ただ生きたいだけなのに

とき

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生きることと働くこと

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「あ……忘れた」

 未梨亞が作ってくれたお弁当を忘れたことに気づいたのは、電車の中だった。
 未梨亞には悪いが、お昼は何かを買うとしよう。お弁当は未梨亞が食べてと、ラインを打とうとするが、未梨亞はスマホを持っていなかった。
 12時になる少し前、内線電話が鳴った。

「はい、佐伯です」
「受付にお客様がいらっしゃっています」

 誰だろう。誰かが訪ねてくる予定はなかったはずだ。

「ご友人の不破様とおっしゃっています」
「ああ」

 一瞬、聞き慣れない名字に戸惑ったが、未梨亞だった。
 きっとお弁当を届けにわざわざ会社に来てくれたのだろう。なんて律儀な子だ。
 愛良は相手に礼を言って、エントランスへ向かった。

「未梨亞」

 未梨亞が受付にある椅子にちょこんと座って待っていた。しかし、ぎょっとしてしまう。
 未梨亞が愛良の貸している部屋着姿だからだ。

「ちょっと!」

 部屋着は、誰にも見せないラフなものだから部屋着なのだ。
 着ているのは未梨亞だとはいえ、自分の部屋着を会社の人に公開するのは恥ずかしい。

「お弁当持ってきちゃいました!」
「持って来ちゃったじゃない!」
「え? ダメでした?」
「ダメじゃないけど服!」

 未梨亞は、手に持ったコートを見てきょとんとしている。
 コートは未梨亞の一張羅だ。

「とにかく、ちょっと出ようか」

 このままエントランスにいては、大勢の社員に見られてしまう。

「あ、愛良! ご飯食べにいく?」

 運悪く、由真が通りかかってしまう。
 愛良はあちゃーと頭を抱える。

「あれ、その子は?」
「あ、えっと……」
「不破未梨亞と申します。佐伯さんのところに居候させていただいてます」

 未梨亞が由真に答え、愛良は顔を覆いたくなってしまう。余計なこと言わなくていいのに。

「へー」

 そう言って由真は意味深な表情をする。

「愛良、今そうなってるんだ」
「違うから! 誤解だから! 別に何もないからね!」
「私は気にしないけど、そういうことなら仕方ないよね」

 何が仕方ないというのか。

「最近流行ってるみたいだし、浩一君には伝えておくよ」
「しなくていいから!」

 思わず叫んでしまう。

「いろいろあって預かってるけど、変なアレじゃないから。言いふらさないでよ!」

 おしゃべりな由真のことだから、尾ひれはひれを付けた噂を流すのだろう。

「あとで詳しく話すから!」

 会社のエントランスでの大声はかなり目立つ。社員たちがなんだなんだと、横目で見ながら通り過ぎていた。
 ここから離れなくてはと、愛良は未梨亞の腕を引っ張って離脱した。

「いいんですか? ご飯食べにいく予定があったんじゃ?」
「大丈夫だから」

 由真とランチなんてどうでもいい。それより変な噂を流されるほうが困る。しかし、それはあとでなんとかするしかない。
 愛良は会社から少し離れた公園へとやってきた。

「ここなら、お弁当食べられますね!」

 未梨亞はベンチに座って、お弁当を広げ始める。ちゃっかり自分の分も持ってきていた。
 会えなかったら、どうする気だったんだろうと、愛良は思う。未梨亞の言動はやはりミステリアスだ。

「たまには外でも食べるのもいいか……」

 愛良はそう評するしかなかった。
 社会人になってからは、なかなか公園でお弁当を食べるということがなかった。ちょっと寒いが、今日は天気もいいので日向なら耐えられないこともない。

「私は数日ぶりです」

 未梨亞は笑顔で言いのける。家を追い出されてから、ずっと外をさまよっていたのだった。
 気の毒な話を笑顔で話されるので、やはりコメントに困ってしまう。本人は特に気にしてないようなので、触れないでもよさそうだ。
 せっかく持ってきてくれたのだから、お弁当を箸でつまみ始める。

「あ、おいしい」
「よかったぁ。早起きして作った甲斐がありました!」

 お弁当は普通においしかった。めちゃくちゃおいしいというわけではないが、お弁当にしては十分、味を楽しめるものに仕上がっている。
 未梨亞とはなぜか一緒のベッドに寝ることになっていたが、未梨亞は毎朝ベッドを抜け出し、愛良のためにお弁当と朝食を作ってくれた。
 本人は居候させてもらっているお返しだと言うが、主婦のようなことをさせて申し訳なくも思う。
 けれど無償で衣食住を提供する余裕はないので、それはそれでいいのかもしれない。本人も喜んでいるようだし。
 しかし今日は、お客様用の布団を一式買おうと思った。

「お仕事はどんなことやってるんですか?」

 未梨亞が聞いてくる。

「なんてことはない経理。数字を打ち込んだり、確認したり」
「へえー。あんまり好きじゃないんですか?」

 あまり面白くないような言い方だったのだろう。未梨亞に本質を読まれてびっくりしてしまう。
 そこそこ有名な文具メーカーだ。文具はそこまで好きではなかったが、有名なのと由真が一緒に採用になっていたので、ここに入社した。

「あたし文系だからね。数字とか正確なの苦手なんだ」
「文系って感じします!」

 どんな感じだよとツッコミたくなるが、悪い意味で言ってるわけではないのだろう。直感で思ったことをそのまま言っているのだ。

「文学部だからね……。卒業しても、あんまりやりたい仕事がなくて。とりあえず、自分にやれることがあるからやってるって感じ」

 由真の勧めで、簿記を受けていたのは仕事に役立っている。
 仕事が好きか問われたら、間違いなく「好きではない」と答えるだろう。生きるためには仕事をしないといけないからやっている。
 学生が勉強しないといけないように、社会人は仕事をしなければいけない。ステージが上がっても、人間は習慣や義務に従って生きることになるのだ。
 でも、毎日ノルマをさえこなせば怒られないし、夜遅くまでの残業もないから、仕事は嫌いってほどではなかった。これも勉強と同じ。ある程度の成績で満足してくれるならば、別に苦ではない。

「でも、しっかり定職について働いてるのは偉いと思います。私は全然安定しないから、毎日ひどい生活でした」
「ああ、歩合制なんだっけか」
「はい。新人はあんまり仕事がないので、みんなバイトしてます」
「バイトしてるの? だって事務所に所属してるんでしょ?」

 声優にとって事務所に所属するのは、一般人が会社に入るようなものだろう。なのに、どうしてバイトをするのか分からなかった。

「そうなんですけど……。声優になったといっても、素人にちょっと毛が生えたぐらいですからね。そんな人に仕事頼む人いると思います?」
「うーん……。そっかあ……」

 これは普通のサラリーマンでもそうだろう。入ってきたばかりの新人に仕事をたくさん振るはずがない。新人がどれだけ仕事できるか分からないし、失敗されたら困るから、簡単な仕事しか任せない。

「バイトは事務所、OKしてくれるの?」
「OKも何も、声優は個人事業主なので、何をしようとその人の勝手なんです」
「へー」
「声に関係するお仕事でなければ、特に何も言われません。許可されてなくても、みんなお金ないからバイトすると思いますけどね」

 声優事務所は、声優に仕事を振るためにある組織で、声優はその事務所の社員ではないのだ。ただ専属として、他の事務所の仕事を決してもらわないこと、という契約を結んでいる。
 社員でないということは、声優が生きていけるように仕事を与える義務は会社にないということである。

「お仕事は二つのパターンがあって、分かりやすいのがオーディション。偉い人の前で演技をして仕事を勝ち取ってくるパターンです」
「声優っていうとそれだね」

 声優がプロデューサーや監督の前で、マイクに向かっている様子を何かで見たことある。

「そして、事務所に依頼があったものを、事務所が所属している声優に割り振るパターンです。たとえば、CMにナレーションつけたいんだけど、この金額で音声当ててくれないか、というような依頼。事務所は金額や仕事の内容を見て、誰がいいか決めるんです」
「なるほどね。普通の仕事と一緒だ」

 サラリーマンはだいたいこれである。

「でも、オーディションは実力主義ですし、知名度も重要なので、新人声優はほとんど勝ち目がないです。なので、事務所から仕事を分けてもらうのがメインになるんですけど、これがなかなかもらえないんですよね」
「なんで? 仕事が少ないの?」
「それもあると思います。最近、声優の数が増えてますから、仕事は取り合いの状態になってますねー。だから、マネージャーは仕事を誰に振るか決めるとき、仕事が出来て信頼できる人や、お気に入りの人にするんです」
「ああ……」

 分かる気がする。会社のお仕事というのは慈善事業ではないから、わざわざ仕事のできない嫌いな人に頼みたくないものだ。仕事がいっぱいでどうしようもないなら、ダメな新人にも仕事を割り振るしかないが。

「仕事をゲットするには、マネージャーに気に入られるしかないんですが、成果を出してない新人が認めてもらうのはすごく大変です。そのままお眼鏡にかなわければ、私のようにクビになっちゃいます」
「うわあ……。上司に気に入られないとクビってヤバイね……」
「そういう業界なんです……。俳優や芸能人も同じみたいですけど。向こうのが厳しいかな?」

 愛良は改めて普通のサラリーマンで良かったと思ってしまう。そうそうクビにならないし、上司におべっか使わないといけないとかやってられない。

「クビになってよかったんじゃない? 声優やってるのに安定しないから、バイト暮らしって……」
「あはは……。そう言ってやめてく人、すごく多いですね。アルバイトがしたくて声優になったんじゃないって。あと、男性は特に家庭を持てないのが不安になるみたいです」
「そっかぁ。男は稼がないと、女がついてこないもんね……」

 こればかりは男のつらいところ。よくドラマで「夢と私、どっちが大事なの!?」と言い寄られるやつだ。夢とは基本的にもうからない。男は夢を捨てて定職につく道か、女を捨てて夢に生きるかを選ばなくてはいけない。男の夢を応援してくれる女はどれぐらいいるだろうか。
 愛良は男にお金を求めないが、定職に就いているに越したことないと思ってしまう。



「おっ、佐伯。こんなところで弁当?」

 男が愛良を見るなり、そう言って公園に入ってきた。
 未梨亞は反射的に立ち上がる。

「不破未梨亞です。佐伯さんの……」
「友達です。偶然、近くに来てたので、一緒にお弁当を食べてたんです」

 愛良が未梨亞を遮って答えた。

「へー、仲がいいんだな。俺は肥後徹。一応、佐伯の先輩。よろしく」

 そう言って肥後は手を差し出す。
 未梨亞は疑うことなく、その手を取って握手する。
 よいビジネスでもない限り、会ってすぐ握手なんてしないものだ。肥後は女好きで、女性に触れるためにわざわざ握手を求めたのである。
 愛良はまたいつものだ、と目をつり上げる。
 肥後は愛良と同じ部署の先輩。気のいい32歳の独身貴族だ。女性と付き合うのは好きだが、結婚はあまり興味ないようである。

「そういえばさ、前に言ってたお店だけど、今度行かない? 中華街の」
「結構です」
「えー、今フリーでしょ? いーじゃん」

 情報が早すぎる。どこでそれを知ったのだろうと思うが、由真が漏らしたのをつかんだ以外考えられない。

「フリーでも、仕事以外で肥後さんとは会いません」
「つれないなぁ」

 こうして何度お食事のお誘いを断ったか分からない。肥後にとっては、相手が女性であれば、彼氏がいようが結婚してようが何でもいいのだ。肥後もその女性と付き合う気がない。

「じゃあ、君もどう?」

 今度は未梨亞を誘う。

「私ですか?」
「佐伯は二人っきりなのが嫌なんだろ? なら三人で行こう」

 それはその通りであるが、浩一を別れてすぐ他の男性と出かけるのは、ちょっと気が引ける。
 それより、そんなに女と食事にいきたいのかとドン引きしてしまう。

「いいじゃないですか! 一緒に行きましょ! 中華ですよ、中華!」
「え……」

 なぜか盛り上がっている未梨亞。

「君、話分かるね! 未梨亞さんだっけ? 佐伯に言ってやってよ」

 社外の人間だからと、下の名前で呼び始める徹。

「行きましょうよ、愛良さん!」
「なんでそんなに行きたいの……?」
「中華街ですよ! おごってくれるんですよ! 行かないわけにはいかないでしょ!」
「おごるとは言ってないと思うけどね」

 徹を見ると少し困った顔をするが、

「いいとも! 可愛い子を両手に花なら、お釣りが来るさ」

 ロクでもないことを言うが、悪い人ではないのである。

「しょうがないか……」

 愛良は頭をぽりぽりとかいて承諾する。

「じゃあ、あとで連絡するから」

 そう言って徹は一足先に会社に戻っていった。

「どうして行こうと思ったの?」

 お弁当を片付けている未梨亞に愛良は尋ねる。

「あの人、愛良さんに気があるみたいじゃないですか。だから、いい縁になればいいなと思いまして」

 開いた口が塞がらない。
 あんまりそういう気の遣われたくはない。それに……。

「あの人、クズだよ」
「ええっ!?」

 クズは言い過ぎだが、そんなに間違ってないと愛良は思う。

「女口説いて回ってるロクでもないやつ。女であればみんな声かけるから」
「そうなんですか!? ごめんなさい……」
「まあいいよ。せっかくだから、中華街を楽しんでこよ。おごりだし」
「わぁ! そうしましょ、そうしましょ! 中華街楽しみー!」

 浩一と関係が修復することもないし、徹と付き合うこともない。そういう意味では気楽に遊んでいいのかもしれない。ここはせっかくのフリーだ、と思っておくことにしよう。
 それに未梨亞が喜んでいる。彼女もまただいぶ傷心のはず。少しでも傷が癒えれば万々歳だ。

(たまには先輩を立ててあげるのもありか。それよりも……)

 由真がどんな噂話をばらまいているかが、気になって仕方なかった。
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