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第一夜

年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』

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 槐の蔦が絡まる土壁がローハンという町の特徴でもあった。わずかに湿った空気が満月の夜に満ちている。
スカージ朝764年緑月のはじめであった。時期は夏で暑さの盛りを今迎えようとしている。星の瞬きも弱めるほどの月明かりは無かったがそれでも通りに出ても不便はないほどの明るさをしているであろう。
 薄暗い部屋の中で黄櫨で出来た蝋に火が灯っている。その灯が少し疲れたような男の顔を照らしていた。刻は黄金の牡牛の刻に迫って夜も深まっている。そんな時間に男は薄暗い部屋で竹簡にしたためられた物をのんびりと眺めているのであった。
 男の名はキゼル・コルネス・スパキオ。都市スパキオの宗主でコルネス宗族の長である。キゼルはその面長で薄い顔をわずかにあげて竹簡から目を上げた。部屋の入り口に人影が見えたような気がしたからであった。

「マル―ドか? なんだい?」
「はっ。キゼル様少し報告いたしたいことがございまして、もうお休みかと存じておりましたが」
「いや。まだ大丈夫だよ。どうしたんだ?」

 マル―ドと呼ばれたキゼルとほぼ同世代おそらく20代の前半であろうその背の高い男は伝えづらそうに控えている。このマル―ドはコルネス家に仕える執事気家マスキム家の男であった。執事筋とはいえスパキオに帰れば大きな力を持つ氏族の一員である。幼い頃よりコルネス家に仕え、キゼルに友人としても部下としても仕えている腹心といえる存在であった。

「屋敷の外側が些か物々しく‥‥」
「なにかあったか?」
「はい‥‥いや。ユリシア家所縁のものが屋敷の前にて庇護を求めております。我らでは如何ともしがたく」


 キゼルは普段でさえ小難しそうに眉間に皺が寄っているような顔をしていたが、この時はさらに陰鬱な表情を隠さなかった。一年前に次男が生まれたばかりであり、長子はまだ5つである。ようやく生活が落ち着いてきたこの時期下手にオルギンやスカージ本家と諍いを起こしたくもない。厄介ごとがまさか向こうからやってくるとは思いもよらなかった。二人が険しい表情をして困った顔になっている理由はサウル盆地にある都市ハウル・ローと王家執事のオルギン家との宗族闘争に端を発したいざこざが原因である。
 
 話の経緯はこうであった。一年ほど前と言われているが、オルギンが雇う荷卸し徒歩の中に素行の悪い者たちが混じり込んでいたのである。
 やくざ者たちはハウル・ローに仕事で出向いたのであるがそのまま居座りオルギン家の名をかたりながら乱暴狼藉をほしいままにしていた。彼らはとうとうハウル・ローの宗族ユリシア家が宗法として禁止していた芥子の密売と周辺部落から強引に連れ去った奴隷売買に手を出し始めた。流石に宗法を犯すことはユリシア家の沽券にもかかわることであり、ハウル・ローの各氏族はその余所者たちの犯罪を調べ上げた上、彼らを私的な刑罰にかけたのである。
 相当に腕っぷしに自信のあるやくざ者達だったらしく、それだけ好き勝手にしハウル・ロー治安を犯していたのだが、何処からか来た用心棒一人によって中核になっていた組織が一夜で崩壊したことにより、ハウル・ローは元の様子を取り戻すはずであった。
 問題はそのあとで、この一件にオルギンが干渉してきたことであった。曰く「我らが雇った荷卸し徒歩を私刑にするのはオルギンひいてはスカージ王家に対する反逆である」という乱暴な論理を振りかざし、事件を宗族闘争まで大きく広げたのである。
 このようなオルギンの言掛りは枚挙に暇が無かったので、ほとんどの心ある者たちには毎度のこととして捉えられていた。ユリシア家が手付金の一つでも渡しハウル・ローの市場の利権をわずかばかり融通すれば丸く収まるところであった。しかしユリシア家は今回の一件に対し徹底してオルギンに反抗したのである。
 話し会いの道も早々に閉じてしまい。オルギンは怒りに任せてハウル・ローへ1万ほどの兵を差し向けた。ユリシア家としてはオルギンに対するその他都市の恨みつらみが味方すると期待していたのであろうが、そのあては見事にずれてしまう。それでもハウル・ローの民は半年近くも耐え抜いていた。
 
 それが先日ハウル・ローの陥落の知らせがローハンにも届いていた。街は半壊されほぼすべての住民が虐殺されたか奴隷として売られたとギゼルは報告を受けている。そのギゼルの元にハウル・ローからローハンに出向いていた氏族モル家が屋敷の外門に入り庇護を要請しているのであった。ローハンではユリシアの宗族に連なる氏族はオルギン家率いるローハンの近衛兵と守備隊に追い詰められている。あちらこちらでハウル・ロー出身者たちが捕まり殺されているのであった。
 殺伐とした城内の様子が連日続いて、ギゼルは暗澹とした毎日を過ごしていた。そんなところへ処理の難しい厄介が降りかかったのである。

「入れたのか?」
「いや‥‥流石に屋敷の中には、外門と中門の中庭に待たせておりますが」
「オルギンは?」
「すでに嗅ぎつけております。ハウル・ローの者がギゼル様に御目通しを求めております」

 ギゼルは大きく息を吐き出した。スパキオのコルネス家といえばユーリア王妃の系譜に連なるサルビム人では最大規模の宗族でありスパキオに住み都市を支える氏族にたいする責任も大きい。それだけにオルギン家やスカージ王家には何かにつけて目を付けられがちであった。ギゼルはその立場をよくわきまえている。迂闊な行動は避けなければならない。

「お会いになられますか?」
「わかった。行こう」

 そう呟くとギゼルは椅子から立ち上がり、絹の寝間着の上から薄手のローブを羽織った。
 中門をくぐり中庭へと進むと30人ばかりの男女が旅姿のまま座っている。半数以上が女、子供で男は10人にも満たない。男たちは全員軍装でほとんどが老人であった。一人として傷を負っていない者はいない。
 凄惨なその様子をギゼルは黙って睨んでいる。ギゼルが姿を見せると、顔に汗と泥と乾いた血痕を付けた初老の男が進み出る。

「夜分にご迷惑をおかけいたす。しかし慈愛深く高名なコルネス家の宗主殿にお願い申し上げたきことがございます」

 ギゼルは男の訴えを黙って聞いている。

「この度のオルギン家のやり様を許しては、ローハンのご政道が歪んでしまいましょう。しかし我らには力がございません。どうにか、どうにかここにおる女、子供だけでもお助け願いませぬでしょうか?」

 悲痛な男の訴えをギゼルはむっつりとして聞いていた。男の声が必死であればあるほどギゼルは冷静になっている自分に辟易していた。
 ギゼルは男の声を遮りマル―ドを呼んだ。

「マル―ド、彼らに食事を」
「‥‥はっ」

 マル―ドは小さく返事をかえす。後ろに控えた者たちにそれとなく促すと足早に屋敷の奥へと消えた。マル―ドが奥へ引っ込みしばらくすると外門から中庭に聞こえるように大きな声が聞こえてきた。

「コルネス家に伝える! そなたらの屋敷にハウル・ローの賊が入ったと伝えが入った。我らはローハンの宗法により賊を誅殺いたす上意を承った。隠し立ていたすとコルネス家も賊と共謀したとして立法にかけるがよろしいか?」

 女たちの間に静かなざわめきが起こった。何処かの氏族がモル家をオルギン家に売ったのである。激しく外門を叩く音が闇夜に響いている。代表者であった初老の男がギゼルに厳しい顔を向けている。

「コルネス卿! なにとぞご慈悲を!」

 ギゼルは疲れたようにモル家の残党を見つめている。すると奥から小柄な女性が焼いたばかりのパンと保存食の干し肉をたっぷりと盛りつけた皿を持って姿をあらわした。女はギゼルの正妻のルカ・コルネスである。
 その姿を認め、残党の中から少し年増で美しい黒髪をした女が初老の男の横に進み出た。

「ヘイズ、もうよいのです‥‥」

 ヘイズと呼ばれた男は横に立った女にすがるような声をだした。

「奥様! あきらめては」
「もうよいのです。コルネス様ご迷惑をおかけいたしました」

 悲しそうでそれでいて決意を固めた女の顔をギゼルとルカはじっと見つめ返した。沈黙をギゼルが破る。

「食事を」

 ギゼルが言葉を発する前に小さな影が二人の間をすり抜ける。ルカが持つ皿からパンを二つ取るとどっかりと座り込み一心不乱にかじりついた。

「ヤニス!」

 ヘイズが子供を叱かる。

「よいのです。ゆっくりお上がりなさい」

 ルカはしゃがみヤニスと呼ばれた少年の前に皿を差し出した。よほど腹が減っていたのであろうヤニスは差し出された干し肉にも手を伸ばした。
 その姿を女は嬉しそうに見つめていると一礼をして踵を返した。

「コルネス卿!一食のご厚意感謝に耐えませぬ。最後に我らモル一党の雄姿をその代金として受け取っていただきましょう!」

 ヘイズが大声で叫ぶと、軍装の男たちは怖い顔をして立ち上がり外門へと向かって歩き始めた。死兵がもつ異様さがどの男たちの背中にも見て取れる。
 
「門を開けよ! オルギンの鬼、畜生共にモル家の意地を見せてやろうぞ!」

 ヘイズが先頭に立ち大声で宣言する。ギゼルが首を動かすと外門はゆっくりと開かれた。外には完全武装の近衛兵待ち構えている。
 一瞬の間をおいてヘイズたちは一斉に外へ駆け出した。それに続き女子供も走り出す。しかし外へ出た者たちは次々と近衛兵の槍襖の餌食となり、残忍な顔をした兵士たちの刃にかかっていく。最後に背の高い女が一度ヤニスのほうを見た。ヤニスは食事に夢中で気づくこともなかった。少し涙の糸が女の瞳から溢れるのをギゼルとルカは見逃さなかった。
 ヤニスが手を止めて後ろを振り返る。そこには背の高い女が門を出る後ろ姿と、モル家の一党が無残にも突き殺され切り殺される風景があった。地獄の門が開かれたようなその光景をヤニスは憤怒の表情で睨んでいた。そして口いっぱいにパンを含んだまま女の後ろに向かって駆け出そうとした。
 ヤニスの首を太く大きい指が押さえつけ、袈裟懸けに腕が回る。強い力がヤニスを押さえつけて離さなかった。
 ヤニスはその力に抗い必死に前に走ろうとするが、手のほうも絶対に行かせまいと力が込められている。ヤニスを抑えたギゼルは暴れるヤニスを地面に押さえつける。
 両手を押さえつけられ腰に乗られ身動きがとれぬままヤニスはパンを吐き出した。涙をためた瞳で城門が閉じられるのをただじっと睨みつけている。
 何か叫ぼうとしたヤニスの口にギゼルの手の甲が重なった。それは母を呼ぶ声であったのか、呪いの言葉であったのかわからなかったが、とにかくヤニスの叫びはギゼルの手によって遮られたのである。

 
 全てが終わり、城門の叫び声もなくなった時ようやくギゼルはヤニスから離れた。疲れて汗にまみれた額をぬぐう。ヤニスは声にならない嗚咽を発し続けていた。
 一夜にして親類をすべて失った少年の背中をギゼルは難しそうな顔で睨みつけていたが、やがて月に向かって大きくため息を吐いた。ヤニスの背中をルカは優しく撫でていた。
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