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リリース

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「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! 明日の収録キャンセルって? 困るんですけど! なんとかならないんですか!?」
「すみません、江端孝史(えばたこうじ)が体調を崩してしまって」

 ゲームのリリースまで二週間前。それは声優事務所からの連絡だった。
 江端は「ヒロイックリメインズ」の主人公の英結である「華厳」の声優だ。
 声優界トップクラスの人気声優で、有名なアニメに必ず出ていると言われるほどの売れっ子である。
 スケジュールを押さえるのはかなり困難だったが、文見が先に押さえる判断をしたこともあってなんとか収録にこぎ着けていた。だが、ここに来て体調不良によるキャンセル。
 声優も俳優であり、人間なので、体調が悪くてはお芝居ができない。こういうときは後日改めて収録するしかなかった。

「体調治ったらすぐ押さえてください!」
「それはそうですけど、他の仕事もキャンセルしているので、だいぶあとになっちゃうかもしれません」
「そこをなんとか!」
「なんとかと言われましても……」

 人気声優は分刻みで仕事をしている。一つ収録したらすぐ移動して、別のスタジオで収録する。それを一日で何回もやることになる。
 一日休むだけ何件もキャンセルすることになるので、どんどん仕事が溜まっていくのだ。復帰後はそれを消化するためさらに忙しくなるので、予定が取れなくなってしまう。

「お願いします、本当に! あたしたちの命がかかってるんです!」

 電話の前で何度も頭を下げたが、それが伝わるわけもなく、明確な約束はしてもらえなかった。

「終わった……。本当に終わった……」

 急に体から力が抜けて、ぐったりしてしまう。
 華厳はメインキャラの中でもトップクラスに重要なキャラだ。主人公、ヒロインのメイ、それに次ぐ。華厳がいなければ、ゲームとしてシナリオとして成立しないといえる。
 社長が納得してくれるだろうか。そして八幡の気遣いを無駄にしてしまった。
 ゲームのリリース延期に期待はできないだろう。各パート、リリース時に出すものを少なくすることで対応した。登場するキャラやシナリオは少ないし、未実装の成長システムもあるし、期間限定イベントはしばらくやらないことにしてある。
 しかし、メインキャラの声がないのは許されない。でも次にいつ収録ができるか分からない以上、文見に打てる手はない。

「どうしてくれるんだ! できると言ったじゃないか!」

 社長に報告すると当然怒られた。
 これまで声を荒らげて怒鳴ることはなかったが、「リリース直前にやっぱ無理でした」と言われたら、さすがの天ヶ瀬も叫んでしまったのだった。

「も、申し訳ありません……」
「謝ってもどうにもならない。これをどうする気だ!」
「り、リリースを延期するか、恥を承知の上で、華厳は音声なしで世に出すしか……」
「何だと……? みんながこれまで死ぬ気で頑張ってきたゲームだぞ! それはお前も知ってるだろ? なのに延期? お前の失態で、みんなの苦労を無駄にするのか!」
「申し訳ありません……」

 体を折り曲げて謝るしかできることがなかった。
 許してくれるなら土下座してもいい。
 文見が何も言わず、ただ頭を下げ続けていると、「もういい」と言い、腹心の村野を連れて外に出て行ってしまった。
 文見はどうしようもなく、ただ社長席の前で呆然と頭を下げ続けるしかなかった。
 なんて惨めな姿だろうか。全社員の視線が集まっているのが分かる。情けなくて涙が出てくる。
 その様子はあまりに気の毒で、誰も声をかけられなかった。
 このまま泣き続けているわけにはいかないけれど、足が動かなかった。頭が真っ白になり、そこに罪悪感がどんどん侵食していく。
 全部自分が悪い。自分のせいでみんなに迷惑をかけてしまった。どうすれば許してもらえるだろうか。

「見せものじゃねえぞ!!」

 しーんとした空気を切り裂く声。
 それは木津だった。
 つかつかと歩いて社長席のほうに向かっていく。そして立ちすくんだままの文見の手を取る。

「観月……」
「ほら」

 木津は強引に手を引き、外へと連れ出し、女子トイレに文見を連れていく。

「どうしよう……。あたし、あたし……。みんなのゲームを……」
「あんたのせいじゃない!」
「どうしようなくて……」
「そう、どうしようもない。だから、あんたが負う必要はないんだよ」
「でも、でも……」
「でもじゃない! 泣くな!」
「ひっ!?」

 木津は突然、文見の頭を掴んで洗面台の洗面ボウルに押しやる。するとセンサーが感知して水が流れ出した。

「や、やめてー!! がふっ……」

 水が文見の頭に流れ出して、あっという間にぐっしょりと濡らしてしまう。
 やっと木津が放してくれ、頭を上げるが、水がぽたぽたと垂れ落ちて、服や床を濡らしてしまう。

「なにすんのよ!」

 文見は思わず、木津に掴みかかってしまう。
 急に水攻めに遭い、死ぬかもしれないという恐怖を味わったのだから無理もない。

「ふふっ、元気になったわね」
「元気じゃないよ!」

 不敵に笑う木津が何をしたかったかすぐに理解して、すぐに手を放す。

「もう……」

 犬のように首を振って、濡れた髪から水をはらう。
 髪はぐしょぐしょで服もびちょびちょ。ちょっと前に同じようなことになったのを思い出す。

「似合ってるよ」
「似合ってない!」
「似合ってるって。文見が好きなキャラがいつも言ってるでしょ。えっと、なんだっけ」
「やまない雨はないから。覚えてないなら言わないで!」
「そう、そうそれ。今、雨に濡られて犬のように惨めな姿でも、いつか必ず晴れて、誇れる日が来るわ」
「惨めって……。そうなんだけど……」

 ひどい言いようだけど、元気づけてくれようとしての冗談なのでそんなに悪い気はしない。

「前にも言ったけど、別に文見が責任を負う必要はないわ。全部社長の責任」
「うん……」
「まあ、譲歩するなら社長も人間だから怒ることもあるわ。でも、あれは責任放棄に近い。だって、最終的な責任は社長が負うものだから。下っ端いじめても何の意味もない」
「そうなんだけど……」

 木津の言うことはよく分かる。
 社長の発言はひどい。自分の能力ではどうにもならないことを要求しているからだ。けれど、問題に対処仕切れなかった責任は、ちょっとは自分にあるように思えた。

「自分が悪いと思うのも感情の問題。社長が悪いと思うのも感情の問題。人間だから、失敗もするし、感情もうまく制御できないわ。でも、だからこそ利用もできる」
「うん?」
「事務所の人に差し入れでも持っていったらどう? 無駄かもしれないけど配慮はしてくれるかもね」
「それ、意味あるのかな……」
「さあね」

 あまりにも投げやりな返答に文見はぽかんとしてしまう。

「ただ負けが確定するのを待ってるのは嫌でしょ?」

 ゲームのリリースは延期にならなかった。メインキャラの華厳だけ音声なしのまま、7月にリリースされる。
 意味があるとは思えなかったが、文見は木津の言う通り、事務所に差し入れのお菓子やら栄養ドリンクを大量に持ち混むことにした。

「レインなら、どんな絶望であっても嘆いたりしない。ちょっとでも前に進むはず……」




 結局、事務所から連絡はなかった。
 そして今日は7月27日。「ヒロイックリメインズ」のリリース日である。
 社長に怒られて以来、生きている感じしなかった。
 同僚は文見を責めなかったが、心の中ではもちろん怒っている。
 主役の声が入っていないゲームが本日の14時にリリースされてしまう。そこに批判が集まるのは必至だからだ。
 今日の14時公開予定で、ノベルティアイテムの社員たちはその瞬間を会社で、期待と不安多めで待ちわびている。
 ゲームが完成したらほとんどの人はやることがない。あとはサーバー担当の仕事である。みんなスマホやパソコンで、ユーザーの言動を見つつ待機している。
 だがそのとき、文見は走っていた。

「はあ、はあ、はあ……」

 炎天下の猛ダッシュで汗まみれ。息を切らし、今にも死にそうな顔である。




 遡ること一時間前。
 出社したばかりの文見のもとに電話が入った。

「ノベルティアイテム、小椋です……」

 消え入りそうな声で文見は電話に出た。
 一方、相手は真逆で底抜けに明るい声。

「小椋さん! 喜んでください、江端のスケジュール取れましたよ!!」

 名前を名乗らなかったが、相手は声優事務所の担当者だった。

「はあ……いつですか?」

 喜ぶところなのかもしれないが、今さら音声収録の日程が決まってもどうしようもない。もうゲームには入らないのだ。

「今日朝10時です! 一時間後です。これがダメなら次は二ヶ月先ですよ!」

 「ヒロイックリメインズ」のリリースは本日14時。収録を開始して4時間後にゲームが始まってしまう。
 華厳のセリフ量はキャラの中で一番多い。4時間で取り切れるかも怪しかった。

「江端はめっちゃ演技うまいんですぐ終わりますよ」
「い、いえ……あの、撮ってもゲームに乗らないんじゃ意味ないんですけど……」
「でも撮るしかないですよね? 次は二ヶ月後ですし」
「そりゃまあ……」
「いやあ、小椋さんラッキーだなあ。他の仕事が急に空いちゃって、本人もスタジオもそのまま押さえてあるんで、今ならすぐ撮れますよ」
「……分かりました、これから向かいます」

 文見はもやもやした気持ちで電話を切る。
 不幸中の幸いではあるだろう。当日には間に合わないけれど、来週には音声を追加できるかもしれない。
 文見が慌ててカバンに脚本を突っ込んでいると、机から何かが落ちた。
 それはレインのアクリルスタンドだった。

「やまない雨はない、か……」

 絶望という暗雲の中に希望の一光が指した気がした。
 文見は立ち上がると、社長席までダッシュする。

「これから収録いってきます!」
「あ、ああ……」

 文見の勢いに天ヶ瀬は圧倒されてしまう。

「それと! 撮った音声をすぐゲームに入れられませんか!?」
「すぐに……?」

 文見は思いついた案を説明する。
 収録したものから次々に会社に音声データを送って、ゲームに組み込んでもらう。これなら、ぎりぎりリリースに間に合うかもしれなかった。
 天ヶ瀬は村野や八幡を呼び出して相談する。

「リスクが高すぎないか? 不具合でゲームができなかったらシャレにならない」

 社長は否定的であるが、八幡が支援砲撃してくれた。

「確かに組み込み確認をする余裕はありません。しかし、データがあればすぐに組み込んでリリースすることは可能です」
「うーん……。八幡がそう言うならやってみるか……? 勝算は?」
「音声さえあれば8割ぐらいかと」
「そうか……。だが収録は間に合うのか?」

 音声さえあれば。
 これは文見の責任の重さを指す言葉で、文見はびくっとしてしまう。
 正直、間に合うか分からない。声や演技がキャラに合っているか確認して、それから本番に入るから、それなりに時間がかかってします。
 けれど、ここで怖じるわけにはいかない。

「だ、大丈夫かと……」
「江端だっけ?」

 八幡が文見に問う。

「はい、華厳役の江端さんです。いきなりスケジュールが空いたようで」
「ふむ……ならなんとかなるか」

 と、八幡がうなずく。

「……よし。他に打てる手はない。それに賭けよう」

 天ヶ瀬は決してリスクを取るタイプではない。だがクリエイターとして、ゲームとして主役の声がないのはやはり認められなかったのだ。

「頼んだぞ、小椋。お前にかかっている」
「やり遂げてみせます! 天地神明に誓って!」

 もはや覚悟は決まっていた。
 文見は席に戻り、カバンを掴む。

「ちょっと出かけてくる」
「ああ、ちょっと待ってください!」
「ごめん、時間ない!」

 文見は門真の言うことを無視して、オフィスから飛び出していった。

「ああ……。人身事故で電車止まってるんですけど……」

 駅について山手線が止まっているのに気付いた。
 タクシーに乗ろうとしたが、タクシー乗り場には行列ができていた。
 電車が動いていないのは知っていれば、社長の車に乗せてもらうこともできたかもしれない。

「待ってる暇があれば隣駅まで走るか……」

 少しでもスタジオに近づいたほうがいい。タクシーなら隣駅にもいるはず。
 こうして文見は当日の音声収録に挑むことになり、真夏の秋葉原を全力疾走することになる。




 カバンには大量の紙束。脚本の電子化を声優事務所に勧められたが、対応の時間がなくて諦めたことを今さら悔いた。
 重い荷物を抱えてのダッシュで、一瞬にして汗だくになってしまう。

「はあ、はあ、はあ……」

 力尽きて日陰に座り込む。
 日頃の運動不足と寝不足がたたって、すぐに動けなくなってしまった。
 汗は出ているのに全然体温が下がらない。体はどんどんほてって重くなっていく。

「早く……行かないと……」

 クライアントである自分がスタジオに到着しないと収録が開始されない。少しでも遅れたら命取りになる。
 なんとか立ち上がるものの、足はがくがくと震えてまともに歩けない。
 一歩踏み出すも、目の前が暗くなってくる。

「文見? 何やってんの?」

 真横に車が止まり、誰かが話しかけてきた。その声はよく知っていた。

「道成!?」

 八尾道成が明らかに社用車っぽい白のセダンに乗っていた。
 側面には有名電機メーカーのログがある。

「送って!」

 文見は八尾の許可を得る前に助手席のドアを開ける。
 道成とは前に喧嘩してから連絡を取っていなかった。本当なら気まずい再会なのだが、文見には助けの船にしか見えなかった。

「おい、どうしたんだよ?」
「出して! すぐ! 東京タワー!」
「東京タワー?」
「いいから早く!」
「あ、ああ……」

 八尾は意味の分からないまま車を出す。

「で、どこに行けばいいんだ?」
「東京タワー」
「登んの?」
「登らない」
「じゃあ何すんの?」
「音声収録」
「は?」

 収録開始の10時まであと20分。車ならばぎりぎり間に合うかもしれない。
 極度のストレスで、文見は過敏なまでにイライラしていた。ちゃんと返事することができず、片言になってしまう。
 目を怒らせ、「こっちはいっぱいいっぱいなんだ。悟れ、馬鹿野郎!」と思っている。

「東京タワー。近くのスタジオ」
「先にそれを言えよ……。東京タワーから危険物を抱えたトラックを探すみたいな気迫だったぞ」

 道成はペットボトルを文見に渡す。
 ぶんどるようにして受け取り、文見は一気に飲み干した。
 それが飲みかけだったのは気に留めなかった。
 文見は大きく息を吐き、ようやく人心地つく。そこでようやく、無礼をし続けたことに理解した。

「……ごめん、急に」
「別にいいって。なんかやばいんだろ?」
「道成は仕事?」
「そう、外回り中」
「営業に戻ったんだ!?」

 そういえば、道成はスーツ姿だった。
 去年、道成は秋葉原の家電量販店で販売員として働いていた。会社の研修の一環らしいが、道成は出世コースから外されたのだと嘆く。文見はかつての恋人である道成がくよくよしているのが許せず、暴言を吐いてしまった。

「あのときはほんとごめん……。道成の気持ちも知らずに」
「いや、こっちが悪かった。かっこ悪いとこ見せちまったな。あのあと反省してちゃんとやるようにしたんだ。派遣さんとも仲良しになったし、上司ともやりたいことを話した。そしたら、毎日が楽しくなったよ。ほんと気持ち次第だな」
「そうなんだ。よかった」
「店員も面白かったけど、こうして営業に戻れたのが一番嬉しいけどな!」

 道成は大袈裟に笑う。
 どうやらいつもの道成のようで文見はほっとする。

「まあ、全部お前のおかげだな。お前がああ言ってくれたから、心を入れ替えられたんだ」
「ええっ!? あたしは別に……勝手なことを言っただけだし……」

 思わぬ不意打ちに真っ赤になってしまう。
 せっかく車の冷房で体温が下がったばかりだというのに。

「それで時間やばいのか?」
「もうあと10分しかない」
「おいおい。そりゃ間に合わないって。見ろよ、この渋滞」

 道路は車がどんどん増えていき、ほとんど流れがなかった。山手線の運休が長引き、皆、車での移動にシフトしたのだ。

「もう降りて走る!」
「やめろ! 何キロあると思ってんだよ!」

 文見はドアを開けようとしてストップする。少しは車で距離を稼いだとはいえ、自分の足ではいつになっても辿りつかないだろう。また暑さで動けなくなるのが落ちだ。

「なんとかして!」
「なんとかって……。別に俺は神様でもないし、お前の恋人じゃないぞ」
「うう……」

 そんなことは分かっているが、恥ずかしい姿を見せてでも、この窮地を乗り越えたい。仕事を成し遂げるために、みんなで作ったゲームを完成させるために、自分はここにいるのだから。

「……ああ、分かったよ。ここは汚名返上のチャンスだもんな。かっこいいところ見せなきゃ」
「それでこそ道成!」

 道成はハンドルを切って脇道に逸れた。
 このあたりの地理には明るいようで、車通りの少ない道をカーナビを見ることなく進んでいく。
 そしてだんだん東京タワーが大きくなっていった。
 スカイツリーが東京のシンボルになって久しいが、東京タワーはまだ東京で働くサラリーマンを見守ってくれている。

「くそっ、つかまった!」

 なんとか渋滞を避けて移動していたが、前後を車に挟まれ、身動きが取れなくなってしまう。

「あと5分、もうちょっとなのに……」
「ダメだ。あとは走れ!」
「走れって……」
「諦めるなよ。なんでも気持ち次第なんだろ!」
「そうだけど……」

 諦めたくはない。でも物理的に不可能なものは不可能なのだ。
 なんとか可能性をたぐりよせてここまで来たが、ここが終着点のようだ。はじめから壊滅的で絶望的な状況だった。ここまで来られただけでも十分よくやった。

「これ持ってけ」

 道成は腕時計を外して文見に渡す。

「いらないって。スマホある」
「よく見ろ」
「え?」

 透き通ったブルーを基調とした綺麗で繊細な時計だった。どちらかというと女性的なデザインなので、言っては悪いが道成には似合わない。
 文見は文字盤に書かれた文字に気づく。
 櫛風沐雨(しっぷうもくう)と難しい漢字が刻まれている。

「100個限定のドラファンコラボ!?」

 ドラスティックファンタジーのキャラであるレインをイメージした数量限定の腕時計であった。
 櫛風沐雨とは、風で髪をすき、雨で体を洗うという意味で、風雨にさらされ苦労するこという。苦労人であるレインを示す標語である。
 なんとなくコラボした安っぽいものではなく、一流メーカーがしっかりデザインした高級品である。
 文見も欲しかったものだ。買おうとは思っていたが値段があまりにも高すぎたので、買うか悩んでいるうちに予約が締め切られてしまった。
 好きなゲームであり、好きなキャラの時計なのだが、10万円はあまりにも高すぎた。

「なんで持ってるの!?」

 道成がドラファンにはまったという話は聞いていたが、軽い気持ちで買えるものではない。

「うるせえ、勝手に持ってけ」

 道成が投げやりに言うので、文見の頭はハテナマークでいっぱいになる。

「お前のレインはこんなところでグダグダ言わないだろ」
「!?」

 文見は時計を腕につける。
 メタルバンドなので調整ができず、ちょっと緩い。

「雨が降らねば虹は出ない……か。ありがと、行ってくる!」

 文見はサイドミラーを確認して車のドアを開ける。

「負けるなよ」
「誰に言っている。私は雨、降りたいときに降り、何者にも御せん」

 ゲーム中で使われたセリフをやりとりし、文見は走り出した。




 文見は全力疾走した。
 颯爽とガードレールを跳び越え、階段を駆け下りる。
 レインの時計をしてるのだから、もはや自分はレイン。そんな気持ちで、ヒーローのように文見は走った。
 息が切れ、心が折れそうになっても、時計を励みに、ひたすら走り続ける。
 ……だが人間はゲームキャラのように速く走れないし、ずっと走り続けることはできない。
 現実は甘くなく、結局、スタジオには20分の遅刻だった。

「す……すみま……せん。遅く……なって……」
「あはは……。すごいですね……」

 汗びっしょりで、頭から水をかぶったようになっている。

「事情は聞いてますよ。脚本チェックする時間欲しかったので、ちょうどよかったです」

 そこには爽やかな笑顔をした男性がいた。
 江端孝史。
 メインキャラである華厳を担当する声優である。
 40歳を超えたベテランであり、超人気声優だが、軽く10歳は若く見える。気取らない笑顔は疲れ果てた文見の心身を癒してくれる。

「あ、ありがと……ございます!!」

 人目見ただけですごい人だと分かる。
 これまでに会ってきた声優とはまるでオーラが違う。顔も人柄もすばらしく、聖人君子かと思う人格者。
 今が戦国時代ならば、この人のために、命を投げ出してお仕えする武将もいるかもしれない。

「急ぎなんでしたっけ? 大丈夫ですよ。僕、仕事早いんで」

 江端は無邪気に言う。
 大人がそんなセリフを言うのはびっくりしてしまうが、とても似合っていて、可愛らしくも感じる。

「かっこいい……」

 思わず口に出ていた。
 それは人を安心させようと思って出た気休めではない。本当にそう思って言った言葉に思えたからだった。
 言われ慣れているのか、江端はふふっと微笑した。
 そうして、文見の汗が引く前に収録は開始される。
 宣言したように速かった。一字一句間違えることなく、完璧な演技をしてみせる。
 文見は江端が一言しゃべるたびにうっとりして意識が飛びそうになるのを押さえるのに必死だった。
 収録したデータは順次、会社に送信した。これにはスタジオのエンジニアには頭が上がらない。

「これで一章分は送れた。あとは八幡さん頼んます……」

 ユーザーが一章をクリアするのに五時間はかかる。これさえ組み込めれば、最低限の品質は保証できるはずだった。
 リリースまであと一時間。それが世に出るかは会社にいる八幡に託すしかなかった。
 江端の収録は順調に進んだ。
 本日四時間確保していて、用意していた脚本をすべて収録するのは難しいと思われていたが、このままいけばいけそうだった。
 無理に今回撮り終える必要はないが、次は二ヶ月後なのでできるだけ今日撮っておきたかった。

「2時になる……」

 ゲームがちゃんとリリースできるか不安だが、文見の仕事は音声収録。今すぐスマホを開いてゲームが起動するか確かめたいし、ユーザーの反応を見たい。
 でも素晴らしい演技を続けてくれる江端を前にそんなことはできない。

「きっと大丈夫。あとは仲間がなんとかしてくれる……」

 レインがゲーム中に言っていた自分を言い聞かせ、文見は収録に集中する。
 



 「ヒロイックリメインズ」の初日は上々だった。
 「エンゲージケージ」の会社の新作ということで期待を受けていて、広報的にもばんばん広告を打ったことで、多くのユーザーが遊んでくれた。
 だが、アクセスが集中しすぎてサーバーダウン、数時間プレイできない事態になってしまった。ストアの評価欄には「つながりません」「ゲームさせる気あるのか?」と酷評が埋まる。
 しかし、社長や社員たちはこれに動じることはなかった。
 トップクラスの人気ゲームの立ち上がりはだいたいこんなものだからだ。ユーザーが多すぎて困っちゃうという現象になる。
 ある程度、それでユーザーは失ってしまうが、アクセス過多のサーバーダウンは話題になり、世に「ヒロイックリメインズ」のリリースを知らせる効果が生まれるのだ。
 華厳の音声はなんとか一章分だけ乗せることができた。ヘビーユーザーはすぐにこれに気づいてきついコメントを出したが、そこまでプレイするユーザーはあまりいないし、サーバーダウンのコメントに埋もれてあまり目立たなかった。
 キャラやシナリオは大好評だった。話が長いというコメントはあったが、基本的に賞賛の言葉ばかりで、課金を牽引しているようだった。
 バトルもかなり評判がよかった。サクサクとした爽快感と戦略性が両立してあって、中毒性がある。これはさすが戦闘班の生駒の成果だろう。チーム内でダメ出しを出し続け、妥協せずに面白さを追求していた。もちろんチームメンバーには恨まれていたが、本人はまったく引かなかった。

「誰もがリリースに間に合うわけがないと思っていたと思う。スケジュール前倒しという、私のわがままに付き合わせてしまって申し訳なかった。しかし、みんなのおかげで無事、『ヒロクリ』をリリースできた。これは奇跡ともいえるが、99%みんなの努力の成果だ。これには必ず報いたい。ありがとうございました!」

 文見が音声収録から帰ってきて、サーバーの状況も落ち着いた夕方六時、社長の天ヶ瀬は全社員にそんなことを言った。
 これまで社長に煮湯を飲まされて続けてきた社員も多いので、社長の演説には警戒していたが、これには涙する者も少なくなかった。
 だが油断できないことは皆知っている。想定より早くリリースするために、おざなりにしていたことがいっぱいあるのだ。
 プレイすればするほど粗は目立ってくるし、プレイできるところがなくなっていく。
 すぐに次のアップデートの準備に取り掛からないといけない。

「……雨降って時固まる。今日だけはゆっくり寝させて!」

 文見はそのまま定時で上がると、汗まみれの服のままベッドにダイブしていた。
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