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マイナーである理由
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「未梨亞、明日は晩ご飯いらないから」
寝る準備をしながら愛良が言った。
「了解ですー」
未梨亞はテレビを見ながら、パジャマに着替えている。
「デートですか?」
「え……」
唐突な質問に愛良は詰まってしまう。
「友達だよ」
「ただのジョークですって!」
未梨亞は、あははと笑う。
もしかすると、デートと言えるのかもしれない。相手は男。
哲平だった。
本当のことは、未梨亞に言えるわけがない。
「そういえば、肥後さんがご飯いきたいって言ってたよ」
「肥後さんが? いいですね。いつ行きましょうか?」
「なんか、未梨亞と二人っきりがいいみたいよ。気に入られたんじゃない?」
「えー。そんなことないですよ。あっ。今日お昼、偶然会ったんです。たぶんそれかも」
愛良は会社から帰るとき、徹に声をかけられた。
未梨亞がスマホを持っていないから、伝言役として使ったのだ。
「でも、未梨亞ご指名だったよ。あたしはいらないってさ」
「えー。三人で行きましょうよー」
「二人が嫌ってならしょうがないけど、肥後さん嫌いじゃないでしょ?」
「そりゃ嫌いじゃないですけど……」
愛良もびっくりしていた。徹が自分を経由して未梨亞を誘ったことを。
徹はあまり小細工をせず、大雑把に女性を誘うのだ。お目当ての子がいればその周辺を一気に取り込んでしまう。
未梨亞だけを誘ったのは、きっと未梨亞に特別な興味を持ったのだ。
「……あの、お金借りてもいいですか?」
未梨亞がためらいがちに言う。
「いいけど、何に使うの?」
「スマホ買おうかなって。バイト始めて、愛良さんと連絡取れないと、晩ご飯無駄になっちゃうこともありますし」
「いいんじゃない。今時、子供だって持ってるし」
それに、自分を挟んで徹との連絡されるのも困る。
徹は女好きだが、そこまで悪い人ではないと思う。一人の人を愛してくれるのかは未知数だが、未梨亞を大切にしてくれるかもしれない。
恋仲にならずとも、頼れる人が増えるのは、未梨亞にとっていいことだろう。
それに、二人がデートをするようになれば、自分が哲平とこっそり接触しているのも許されるような気がした。
愛良は財布を出して、お金を未梨亞に渡す。
「バイト代出たら返します!」
「いつでもいいよ。服とかも必要でしょ」
未梨亞の盗まれた財布は、いまだ行方不明だった。おそらく返ってくることはないだろう。免許証はようやく新しいものが発行された。
服は着ていた一着しかないので、相変わらず愛良のものを借りていた。
身長差があるので、いつもだぼだぼな格好で街を歩いている。
徹なら気にしないだろうが、デートとなればそれなりの服が必要だろう。男は案外どのぐらい気合いいれた格好をしているか、見ているものだ。
翌日、未梨亞はスマホを買いに行った。
愛良と違ってゲームはやらないので、高性能なものは必要ない。格安スマホを契約する。
一ヶ月ぶりのスマホだった。自宅に戻って、さっそく設定をする。
まずはラインのインストールをして、愛良を登録する。
「スマホ買えました!」
少ししてから、スタンプつきで愛良の返事が来る。
「おめでと!」
愛良は仕事中だ。
仕事を抜け出し、トイレにでも行って返事を書いてくれているのだろう。
急ぎの用事でもないのに、わざわざ返事をくれるのが非常に嬉しかった。
「おかげさまで! ぼっちから解放されます!」
鞄ごとスマホを盗まれて、誰とも連絡が取れなくなってしまった。当然、ラインは使えない。アナログの手帳にメモしているわけではないので、電話番号や住所も分からなくなってしまう。メモしていても、荷物をまるごと盗まれているので意味はないが。
最近は便利になったもので、データの引き継ぎは簡単だ。メールアドレスを登録すれば、前に使っていた環境が自動で復元されていく。
「あとで肥後さんも登録しないとなー」
メールボックスも、だいぶいっぱいメールが届いていた。
だいたいがメールマガジンや広告だが、たくさんメールが届いているのはちょっと嬉しい。
不要なメールにチェックを入れてゴミ箱に突っ込んでいく。どんどん消えていくのを見るのもまた楽しい。
しかし、見たことのある名前に目が止まり、指も同時に止まった。
「あ……」
思わぬことに衝撃が走り、声が漏れていた。
その名前とは、不破麻梨弥(ふわまりや)。
未梨亞の母親だったのだ。
急に心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。
指が震える。
そのメールを開くか、強いためらいがあった。
母とは何年も連絡をしていなかった。最後は声優になったのを報告したときだ。合格の連絡を事務所から受けて、天に昇る気持ちで電話をしたら、「もっと儲かる仕事があるだろ」と否定されたのだ。
今さらいったい何の用件だろう。
実の娘を心配して安否を気遣ってくれているのか。
声優をクビになったことを聞きつけたのか。それなら、「家に戻ってきたら」という優しさなのか、それとも「だから言っただろ」「ざまーみろ」なのか。
何にせよ、また否定されるような気がする。
でも、何年も連絡よこさない娘に、そんな言葉を言うだろうか。母だって苦労して生きてきた人間だ。実の娘と離ればなれになれば寂しいはずだし、心配もする。そして、親元を離れざるを得なくなった娘の気持ちも分かるはず。
自分を気にかけて、母から連絡を試みてくれているようなら、これまでのことも許してもよいと思った。
何も母とケンカしていたいわけでも、嫌いなわけでもないのだ。できれば、憎しみを捨て去って仲良くしたい。
その可能性にかけて、未梨亞はメールをタップする。
「うっ……」
思わず吐きそうなった。
文面を見て、強烈な拒否反応が出たのだ。
内容はこうだった。
再婚することになったから、挨拶しに来い。夢なんか追ってないで、さっさと定職に就け。戻ってくれば仕事を紹介してもいい。
少しでも、優しい言葉を期待した自分が馬鹿だった。
母のメールは、完全に自分のことしか考えていない内容で、娘を心配する気はないようだった。
再婚はこれで何度目だろう。再婚相手には何度も苦しめられてきた。再婚を祝う気にもなれないし、相手には会いたくもない。
仕事を紹介するといっても、自分が務めている水商売系だろう。娘に恩を売ろうとしているのが、未梨亞は許せなかった。
「くっ……!」
未梨亞はスマホを投げ飛ばしたい衝動に駆られる。
しかしこれは愛良のお金で買ったものだ。理性でなんとか堪える。
メールをゴミ箱に入れて、広告メールと一緒に完全削除する。
「どうして……いつも私の邪魔をするの……」
悔しさに涙が流れる。
母親のせいで、人生をめちゃくちゃにされた。未梨亞にはそういう記憶しかなかった。
自分の主張ばかり押しつけて、未梨亞をいつも否定した。高校を卒業してようやく母の手から逃れたが、それからも未梨亞のすることを認めようとしなかったのだ。
勝手に再婚すればいいじゃない。もう巻き込まないで。私には私の人生がある。決していい人生じゃないけど、好きなことのために、必死にもがいてなんとか生きている。
再び歩きだそうとしているのに、また心が折れて、暗渠に埋もれていきそうになる。どうして不幸ばかりが続くのか。哲平に母親。これで義理の父に会えば完璧だ。
落ちるところまで落ちそうだった。
この感覚は知っている。橋から飛び降りようとしたときと同じだ。
何をやってもうまくいかない。自分のやっていることは無駄だ。自分になんて価値はない。生きていても仕方ない……。
「……ダメだ。ダメだダメだダメだー! 切り替えろ、私!」
あんな人のために、また鬱な気持ちになりたくない。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、私は大丈夫……」
未梨亞はマントラを唱える。同じ言葉を繰り返し、自分に暗示をかけるのだ。
起きた事実を変えることはできない。だから、それをどう捉えるかを変えるしかないのだ。気持ちさえ切り替えれば、たいした問題ではなくなる。
こんなことは全部忘れて、気分を一新しなくては。こういうときは本を読もう。
『クリスピンの冒険』がまだ読みかけだった。世界一周を終えて、故郷へ戻ってきたところだ。あとはハッピーエンドが待っているはず。
未梨亞はしおりのあるところを開く。
世界一周を終えた船乗りたちは、1ヶ月の休暇をもらった。懐かしい故郷に胸を躍らせて、クリスピンたちはそれぞれ自分の家へ戻っていく。5年ぶりに親しい人に会えるのは誰もが嬉しかった。
クリスピンはまだ結婚していなかったが、彼女がいる。この世界一周の旅が終わったら結婚しようと、婚約していた。
しかし、世界一周は1年の予定だったが、結局5年越しの航行になってしまった。5年ぶりに彼女の家を訪ねたが、留守だった。
クリスピンは先に実家に戻り、両親の報告することにする。しかし、両親もいなかった。
というよりも、家がなかったのだ。
近所の人に聞いてみたが、どうやら引っ越したようだった。
連絡してくれればいいのにとクリスピンは思うが、5年も船の上にいたのだから仕方ないだろう。
その日はホテルに泊まり、翌日、再び彼女に会いに行った。
そこでクリスピンは衝撃の事実を知る。
彼女はすでに結婚していた。クリスピンの乗った船は行方不明になったと伝えられ、何年経っても戻ってこなかったことから、他の人と結婚してしまったという。
クリスピンは愕然とした。
しかし彼女のせいではないので、怒ることはできなかった。生きているか分からない人を待つのは苦しいことだ。
両親の居場所を尋ねるが、彼女はためらいがちに口を開いた。
投資に失敗して全財産を失い、夜逃げをしたという。そのため、今どこにいるかは誰も知らなかった。
クリスピンは絶望した。
この5年のうちに、故郷はまったく知らないものになっていたのだった。
「ウソ……でしょ……」
未梨亞もクリスピンぐらいに動揺していた。
この話はハッピーエンドだと思っていたからだ。
このあと、どんでん返しがあるに違いないと思い、読み進める。
しかし、事態は何も変わらなかった。クリスピンはどんどん追い詰められていく。クリスピンの務めていた会社が倒産し、5年分の給料が未払いのまま消失してしまった。
お金もない、彼女もいない、両親もいない。大きなことを成し遂げ、乗客と仲間数百人に感謝はされたが、何一つ形として残るものがなかった。
クリスピンは仲間の家に泊めてもらい、なんとか生活していたが、次第に病んでしまう。
人の好意が重く感じられ、申し訳ないと思う毎日だったのだ。これまで自分が施す側で、それ逆になった途端、自分が情けなくて仕方なかった。
元婚約者の夫は実業家で、クリスピンの様子を見かねて、新しい船の船長にしようと誘うとするが、クリスピンはすでに母なる海に帰っていた。
物語はそこで終わった。
未梨亞はページをめくってみるが、エピローグはなく、作者の後書きもなかった。
「なんで……」
未梨亞は本を取り落とし、呆然とするしかなかった。
この物語は、苦労を乗り越えた人が報われる話だと思っていた。だから、私はこの物語が好きなんだと信じていた。
未梨亞は思い出す。
なぜ自分がこの本を手放したのか。
……失望したからだ。
夢のある冒険譚がこんな終わり方であっていいはずがない。未梨亞は子供心にそう思い、学校近くのドブ川に文庫本を投げ捨ててしまったのだ。
それから記憶はどんどん薄れていき、クリスピンが困難に立ち向かい、人々の感謝されるところだけが残っていた。
「くっ……!」
未梨亞は力任せに、本を投げ飛ばす。
壁にぶつかって落ち、お手製のカバーが外れて、タイトルが露わになる。
この作者はいったい何を思って、こんな小説を書いたのだろう。未梨亞は憎らしく思った。
こんなもの読んだら、誰だって不快に思うはずだ。
苦労しながらも5年かけて、夢だった世界一周をする。待っていた彼女と結婚する。それでいいではないか。
期待を裏切ることがしたかったのか。それとも、苦労は報われないと示したかったのか。
それにクリスピンの境遇が自分とダブる。苦労しても報われず、他人の世話になるが、優しさに蝕まれていく。そして死。自分もそうなりかねないと、こんな話絶対に認めたくなかった。
未梨亞は床を叩こうとして、拳を振り上げる。
が、そのときラインの通知音がして、腕を止めた。
賃貸マンションで床を激しく叩いたら、下の人が迷惑するだろう。未梨亞は怒りを抑えて、スマホの画面を見る。
愛良だった。
徹のラインIDが書かれている。
「はぁ……。ふぅ……」
未梨亞は一呼吸する。
気を取り直して、ありがとうとスタンプを送る。
そして、ゆっくり地面に転がった文庫本を拾い上げた。
「……あなたは世界を呪いたかったのかもしれない。でも私はそんなことしない。……希望はある。信じてる限りはきっとあるから」
文庫本をゴミ箱に放り込む。
スマホに徹のIDを入力した。
寝る準備をしながら愛良が言った。
「了解ですー」
未梨亞はテレビを見ながら、パジャマに着替えている。
「デートですか?」
「え……」
唐突な質問に愛良は詰まってしまう。
「友達だよ」
「ただのジョークですって!」
未梨亞は、あははと笑う。
もしかすると、デートと言えるのかもしれない。相手は男。
哲平だった。
本当のことは、未梨亞に言えるわけがない。
「そういえば、肥後さんがご飯いきたいって言ってたよ」
「肥後さんが? いいですね。いつ行きましょうか?」
「なんか、未梨亞と二人っきりがいいみたいよ。気に入られたんじゃない?」
「えー。そんなことないですよ。あっ。今日お昼、偶然会ったんです。たぶんそれかも」
愛良は会社から帰るとき、徹に声をかけられた。
未梨亞がスマホを持っていないから、伝言役として使ったのだ。
「でも、未梨亞ご指名だったよ。あたしはいらないってさ」
「えー。三人で行きましょうよー」
「二人が嫌ってならしょうがないけど、肥後さん嫌いじゃないでしょ?」
「そりゃ嫌いじゃないですけど……」
愛良もびっくりしていた。徹が自分を経由して未梨亞を誘ったことを。
徹はあまり小細工をせず、大雑把に女性を誘うのだ。お目当ての子がいればその周辺を一気に取り込んでしまう。
未梨亞だけを誘ったのは、きっと未梨亞に特別な興味を持ったのだ。
「……あの、お金借りてもいいですか?」
未梨亞がためらいがちに言う。
「いいけど、何に使うの?」
「スマホ買おうかなって。バイト始めて、愛良さんと連絡取れないと、晩ご飯無駄になっちゃうこともありますし」
「いいんじゃない。今時、子供だって持ってるし」
それに、自分を挟んで徹との連絡されるのも困る。
徹は女好きだが、そこまで悪い人ではないと思う。一人の人を愛してくれるのかは未知数だが、未梨亞を大切にしてくれるかもしれない。
恋仲にならずとも、頼れる人が増えるのは、未梨亞にとっていいことだろう。
それに、二人がデートをするようになれば、自分が哲平とこっそり接触しているのも許されるような気がした。
愛良は財布を出して、お金を未梨亞に渡す。
「バイト代出たら返します!」
「いつでもいいよ。服とかも必要でしょ」
未梨亞の盗まれた財布は、いまだ行方不明だった。おそらく返ってくることはないだろう。免許証はようやく新しいものが発行された。
服は着ていた一着しかないので、相変わらず愛良のものを借りていた。
身長差があるので、いつもだぼだぼな格好で街を歩いている。
徹なら気にしないだろうが、デートとなればそれなりの服が必要だろう。男は案外どのぐらい気合いいれた格好をしているか、見ているものだ。
翌日、未梨亞はスマホを買いに行った。
愛良と違ってゲームはやらないので、高性能なものは必要ない。格安スマホを契約する。
一ヶ月ぶりのスマホだった。自宅に戻って、さっそく設定をする。
まずはラインのインストールをして、愛良を登録する。
「スマホ買えました!」
少ししてから、スタンプつきで愛良の返事が来る。
「おめでと!」
愛良は仕事中だ。
仕事を抜け出し、トイレにでも行って返事を書いてくれているのだろう。
急ぎの用事でもないのに、わざわざ返事をくれるのが非常に嬉しかった。
「おかげさまで! ぼっちから解放されます!」
鞄ごとスマホを盗まれて、誰とも連絡が取れなくなってしまった。当然、ラインは使えない。アナログの手帳にメモしているわけではないので、電話番号や住所も分からなくなってしまう。メモしていても、荷物をまるごと盗まれているので意味はないが。
最近は便利になったもので、データの引き継ぎは簡単だ。メールアドレスを登録すれば、前に使っていた環境が自動で復元されていく。
「あとで肥後さんも登録しないとなー」
メールボックスも、だいぶいっぱいメールが届いていた。
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不要なメールにチェックを入れてゴミ箱に突っ込んでいく。どんどん消えていくのを見るのもまた楽しい。
しかし、見たことのある名前に目が止まり、指も同時に止まった。
「あ……」
思わぬことに衝撃が走り、声が漏れていた。
その名前とは、不破麻梨弥(ふわまりや)。
未梨亞の母親だったのだ。
急に心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。
指が震える。
そのメールを開くか、強いためらいがあった。
母とは何年も連絡をしていなかった。最後は声優になったのを報告したときだ。合格の連絡を事務所から受けて、天に昇る気持ちで電話をしたら、「もっと儲かる仕事があるだろ」と否定されたのだ。
今さらいったい何の用件だろう。
実の娘を心配して安否を気遣ってくれているのか。
声優をクビになったことを聞きつけたのか。それなら、「家に戻ってきたら」という優しさなのか、それとも「だから言っただろ」「ざまーみろ」なのか。
何にせよ、また否定されるような気がする。
でも、何年も連絡よこさない娘に、そんな言葉を言うだろうか。母だって苦労して生きてきた人間だ。実の娘と離ればなれになれば寂しいはずだし、心配もする。そして、親元を離れざるを得なくなった娘の気持ちも分かるはず。
自分を気にかけて、母から連絡を試みてくれているようなら、これまでのことも許してもよいと思った。
何も母とケンカしていたいわけでも、嫌いなわけでもないのだ。できれば、憎しみを捨て去って仲良くしたい。
その可能性にかけて、未梨亞はメールをタップする。
「うっ……」
思わず吐きそうなった。
文面を見て、強烈な拒否反応が出たのだ。
内容はこうだった。
再婚することになったから、挨拶しに来い。夢なんか追ってないで、さっさと定職に就け。戻ってくれば仕事を紹介してもいい。
少しでも、優しい言葉を期待した自分が馬鹿だった。
母のメールは、完全に自分のことしか考えていない内容で、娘を心配する気はないようだった。
再婚はこれで何度目だろう。再婚相手には何度も苦しめられてきた。再婚を祝う気にもなれないし、相手には会いたくもない。
仕事を紹介するといっても、自分が務めている水商売系だろう。娘に恩を売ろうとしているのが、未梨亞は許せなかった。
「くっ……!」
未梨亞はスマホを投げ飛ばしたい衝動に駆られる。
しかしこれは愛良のお金で買ったものだ。理性でなんとか堪える。
メールをゴミ箱に入れて、広告メールと一緒に完全削除する。
「どうして……いつも私の邪魔をするの……」
悔しさに涙が流れる。
母親のせいで、人生をめちゃくちゃにされた。未梨亞にはそういう記憶しかなかった。
自分の主張ばかり押しつけて、未梨亞をいつも否定した。高校を卒業してようやく母の手から逃れたが、それからも未梨亞のすることを認めようとしなかったのだ。
勝手に再婚すればいいじゃない。もう巻き込まないで。私には私の人生がある。決していい人生じゃないけど、好きなことのために、必死にもがいてなんとか生きている。
再び歩きだそうとしているのに、また心が折れて、暗渠に埋もれていきそうになる。どうして不幸ばかりが続くのか。哲平に母親。これで義理の父に会えば完璧だ。
落ちるところまで落ちそうだった。
この感覚は知っている。橋から飛び降りようとしたときと同じだ。
何をやってもうまくいかない。自分のやっていることは無駄だ。自分になんて価値はない。生きていても仕方ない……。
「……ダメだ。ダメだダメだダメだー! 切り替えろ、私!」
あんな人のために、また鬱な気持ちになりたくない。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、私は大丈夫……」
未梨亞はマントラを唱える。同じ言葉を繰り返し、自分に暗示をかけるのだ。
起きた事実を変えることはできない。だから、それをどう捉えるかを変えるしかないのだ。気持ちさえ切り替えれば、たいした問題ではなくなる。
こんなことは全部忘れて、気分を一新しなくては。こういうときは本を読もう。
『クリスピンの冒険』がまだ読みかけだった。世界一周を終えて、故郷へ戻ってきたところだ。あとはハッピーエンドが待っているはず。
未梨亞はしおりのあるところを開く。
世界一周を終えた船乗りたちは、1ヶ月の休暇をもらった。懐かしい故郷に胸を躍らせて、クリスピンたちはそれぞれ自分の家へ戻っていく。5年ぶりに親しい人に会えるのは誰もが嬉しかった。
クリスピンはまだ結婚していなかったが、彼女がいる。この世界一周の旅が終わったら結婚しようと、婚約していた。
しかし、世界一周は1年の予定だったが、結局5年越しの航行になってしまった。5年ぶりに彼女の家を訪ねたが、留守だった。
クリスピンは先に実家に戻り、両親の報告することにする。しかし、両親もいなかった。
というよりも、家がなかったのだ。
近所の人に聞いてみたが、どうやら引っ越したようだった。
連絡してくれればいいのにとクリスピンは思うが、5年も船の上にいたのだから仕方ないだろう。
その日はホテルに泊まり、翌日、再び彼女に会いに行った。
そこでクリスピンは衝撃の事実を知る。
彼女はすでに結婚していた。クリスピンの乗った船は行方不明になったと伝えられ、何年経っても戻ってこなかったことから、他の人と結婚してしまったという。
クリスピンは愕然とした。
しかし彼女のせいではないので、怒ることはできなかった。生きているか分からない人を待つのは苦しいことだ。
両親の居場所を尋ねるが、彼女はためらいがちに口を開いた。
投資に失敗して全財産を失い、夜逃げをしたという。そのため、今どこにいるかは誰も知らなかった。
クリスピンは絶望した。
この5年のうちに、故郷はまったく知らないものになっていたのだった。
「ウソ……でしょ……」
未梨亞もクリスピンぐらいに動揺していた。
この話はハッピーエンドだと思っていたからだ。
このあと、どんでん返しがあるに違いないと思い、読み進める。
しかし、事態は何も変わらなかった。クリスピンはどんどん追い詰められていく。クリスピンの務めていた会社が倒産し、5年分の給料が未払いのまま消失してしまった。
お金もない、彼女もいない、両親もいない。大きなことを成し遂げ、乗客と仲間数百人に感謝はされたが、何一つ形として残るものがなかった。
クリスピンは仲間の家に泊めてもらい、なんとか生活していたが、次第に病んでしまう。
人の好意が重く感じられ、申し訳ないと思う毎日だったのだ。これまで自分が施す側で、それ逆になった途端、自分が情けなくて仕方なかった。
元婚約者の夫は実業家で、クリスピンの様子を見かねて、新しい船の船長にしようと誘うとするが、クリスピンはすでに母なる海に帰っていた。
物語はそこで終わった。
未梨亞はページをめくってみるが、エピローグはなく、作者の後書きもなかった。
「なんで……」
未梨亞は本を取り落とし、呆然とするしかなかった。
この物語は、苦労を乗り越えた人が報われる話だと思っていた。だから、私はこの物語が好きなんだと信じていた。
未梨亞は思い出す。
なぜ自分がこの本を手放したのか。
……失望したからだ。
夢のある冒険譚がこんな終わり方であっていいはずがない。未梨亞は子供心にそう思い、学校近くのドブ川に文庫本を投げ捨ててしまったのだ。
それから記憶はどんどん薄れていき、クリスピンが困難に立ち向かい、人々の感謝されるところだけが残っていた。
「くっ……!」
未梨亞は力任せに、本を投げ飛ばす。
壁にぶつかって落ち、お手製のカバーが外れて、タイトルが露わになる。
この作者はいったい何を思って、こんな小説を書いたのだろう。未梨亞は憎らしく思った。
こんなもの読んだら、誰だって不快に思うはずだ。
苦労しながらも5年かけて、夢だった世界一周をする。待っていた彼女と結婚する。それでいいではないか。
期待を裏切ることがしたかったのか。それとも、苦労は報われないと示したかったのか。
それにクリスピンの境遇が自分とダブる。苦労しても報われず、他人の世話になるが、優しさに蝕まれていく。そして死。自分もそうなりかねないと、こんな話絶対に認めたくなかった。
未梨亞は床を叩こうとして、拳を振り上げる。
が、そのときラインの通知音がして、腕を止めた。
賃貸マンションで床を激しく叩いたら、下の人が迷惑するだろう。未梨亞は怒りを抑えて、スマホの画面を見る。
愛良だった。
徹のラインIDが書かれている。
「はぁ……。ふぅ……」
未梨亞は一呼吸する。
気を取り直して、ありがとうとスタンプを送る。
そして、ゆっくり地面に転がった文庫本を拾い上げた。
「……あなたは世界を呪いたかったのかもしれない。でも私はそんなことしない。……希望はある。信じてる限りはきっとあるから」
文庫本をゴミ箱に放り込む。
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