはいいとして、宗家やらなんやらとのつてはどうするんだ?当てはあるのか?」
オイジョは至極当然の疑問を問いかけた。三人の中では一番この世界が長い。本家のグァンジー一家の立ち上げの時、つまりグァンジ―一家のインガリ・グァンジ―が血みどろの争いに勝ちローハンで一本立ちしたの時からの付き合いである。ジェルダンは彼の舎弟であったが、不思議と彼の周りには子分が集まりグァンジ―一家の中でも一番の武闘派となってた。オイジョは最古参で人望も厚い彼の一家も命知らずばかりなのである。
「ええそのことでお二人をお呼びしました。パリスからもローハンとの交易を考慮する旨を得ています」
「ほう。それはまた…」
オイジョの顔が少し険しさを含んだものになる。ウル・アリーシャ高地南の要所にあたるこのパリスがおいそれと交易権を変更するとは思えない。そもそもパリスにはわざわざ遠く離れたローハンと交易を結ぶ必要性がなかった。そこにはかなりきな臭く生臭い思惑があることをこの男は嗅ぎ取ったのだ。オルバはその空気感を感じ取る。
「そのうちあちらから顔を出すと思います。私もまだあちらのことを疑っておりますのでね」
「どこの家だ?」
「マッシュハガ家です。しかし彼らはこの街の差配のすべてを取り仕切ってませんがね」
「四つの家だったな?それが分割しとるんだろ?」
オイジョは流石にわかっているようであった。もちろんジェルダオもパリスの事情にはくわしい。
「そうです。いまは裏を取ってますが、マッシュハガ家から話を持ち掛けられてますね。パリス下層を一度大掃除したいという思いもあるようですが」
オイジョは腕を組み少し思案していた。悪い話ではないが真意がわからないそういった風である。
「オイジョの兄貴ここは流れに乗ったほうがよさそうだがな」
ジョルダオが促す。オイジョは争いごとを厭わないが情報が少なすぎるのが気に食わなかった。そしてもう一つ気にかかっていることがもある。それはジロンのブルジ一家の半端ものが本家に黙って奴隷売買に手を出していたことに端を発したことであった。グァンジ―一家と盃をかわしたこともありブルジ一家はローハンまで荷を運ぶようになった。そして彼らは同時にパリスの交易圏にまで進出している。元々ジロンとパリスは関係が悪いこともあり小さな村を襲っては人身売買をする者がブルジの身内のなかにいたのであった。
彼らはパリス周辺はおろかパリス市内まで入り込んで借金を抱えた若い売春婦などにまで手を出していた。オイジョは彼らの後ろ盾にもなっており、パリスの宗法を抜けさせていた。しかしある時その一家が丸ごと蒸発してしまったのである。そのうちの一人の死体がサンサ村の近く干上がり沼地になっている湖のほとりで見つかるのである。まるで見せしめのように。
その一件以来オイジョはかなり慎重になっていた。下層のやくざ者は怖くはないが得体のしれない何者かの視線をいつも感じているよなそんな気分にさせられてる。もちろんパリスの宗法を抜けさせていたことは二人には伝えていない。抜け駆け以外の何物でもなかったからである。
オイジョは一瞬であったが逡巡した。しかし彼の長らく経験した感働きがそうさせたのか言葉にだした。
「二人とも一寸聞け」
オイジョのもの言いに二人はかしこまった。年長者であり渡世の酸いも甘いも知り尽くしている男の毒がこもった声に二人ともあてられていた。
「ジョルダオの。この半年この街におったな?」
「そりゃそうだ。わしは二人に比べたら随分忙しかったでな」
「幽鬼という話を聞いたことは無かったか?」
ジョルダオの顔が険しくなった。
「オイジョの兄さんも聞いたのか?」
「お前もか」
「ああジロンのやつらがやられたっていうのは若いやつらから聞かされてる」
「人身売買に手を出してたやつらだ。手口は?」
ジョルダオは身を乗り出した。二人の間には何とも言えぬ緊張感があった。
「全員短刀だ。ただ中には用心棒にやとった殺しの専門もいたらしい」
「そいつの死体はみつかったのか?」
ジョルダオは首を左右に振る。ジロンのやくざ者は4人組だったようなのであるが死体は一人分しか見つかっておらずあとの三人は何処かへ消えてしまっていた。喧嘩も強く情報収取にも長けた男たちである。その彼らが痕跡すらつかめていなかった。
「相当な手練れと考えていいな」
オイジョの言葉にオルバが口を挟む。
「まさかゴミどもが雇ったんでしょうか?」
「可能性はあるな。やつらはパリスに義理立てて人攫いまではしておらんだろうし。新参者の商売を邪魔する方法としては効果的ではある」
「ではそちらのほうも私が調べてみましょう。なにパリスのバカ者どもですからすぐにわかりますよ」
オイジョとジョルダオは同時に頷いた。三人のやくざ者の会合は終わった。
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