宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第四章・熱を孕む

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 普段より早い夕食を済ませると、文字屋は北対きたのたいこもる準備を始めた。千代に「若返りの湯に一緒にいかない?」と誘われたが、もわんと湯気の向こう側に見えた妄想に、慌てて断った。そもそも混浴ではないのだが、男女隣の湯なので声や音は聞こえる。そんな時間を耐えるぐらいならば、勉強をする。するったらする。
 結局千代は「けちー」とだけ言い、めぐみと一緒に若返りの湯へ向かった。文字屋は内心ほっと溜息をつき、改めて北対きたのたいに篭もる準備を進めた。
 名前通り、屋敷の中で一番北に位置する北対きたのたいは、幼い頃父親に厳しく指導された場所だ。三歳から筆を握らされ、文字の練習と古書の読み込みを強要され、幾度となく母親に泣きついたか分からない。五歳の時には既に諦めがついていた。この道でしか、自分は生きることを許されないのだと。その場所に再び訪れることになろうとは、誰が想像しただろう。
 文字屋が北対きたのたいに到着すると、既に掃除は済み、新しい布団が鎮座していた。明かりも新しいものに変えられ、茶だけなく墨をる用の水まで用意されていて、文句のつけようがない。『気立てが良いので採用した』という父親の言葉通り、鈿女うずめは女官として相当優秀なようだ。
 借りてきた書籍と書道道具の入った鞄を窓際の机に置くと、どうにか体裁ていさいは整った。入浴は後にして、さっさと勉強を始めることにする。天狐帝宣誓書てんこていせんせいしょを開き読み始めると、文字屋の意識は本の中にどっぷりと浸かっていった。


       ***


鈿女うずめちゃん? とっても良い子よぉ。お仕事もばんばんこなしてくれるし」

 千代は一緒に若返りの湯に浸かっためぐみに尋ねてみたのだが、ありきたりな答えしか返ってこなかった。

「包帯を外された姿は見たことがないのですか?」

「ないわねぇ。『苦しくないの?』って尋ねたことがあるけれど、本人が『これで良いのです』って言うから気にしないことにしちゃった。女には秘密がいくつあっても足りないから~」

 湯の中を揺蕩たゆたうめぐみを見つつ、千代はうーんと一人で考えてみる。

(包帯を顔に巻いていても、足取りはしっかりしていたし、ご飯の給仕も手馴れてた。目が見えないってわけじゃなさそう……いやいや、決めつけは良くないかも。目が見えなくても、このお屋敷で何年もつとめていて慣れている、とか。呼び出し鈴は渡してくれたけれども、あれだって夜中は静かだから音のほうが聞こえるだけなのかも……うーん、コハクくんみたいにはうまくいかないなぁ)

 先程一緒に風呂に入らないかと言った時、珍しく慌てて断りを入れてきた文字屋を思い浮かべ、千代は頬を赤く染める。最初は混浴じゃないんだからきたらいいじゃないのと思っていたのだが、男湯と女湯があまりにも隣接していて、これはこれで一緒に入っていたら気まずい気がする。

「ねぇねぇ千代ちゃん」

「はい。なんでしょうか」

「コハクちゃんとつきあっているの? もう恋人にもなっちゃって、更に先まで進んでいたりする? 千代ちゃんとコハクちゃんが本気で結婚するなら、わたし手伝っちゃうわよ~」

 めぐみの爆弾発言に、千代は卒倒しそうになる。
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