宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第四章・熱を孕む

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 実技試験までは大分日があく。文字屋は【】の文字を書くことに決め、西対にしのたいの姫君──千代とふみのやり取りを始めた。万が一にでも鈿女うずめに見られてもいいよう、文字屋はきちんと和歌を書いた。
 文字屋が鈿女うずめふみを届けるよう頼むと、毎朝交換されるふみに興味をそそられたらしい。千代のふみの中身は、本人が知っている和歌、もしくは【意味がわからないので訳してください】と文字屋の和歌に対する疑問だったり、【おなかすいたー】と気持ちを表すものばかりだったが、続けることに意味がある。ふみを受け取る時に千代が本当に嬉しそうに笑うのも、鈿女うずめにとっては効果ばつぐんだったらしい。

胡白こはく様、少々お尋ねしたいことがあるのですが……」

 ある日の夕食後、一人で北対きたのたいに籠ろうとしていた文字屋に鈿女うずめが声をかけてきた。内心で喜びの舞を踊りつつ、文字屋はいたって普通の表情と声で「どうしましたか」と返答する。
 鈿女うずめが「ここでは少し……」と人目を気にする素振りを見せたので、北対きたのたいへ案内する。渡殿わたどので遠慮する鈿女うずめを無理に引き入れることはせず、文字屋も渡殿わたどのに座って話が始まるのを待った。

「その、ふみのやりとりを長く続けるコツのようなものがあれば、教えていただきたいのです。そもそもわたくしの文は読まれもせず……読まれるにはどうしたらよいか、毎日頭を悩ませているのです」

「お相手は沢山のふみをいただく方なのですね」

「そう! そうなのです! けれどもわたくしだって女です。恋焦がれる方にふみを読んでいただきたいのです」

「お気持ち、よく分かります。それでは一つ、良いものをお見せましょう」

 文字屋は北対きたのたいの室内に入り、机の上から小瓶と蝋燭台ろうそくだいを取り、千代宛のふみを手に取った。

「これは……?」

「中身は秘密ですが、自分のふみであることを相手に伝えるものです」

 千代宛の文には全て青色の印が押してある。青色の印に蝋燭の炎を近づけ、色の変化をまじまじと見ていた鈿女うずめが「まぁ……!」と驚きの声を上げた。

「青色の印は発熱性のもので、温めると桜色に変わります。この印があることで、彼女も俺からのふみだと認識してくれ、返事を書いてくれるのです。どうしても彼女に認識して欲しかった俺は、なにか目印をつけてみようと思って、このような形になりました」

「目印……とても良い考えですわ。しかも色が変わるだなんて、なんて素敵なものでしょう!」

 今や鈿女うずめの関心は全て小瓶に注がれている。文字屋は考えるふりをし、悩むふりをし、そうして小瓶を鈿女うずめへ差しだした。

「良かったらお使いになりませんか」

「しかし、こちらは胡白こはく様の大切なものなのでは……?」

「それでは柿の葉三枚で買い取ってください。自分で言うのもあれですが、俺と西対にしのたいの姫君との絆は相当深いものです。目印がなくなったとて、そうやすやすと切れはしないでしょう」

「……ありがたきご配慮、感謝致します。明朝までには柿の葉三枚準備してまいります」

 鈿女うずめが深々と頭を下げ、小瓶をしっかと手に持って去っていく。その後ろ姿を見ながら、文字屋は第一段階は終わったなと、星のない空を見上げた。
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