86 / 102
第四章・熱を孕む
弐
しおりを挟む
普段より早い夕食を済ませると、文字屋は北対に籠る準備を始めた。千代に「若返りの湯に一緒にいかない?」と誘われたが、もわんと湯気の向こう側に見えた妄想に、慌てて断った。そもそも混浴ではないのだが、男女隣の湯なので声や音は聞こえる。そんな時間を耐えるぐらいならば、勉強をする。するったらする。
結局千代は「けちー」とだけ言い、めぐみと一緒に若返りの湯へ向かった。文字屋は内心ほっと溜息をつき、改めて北対に篭もる準備を進めた。
名前通り、屋敷の中で一番北に位置する北対は、幼い頃父親に厳しく指導された場所だ。三歳から筆を握らされ、文字の練習と古書の読み込みを強要され、幾度となく母親に泣きついたか分からない。五歳の時には既に諦めがついていた。この道でしか、自分は生きることを許されないのだと。その場所に再び訪れることになろうとは、誰が想像しただろう。
文字屋が北対に到着すると、既に掃除は済み、新しい布団が鎮座していた。明かりも新しいものに変えられ、茶だけなく墨を磨る用の水まで用意されていて、文句のつけようがない。『気立てが良いので採用した』という父親の言葉通り、鈿女は女官として相当優秀なようだ。
借りてきた書籍と書道道具の入った鞄を窓際の机に置くと、どうにか体裁は整った。入浴は後にして、さっさと勉強を始めることにする。天狐帝宣誓書を開き読み始めると、文字屋の意識は本の中にどっぷりと浸かっていった。
***
「鈿女ちゃん? とっても良い子よぉ。お仕事もばんばんこなしてくれるし」
千代は一緒に若返りの湯に浸かっためぐみに尋ねてみたのだが、ありきたりな答えしか返ってこなかった。
「包帯を外された姿は見たことがないのですか?」
「ないわねぇ。『苦しくないの?』って尋ねたことがあるけれど、本人が『これで良いのです』って言うから気にしないことにしちゃった。女には秘密がいくつあっても足りないから~」
湯の中を揺蕩うめぐみを見つつ、千代はうーんと一人で考えてみる。
(包帯を顔に巻いていても、足取りはしっかりしていたし、ご飯の給仕も手馴れてた。目が見えないってわけじゃなさそう……いやいや、決めつけは良くないかも。目が見えなくても、このお屋敷で何年も勤ていて慣れている、とか。呼び出し鈴は渡してくれたけれども、あれだって夜中は静かだから音のほうが聞こえるだけなのかも……うーん、コハクくんみたいにはうまくいかないなぁ)
先程一緒に風呂に入らないかと言った時、珍しく慌てて断りを入れてきた文字屋を思い浮かべ、千代は頬を赤く染める。最初は混浴じゃないんだからきたらいいじゃないのと思っていたのだが、男湯と女湯があまりにも隣接していて、これはこれで一緒に入っていたら気まずい気がする。
「ねぇねぇ千代ちゃん」
「はい。なんでしょうか」
「コハクちゃんとつきあっているの? もう恋人にもなっちゃって、更に先まで進んでいたりする? 千代ちゃんとコハクちゃんが本気で結婚するなら、わたし手伝っちゃうわよ~」
めぐみの爆弾発言に、千代は卒倒しそうになる。
結局千代は「けちー」とだけ言い、めぐみと一緒に若返りの湯へ向かった。文字屋は内心ほっと溜息をつき、改めて北対に篭もる準備を進めた。
名前通り、屋敷の中で一番北に位置する北対は、幼い頃父親に厳しく指導された場所だ。三歳から筆を握らされ、文字の練習と古書の読み込みを強要され、幾度となく母親に泣きついたか分からない。五歳の時には既に諦めがついていた。この道でしか、自分は生きることを許されないのだと。その場所に再び訪れることになろうとは、誰が想像しただろう。
文字屋が北対に到着すると、既に掃除は済み、新しい布団が鎮座していた。明かりも新しいものに変えられ、茶だけなく墨を磨る用の水まで用意されていて、文句のつけようがない。『気立てが良いので採用した』という父親の言葉通り、鈿女は女官として相当優秀なようだ。
借りてきた書籍と書道道具の入った鞄を窓際の机に置くと、どうにか体裁は整った。入浴は後にして、さっさと勉強を始めることにする。天狐帝宣誓書を開き読み始めると、文字屋の意識は本の中にどっぷりと浸かっていった。
***
「鈿女ちゃん? とっても良い子よぉ。お仕事もばんばんこなしてくれるし」
千代は一緒に若返りの湯に浸かっためぐみに尋ねてみたのだが、ありきたりな答えしか返ってこなかった。
「包帯を外された姿は見たことがないのですか?」
「ないわねぇ。『苦しくないの?』って尋ねたことがあるけれど、本人が『これで良いのです』って言うから気にしないことにしちゃった。女には秘密がいくつあっても足りないから~」
湯の中を揺蕩うめぐみを見つつ、千代はうーんと一人で考えてみる。
(包帯を顔に巻いていても、足取りはしっかりしていたし、ご飯の給仕も手馴れてた。目が見えないってわけじゃなさそう……いやいや、決めつけは良くないかも。目が見えなくても、このお屋敷で何年も勤ていて慣れている、とか。呼び出し鈴は渡してくれたけれども、あれだって夜中は静かだから音のほうが聞こえるだけなのかも……うーん、コハクくんみたいにはうまくいかないなぁ)
先程一緒に風呂に入らないかと言った時、珍しく慌てて断りを入れてきた文字屋を思い浮かべ、千代は頬を赤く染める。最初は混浴じゃないんだからきたらいいじゃないのと思っていたのだが、男湯と女湯があまりにも隣接していて、これはこれで一緒に入っていたら気まずい気がする。
「ねぇねぇ千代ちゃん」
「はい。なんでしょうか」
「コハクちゃんとつきあっているの? もう恋人にもなっちゃって、更に先まで進んでいたりする? 千代ちゃんとコハクちゃんが本気で結婚するなら、わたし手伝っちゃうわよ~」
めぐみの爆弾発言に、千代は卒倒しそうになる。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

カフェぱんどらの逝けない面々
来栖もよもよ&来栖もよりーぬ
キャラ文芸
奄美の霊媒師であるユタの血筋の小春。霊が見え、話も出来たりするのだが、周囲には胡散臭いと思われるのが嫌で言っていない。ごく普通に生きて行きたいし、母と結託して親族には素質がないアピールで一般企業への就職が叶うことになった。
大学の卒業を間近に控え、就職のため田舎から東京に越し、念願の都会での一人暮らしを始めた小春だが、昨今の不況で就職予定の会社があっさり倒産してしまう。大学時代のバイトの貯金で数カ月は食いつなげるものの、早急に別の就職先を探さなければ詰む。だが、不況は根深いのか別の理由なのか、新卒でも簡単には見つからない。
就活中のある日、コーヒーの香りに誘われて入ったカフェ。おっそろしく美形なオネエ言葉を話すオーナーがいる店の隅に、地縛霊がたむろしているのが見えた。目の保養と、疲れた体に美味しいコーヒーが飲めてリラックスさせて貰ったお礼に、ちょっとした親切心で「悪意はないので大丈夫だと思うが、店の中に霊が複数いるので一応除霊してもらった方がいいですよ」と帰り際に告げたら何故か捕獲され、バイトとして働いて欲しいと懇願される。正社員の仕事が決まるまで、と念押しして働くことになるのだが……。
ジバティーと呼んでくれと言う思ったより明るい地縛霊たちと、彼らが度々店に連れ込む他の霊が巻き起こす騒動に、虎雄と小春もいつしか巻き込まれる羽目になる。ほんのりラブコメ、たまにシリアス。
紅屋のフジコちゃん ― 鬼退治、始めました。 ―
木原あざみ
キャラ文芸
この世界で最も安定し、そして最も危険な職業--それが鬼狩り(特殊公務員)である。
……か、どうかは定かではありませんが、あたしこと藤子奈々は今春から鬼狩り見習いとして政府公認特A事務所「紅屋」で働くことになりました。
小さい頃から憧れていた「鬼狩り」になるため、誠心誠意がんばります! のはずだったのですが、その事務所にいたのは、癖のある上司ばかりで!? どうなる、あたし。みたいな話です。
お仕事小説&ラブコメ(最終的には)の予定でもあります。
第5回キャラ文芸大賞 奨励賞ありがとうございました。
PMに恋したら
秋葉なな
恋愛
高校生だった私を助けてくれた憧れの警察官に再会した。
「君みたいな子、一度会ったら忘れないのに思い出せないや」
そう言って強引に触れてくる彼は記憶の彼とは正反対。
「キスをしたら思い出すかもしれないよ」
こんなにも意地悪く囁くような人だとは思わなかった……。
人生迷子OL × PM(警察官)
「君の前ではヒーローでいたい。そうあり続けるよ」
本当のあなたはどんな男なのですか?
※実在の人物、事件、事故、公的機関とは一切関係ありません
表紙:Picrewの「JPメーカー」で作成しました。
https://picrew.me/share?cd=z4Dudtx6JJ
お狐様とひと月ごはん 〜屋敷神のあやかしさんにお嫁入り?〜
織部ソマリ
キャラ文芸
『美詞(みこと)、あんた失業中だから暇でしょう? しばらく田舎のおばあちゃん家に行ってくれない?』
◆突然の母からの連絡は、亡き祖母のお願い事を果たす為だった。その願いとは『庭の祠のお狐様を、ひと月ご所望のごはんでもてなしてほしい』というもの。そして早速、山奥のお屋敷へ向かった美詞の前に現れたのは、真っ白い平安時代のような装束を着た――銀髪狐耳の男!?
◆彼の名は銀(しろがね)『家護りの妖狐』である彼は、十年に一度『世話人』から食事をいただき力を回復・補充させるのだという。今回の『世話人』は美詞。
しかし世話人は、百年に一度だけ『お狐様の嫁』となる習わしで、美詞はその百年目の世話人だった。嫁は望まないと言う銀だったが、どれだけ美味しい食事を作っても力が回復しない。逆に衰えるばかり。
そして美詞は決意する。ひと月の間だけの、期間限定の嫁入りを――。
◆三百年生きたお狐様と、妖狐見習いの子狐たち。それに竈神や台所用品の付喪神たちと、美味しいごはんを作って過ごす、賑やかで優しいひと月のお話。
◆『第3回キャラ文芸大賞』奨励賞をいただきました!ありがとうございました!
【序章完】ヒノモトバトルロワイアル~列島十二分戦記~
阿弥陀乃トンマージ
キャラ文芸
――これはあり得るかもしれない未来の日本の話――
日本は十の道州と二つの特別区に別れたのち、混乱を極め、戦国の世以来となる内戦状態に陥ってしまった。
荒廃する土地、疲弊する民衆……そしてそれぞれの思惑を秘めた強者たちが各地で立ち上がる。巫女、女帝、将軍、さらに……。
日本列島を巻き込む激しい戦いが今まさに始まる。
最後に笑うのは誰だ。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる