宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第四章・熱を孕む

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 文字屋は北対きたのたいへ戻ると、書道道具を入れた鞄から鈴が着いた名札を取り出す。【さとり】と書かれた名札の鈴を鳴らすと、机の暗闇から長く大きなしっぽが伸び、音もなく文字屋の膝に前足が乗せられた。

「ずっと閉じこめておいてごめんな、さとり

 ふるふると首を振る気配がし、首輪についている鈴が鳴る。うーんと体を長く伸ばす気配に続き、前足でのふみふみが始まった。
 文字屋は机の下に手を入れ、さとりの喉を撫でる。気持ちよさそうに喉を鳴らすさとりが、文字屋の手につられて机の影から正体を現した。すらりと大きく長く伸びたしっぽが目立つ、瞳まで真っ黒な黒猫だった。しっぽの長さに対比して体はとても小さい。文字屋の片手に乗ると、じっと文字屋を見つめた。
 勉強机に置いていた半紙に、怒りの文字が赤で記される。

「うん。今しがたまで怒ってた。さすがだな、さとり

 ご褒美に喉を撫でてくれとねだるさとりの喉を指で撫でてやり、文字屋は机上にさとりを乗せる。蝋燭ろうそくの明かりに揺れたさとりは実体よりも大分大きく変化して見えた。

さとり。お願いがあるんだ。光る金魚を作った時のように、お前に協力してほしい」

 二枚目の半紙に【おう】が記される。文字屋はそれを見て、腹の底から深呼吸をした。


       ***


「きゃぁぁぁぁあ! なにこのちいさいのー! かわいいかわいいかわいい! モッフモフしてる!」

 文字屋が千代をふみで呼び出し、さとりの姿を見せると、目を輝かせて食いついた。半紙のいたるところに【好き】の文字がぽぽんぽんぽんと記され始める。

「コハクくん、どうしたのこの可愛い子! 拾ったの?」

「拾ったのは随分と昔の宵闇町よいやみちょうだが、そいつの正体は妖怪のさとりだ。人の声を発し、人の心を読む妖怪。鳥山石燕とりやませきえんが描いた『今昔画図続百鬼こんじゃくがずぞくひゃっき』の挿絵では、中国の伝説上の動物である攫猿かくえんという猿の挿絵が描かれている。
 猿とは似ても似つかないうえに、人の言葉は話さないが、人の心を読む能力にけている。今だってお前の気持ちを半紙にしるし続けている。あまり能力を長く使うとさとり自身が疲れてしまうんだ、気が済んだところで離してやってくれ」

 千代がはーいと頷き、またねとさとりを両腕の中から離す。ぷるぷると体を振ったさとりが机の下に潜り、姿を隠した。

「家の中じゃ全然見たことがないけれど、普段はどこにいる子なの?」

「特製の名札の中にいる。俺の心を一日読むだけでも疲れ果ててしまうからな、落ち着ける場所を作ってやったんだ」

「そうだよね、ずっと人の気持ちを読んでたら疲れちゃうもんね」

 一人納得した千代が頷き、なにかに気づいたように顔を上げる。

「コハクくん。もしかして光る金魚の時と同じで、今回もさとりちゃんに協力してもらうの?」

「本人の了承は得た。あとは鈿女うずめがどれだけ愛を伝えられるかが鍵だ」

「ふぅん、愛ですか、そうですか」

 すすーっと文字屋に近づいてきた千代が、唇を尖らせる。文字屋が口を開く前に、千代が「わたしにも言ってくれたらなー」と耳に囁いたため、二人揃って頬を朱に染めた。
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