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倒れても這い上がって
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「先にシャワー使って」
愛良は橋から飛び降りようとしていた女性を自宅まで連れてきたが、いざ家につくと面倒なことをしてしまったなと、少し後悔してしまう。
雨に塗られたコートを脱ぎ捨てると、だいぶ泥はねしていて、クリーニングは必須だ。これは浩一とのデートで買ったお気に入りで、デートのときにしか着ない。
大きなため息が出た。
「何やってんだろ、あたし……」
人に構っている場合ではないのだ。
「死にたいのはこっちのほうだよ……」
今日あったことがすべて夢ならいいのに。現実なら、シャワーで汚れとともに洗い流してしまいたい。もやもやした気持ちを一度リセットしたいのに、風呂場には知らない女性がいる。
家には、浩一との思い出の品がいっぱいある。彼女が出てくるまでの時間、一人で現実に向き合わなければいけないのもつらい。
思い切りのいい人であれば、がっとつかんでゴミ袋に入れてしまうのだろう。しかし、そんなことできない。一つ一つ大切な思い出あるし、物に罪はないのだ。
拾ってきた身元不明の女性の扱いも面倒だ。シャワー貸して、はいさようなら、とはいかない。こうなってしまったら、どうして死のうとしていたのか事情も聞いてあげないとダメだろう。
「冷静すぎるよな……」
女性のことだけでなく、物のことまで考えている自分を笑う。
髪をタオルで拭いていると、彼女はカラスの行水で、すぐにお風呂から出てきた。
「シャワー、ありがとうございます」
タオルを頭に、愛良の貸した部屋着を着て出てきた。
体はほっそりとしていて、子供のようだった。
「じゃ、ご飯食べにいこっか」
「え? シャワーは?」
「着替えたから大丈夫。それより、お腹すいてるでしょ?」
「はい……」
彼女としては、愛良に気を遣ってすぐシャワーを出たのだが、逆に気を遣われてしまう。
「あたしは佐伯愛良(さえきあいら)。あなたは?」
「あ。不破未梨亞(ふわみりあ)です」
今日は外で食べる予定だったから、家には何も食材がなかった。未梨亞はだいぶ空腹だったようなので、近くにあるファミレスへ行くことにした。
雨はすでにやんでいる。
「すみません、いただいちゃって……」
「いいのいいの。好きなだけ食べて」
ファミレスに入っても、彼女は遠慮して何も注文しようとしなかった。その理由はお金を持っていなかったからだ。
愛良も一応社会人。一食おごるぐらいたいしたことないし、無一文の人を放っておけるはずもなかった。
相当お腹がすいていたのか、注文したハンバーグセットをあっという間に平らげてしまう。
「あたしの分も食べていいよ」
ペペロンチーノの皿を未梨亞のほうに押す。
「え、いいんですか?」
遠慮しながらも、その目は輝いていた。
「どうぞどうぞ」
まるで子供の相手をしているようだった。こんなことで喜んでもらえるなら、いくらでも譲りたいと思ってしまう。
「おいしそうに食べるんだね」
浩一とのデートでは食べる前に別れ話になったため、何も食べていなかった。お腹はすいているが、今は何かを食べる気分ではなかった。
それより、未梨亞がおいしそうにむしゃぶりついている姿は、なんだか見ていて気持ちよく、心が落ち着いた。
「ふわぁー、お腹いっぱいです。あ、ギャグじゃないですよ」
「え?」
「あ……。名字が不破でして……」
名前は聞いていたが、これだけの付き合いと思い、ちゃんと覚えていなかったのだ。
ギャグとしては全然面白くなかったが、言い方が妙に可愛らしかったので笑ってしまう。
「ふふ、喜んでもらえて何より」
「本当にありがとうございました」
心から礼なのだろう、未梨亞は頭をぺこりと下げる。
髪が皿に触れそうで愛良は不安になる。
「それで……」
ご飯も食べ終わったこともあり、未梨亞の顔色はだいぶ良くなっている。愛良はついに核心に触れることにした。
「どうして死のうとしていたの?」
今は自分のことで精一杯だから、できればこんなこと聞きたくないが、助けてしまった責任もある。彼女には、人に相談したいことがいっぱいあるはずだ。
子供のような未梨亞を見ていると、少しでも彼女の気を楽にしてあげたいと思えた。
「仕事をクビになったからです……」
「クビ?」
「はい……」
それは死にたくなる気持ちも分かる。自分も急に仕事がなくなったら、どうやって生きていけばいいか分からない。彼氏がいるなら彼氏に頼ることもできるが、今はそれもできない。
彼女にも頼れる人はいないのだろうか。
「仕事は何をしていたの?」
「声優です」
「西友? バイト?」
「バイトみたいなものですが……声のお仕事です」
「ああ! 声優か!」
もちろん声優という職業は知っていたが、実際声優を職業としている人には会ったことがなく、すぐには思いつかなかった。
「声優かぁ。声のお仕事でしょ。すごいじゃん!」
「まあ……クビになったんですけどね……」
「あ、ごめん……」
「いえ、大丈夫です。私がダメだっただけですから」
珍しい職業なのでいろいろ聞いてみたいが、クビになって死のうとしている人には聞きづらかった。
「そっかあ。クビかぁ……。声優になるのって、大変なんでしょ?」
「はい……。専門学校通ったり、養成所いくつか行ったりして……5、6年勉強しました」
「5、6年? そんなに通わないといけないの? 学費大変じゃない?」
「専門学校いってすぐ声優になる人もいますけど、一部のすごい人です。そうでない人は、事務所に付属している養成所に通って勉強するんです。そこで認められると、事務所に入れてくれる、って形ですね。お金も大変です……。みんなバイトしながら通ってました」
「年数的には大学、大学院って感じかあ」
「たいした学歴にならないのが、ちょっと悲しいところです……」
未梨亞は目を潤ませながら言う。
声優は若者の憧れの職業だ。ユーチューバー、芸能人、サッカー選手のように、普通の職業とはステージがまるで違うところに夢がある。
声優は専門学校や養成所などに通って技術を学び、声優事務所に所属することで声優になれる。それは俳優や芸能人と同じ狭き門、誰でもなれる職業ではない。
普通に大学を出て会社員をやっている愛良からすると、別次元の話のようだった。未梨亞もその門をくぐって声優になったのだろう。けれど、成果は出せずクビになってしまった。
(そんなリスクのある仕事できないな……)
愛良の素直な感想がそれだった。
なるのが大変な職業であれば、医者や弁護士のようにリターンが大きいほうがいい。
声優もアイドルや人気声優になればリターンも大きいだろうが、いつまでも人気があるとは限らないし、未梨亞のようにクビになることもあるようだ。
「声優でクビってどういうことなの? 事務所の社員ではないんでしょ?」
「はい。俳優や芸能人と同じ、個人事業主ですね。事務所と専属の契約を結んで、声優ってことになってます」
「その契約打ち切りってこと?」
「そうですね……」
「あ、言いたくないなら言わなくていいけど……」
結局、いろいろ声優について聞いてしまっていた。
一応、遠慮する姿勢は見せるが聞きたくて仕方ない。
「いえ、この業界では珍しいことじゃないんです。どこの事務所も、ジュニアという制度があって、ある程度成果を出せないと3年か4年ぐらいでクビになるんです。お試し期間ってやつですね」
「へえ……」
未梨亞も話して楽になるのだろう。あれこれ話してくれる。
会社員も数ヶ月の試用期間はあるが、よっぽどのことをしなければクビにならない。そこは法律が労働者の身分を守るために働いてくれているのだ。
「3年試用期間って厳しくない……?」
「厳しいですね……。ジュニアの間は、決められた最低額しかもらえないんです。そもそも、いくつ仕事をこなしたかの歩合制だから、仕事がないと全くもらえません……」
「うわあ……きつい」
「あと……」
「あと?」
「3年後に無職になって、世に放り出されます……」
「あっ……」
なぜ未梨亞が死にたくなったのか分かった。
声優とは、何年も勉強してようやく声優になっても、3年後はクビになっているかもしれないのだ。
これを会社員に当てはめると……。大学卒業後、たくさんの採用面接を受けて、ようやく合格した会社に契約社員として入社する。正社員になるためには、3年間働いて成果を出さないといけない。仕事に慣れて後輩に教える立場になったころ、突然会社に「やっぱお前使えないから、いらないわ」と言われ、無職となってしまうのだ。会社に尽くしてきた3年間はなんだったのだろう。転職活動をするにしても、3年間はただの契約社員。歳を取ってしまっている分、新卒と比べると不利になるかもしれない。クビにするなら、数ヶ月で使えるかどうか決めて欲しかった。3年も試した末にクビというのは酷すぎる。
「大変だったね……」
「はい……」
慰めの言葉が見つからない。
未梨亞の場合、憧れの職業を失ってしまったのだから、余計つらいだろう。
「そういえば、どこ住んでるの? 電車賃ぐらい出すよ」
「それが……。今、家がないんです」
「ないってどういうこと?」
「家賃払えず、追い出されちゃって」
「え……」
「しばらく野宿してたんですが、鞄も盗まれちゃって無一文なんです……」
これには絶句してしまう。
こんな若い子が野宿。そして鞄がなければ、お金がない。スマホもない。実家にも帰れないし、連絡先も分からない。
まさに泣き面に蜂だ。人生嫌になってもおかしくない。
「さすがにどうしようもないかなって、困ってました。今日なんか雨が降り出してきちゃって。……でも、傘をくれた人がいたんです」
確かに未梨亞は、橋の上で傘だけを持っていた。
「ずぶ濡れになってたから、見かねたんだと思います。ただのビニ傘ですけど、その優しさが嬉しくって……」
未梨亞の目からほろりと涙がこぼれる。
愛良はびくっとしてしまう。
目の前で人が泣いたのを初めて見た気がする。
「ちょっ……」
「ごめんなさい……」
未梨亞は袖で涙を拭うが、涙はとめどなく流れる。
嗚咽は大きくなり、ファミレス中の視線が集まる。
「え、えっ、えっ……」
自分が泣かせたようにしか見えない状況に、愛良は困り果ててしまう。
「とりあえず出ようか」
電子マネーでさっと支払いを済ませて、ファミレスを出た。
泣いている未梨亞をどうしようかと思ったが、傘を置いたままにしていることを思い出し、二人は橋へと戻った。
「あ、残ってる」
橋に置いたままにしてあった傘は、閉じて欄干に立てかけられていた。
そのまま放置されているか、持って行かれていると思ったので、ちょっと嬉しかった。
たいした傘ではないが、それでも長く使っているお気に入りなのだ。
「ほら、傘」
未梨亞にビニ傘を差し出す。これが彼女の唯一の財産だ。
「ありがとうございます……」
落ちついてきてはいるが、まだ顔はぐちゃぐちゃだった。
ご飯を食べさせたら、彼女の実家や友達の家にでも帰らせようと思っていたが、そんなことできそうになかった。今日は泊めてあげるしかないだろう。
「この傘をくれた人……」
「ん?」
「若いサラリーマンの方だったんですけど、自分は雨に濡れながら走っていったんです」
「ほー」
「なかなかできないですよね……」
「そうだね。世の中、捨てたものじゃないなぁ」
「そう思います……」
未梨亞は傘をきゅっと握りしめる。
「もらったときは嬉しかったです。でも同時に、悲しかった……」
「え?」
「私自身は人に何かをしてあげられるのかなって。……惨めなんです。ろくに仕事もできないし、誰の役にも立たない……」
「そんなこと……」
「高校卒業してからお芝居を10年くらいやってきましけど、プロとしては全然足りない実力なんですよ……。時間の無駄ですよね。才能全然ないですよ。……だから、試してみたかったんです。こんな自分でも、死ぬ気でやれば何かできるんじゃないかって」
「それで傘で飛ぼうと?」
「はい……」
未梨亞は少し沈黙してから口を開いた。
「正直、愛良さんが引き留めてくれて、ほっとしました。……怖かったんです。自分に飛べる飛べるって、マントラかけても全然信じられなくて、逆にできないできないって言葉が頭に浮かんできていっぱいになるんです……。ほんとへたれですよね」
未梨亞はてへへと笑う。
「ダメじゃない!」
愛良は未梨亞の手をつかんでいた。
「死ぬのはみんな怖いんだよ。文字通りに、死ぬ気で頑張るなんてできるわけない! へたれでいいじゃない。おかげで今、生きてるんだから」
あっけにとられている未梨亞。
そして、手を思いっきりつかんでいたことに気づき、手を放す愛良。
「ごめん……」
「文学的ですね」
「ン」
愛良は顔を真っ赤にする。
「なんでもない、忘れて!」
「いえ、よく分かります。アニメのキャラクターはどんなにひどい目に遭っても決して諦めません。逃げることがあっても、必ず戻ってきます! そして真のボスを倒すんです!」
「う、うん……」
熱弁する未梨亞の顔にあどけなさが戻っていた。そして目には希望の光がある。
「私、弱気になっていました。もうちょっとだけ頑張ってみます」
死の一歩手前まで進んだ人が立ち上がるのは、並大抵のことではないだろう。彼女の心がどう動いたのかは分からない。けれど、絶望からは脱したようだった。
「……あたしも頑張らなきゃな」
未梨亞に比べれば、自分の悩みなんて小さいものに感じる。
「実は……今日失恋しちゃってね」
「そうなんですか!?」
「うん。5年付き合ってた彼氏に振られちゃった」
起きたことはもう戻らないし、小さいこととして、笑い飛ばすしかない。
「ええーっ!? こんな素敵な人を振るなんて信じられません!」
「素敵なんかじゃないよ。自分のことしか考えられないワガママな女」
「そんなことないです! 私を助けてくれたじゃないですか! 傘をくれた人もすごかったですけど、それよりもっともっとすごい! 誰にでもできることじゃないです!」
「ま、まあ……」
褒められるのは悪い気はしなかった。彼女がお世辞で言っているのではないのも分かる。
「ありがと……」
「いえ、感謝するのはこっちです! 助けてくれたのが愛良さんでよかった!」
それは愛良も同じだった。
未梨亞はけっこうアホっぽいが、純粋に喜んでくれるので、こちらも素直に嬉しくなる。未梨亞と話せたことで、沈み込んだ心がぽかぽかする。
「ところでなんだけど……。今いくつなの? 10年お芝居やってるって言ってたけど」
「28です」
「28!? ウソ、同い年!?」
「嬉しい! 一緒なんですね!」
てっきり年下だと思っていたから、お姉さんぶってしまい、急に気恥ずかしくなる。
「未成年に間違われない?」
「え? やっぱ見えます? けっこう間違われちゃうんですよね……。この前のも、やけ酒しようとしてお酒売ってもらえませんでした」
幼く見えるのは性格だけではなく、未梨亞の茹で卵のようにつやと弾力のある若々しい肌だ。
(世の中、不公平だ……)
愛良は少女風の同い年に、嫉妬を感じてしまう。何を再スタートするにも、見た目が若いほうが絶対いい。
「やっぱ飛んでくれば? あんたなら傘で飛べるよ」
「ええーっ!? 急にひどい!」
そういう未梨亞は突然走り出し、公園のゴミ箱に傘を放り込んだ。そして、興奮した犬みたいに駆け戻ってくる。
「はい、傘ありません! もう飛べませんから!」
「あははははは……」
自分を助けてくれた思い出の傘だろうに、すぐに手放すんだ、と愛良は思う。でも、ただのビニ傘だ。大切にするものでもない。感傷に浸らず、先に進むのもアリなんだろう。
言動の幼さに、同い年とは思えなかったが、その奔放さには不思議と好感が持てた。
「コンビニでおにぎり買うけど、何かいる?」
緊張が解けたらお腹がすいてきた。
「はい! 唐揚げ弁当食べたいです!」
「まだ食べるの……?」
空腹だったから仕方ないのか、単に幼いのか。
こうしてアラサー女子による、珍妙な同居生活が始まるのだった。
愛良は橋から飛び降りようとしていた女性を自宅まで連れてきたが、いざ家につくと面倒なことをしてしまったなと、少し後悔してしまう。
雨に塗られたコートを脱ぎ捨てると、だいぶ泥はねしていて、クリーニングは必須だ。これは浩一とのデートで買ったお気に入りで、デートのときにしか着ない。
大きなため息が出た。
「何やってんだろ、あたし……」
人に構っている場合ではないのだ。
「死にたいのはこっちのほうだよ……」
今日あったことがすべて夢ならいいのに。現実なら、シャワーで汚れとともに洗い流してしまいたい。もやもやした気持ちを一度リセットしたいのに、風呂場には知らない女性がいる。
家には、浩一との思い出の品がいっぱいある。彼女が出てくるまでの時間、一人で現実に向き合わなければいけないのもつらい。
思い切りのいい人であれば、がっとつかんでゴミ袋に入れてしまうのだろう。しかし、そんなことできない。一つ一つ大切な思い出あるし、物に罪はないのだ。
拾ってきた身元不明の女性の扱いも面倒だ。シャワー貸して、はいさようなら、とはいかない。こうなってしまったら、どうして死のうとしていたのか事情も聞いてあげないとダメだろう。
「冷静すぎるよな……」
女性のことだけでなく、物のことまで考えている自分を笑う。
髪をタオルで拭いていると、彼女はカラスの行水で、すぐにお風呂から出てきた。
「シャワー、ありがとうございます」
タオルを頭に、愛良の貸した部屋着を着て出てきた。
体はほっそりとしていて、子供のようだった。
「じゃ、ご飯食べにいこっか」
「え? シャワーは?」
「着替えたから大丈夫。それより、お腹すいてるでしょ?」
「はい……」
彼女としては、愛良に気を遣ってすぐシャワーを出たのだが、逆に気を遣われてしまう。
「あたしは佐伯愛良(さえきあいら)。あなたは?」
「あ。不破未梨亞(ふわみりあ)です」
今日は外で食べる予定だったから、家には何も食材がなかった。未梨亞はだいぶ空腹だったようなので、近くにあるファミレスへ行くことにした。
雨はすでにやんでいる。
「すみません、いただいちゃって……」
「いいのいいの。好きなだけ食べて」
ファミレスに入っても、彼女は遠慮して何も注文しようとしなかった。その理由はお金を持っていなかったからだ。
愛良も一応社会人。一食おごるぐらいたいしたことないし、無一文の人を放っておけるはずもなかった。
相当お腹がすいていたのか、注文したハンバーグセットをあっという間に平らげてしまう。
「あたしの分も食べていいよ」
ペペロンチーノの皿を未梨亞のほうに押す。
「え、いいんですか?」
遠慮しながらも、その目は輝いていた。
「どうぞどうぞ」
まるで子供の相手をしているようだった。こんなことで喜んでもらえるなら、いくらでも譲りたいと思ってしまう。
「おいしそうに食べるんだね」
浩一とのデートでは食べる前に別れ話になったため、何も食べていなかった。お腹はすいているが、今は何かを食べる気分ではなかった。
それより、未梨亞がおいしそうにむしゃぶりついている姿は、なんだか見ていて気持ちよく、心が落ち着いた。
「ふわぁー、お腹いっぱいです。あ、ギャグじゃないですよ」
「え?」
「あ……。名字が不破でして……」
名前は聞いていたが、これだけの付き合いと思い、ちゃんと覚えていなかったのだ。
ギャグとしては全然面白くなかったが、言い方が妙に可愛らしかったので笑ってしまう。
「ふふ、喜んでもらえて何より」
「本当にありがとうございました」
心から礼なのだろう、未梨亞は頭をぺこりと下げる。
髪が皿に触れそうで愛良は不安になる。
「それで……」
ご飯も食べ終わったこともあり、未梨亞の顔色はだいぶ良くなっている。愛良はついに核心に触れることにした。
「どうして死のうとしていたの?」
今は自分のことで精一杯だから、できればこんなこと聞きたくないが、助けてしまった責任もある。彼女には、人に相談したいことがいっぱいあるはずだ。
子供のような未梨亞を見ていると、少しでも彼女の気を楽にしてあげたいと思えた。
「仕事をクビになったからです……」
「クビ?」
「はい……」
それは死にたくなる気持ちも分かる。自分も急に仕事がなくなったら、どうやって生きていけばいいか分からない。彼氏がいるなら彼氏に頼ることもできるが、今はそれもできない。
彼女にも頼れる人はいないのだろうか。
「仕事は何をしていたの?」
「声優です」
「西友? バイト?」
「バイトみたいなものですが……声のお仕事です」
「ああ! 声優か!」
もちろん声優という職業は知っていたが、実際声優を職業としている人には会ったことがなく、すぐには思いつかなかった。
「声優かぁ。声のお仕事でしょ。すごいじゃん!」
「まあ……クビになったんですけどね……」
「あ、ごめん……」
「いえ、大丈夫です。私がダメだっただけですから」
珍しい職業なのでいろいろ聞いてみたいが、クビになって死のうとしている人には聞きづらかった。
「そっかあ。クビかぁ……。声優になるのって、大変なんでしょ?」
「はい……。専門学校通ったり、養成所いくつか行ったりして……5、6年勉強しました」
「5、6年? そんなに通わないといけないの? 学費大変じゃない?」
「専門学校いってすぐ声優になる人もいますけど、一部のすごい人です。そうでない人は、事務所に付属している養成所に通って勉強するんです。そこで認められると、事務所に入れてくれる、って形ですね。お金も大変です……。みんなバイトしながら通ってました」
「年数的には大学、大学院って感じかあ」
「たいした学歴にならないのが、ちょっと悲しいところです……」
未梨亞は目を潤ませながら言う。
声優は若者の憧れの職業だ。ユーチューバー、芸能人、サッカー選手のように、普通の職業とはステージがまるで違うところに夢がある。
声優は専門学校や養成所などに通って技術を学び、声優事務所に所属することで声優になれる。それは俳優や芸能人と同じ狭き門、誰でもなれる職業ではない。
普通に大学を出て会社員をやっている愛良からすると、別次元の話のようだった。未梨亞もその門をくぐって声優になったのだろう。けれど、成果は出せずクビになってしまった。
(そんなリスクのある仕事できないな……)
愛良の素直な感想がそれだった。
なるのが大変な職業であれば、医者や弁護士のようにリターンが大きいほうがいい。
声優もアイドルや人気声優になればリターンも大きいだろうが、いつまでも人気があるとは限らないし、未梨亞のようにクビになることもあるようだ。
「声優でクビってどういうことなの? 事務所の社員ではないんでしょ?」
「はい。俳優や芸能人と同じ、個人事業主ですね。事務所と専属の契約を結んで、声優ってことになってます」
「その契約打ち切りってこと?」
「そうですね……」
「あ、言いたくないなら言わなくていいけど……」
結局、いろいろ声優について聞いてしまっていた。
一応、遠慮する姿勢は見せるが聞きたくて仕方ない。
「いえ、この業界では珍しいことじゃないんです。どこの事務所も、ジュニアという制度があって、ある程度成果を出せないと3年か4年ぐらいでクビになるんです。お試し期間ってやつですね」
「へえ……」
未梨亞も話して楽になるのだろう。あれこれ話してくれる。
会社員も数ヶ月の試用期間はあるが、よっぽどのことをしなければクビにならない。そこは法律が労働者の身分を守るために働いてくれているのだ。
「3年試用期間って厳しくない……?」
「厳しいですね……。ジュニアの間は、決められた最低額しかもらえないんです。そもそも、いくつ仕事をこなしたかの歩合制だから、仕事がないと全くもらえません……」
「うわあ……きつい」
「あと……」
「あと?」
「3年後に無職になって、世に放り出されます……」
「あっ……」
なぜ未梨亞が死にたくなったのか分かった。
声優とは、何年も勉強してようやく声優になっても、3年後はクビになっているかもしれないのだ。
これを会社員に当てはめると……。大学卒業後、たくさんの採用面接を受けて、ようやく合格した会社に契約社員として入社する。正社員になるためには、3年間働いて成果を出さないといけない。仕事に慣れて後輩に教える立場になったころ、突然会社に「やっぱお前使えないから、いらないわ」と言われ、無職となってしまうのだ。会社に尽くしてきた3年間はなんだったのだろう。転職活動をするにしても、3年間はただの契約社員。歳を取ってしまっている分、新卒と比べると不利になるかもしれない。クビにするなら、数ヶ月で使えるかどうか決めて欲しかった。3年も試した末にクビというのは酷すぎる。
「大変だったね……」
「はい……」
慰めの言葉が見つからない。
未梨亞の場合、憧れの職業を失ってしまったのだから、余計つらいだろう。
「そういえば、どこ住んでるの? 電車賃ぐらい出すよ」
「それが……。今、家がないんです」
「ないってどういうこと?」
「家賃払えず、追い出されちゃって」
「え……」
「しばらく野宿してたんですが、鞄も盗まれちゃって無一文なんです……」
これには絶句してしまう。
こんな若い子が野宿。そして鞄がなければ、お金がない。スマホもない。実家にも帰れないし、連絡先も分からない。
まさに泣き面に蜂だ。人生嫌になってもおかしくない。
「さすがにどうしようもないかなって、困ってました。今日なんか雨が降り出してきちゃって。……でも、傘をくれた人がいたんです」
確かに未梨亞は、橋の上で傘だけを持っていた。
「ずぶ濡れになってたから、見かねたんだと思います。ただのビニ傘ですけど、その優しさが嬉しくって……」
未梨亞の目からほろりと涙がこぼれる。
愛良はびくっとしてしまう。
目の前で人が泣いたのを初めて見た気がする。
「ちょっ……」
「ごめんなさい……」
未梨亞は袖で涙を拭うが、涙はとめどなく流れる。
嗚咽は大きくなり、ファミレス中の視線が集まる。
「え、えっ、えっ……」
自分が泣かせたようにしか見えない状況に、愛良は困り果ててしまう。
「とりあえず出ようか」
電子マネーでさっと支払いを済ませて、ファミレスを出た。
泣いている未梨亞をどうしようかと思ったが、傘を置いたままにしていることを思い出し、二人は橋へと戻った。
「あ、残ってる」
橋に置いたままにしてあった傘は、閉じて欄干に立てかけられていた。
そのまま放置されているか、持って行かれていると思ったので、ちょっと嬉しかった。
たいした傘ではないが、それでも長く使っているお気に入りなのだ。
「ほら、傘」
未梨亞にビニ傘を差し出す。これが彼女の唯一の財産だ。
「ありがとうございます……」
落ちついてきてはいるが、まだ顔はぐちゃぐちゃだった。
ご飯を食べさせたら、彼女の実家や友達の家にでも帰らせようと思っていたが、そんなことできそうになかった。今日は泊めてあげるしかないだろう。
「この傘をくれた人……」
「ん?」
「若いサラリーマンの方だったんですけど、自分は雨に濡れながら走っていったんです」
「ほー」
「なかなかできないですよね……」
「そうだね。世の中、捨てたものじゃないなぁ」
「そう思います……」
未梨亞は傘をきゅっと握りしめる。
「もらったときは嬉しかったです。でも同時に、悲しかった……」
「え?」
「私自身は人に何かをしてあげられるのかなって。……惨めなんです。ろくに仕事もできないし、誰の役にも立たない……」
「そんなこと……」
「高校卒業してからお芝居を10年くらいやってきましけど、プロとしては全然足りない実力なんですよ……。時間の無駄ですよね。才能全然ないですよ。……だから、試してみたかったんです。こんな自分でも、死ぬ気でやれば何かできるんじゃないかって」
「それで傘で飛ぼうと?」
「はい……」
未梨亞は少し沈黙してから口を開いた。
「正直、愛良さんが引き留めてくれて、ほっとしました。……怖かったんです。自分に飛べる飛べるって、マントラかけても全然信じられなくて、逆にできないできないって言葉が頭に浮かんできていっぱいになるんです……。ほんとへたれですよね」
未梨亞はてへへと笑う。
「ダメじゃない!」
愛良は未梨亞の手をつかんでいた。
「死ぬのはみんな怖いんだよ。文字通りに、死ぬ気で頑張るなんてできるわけない! へたれでいいじゃない。おかげで今、生きてるんだから」
あっけにとられている未梨亞。
そして、手を思いっきりつかんでいたことに気づき、手を放す愛良。
「ごめん……」
「文学的ですね」
「ン」
愛良は顔を真っ赤にする。
「なんでもない、忘れて!」
「いえ、よく分かります。アニメのキャラクターはどんなにひどい目に遭っても決して諦めません。逃げることがあっても、必ず戻ってきます! そして真のボスを倒すんです!」
「う、うん……」
熱弁する未梨亞の顔にあどけなさが戻っていた。そして目には希望の光がある。
「私、弱気になっていました。もうちょっとだけ頑張ってみます」
死の一歩手前まで進んだ人が立ち上がるのは、並大抵のことではないだろう。彼女の心がどう動いたのかは分からない。けれど、絶望からは脱したようだった。
「……あたしも頑張らなきゃな」
未梨亞に比べれば、自分の悩みなんて小さいものに感じる。
「実は……今日失恋しちゃってね」
「そうなんですか!?」
「うん。5年付き合ってた彼氏に振られちゃった」
起きたことはもう戻らないし、小さいこととして、笑い飛ばすしかない。
「ええーっ!? こんな素敵な人を振るなんて信じられません!」
「素敵なんかじゃないよ。自分のことしか考えられないワガママな女」
「そんなことないです! 私を助けてくれたじゃないですか! 傘をくれた人もすごかったですけど、それよりもっともっとすごい! 誰にでもできることじゃないです!」
「ま、まあ……」
褒められるのは悪い気はしなかった。彼女がお世辞で言っているのではないのも分かる。
「ありがと……」
「いえ、感謝するのはこっちです! 助けてくれたのが愛良さんでよかった!」
それは愛良も同じだった。
未梨亞はけっこうアホっぽいが、純粋に喜んでくれるので、こちらも素直に嬉しくなる。未梨亞と話せたことで、沈み込んだ心がぽかぽかする。
「ところでなんだけど……。今いくつなの? 10年お芝居やってるって言ってたけど」
「28です」
「28!? ウソ、同い年!?」
「嬉しい! 一緒なんですね!」
てっきり年下だと思っていたから、お姉さんぶってしまい、急に気恥ずかしくなる。
「未成年に間違われない?」
「え? やっぱ見えます? けっこう間違われちゃうんですよね……。この前のも、やけ酒しようとしてお酒売ってもらえませんでした」
幼く見えるのは性格だけではなく、未梨亞の茹で卵のようにつやと弾力のある若々しい肌だ。
(世の中、不公平だ……)
愛良は少女風の同い年に、嫉妬を感じてしまう。何を再スタートするにも、見た目が若いほうが絶対いい。
「やっぱ飛んでくれば? あんたなら傘で飛べるよ」
「ええーっ!? 急にひどい!」
そういう未梨亞は突然走り出し、公園のゴミ箱に傘を放り込んだ。そして、興奮した犬みたいに駆け戻ってくる。
「はい、傘ありません! もう飛べませんから!」
「あははははは……」
自分を助けてくれた思い出の傘だろうに、すぐに手放すんだ、と愛良は思う。でも、ただのビニ傘だ。大切にするものでもない。感傷に浸らず、先に進むのもアリなんだろう。
言動の幼さに、同い年とは思えなかったが、その奔放さには不思議と好感が持てた。
「コンビニでおにぎり買うけど、何かいる?」
緊張が解けたらお腹がすいてきた。
「はい! 唐揚げ弁当食べたいです!」
「まだ食べるの……?」
空腹だったから仕方ないのか、単に幼いのか。
こうしてアラサー女子による、珍妙な同居生活が始まるのだった。
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