宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第二章・お鶴さんの恋愛事情

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「イズナ。掛け軸を。それから印池いんちも」

 文字屋の右手がつかんでいる球体は、にごった泥水色どろみずいろ
 もくもくとふくらんだイズナが大きく口を開け、新しい掛け軸と印池を文机ふみづくえに置いた。

金輪際こんりんざい酒を飲まない。金輪際他人に迷惑をかけない。金輪際文字屋の邪魔をしない。
 証文しょうもんの下書きは先に書いておいた。俺の署名しょめい実印じついんつきだ。さあ、お鶴。脚を出せ。早く押せ」

「分かりましたよ……でも! ちゃんと水は止めてくださいよ! 頼みましたからね!」

 お鶴が立ち上がり、片脚に朱肉を付け、ペタンと掛け軸に押しつける。
 証文しょうもんの掛け軸を巻き、使っていた掛け軸も巻き、文字屋が一礼する。
 音もなく現れた四匹の小狐が球体と掛け軸二本を食べ尽くし、石像の中に吸いこまれた。

「文字屋くん」

 お鶴が背を向け、脚に付いた朱肉を布巾ふきんぬぐっている最中さいちゅう
 道具を片付けている文字屋に、千代はこっそり声をかける。

「文字は分かったし、犯人が烏だっていうのも分かったけれども……。愛情は目に見えないでしょう? 目に見えないもので作られた水を止めることなんて、ほんとうにできるの?」

「できるぞ」

 容易たやすく言われてしまい。
 問いかけた千代のほうが、言葉にまる。

「相手がからすだからな。それに」

 文字屋が立ち上がり、千代の正面まで歩く。
 千代よりも小さな小さな左手が、ぽんと千代の頭に置かれた。

「俺は文字屋だ。書いた文字に想いを乗せ、天へ届ける。素人しろうと言霊ことだまに負けるほど、俺の文字は弱くない。安心しろ」
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